FC2ブログ

気になりィーモ!!

気になった記事や事柄を 自分のノート代わりとする場に していけたらと思ってます。

≫ EDIT

[MLB] イチロー引退、日米通算4367安打=現役28年に終止符 はてなブックマーク - [MLB] イチロー引退、日米通算4367安打=現役28年に終止符




 日米通算4367安打を放ったマリナーズのイチロー外野手(45)=本名鈴木一朗=が21日、東京ドームで行われたアスレチックス戦終了後に記者会見を開き、「きょうのゲームを最後に現役生活に終止符を打つ」と語り、引退することを表明した。
 イチローは20日の開幕戦に9番右翼で先発出場し、昨年5月以来の復帰を果たしたが、1打数無安打1四球で途中交代。この日の第2戦でも4打数無安打に終わった。八回には一度、右翼の守備位置に就いてから交代を告げられ、ファンにあいさつしながらベンチに戻り、チームメートの一人一人が抱き合って労をねぎらった。



 イチローは昨年5月に球団特別補佐に就任したが、チームに同行して練習を続け、今季の復帰を目指した。今年1月にマイナー契約を結んでキャンプに参加したが、オープン戦から打撃不振が続いていた。
 イチローは2000年オフにポスティングシステムでオリックスからマリナーズ入り。1年目にア・リーグMVP、新人王、首位打者、盗塁王に輝き、04年には大リーグ記録を更新する年間262安打を放った。12年途中にヤンキースへ移籍し、15~18年はマーリンズに所属。18年に6季ぶりで古巣に復帰した。
 大リーグでは通算2653試合で打率3割1分1厘、歴代22位の3089安打を放ち、117本塁打、780打点、509盗塁を記録。16年8月に史上30人目、日本選手として初の大リーグ通算3000安打を達成し、将来の米野球殿堂入りが確実視されている。
 日本ではオリックスで9年間プレーし、1278安打、打率3割5分3厘、118本塁打、529打点、199盗塁。[2019.03.22]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019032100752&g=spo

・イチローが現役引退「大変幸せ」 28年で4367安打
 https://www.asahi.com/articles/ASM2X7KKXM2XUTQP02N.html

・イチローが引退表明、メジャー歴代22位の通算3089安打・シーズン最多安打262・10年連続200安打などを達成
https://gigazine.net/news/20190321-ichiro/

・Ichiro Suzuki Announces His Retirement from Major League Baseball
 https://marinersblog.mlblogs.com/ichiro-suzuki-announces-his-retirement-from-major-league-baseball-e19c6d2c7298

・Ichiro retires after emotional finale in Tokyo
 https://www.mlb.com/news/ichiro-in-lineup-for-opening-series-finale









・イチローの偉業を振り返る。振り子打法、メジャー年間最多安打、そしてWBCのあの一打。
現役引退を発表したイチロー。これまでにグラウンドに残してきた偉業と伝説の数々を振り返りたい。

■ドラフト4位でプロ入り 振り子打法が話題に
イチローは愛知県出身。地元の名門・愛工大名電高で投手として甲子園出場を果たすと、1991年のドラフト会議でオリックス・ブルーウェーブ(当時)から4位指名を受け入団する。背番号は「51」。
イチローはルーキーイヤーから2軍で打率.366という驚異的な高打率を記録する。快調なデビューを支えたのがプロ入りから河村健一郎コーチと二人三脚で体得した「振り子打法」だ。
右足を振り子のようにゆらりと動かしながらタイミングをとる独特の打ち方で、プロ2年目にはのちに「トルネード投法」でメジャーを席巻する野茂英雄投手からプロ初ホームランを放つ。しかし、1軍に上がるたびに首脳陣からフォームを矯正するよう言われてしまい、この時はすば抜けた活躍はできなかった。
転機が訪れたのは3年目の1994年。この年、監督に就任した仰木彬氏にその才能を見初められ、抜擢される。
仰木監督は「振り子打法」を容認しただけでなく、本名の「鈴木」だった登録名を「イチロー」に変えるよう本人に提案。半ば無理やりに変更させた。
ここからイチローの快進撃が始まる。日本のプロ史上初となるシーズン200安打を達成(210安打)し、打率も.385を記録。MVPや首位打者など複数のタイトルに輝く。



翌年の1995年には阪神・淡路大震災が発生する。イチローの所属するオリックスは「がんばろうKOBE」を合言葉にリーグ優勝を成し遂げる。イチローも打率.342、ホームラン25本と打線を牽引した。

■メジャー挑戦、1年目から...
2001年にはメジャーリーグ挑戦。シアトル・マリナーズに移籍した。
移籍1年目から242本ものヒットを放ち、58盗塁を決めるなどメジャーを代表するリードオフマンの座を手中にした。この年、MVPと新人王をダブル受賞するという史上2人目の快挙を達成した。
さらに定位置のライトからの返球で度々チームのピンチを救い、その強肩ぶりから「レーザービーム」と称された。

■シーズン最多安打、そしてWBC決勝の...
2004年には前人未到の領域に突入する。1920年に記録されたジョージ・シスラーのシーズン最多安打記録の257本を更新したのだ。この年、積み重ねたヒットは262本。これは、MLBの公式サイトでも「破られることのない記録」と紹介されている。
その後も2007年のオールスターでランニングホームランを放ちMVPに選出される。2010年シーズンにはメジャー入りから10年連続となるシーズン200本安打も記録するなど、伝説を作り上げていく。
国際大会でも活躍を見せてきたイチロー。2006年、2009年と野球世界一を決めるワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の連覇に貢献。
特に2009年大会では、序盤は思うようにヒットが出ずに苦しんだ。しかし、決勝の韓国戦で最大の見せ場が回ってくる。
3対3で迎えた延長10回表、2アウト2、3塁。マウンドには韓国を代表する速球派で、ヤクルトで守護神も務めた林昌勇。粘りに粘った8球目をはじき返すと打球はセンター前へ。この一打で日本は2度目の世界一に輝いたのだ。






■メジャー通算3089安打
イチローはその後2012年シーズンにメジャーの名門、ニューヨーク・ヤンキースに移籍。2015年にはマイアミ・マーリンズでプレーし、2016年にはメジャー通算3000安打を達成。2018年にはマリナーズに戻っている。
2019年シーズンは開幕2戦目のアスレチックス戦を最後に現役引退を表明。
最後の打席は同点の8回表、2アウト2塁と勝ち越しのチャンスで回ってきたが、ショートゴロに倒れた。メジャー通算で3089安打、日米通算では4367安打。
数えきれない伝説を残した、不世出の天才外野手。
ラストゲームは8回裏守備から退くと、チームメートもグラウンドからベンチに戻り、一人一人がハグで出迎えた。
その間、東京ドームを包んだ万雷の拍手が鳴り止むことはなかった。
via https://www.huffingtonpost.jp/entry/ichiro51forever_jp_5c9362c1e4b0d952b223bbec


【特集】イチローの歩み
【写真特集】イチローの歩み オリックスから世界へ



■メジャーリーグで放った3089本のヒット落下点分析図


■2001~2009のゾーン別打率





□"イチロー節"全開、85分間の引退会見 一問一答ノーカット「孤独感は全くない」
 マリナーズのイチロー外野手が21日、現役引退を表明した。東京ドームで行われた「2019 MGM MLB日本開幕戦」第2戦の試合後に記者会見を行い、「現役生活に終止符を打ち、引退することとなりました」と話した。
 85分にも及んだ長時間の会見では“イチロー節”も全開。野球への「愛」、弓子夫人と愛犬・一弓への思い、大谷翔平投手(エンゼルス)への期待、そして、米国で向き合ってきた「孤独感」との戦いなど、あらゆることを語り尽くした。
 ノーカットの一問一答完全版は以下の通り。

(冒頭挨拶)
「こんなにいるの? びっくりするわぁ。そうですか。いやぁ、この遅い時間にお集まりいただいて、ありがとうございます。
 今日のゲームを最後に日本で9年、米国で19年目に突入したところだったんですけど、現役生活に終止符を打ち、引退することとなりました。最後にこのユニホームを着て、この日を迎えられたことを大変幸せに感じています。この28年を振り返るにはあまりにも長い時間だったので、ここで1つ1つ振り返るのことは難しいということもあって、ここでは、これまで応援していただいた方々への感謝の思い、そして、球団関係者、チームメートに感謝申し上げて、皆様からの質問があればできる限りお答えしたいと思っています」

――現役生活に終止符を打つことを決めたタイミング、その理由は?

「タイミングはですね、キャンプ終盤ですね。日本に戻ってくる何日前ですかねぇ。何日前とはっきりとお伝えできないんですけど、終盤に入ったときです。もともと日本でプレーする、今回東京ドームでプレーするところまでが契約上の予定でもあったこということもあったんですけども、キャンプ終盤でも結果が出せずにそれを覆すことができなかった、ということですね」

――決断に後悔や思い残したようなことは?

「今日のあの、球場での出来事、あんなもの見せられたら後悔などあろうはずがありません。もちろん、もっとできたことはあると思いますけど、結果を残すために自分なりに重ねてきたこと……人よりも頑張ったということはとても言えないですけど、そんなことは全くないですけど、自分なりに頑張ってきたということは、はっきり言えるので。これを重ねてきて、重ねることでしか後悔を生まないということはできないのではないかなと思います」

――子供たちに是非メッセージを。

「シンプルだなぁ。メッセージかぁ。苦手なのだな、僕が。まぁ、野球だけでなくてもいいんですよね、始めるものは。自分が熱中できるもの、夢中になれるものを見つけられれば、それに向かってエネルギーを注げるので。そういうものを早く見つけてほしいなと思います。それが見つかれば、自分の前に立ちはだかる壁に向かっていける。向かうことができると思うんですね。それが見つけられないと壁が出てくると諦めてしまうということがあると思うので。色んなことにトライして、自分に向くか向かないかというより自分が好きなものを見つけてほしいなと思います」

――今思い返して最も印象に残っているシーンは?

「今日を除いてですよね? この後、時間が経ったら、今日のことが真っ先に浮かぶことは間違いないと思います。ただそれを除くとすれば、いろいろな記録に立ち向かってきた……ですけど、そういうものはたいしたことではないというか、自分にとって、それを目指してやってきたんですけど、いずれそれは僕ら後輩が先輩たちの記録を抜いていくというのはしなくてはいけないことでもあると思うんですけども、そのことにそれほど大きな意味はないというか。今日の瞬間を体験すると、すごく小さく見えてしまうんですよね。
 その点で、例えば分かりやすい、10年200本続けてきたこととか、MVPをオールスターで獲ったとかは本当に小さなことに過ぎないというふうに思います。今日のこの、あの舞台に立てたことというのは、去年の5月以降、ゲームに出られない状況になって、その後もチームと一緒に練習を続けてきたわけですけど、それを最後まで成し遂げられなければ今日のこの日はなかったと思うんですよね。今まで残してきた記録はいずれ誰かが抜いていくと思うんですけど、去年5月からシーズン最後の日まで、あの日々はひょっとしたら誰にもできないことかもしれないというような、ささやかな誇りを生んだ日々だったんですね。そのことが……去年の話だから近いということもあるんですけど、どの記録よりも自分の中では、ほんの少しだけ誇りを持てたことかなと思います」

――ずっと応援してくれたファンの存在は?

「ゲーム後にあんなことが起こるとはとても想像してなかったですけど、実際にそれが起きて、19年目のシーズンをアメリカで迎えていたんですけども、なかなか日本のファンの方の熱量というのは普段感じることが難しいんですね。でも久しぶりにこうやって東京ドームに来て、ゲームは基本的には静かに進んでいくんですけど、なんとなく印象として日本の方というのは表現することが苦手というか、そんな印象があったんですけど、それが完全に覆りましたね。内側に持っている熱い思いが確実にそこにあるというのと、それを表現したときの迫力というものはとても今まで想像できなかったことです。ですから、これは最も特別な瞬間になりますけど。ある時までは自分のためにプレーすることがチームのためにもなるし、見てくれている人も喜んでくれるかなと思っていたんですけど、ニューヨークに行った後くらいからですかね、人に喜んでもらえることが一番の喜びに変わってきたんですね。その点でファンの存在なくしては自分のエネルギーは全く生まれないと言ってもいいと思います」
「え、おかしなこと言ってます、僕。大丈夫です?」(会場笑い)

――イチロー選手が貫いたもの、貫けたものは?

「……。野球のことを愛したことだと思います。これが変わることはなかったですね。おかしなこと言ってます、僕。大丈夫?」

――グリフィーが、肩のものを下ろしたときに違う野球が見えて、また楽しくなってくると話していた。そういう瞬間は?

「プロ野球生活の中ですか? ないですね。これはないです。ただ、子どもの頃からプロ野球選手になることが夢で、それが叶って、最初の2年、18、19の頃は1軍に行ったり来たり……。行ったり来たりっておかしい? 行ったり行かなかったり? え? 行ったり来たりっていつもいるみたいな感じだね。あれ、どうやって言ったらいいんだ? 1軍に行ったり、2軍に行ったり? そうか、それが正しいか。そういう状態でやっている野球は結構楽しかったんですよ。で、94年、3年目ですね。仰木監督と出会って、レギュラーで初めて使っていただいたわけですけども、この年まででしたね、楽しかったのは。あとは、その頃から急に番付を上げられちゃって、一気に。それはしんどかったです。
 やっぱり力以上の評価をされるのというのは、とても苦しいですよね。だから、そこから純粋に楽しいなんていうのは、もちろんやりがいがあって、達成感を味わうこと、満足感を味わうことはたくさんありました。ただ、楽しいかっていうと、それはまた違うんですよね。ただ、そういう時間を過ごしてきて、将来はまた楽しい野球をやりたいなと、これは皮肉なもので、プロ野球選手になりたいという夢が叶った後は、そうじゃない野球をまた夢見ている自分がある時から存在したんですね。でも、これは中途半端にプロ野球生活を過ごした人間には、おそらく待っていないもの。たとえば草野球ですよね。草野球に対して、やっぱりプロ野球でそれなりに苦しんだ人間でないと、草野球を楽しむことはできないのではないかと思っているので、これからはそんな野球をやってみたいなという思いですね。おかしなことを言っています、僕? 大丈夫?」

――開幕シリーズを「大きなギフト」と言っていたが、私たちが大きなギフトをもらったような気でいる……。

「そんなアナウンサーっぽいことは言わないでくださいよ」

――これからどんなギフトを私たちにくれるのか?

「ないですよ、そんなの、無茶言わないでくださいよ。でもこれ本当に大きなギフトで。去年、3月頭にマリナーズからオファーをいただいてからの、今日までの流れがあるんですけども、あそこで終わってても全然おかしくないですから。去年の春で終わっていても。まったくおかしくない状況でしたから。今この状況は信じられないですよ。あのとき考えていたのは、自分がオフの間、アメリカでプレーするために準備をする場所が、まぁ神戸では球場なんですけども、そこで寒い時期に練習するのでへこむんですよね。心が折れるんですよ。でも、そんなときも仲間に支えられてやってきたんですけど、最後は今まで自分なりに訓練を重ねてきた神戸の球場で、ひっそりと終わるのかなとあの当時は想像していたので。夢みたいですよ、こんなの。これも大きなギフトですよ、僕にとっては。質問に答えていなですけど、僕からのギフトなんかないです」

――涙がなく、むしろ笑顔が多いように見えるのは、この開幕シリーズが楽しかったということか?

「これも純粋に楽しいということではないんですよね。やっぱり、誰かの思いを背負うということはそれなりに重いことなので、そうやって1打席1打席立つことは簡単ではないんですね。だから、すごく疲れました。やはり1本ヒットを打ちたかったし。応えたいって当然ですよね、それは。僕に感情がないって思っている人はいるみたいですけど、あるんですよ。意外とあるんですよ。だから、結果残して最後を迎えたら一番いいなと思っていたんですけど、それは叶わずで。それでもあんな風に(ファンが)球場に残ってくれて。まぁ、そうしないですけど、死んでもいいという気持ちはこういうことなんだろうなと。死なないですけど。そういう表現をするときってこういうときだろうなって思います」

――常々、最低50歳まで現役ということをいってきたが、日本に戻ってもう1度プロ野球でプレーするという選択肢はなかったのか?

「なかったですね」

――どうしてか?

「それはここで言えないなぁ。ただねぇ50まで、いや最低50までって本当に思ってたし。でもそれは叶わずで。有言不実行の男になってしまったわけですけど、でも、その表現をしてこなかったら、ここまでできなかったかなという思いもあります。だから、言葉にすること。難しいかもしれないけど、言葉にして表現することというのは、目標に近づく一つの方法ではないかなと思っています」

――これまで膨大な時間を野球に費やしてきたが、これからその時間とどう付き合っていくか?

「ちょっと今はわからないですねぇ。でも多分、明日もトレーニングはしてますよ。それは変わらないですよ、僕じっとしていられないから。それは動き回ってるでしょうね。だから、ゆっくりしたいとか全然ないんですよ。全然ないです。だから動き回ってます」

――イチロー選手の生きざまで、ファンの方に伝えられたことや、伝わっていたらうれしいなと思うことはあるか?

「生きざまというのは僕にはよくわからないですけど、生き方というふうに考えるならば……先ほどもお話しましたけども、人より頑張ることなんてとてもできないんですよね。あくまでも、はかりは自分の中にある。それで自分なりにはかりを使いながら、自分の限界を見ながら、ちょっと越えていくということを繰り返していく。そうすると、いつの日からかこんな自分になっているんだ、という状態になって。だから少しずつの積み重ねが、それでしか自分を越えていけないと思うんですよね。一気に高みに行こうとすると、今の自分の状態とギャップがありすぎて、それは続けられないと僕は考えているので、地道に進むしかない。進むだけではないですね。後退もしながら、ある時は後退しかしない時期もあると思うので。でも、自分がやると決めたことを信じてやっていく。でもそれは正解とは限らないですよね。間違ったことを続けてしまっていることもあるんですけど、でもそうやって遠回りすることでしか、本当の自分に出会えないというか、そんな気がしているので。自分なりに重ねてきたことを、今日のゲーム後のファンの方の気持ちですよね、それを見たときに、ひょっとしたらそんなところを見ていただいていたのかなと。それは嬉しかったです。そうだとしたらすごく嬉しいし、そうじゃなくても嬉しいです、あれは」

――シンプルな質問ですけど。現役選手を終えたら、監督になったり指導者になったり、あるいは全く違うタレントになったりすることはあるけど……、

「あまりシンプルではないですね」

――イチロー選手は何になるのか?

「何になるんだろうねぇ。そもそも、カタカナのイチローってどうなんですかね? いや、元カタカナの一朗みたいになるんですかね。あれ、どうなんだろう? どうなんだろうね、あれ。元イチローって変だね。イチローだし僕って思うもんねぇ。音はイチローだから。書くときにどうなるんだろうねぇ。どうしよっか。何になるか……。監督は絶対に無理ですよ。これは絶対が付きますよ。人望がない。本当に。人望がないですよ、僕。うん」

――そうでもないと思うが。

「いやぁ、無理ですね。それくらいの判断能力は備えているので。ただ、どうでしょうねぇ。プロの選手とかプロの世界というよりも、アマチュアとプロの壁がどうしても日本の場合は特殊な形で存在しているので、今日をもって、どうなんですかね、そういうルールって。どうなんだろうか。今まではややこしいじゃないですか。例えば、極端に言えば、自分に子どもがいたとして、高校生であるとすると、教えられなかったりというルールですよね。確か。違います? そうだよね。だから、そういうのって変な感じじゃないですか。だから、今日をもって元イチローになるので、それが小さな子どもなのか、中学生なのか、高校生なのか、大学生なのか分からないですけど、そこには興味がありますね」

――以前にも引退の2文字が浮かんで悩んだ時期はあったのか?

「引退というよりは、クビになるんじゃないか、はいつもありましたね。ニューヨークに行ってからはもう毎日そんな感じです。マイアミもそうでしたけど。ニューヨークというのはみなさんご存知かどうか知らないですけど、特殊な場所です、マイアミもまた違った意味で特殊な場所です。だから毎日そんなメンタリティーで過ごしていたんですね。クビになるときはまさにその時(引退)だろうと思っていたので、そんなのしょっちゅうありました」

――その中で今回、引退を決意した理由は?

「マリナーズ以外に行く気持ちはなかったというのは大きいですよね。去年シアトルに戻していただいて、本当にうれしかったし……先ほど、キャンプ前のオファーがある前の話をしましたけど、そのあと5月にゲームに出られなくなる。あの時もその(引退の)タイミングでもおかしくないですよね。でも、この春に向けて、まだ可能性があると伝えられていたので、そこに自分なりに頑張ってこられたということだと思うんですけど……質問なんでしたっけ?」

――今回引退を決めた理由は?

「そうか。もう答えちゃったね」

――8回にベンチに戻る際に菊池選手が号泣していた。

「いや、号泣中の号泣でしょ、あいつ。びっくりしましたよ。それ見て、こっちはちょっと笑けましたけどね」

――抱擁の時にどんな会話を交わしたのか?

「それはプライベートなんで。雄星がそれをお伝えするのは構わないですけど、それは僕がお伝えすることではないですね」

――秘密ということで。

「それはそうでしょう。だって2人の会話だから。しかも、僕から声をかけているので、それをここで僕が『こんなこと僕が言いました』って、バカですよね。絶対に信頼されないもんね、そんな人間は。それはダメです」

――アメリカのファンにメッセージを。

「アメリカのファンの方々は最初はまぁ厳しかったですよ。最初の2001年のキャンプなんかは『日本に帰れ』としょっちゅう言われましたよ。だけど、結果を残した後のその敬意というのは……これを評価するのかどうかわからないですよ。手のひらを返すという言い方もできてしまうので。ただその、言葉ではなくて行動で示したときの敬意の示し方というのはその迫力があるなという印象ですよね。ですから、なかなか入れてもらえないんですけど、入れてもらった後、認めてもらった後はすごく近くなるという印象で、ガッチリ関係ができあがる。まぁ、シアトルのファンとはそれができたような、僕の勝手な印象ですけど。
 ニューヨークというのは厳しいところでしたね。でも、やればそれこそどこよりも、どのエリアの人よりも熱い思いがある。マイアミはラテンの文化が強い印象で、圧はそれほどないんですけれど、でも結果を残さなかったら絶対に人が来てくれないという、そんな場所でした。それぞれに特色があって、まぁ面白かったし、それぞれの場所で関係が築けたような。特徴がそれぞれありましたけど、アメリカは広いなぁと。ファンの人たちの特徴を見るだけで、アメリカはすごく広いなという印象ですけど。でもやっぱり、最後にシアトルのユニホームを着て、もうセーフコ・フィールドではなくってしまいましたけど……姿をお見せできなくて、それは申し訳ない思いがあります」

――キャンプなどでユニークなTシャツを着ていたが、何か心情を表していたのか? 全く関係なくただ好きで着ているのか?

「そこは……もう言うと急に野暮ったくなるから、言わない方がいいんだよね。それはだから見る側の解釈だから。そう捉えれば、そう捉えることもできるし、全然関係ない可能性もあるし。それでいいんじゃないですか?」

――好きに楽しんでいただきたいと?

「だってそういうものでしょ。いちいちそれ説明すると本当に野暮ったいもんね」

――言わないほうが粋だと?

「まぁ粋って自分で言えないけどね。言うと無粋であることは間違いないでしょうね」

――イチローさんを支えてきた弓子夫人への思いは?

「いやぁ、頑張ってくれましたね。一番頑張ってくれたと思います。僕はアメリカで結局3089本のヒットを打ったわけですけど、妻はですね、およそ……僕はゲームの前にホームの時はおにぎりを食べるんですね。妻が握ってくれたおにぎりを球場に持っていって食べるのですけど、その数がですねぇ、2800個くらいだったんですよ。だから3000いきたかったみたいですね。そこは3000個握らせてあげたかったなと思います。妻もそうですけど、まぁとにかく頑張ってくれました。僕はゆっくりする気はないですけど、妻にはゆっくりしてもらいたいと思ってます。
 それと一弓(いっきゅう)ですね。一弓というのはご存じない方もいるかもしれないですけど、我が家の愛犬ですね。柴犬なんですけど。現在17歳と7か月。今年で18歳になろうかという芝犬なんですけど。さすがにおじいちゃんになってきて、毎日フラフラなんですが、懸命に生きているんですよね。その姿を見ていたら、それはオレ頑張らなきゃなって。これはジョークとかではなくて、本当に思いました。あの懸命に生きる姿。(一弓は)2001年に生まれて、2002年にシアトルの我が家に来たんですけど、まさか最後まで一緒に、僕が現役を終えるときまで一緒に過ごせるとは思っていなかったので、これは大変感慨深いですね。一弓の姿というのは。本当に妻と一弓には感謝の思いしかないですね」

――打席内での感覚の変化は今年はあったのか?

「いる? それここで。いる? 裏で話そう、後で。裏で」

――これまで数多くの決断と戦ってきたが、今までで一番考えぬいて決断したものは?

「これ順番つけられないですね。それぞれが一番だと思います。ただ、アメリカでプレーするために当時、今とは違う形のポスティングシステムだったんですけど、自分の思いだけでは当然それは叶わないので、当然球団からの了承がないと行けないんですね。その時に、誰をこちら側……こちら側っていう敵味方みたいでおかしいんですけど、球団にいる誰かを口説かないといけないというか、説得しないといけないというか。そのときに一番に浮かんだのが仰木監督ですね。その何年か前からアメリカでプレーしたいという思いを伝えていたこともあったんですけど、仰木監督だったらおいしいご飯でお酒を飲ませたら……飲ませたらってこれはあえて言っていますけど、これはうまくいくんじゃないかと思ったら、まんまとうまくいって。これがなかったら、何も始まらなかったので。口説く相手に仰木監督を選んだのは大きかったなと思いますね。また、『ダメだ。ダメだ』とおっしゃっていたものがお酒でこんなに変わってくれるんだと思って、お酒の力をまざまざと見ましたし。でもやっぱり、しゃれた人だったなと思いますね。だから仰木監督から学んだもの、計り知れないと思います」

――昨日の試合は第1回WBCで日本が優勝した日と同じだったが、それは運命的なものがあったりするのか?

「まぁ聞かされればそう思うこともできるという程度ですかね。僕はそのことは知らなかったですけど」

――最も我慢したものは何だった?

「難しい質問だなあ……。僕、我慢できない人なんですよ。我慢が苦手で楽なこと、楽なことを重ねているっていう感じなんですね。自分ができること、やりたいことを重ねているので、我慢の感覚はないんですけど、とにかく体を動かしたくてしょうがないので、体をこんなに動かしちゃだめだっていって、体を動かすことを我慢することはたくさんありました。それ以外はなるべくストレスがないような、自分にとってですね、ストレスがないように考えて行動してきたつもりなので。家では妻が料理をいろいろ考えて作ってくれますけど、これロードに出るとなんでもいいわけですよね。無茶苦茶ですよ、ロードの食生活なんて。だから我慢できないから、結局そういうことになってしまうんですけど、そんな感じなんですね。今、聞かれたような趣旨の我慢は思い当たらないですね。おかしなこと言ってます、僕?」

――台湾ではイチローさんのファンがいっぱいいまして、何か台湾の人に伝えたいことは何かないか?

「(元中日の)チェンが元気か知りたいですね。(マーリンズで)チームメートでしたから。チェンは元気にやってますかね? それが聞けて何よりです。今のところ(台湾に行く)予定はないけど、でも以前に行ったことがあるんですよ、一度。すごく優しい印象でしたね。心が優しくて、いいなあと思いました」

――菊池(雄星)投手が同じマリナーズに入って、去年は大谷(翔平)選手がエンゼルスに入った。後輩たちに託すことは?

「雄星のデビューの日に僕は引退を迎えたのは、何かいいなあと思っていて……もう『ちゃんとやれよ』という思いですね。短い時間でしたけど、すごくいい子で。いろんな選手を見てきたんですけど、左ピッチャーの先発って変わっている子が多いんですよ。本当に。天才肌が多いという言い方もできるんですかね。アメリカでもまぁ多いです。だから、こんなにいい子いるのかなっていう感じですよ、ここまで。今日まで。
 でも、キャンプ地から日本に飛行機で移動してくるわけですけど、チームはドレスコードですね、服装のルールが黒のセットアップ、ジャージのセットアップでOK。長旅なので、できるだけ楽にという配慮ですけど、『雄星、俺たちどうする?』って。『アリゾナ発つときはいいんだけれども、日本着いたときにさすがにジャージはダメだろ』って2人で話していたんですね。
『そうですよね、イチローさん、どうするんですか?』って。僕は『中はTシャツだけどセットアップでジャケット着ているようにしようかな』って。『じゃあ僕もそうします』と雄星が言うんです。で、キャンプ地を発つときのバスの中で、みんな、僕もそうでしたけど、黒のジャージのセットアップでみんなバスに乗り込んできて。雄星と席が近かったので『雄星やっぱ、だめだよな、これっ』て。『やっぱり日本に着いたときに、メジャーリーガーがこれはダメだろ』ってバスの中で言っていたんですよね。『いや、そうですよね』って。そうしたらまさか羽田に着いたときに黒のジャージでしたからね。いや、コイツ大物だな、と思って。ぶったまげました。それは本人にまだ真相は聞いてないんですけど、何があったのかわからないですけど、左ピッチャーはやっぱ変わったヤツ多いなと思ったんですね。でも、スケール感は出てました。頑張ってほしいです。

 翔平はもうちゃんとケガを治してスケールの、物理的にも大きいわけですし。アメリカの選手に全くサイズ的にも劣らない。あのサイズであの機敏な動きができるというのはいないですからね、それだけで。いやもう世界一の選手にならなきゃいけないですよ、うん」

――イチローさんが愛を貫いてきた野球。その魅力とは?

「団体競技なんですけど、個人競技だというところですかね。野球が面白いところだと思います。チームが勝てばそれでいいかというと、全然そんなことないですよね。個人としても結果を残さないと生きていくことはできないですよね。本来はチームとして勝っていれば、チームとしてのクオリティが高いはずなので、それでいいんじゃないかという考えもできるかもしれないですけど、決してそうではない。その厳しさが面白いところかなと。面白いというか、魅力であることは間違いないですね。あと、同じ瞬間がないということ。必ず、必ずどの瞬間も違うということ。これは飽きがこないですよね」

――イチロー選手がいない野球をどう楽しんだらいいか?

「2001年に僕がアメリカに来てから、この2019年の現在の野球は全く別の違う野球になりました。まぁ、頭を使わなくてもできてしまう野球になりつつあるような……。選手も現場にいる人たちはみんな感じていることだと思うんですけど、これがどうやって変化していくのか。次の5年、10年。しばらくはこの流れは止まらないと思うんですけど。本来は野球というのは……ダメだ、これ言うとなんか問題になりそうだな。問題になりそうだな。頭を使わなきゃできない競技なんですよ、本来は。でもそうじゃなくなってきているのがどうも気持ち悪くて。ベースボール、野球の発祥はアメリカですから。その野球がそうなってきているということに危機感を持っている人って結構いると思うんですよね。だから、日本の野球がアメリカの野球に追従する必要なんてまったくなくて、やっぱり日本の野球は頭を使う面白い野球であってほしいなと思います。アメリカのこの流れは止まらないので、せめて日本の野球は決して変わってはいけないこと、大切にしなくてはいけないものを大切にしてほしいなと思います」

――(長々と説明後に)1年目のゲームから今日を思い出しましたか?

「長い質問に対して大変失礼なんですが、ないですね」

――プロ野球選手になるという夢を叶えて成功してきて、今何を得たと思うか?

「成功かどうかってよく分からないですよね。じゃあどこからが成功で、そうじゃないのかというのは、全く僕には判断できない。成功という言葉がだから僕は嫌いなんですけど……メジャーリーグに挑戦する、どの世界でもそうですね、新しい世界に挑戦するということは大変な勇気だと思うんですけど、でもここはあえて成功と表現しますけど、成功すると思うからやってみたい、それができないと思うから行かないという判断基準では後悔を生むだろうなと思います。やりたいならやってみればいい。できると思うから挑戦するのではなくて、やりたいと思えば挑戦すればいい。そのときにどんな結果が出ようとも後悔はないと思うんです。じゃあ自分なりの成功を勝ち取ったときに、達成感があるのかといったらそれも僕には疑問なので。基本的にはやりたいと思ったことに向かっていきたいですよね。

 で、何を得たか……まぁ、こんなものかなあという感覚ですかねぇ。それは200本もっと打ちたかったし、できると思ったし、1年目にチームは116勝して、その次の2年間も93勝して、勝つのってそんなに難しいことじゃないなってその3年は思っていたんですけど、大変なことです。勝利するのは。この感覚を得たことは大きいかもしれないですね」

――毎年神戸に自主トレに行っている。ユニホームを脱ぐことで神戸に何か恩返ししたい思いは?

「神戸は特別な街です、僕にとって。恩返しかー……、恩返しって何することなんですかね。僕は選手として続けることでしかそれができないと考えていたこともあって、できるだけ長く現役を続けたいと思っていたこともあるんですね。神戸に……恩返し……、じゃあ、あの税金を少しでも払えるように頑張ります」

――日米で活躍する選手は甲子園で活躍、プロで活躍、そしてメジャーに挑戦という流れがある。もっとこんな制度ならメジャーに挑戦しやすかったとか、こういうことあればいいなという提言は?

「制度に関しては僕は詳しくないんですけども、でも日本で基礎を作る、自分が将来、MLBでプレーする……。MLBで活躍する礎を作るという考え方であれば、できるだけ早くというのは分かりますけど、日本の野球で鍛えられることってたくさんあるんですよね。だから制度だけに目を向けるのはフェアではないと思いますけどね」

――日本の野球で鍛えられたことは?

「基本的な基礎の動きって、おそらくメジャーリーグの選手より日本だったら中学生レベルの方がうまい可能性だってありますよ。それはチームとしての連係もあるじゃないですか。そんなの言わなくたってできますからね、日本の野球では。でも、こちらではなかなかそこは……。個人としてのポテンシャル、運動能力は高いですけど、そこにはかなり苦しみましたよ。苦しんで、諦めましたよ」

――エンゼルスの大谷選手との対戦を楽しみにしていたけど、叶わなかった。イチローさんは対戦したかったか?

「先ほどもお伝えしましたが、世界一の選手にならないといけない選手ですよ。そう考えてます。翔平との対戦、残念ですけど、できれば僕がピッチャーで翔平バッターがやりたかったんですよ。そこは誤解なきようにお願いします」

――大谷選手は今後どのような選手になっていくと思いますか?

「なっていくかどうか? そこは占い師に聞いてもらわないとわからないけどねぇ。まぁでも、投げることも、打つこともやるのであれば、僕は1シーズンごとに、1シーズンはピッチャー、次のシーズンは打者として、それでサイ・ヤング(賞)とホームラン王を取ったら……だってそんなこと考えることすらできないですよ。翔平はその想像をさせるじゃないですか、人に。この時点でもう明らかに人とは違う選手であると思うんですけど。その二刀流は面白いなと思うんですよね。(記者に向かって)納得いっていない感じの表情ですけど。ピッチャーとして20勝するシーズンがあって、その翌年には50本打ってMVP獲ったら、これ化け物ですよね。でも、それが想像できなくないですからね。そんな風に思っています」

――現役野球選手じゃない自分は嫌だとインタビューで言っていた。

「僕は嫌だって言わないと思うけどね。僕、野球選手じゃない僕を想像するの嫌だとたぶん言っていないと思いますよ」

――改めて野球選手ではない自分を想像してどうか?

「いやだから、違う野球選手に多分なってますよ。あれ? この話さっきしましたよね。お腹減ってきて集中力が切れてきちゃって、さっき何話したのかもちょっと記憶に……。草野球の話しましたよね? そっちでいずれ……それは楽しくやっていると思うんですけど。そうするときっと草野球を極めたいと思うんでしょうね。真剣に草野球をやるという野球選手になるんじゃないですか、結局。聞いてます?」

「お腹減ってきたもうー。結構やっていないですか、これ。今時間どれくらい? 1時間? 20分? あらー。今日はとことんお付き合いしようかなと思ったんですけどね。お腹減ってきちゃった」

――プロ野球人生振り返って、誇れることは?

「これ、先ほどお話しましたよね。小林君もちょっと集中力切れてるんじゃないの? 完全にその話したよね。ほらそれで1問減ってしまうんだから」

――イチロー選手の小学生時代の卒業文集に「僕の夢は一流の野球選手になることです」と書いていたが、その当時の自分にどんな言葉をかけたいですか?

「お前、契約金1億(円)ももらえないよって。ですね。いやー夢は大きくと言いますけどね、なかなか難しいですよ。ドラ1の1億って掲げていましたけど、全然、遠く及ばなかったですから。いやー、ある意味では挫折ですよね、それは」

「こんな終わり方でいいのかな? なんかきゅっとしたいよね、最後は」

――前のマリナーズ時代、何度か「自分は孤独を感じながらプレーしている」と話していた。ヤンキース、マーリンズとプレーする役割が変わってきて、去年ああいう状態があって今年引退。その孤独感はずっと感じてプレーしていたのか。それとも前の孤独感とは違うものがあったのか。

「現在それ(孤独感)全くないです。今日の段階で、それは全くないです。それとは少し違うかもしれないですけど、アメリカに来て、メジャーリーグに来て……外国人になったこと。アメリカでは僕は外国人ですから。このことは……外国人になったことで、人の心を慮ったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れたんですよね。この体験というのは、本を読んだり、情報を取ることはできたとしても、体験しないと自分の中からは生まれないので。孤独を感じて苦しんだことは多々ありました。ありましたけど、その体験は未来の自分にとって大きな支えになるんだろうと、今は思います。だから、辛いこと、しんどいことから逃げたいと思うのは当然のことなんですけど、でもエネルギーのある元気なときにそれに立ち向かっていく、そのことはすごく人として重要なことなのではないかなと感じています」
「締まったね、最後。いやー長い時間ありがとうございました。眠いでしょ、皆さんも。ねぇ。じゃあ、そろそろ帰りますか、ね」
 via https://full-count.jp/2019/03/22/post325131/

・貫いたのは「野球への愛」 イチローが引退会見で語ったこと【全文】
  https://www.buzzfeed.com/jp/keiyoshikawa/ichiro
・イチローの引退会見を文字起こししてみた - 俺の遺言を聴いてほしい
  https://oreno-yuigon.hatenablog.com/entry/2019/03/22/013942
・イチロー引退会見に学ぶ超一流の確固たる心得
 https://toyokeizai.net/articles/-/272660

・"今日をもって元イチロー"‥引退会見の「イチロー節」が半端なかった!
 https://matome.naver.jp/odai/2155318361489389201
・「監督は絶対に無理」‥イチロー選手の引退会見にネット騒然!
 https://matome.naver.jp/odai/2155316823284059401

◇Ichiro Suzuki Stats, Fantasy & News | MLB.com
 https://www.mlb.com/player/ichiro-suzuki-400085

・最後のシーンに号泣..イチロー引退に各界から多くの労いの声
 https://matome.naver.jp/odai/2155320445692587501
・イチロー引退・談話
◇彼は偉大な選手だ
 米大リーグ機構のジョー・トーリ競技運営最高責任者 彼は偉大な選手だ。(ヤンキースの)監督として対戦したときは脅威だった。米大リーグに大きなインパクトを残した。
 ◇目標になる存在
 大谷翔平(エンゼルス) 目標になるような存在。それはこれからも変わらない。プレーする姿はもう見られないが、昔から見てきた選手像を目標にしてやると思う。まだ信じられない。本当に引退するのかな、という感じ。
 ◇一つの時代が終わった
 オリックス・田口壮野手総合兼打撃コーチ 一つの時代が終わったという感覚をこんなに強く感じたことはない。28年にわたるお祭りが終わり、虚無感でいっぱい。同期で入団し、いろいろな形で刺激をもらったことにも感謝している。もう見られないと思うと寂しい。ありがとう。お疲れさまでした。
 ◇野球に関し全てに特化した人
 ソフトバンク・内川聖一 (2009年の)ワールド・ベースボール・クラシックで(日本代表の)同じユニホームでやらせてもらったのは宝物。あそこまで野球をやり切った人は他にいない気がする。野球に関して全てに特化した人。美しいと思って見ていた。
 ◇正直驚いている
 稲葉篤紀氏(侍ジャパン監督) 正直驚いているが、イチ君のことなので、さまざまなことをさまざまな角度から考え、わたしたちには想像もつかないほどの思いと闘い、今回の決断に至ったと思う。この先もイチ君の人生を歩んでほしい。
 ◇神様に一番近づいた
 岩村明憲氏(第1、2回WBCでチームメート) 最後までプロの魂の入ったプレーを見せてくれた。僕は野球の神様はいると思っている。イチローさんはその神様に一番近づいた方。一緒に野球ができたことを誇りに思う。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019032200032&g=spo

・古巣オリックスからもねぎらい=イチロー引退
 イチローの古巣のオリックス関係者もねぎらいの声を寄せた。同期入団だった田口壮野手総合兼打撃コーチは会見中にメールを送ったことを明かし、「いろんな人からすごい数のメールをもらっているだろうが、おそらく全員に返しているのだろう。想像するだけでも、彼の人柄が分かる」。草野球で一緒にプレーすることにも意欲を見せ、「肩をもう一度戻さないと」と笑った。
 長村裕之球団本部長は「『頑張ろう神戸』のとき、私はコーチで一緒に頑張った。心を一つにして優勝できた」と語り、阪神大震災翌年の1996年に日本一となったことを回顧。背番号51の永久欠番については、「今まで空いていたので。現状はそういう形で」と話した。
 via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019032200707&g=spo

・「イチ・メーター」のエイミーさん、イチ最後の雄姿に涙 右翼最前列で観戦

 イチローの通算安打数を示す手製のボード「イチ・メーター」でおなじみのエイミー・フランツさん(47)も右翼最前列の席でイチローの場内一周を目に焼き付けた。
 この日の試合前にはオンラインチケット販売大手「StubHub」主催のファン交流会に参加。28日(日本時間29日)の本拠地開幕・レッドソックス戦も観戦予定で「イチローの全てが好き。頑張る姿をもっと見たい」と話していただけに、知人と抱き合って悲しみに暮れた。
via https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/22/kiji/20190322s00001007111000c.html



・偉大なるイチロー、現役最後の日。「野球を愛したこと」を貫いた28年。
 深夜23時56分。東京ドームホテルの地下に設えられた会見場に「背番号51」がやってきた。
「こんなにいるの? びっくりするわ!」
 200人を超える報道陣が殺到した会見場を見回して、イチローはおどけた表情を見せた。そして次の瞬間、引き締まった表情でこう切り出した。
「こんなに遅い時間にお集まりいただいて、ありがとうございます。今日のゲームを最後に日本で9年、アメリカで19年目に突入したところだった現役生活にピリオドを打ち、引退することになりました。最後にこのユニフォームを着て、この日を迎えられたことを幸せに感じています」
 正式な「引退」の表明だった。
 恐らく最後のユニフォームになるのだろう――詰め掛けた4万6451人の観衆の誰もがそんな思いを胸に、「背番号51」を追いかけ始めた試合だった。
 ところが三邪飛に倒れた2回の第1打席直後に「引退」のニュースが駆け巡り、スマホ等でそれを知った東京ドームのファンの惜別の想いは一気に加速していった。
 そんな中で、イチローは最後まで「1本」を求めて打席に立ち続けたのだ。

■「なんとか1本打ちたかった」
 自然発生的に湧き上がるイチローコールの中で、第2打席は二塁へのゴロ、第3打席はホアキン・ソリア投手のスライダーを見逃して三振に倒れた。
 そして8回2死二塁の第4打席は1ボール2ストライクから2球連続ファウルで粘った末に、遊撃へのゴロを放った。
 捕球した遊撃手が一瞬ボールを握り直して間一髪のタイミングで一塁を駆け抜けたが、一塁塁審のコールは「アウト」。
「なんとか1本打ちたかった」というメジャー通算3090本目、日米通算4368本目の安打はならなかった。
 そして別れの時である。

■たった1人の“凱旋”。
 8回裏のマリナーズの守り。
 ベンチに戻ったイチローは帽子をかぶってグラブを手にすると、淡々とライトのポジションへと走った。ただ、イチロー以外のプレーヤーがなかなか守備位置につこうとしない中で、スコット・サービス監督がベンチを出てアンパイアに交代を告げた。
 クルッとライトスタンドに向かって両手を掲げ、そして今度はグラブを持った左手を振って別れを告げる。
 そうして球場全体のスタンディングオベーションに包まれながら、たった1人のグラウンドをベンチに“凱旋”した。
 一塁ベンチ前では、かつてはマリナーズ監督として共に戦ったオークランド・アスレチックスのボブ・メルビン監督とナインにグラブを掲げて胸を叩いて感謝と敬意を表明。そして三塁ベンチ前では、出迎えたチームメイトと抱擁を交わした。
 サービス監督やチームメイトと抱き合い、今回の遠征に同行していたチームのレジェンド、ケン・グリフィー・ジュニア氏やスタッフと握手を交わした。

■公式戦としては異例中の異例の風景。
「あれは号泣中の号泣だったね」
 イチローがこう振り返ったのは、この日がメジャーデビュー戦だった菊池雄星投手だ。
 すでにイチローと抱き合う前から泣きじゃくってはいたが、抱きついた時には、イチローが菊池に何かを語りかけるシーンも見られた。
 そしてマイアミ・マーリンズ時代からイチローを師と仰いできたディー・ゴードン内野手。笑顔で抱き合ったのち、すぐさま二塁の守備位置に走ると、そこでしゃがみこんでしまい、涙を流していた。
 公式戦の最中とは思えない異例のイベントだったが、それもイチローという選手の偉大な功績と、生まれ故郷の日本という舞台が整ったからこそ可能だったのかもしれない。

■来日前、GMに伝えていた現役引退。
「日本でプレーするところまでが契約上の予定だった。キャンプ終盤でも結果が出せず、それを覆すことができなかった」
 昨年5月に選手登録を外れて会長付き特別補佐に就任したときから、今回の日本遠征までは選手としての身分を保証するという契約だった。
 ただイチローの中では……恐らくキャンプに参加することで、同じスタートラインからの競争を勝ち抜いて何とかプレーヤーとしてチームに残る可能性にかけてみる、という目標はあったのだろう。
 ただ、イチローは競争に敗れた。
 オープン戦で無安打が続いた中で、来日直前の3月10日にキャンプ地のアリゾナでジェリー・ディポトGMに決断を伝えていたというのだ。

■結果は出なくても、カッコ悪くても……。
「これはギフトだと思っている」
「日本人でいることが勝者なんだなと思った」
 開幕シリーズの直前会見でこう語った裏には、「引退」の2文字を心の中にしまい込んで臨むゲームへの強い思いがあったのだ。2試合で6度、打席に立ったが、そこでも願った結果は残せなかったが……。
「最低50歳までと本当に思っていたし、有言不実行になってしまったけど、言わなかったら、ここまで来られなかったと思っている」
 かつてのイチローの栄光を思えば、想像もつかない姿かもしれない。それでも結果は出なくても、カッコ悪くても、いまの自分にできるパフォーマンスを最後の最後までやり遂げた。
 そこが、イチローであったのだ。

■「野球を愛したこと。これは変わることはなかった」
 試合後の東京ドーム。
 両チームのナインがロッカーに引き上げた後も、スタンドのファンからは自然発生的にイチローコールが湧き起こった。
 その声に応えた「背番号51」が、無人のグラウンドに戻ってきた。
 涙はない。
 三塁ベンチ前からゆっくりとフェンス沿いに左翼へ移動。
 そこから両手を掲げ、時にはファンを指差して、約6分間かけてグラウンドを一周した。
 そして最後は三塁ベンチ前から再びダイヤモンドの中に入って、帽子をとって感謝の気持ちを伝えた。
「今日のあの球場での出来事。あんなものを見せられたら、後悔などあろうはずがありません。自分なりに頑張ってきたということははっきりと言える。野球を愛したこと。これは変わることはなかった」
 野球という旅を終えることに悔いはない。
 via https://number.bunshun.jp/articles/-/838720


・イチロー、父・宣之さんとつくり上げた打撃の原型 “全力投球”トス打撃が生んだ広角打法
 イチローは少年期に、父・宣之さん(76)と二人三脚で打撃の原型を形成した。それは一風変わったトス打撃。通常は下手からの緩い球を同じ間隔で打つが、全力投球を打ち返した。
 さらに惰性でバットを振らないよう、全力投球の中にスローボールが交ぜられた。速球を打ち返すには敏しょう性に加え、動きの無駄を省く必要がある。突然来る緩い球で反射神経が発達した。
 このメニューでは両手が左肩近くで保たれる、イチローの打撃で最も特徴的な動きも形つくられた。前方に体重移動する際、グリップはぎりぎりまで頭の後方にある。前に踏み込みながら力をため、最後の瞬間に両手が投球に最短距離で出る。グリップが残っていることで、変化球や緩急への対応が可能になった。本人は「最終的に腕が(頭の後ろに)残るから前に動けばいい。動いてこっちに来るもの(投球)をじっと待っていても反応は良くない。テニスでも、じっとしているところから速いサーブを打ち返すのは難しい」と極意を説明している。
 「相手は左右、高低以外にもチェンジアップとかで前後の奥行きを使ってくる。そしてスプリットやカッターもあるのが現代の野球。これに対応するには受けてしまっては駄目」。広角打法の核心は、向かってくる球に自ら近づくことで、父子による傑作でもあった。
via https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/22/kiji/20190322s00001007117000c.html


・イチロー父「最後に出てきて良かった」/一問一答
現役引退を表明したマリナーズ・イチロー外野手の父で「チチロー」こと鈴木宣之さん(76)が23日、愛知県豊山町の自宅前で会見した。一問一答は以下の通り。

-引退した率直な思い
現場で見てました。第一に感じたのは、脳裏に浮かんできたのは少年時代。子供時代のこと。あの小さい子が45歳のプロ野球選手として、メジャーリーガーとしてよくここまでやってきたことが、涙がわき上がるというか…。涙っていろいろあると思う。うれし涙とか悲し涙とか、これは周囲をはばからず抑えることができなかった。

-引退はどのタイミングで聞いたか
私も大体予想していた。これは引退の花道になるんではないかと。東京ドームのこの2連戦が。初めて耳にしたのは、試合前に弓子さんが私のところまできてくれた。お父さん「実は…」ということで確かな答えとして聞きました。

-どのような言葉で
付け足すような言葉はなく。「今日の試合が終わったら引退します」と聞きました。

-その言葉を聞いたときは
昨日、別便で2人が夕方帰った。(弓子夫人)から帰るときにメールが入ってきたんですよ。「お父さん、お母さんも元気でやってください」と。メールありますけど。
(メールを披露して)「お父さん、これからイチロー君とシアトルにいきます。昨夜は最高の忘れられない日になったと言っていました。お父さん、お母さんもお体に気をつけてください」とショートメールですね。私の答えですね。返事を出さないといけない。老師の言葉。外には言えないこと。イチローと弓子さんにしか言えないこと。「功なり名遂げて、身退くは天の道 とあります。これからも自然体の気持ちを崩さないように。将来ある子たちのために尽力するように」と。

-イチロー本人とは会ったか
イチローと会う時間はなかった。イチローも探してたみたいだけど。私もしっかり目に焼き付けていました。冥土の土産に。

-ゲーム中の前後では
イチローが日本に来る前にメールを入れた。これが引退の花道かも分からないので。1年間ブランクあったので、頑張ってほしいと。「亀の甲より年の功」。現役年長者、最年長者といってもいいくらい。現役年長者としての思いを今までの豊富な経験と知識。開幕2試合で生かすチャンスだぞ、頑張れよ、と。メールが返ってきました。やはり子供ですね。簡単ですね。「ありがとうございます」。(笑いながら)そんなもんです。そんなんで十分わかるでしょ。

-幼少時代から思い出が印象的と話していたが
真っ先にお話ししなきゃいけなかったのは、プロに入ってからの28年間皆さんファンの方、いろんな方に支えられた、指導された。まずはその方にお礼申し上げないといけない。それと、28年間だけじゃない。その前があるんですよ、イチローには。その前に皆さん助けてくれた人がものすごく多いんですよ。親として子供のためにやって当たり前なんです。やって当然。親以外にイチローが熱中できるような時間を与えてくれるのは誰だったか。その方たち、少年野球時代とか中学も高校もいろんな方々が指導を。その方々にお礼申し上げたい。私自身を夢中にさせてくれた、お付き合いさせてくれた人たちがいるんですね。心から感謝いたします。この場を借りて、お礼申し上げます。

-メールでのやりとりはあったが、次回イチロー本人と会ったときはどんな言葉をかけるか
今まで培ってきたことを生かす人生を続けてほしい。自分の子どもながら、上に立つような人間じゃないという意味で育ててきた。上に立つ人間じゃなくても指導はできる。将来のある子ども、夢のある子どもたちのために、力になってほしい。自分がこれまで身につけてきたものを、子どもさんに発揮してほしい。夢のある世界に、小さいお子さんがそういう世界に入り込んでいってほしい。イチローを育てるにあたってモノマネから入っている。人のマネから、いろんな道に入っていく。最後には自分自身の形を作り出しなさい、というのが私の考え方。その通りのイチローだった。例えば篠塚選手のマネしたり、小松投手のマネしたり、田尾選手のマネしたりと。そういうモノマネから入って、イチロー独自の形を作った。イチローが今度指導者になったときに、子どもたちのために、夢のある教え方をしてもらいたい。
-イチローは会見で監督にはなれないと話した。ご指導がつながっている
少年野球の監督をしていて、イチローのチームの監督だった。いつもお風呂に一緒に入ってた。お風呂に入っているときにイチローに聞いた。キャプテンやるか、って聞いたら、イヤだ、イヤだと言われた。副キャプテンならと。一番上に立つと責任がありすぎて、自由に行動ができないと言う。控えめです。監督になるとクビになるし。

-父としてイチローにどのようなことをやってほしいか
自分の構想がでかすぎるんですが。イチローがプロ野球に入って、まあまあできる選手になったら、少年野球の全国大会を豊山町で開けたらと思っていた。そういう夢を持っていた。喜寿で77歳。まだ元気ですが、目の黒いうちに実現してもらえたら。そういう夢があります。

-イチロー杯があるが、全国的に
ぜひやってもらいたい。子どもというのは親孝行をしたくてもできない。親孝行したいときには親がいない。親孝行には、きりがない。ハタから見ると、イチロー君は親孝行してますね、と見られる。しかし、私は私なりに苦労がある。そんなぜいたくなこと言うなと言われるかもしれませんが。親孝行は親が生きているうちに。物とかお金じゃない。気持ちです。温かい気持ちが伝わればいい。それを何とか、気持ちが伝わるように、イチローから私に、そういう気持ちが伝わるようにしてもらいたい。少年野球の全国大会を二の次でもいいので、まず気持ちが伝わるようにしてほしいなと思います。

-まだまだ、これからも成長してほしい
そうです。親孝行と火の用心は、灰にならぬ前にやってほしいです。

-一緒に生活してほしいか
近くでなくてもいい。気持ちで故郷を大事にしてほしい。生まれ育ったところ、故郷があるから今がある。この気持ちをずっと忘れないでいてほしい。これが念願です。そばにいなくてもいい。どこにいてもいい。それが念願です。

-イチローに声をかけて
気持ち。自然体の気持ち。飾らなくてもいい。一隅を照らす人間になってほしい。私は照らし加減が足らない。

-最後のプレーを見て
1本ヒットを打ってほしかった。

-涙は
8回の守備から帰ってくるときです。メジャーの監督が、温情という形を見せてくれた。イチロー個人のために、全選手がベンチに並んでイチローを迎えてくれた。相手からも文句も出ない。人間味のある温情主義を垣間みせてくれた。見直した。日本人だけじゃない。やっぱり人間は一緒なんだ。あそこからワッと来た。

-どこから見ていた
バックネット裏の中間です。

-2試合とも
はい。

-試合が終わったあと、日本のファンの皆さんが声をかけた
最後に、試合終了後に、ずっと観衆の方が5分の4くらい残っていた。私も当然、何かある、絶対。あの空白の時間は30分以上あった。あの気持ちを私は忘れない。あの気持ちが最高に大事なところ。イチローの将来のために。イチローは出てきてくれて良かった。もしあのまま出てこなくて、アメリカに帰ってたら、今までの実績、積み上げていたものが、全部パーになる。私は感じていた。よく出てきてくれた。あれだけでうれしかった(涙声)。あれで出てこなかったら、イチローは終わりでしたよ。皆さんのおかげだと思っている。うれしかった。人間の人生なんて一瞬にして、信用が落ちる。積み上げるには時間がかかる。もし出てこなかったら、と心配していた。みなさんの気持ちが通じた。

-そのシーンをみてどうか
みなさんに、ファンに支えていただいて、頭が下がります。イチローも最後に90度の礼をしていた。あれがイチローの気持ちでした。
via https://www.nikkansports.com/baseball/news/201903230000306.html


◆【イチロー 記憶に残る名言集】
「最初は冗談だと思ったんです。でも監督まで言ってこられて」(94年3月28日、登録名を“イチロー”とする方針が明かされ)

「やはりホッとしました。でも、6打席立ってヒット1本というのは悔しいですね」(94年9月14日、日本ハム戦で192安打でシーズン最多安打記録を塗り替え)  

「210本が目標です。打率はどうでもいい。毎日これだけ言われるとやっぱり意識はする。でも、安打数を求めていくなら精神的に苦しまないでしょう」(94年9月20日、ロッテ戦で前人未踏のシーズン200安打を達成し、次の目標を問われて)  

「大変よくできたと思います。本当に終わってみたら、こうなっていたという感じです」(94年10月9日、210安打、打率・385でブレークイヤーを終えて)  

「セーターでも買います。僕に似合うセーターです」(94年12月16日、年俸800万から8000万円で更改し使い道を聞かれ)

「なんて言うのかなぁ。ぐーっと締め付けられるような。夏場のきつい時に打つビタミン注射。そのビタミンをギュッとためて、一気に出したような…。こういう状況でプレーさせてくれた皆さんに大変感謝致しています」(95年9月19日、初のリーグ優勝に)

「そりゃあ気持ちがいいのと、悪いのと、いろいろありましたし。ただ高津さんと聞いて全力では投げられないと思いました」(96年7月21日、オールスターの9回2死で打者・松井に対し登板も、代打・高津を送られ)  

「なかなか喜びは体で表せないものですけど、さすがにガッツポーズも出ました。まだ僕は22年間しか生きてませんが、あんなこと初めてです。最高というものを通り越したものですね」(96年9月23日、本拠での日本ハム戦でサヨナラ打でリーグ2連覇を決めて)  

「気分は非常にいい。特Aです。想像もできなかったけど、最後に笑うのは(12球団で)一つだけ。だから大変誇りに思うし、自信につながります」(96年10月24日、日本シリーズで巨人を破り初の日本一に)

「相性が合う。話すリズムや価値観が一緒で同じ空間にいることが心地よく感じられる」(99年12月5日、弓子夫人と結婚会見に臨み)

「自信がなければここにはいない。プレッシャーがかかる選手であることを誇りに思う」(00年11月19日、マリナーズ入団会見で)

「きょうのことは一生忘れないでしょう。最も特別な日でした。ゲームの興奮が凄かった。お客さんの歓声、盛り上がり方。想像していた以上でした。どんなものかという表現はできないですが、間違いなく一生忘れることのできない日になりましたね」(01年4月2日、開幕アスレチックス戦でメジャー初安打)

「ストライクが甘いところに来たら打とうと思っていました。狙っていないということにしておきましょう。大事な場面で試合を決めることができてうれしい。打った瞬間?次は佐々木さんが投げるからこれで試合が終わると思いました」(01年4月6日、レンジャーズ戦でメジャー初本塁打で決勝点を挙げ)

「オールスターなんて想像もできなかった。どうしてもオールスターを見に行きたいと思って(球団から)チケットを買っていました。未知の世界を経験できることはとても楽しみです。個人としてはイチローであることを変えることはできない。イチローのプレーを見せたい」(01年7月2日、地元開催のオールスター戦に両リーグ最多得票で選出され)

「ヒットを打てたことより、僕は彼から51番を受け継いだ。こちらで頑張っていられる要因はこの番号を汚してはいけないという思いがあるから」01年7月10日、オールスター戦でランディ・ジョンソンから一塁内野安打を放ち)

「日本にいる時から200本のヒットというのは大きな目標だった。こちらでもそれが達成できたことは大きな自信になるし、うれしい気持ちも大きいですね。シーズン前は想像はできなかった。シーズンをある程度過ごしていって、ぼんやりと見えてきた数字ではないでしょうか」(01年8月28日、デビルレイズ戦でシーズン200安打に達し)

「きのうまでは果たしてグラウンドに立っていいのか、そういう気持ちはあったけども、きょう1日でそんな気持ちを持っていたのが恥ずかしくなってしまった。複雑な気持ちであることにはかわりはないけど、すべてを振り払うのは無理だとしても、一瞬だけでもそういう気持ちを与えることができればうれしい」(01年9月19日、米中枢同時テロの悲しみが消えない中、地区優勝を決め)

「期待していないということはなかったですけど、そのメンバーに名前が入っていること自体が素晴らしいことだと思ったので、獲れるとは思ってはいませんでした。僕は細いし、小さいし、パワーもない。子供たちが自分にもできるぞとメジャーを目指してくれるとうれしい」(01年11月20日、新人王に続きア・リーグ最優秀選手賞(MVP)を受賞し)

「簡単ではないと思われていたけど、ここに破った人がいるわけですからねえ。10年間はやめてというのはある。願わくば自分が破りたい」(04年10月1日、ジョージ・シスラーのシーズン257安打の大リーグ記録を、84年ぶりに破り)

「僕の野球人生で最も屈辱的な日ですね」(06年3月15日、WBC2次リーグで韓国に1―2で敗れ)

「僕の野球人生で最も大きな日になった。多くの人が日本から来てくれて力をもらいました。きょうはケガを恐れるとか関係なかった。何があってもやってやるという気持ちだった。みんなで喜べることなんて遠ざかっていたので、思い出させてくれた。次回?声が掛かるようにしていかないと」(06年3月20日、キューバを下しWBC優勝に)

「出た、じゃない。出しました、です。楽しかった。これは楽しかった。もちろん試合に出ることも(意味が)あるけど、やはり選手は結果を出さないと駄目だな、と。レストランを予約していて、帰ろうと思ったら残れ、と言われまして。不思議なもので、最後まで残っているとだんだん(MVPが)欲しくなる。結果的にいただけて、生涯忘れないでしょう」(07年7月10日、オールスター戦史上初のランニング本塁打含む3安打で日本人初のMVPに輝き)

「1人の選手に対してこれだけの評価を与えてくれることってそれを示していると思う。この評価って平均年俸が500万円だとしたら、弥生時代からプレーしないと達成できない数字なのでその評価って凄いと思う。1000万円でも多分平安時代ぐらいからですから。このこと(契約)はその気持ちを表してくれているんだと個人的には思います」(07年7月13日、5年総額9000万ドル(当時約110億円)で契約延長し)

「今年中に日本選手が立ったことのない場所にいきたいと思っている」(08年1月、残り215本に迫っていた張本勲の通算3085安打へ向けて)

「あざ~っす。僕は持ってますね、やっぱり。いやぁ神が降りてきましたねえ。球場を1周した気持ち?気持ちよかった!ほぼイキかけました」(09年3月23日、WBC決勝・韓国戦で勝ち越しの決勝打を放ち2連覇し)

「まあ8試合ミス(欠場)するだけなんで。ただWBCの時から思っているんだけど(お見舞いの)メールの数が少ない。もうちょっと心配してくれよ」(09年4月、胃潰瘍で開幕故障者リスト入りが決まり)

「頂に登った時の景色を感じてみたかった。凄く晴れやかな、いい景色でしたね。今後も数字?そりゃそうでしょう。(でなければ)つまんないでしょ」(09年日本人新記録となる3086安打を放ち)

「本当にイチローVS松井ってなるように、ちゃんとブルペンで仕上げていきたいと思います」(10年1月7日、同じア・リーグ西地区のエンゼルスに松井秀喜の移籍が決まり)

「対ピッチャーとして見てみたいということ?それはありますよ。夢に出てきたことがありますし。対戦したの、対戦したんですよ!勝敗は難しいですけど、真っ二つになったバットで僕は打たなきゃいけなかった。凄く不思議なんだけど、(斎藤は)160キロぐらい投げていた」

「人間として興味がある。僕が何を言っても嫌みに聞こえるけど、(斎藤は)そう聞こえない。(自分と)真逆、対極のイメージ。でも、一番対極にある関係とはどこかで通じるものがある」(11年1月5日、日本ハムの新人・斎藤佑樹について聞かれ)

「どんなオファーを提示したかということより、このオファーを受けたことへの覚悟と自信に敬意が払われるべき」(13年1月23日、田中の7年総額1億5500万ドルでのヤンキースとの契約合意に)

「今年の僕がみんなに何を伝えられるかというと、我慢ということではないかと思いました。大人になると我慢の連続。自分の気持ちを抑えて未来へ向かっていく。これしか方法がないと言ってもいい」(14年12月23日、ヤンキースからFAとなり、イチロー杯閉会式にて)

「これからも応援よろしくお願いします…、とは絶対に言いません。応援していただけるような選手であるために、やらなくてはいけないことを続けていくことを約束して、メッセージとさせていただいてもよろしいでしょうか」(15年1月29日、マーリンズ入団会見でファンへの一言を求められて)

「野球選手として嫌な年齢に来た。ただ、25歳でも45歳に見える人はたくさんいる。その反対であることができるように、ちょっとずつ前に進みたい」(15年1月29日、41歳で現役最年長野手となることについて問われ)

「ペットショップで並んでいるかわいい子たちがどんどん売れていって、大きく成長した犬が残っていくという状態ですかね。それでも飼ってくれる人がいたら、忠誠を尽くす、そんな感じでしょうか」(15年1月29日、マーリンズ入団会見でなかなか移籍先が決まらなかった間の心境を問われ)

「3000という数字よりも、僕が何かをすることで、僕以外の人たちが喜んでくれた。今の僕にとって何よりも大事なことだと再認した瞬間でした」

「この先は感情を無にしてきたところを、うれしかったり、悔しかったり。それなりの感情を少しだけ見せられたらいいなと思います」(16年8月7日、ロッキーズ戦で史上30人目のメジャー通算3000安打を達成し)

「“誰が見ても世界一の才能と言っていい”とよく聞く。そんな選手と対戦することは野球の醍醐味(だいごみ)の一つだと思うし、必ず実現させたい。できれば(自分が)投手で対戦したいなと思います」(18年3月7日、マリナーズ復帰会見で大谷について問われて)

「皆さん、よく50歳までという話をされることが多いですけど、僕は最低50歳といつも言っているので、そこは誤解しないでほしいですね」(18年3月7日、マリナーズ復帰会見で50歳まで現役希望について問われて)

「こんなギフトがあるなんて思いもよらなかった。こんなに人の気持ちに応えたいと思ったのは久しぶり。20歳のとき、仰木監督がそういう思いにさせてくれた。それに近い感覚がある」(18年3月28日、5年ぶりの開幕スタメンをスコット・サービス監督が明言し)

「どうします?これって誰が決めるものなの?イチローでいいんじゃないの?裏じゃみんな呼び捨てしているんだからいいよ。そこは皆さんのセンスに任せるということで」(18年5月3日、会長付特別補佐に就任し、表記を問われ)

「対戦したいですよ、それは。それはそうでしょう。したいよ、そりゃ。テレビで見ているから、ブラジルで見ているのと同じ。直接やれば“こんなボールだった”とか言えるんだろうけどね」(18年5月6日、対戦が直前で流れた大谷がマリナーズ戦で好投し)

「僕が日本でやることはないと思う。アメリカに来てやろうか。大リーグで。どうですか?最短で18(歳)だから、6年たつと51。51までできたらいいけどね。頑張るわ」(18年12月23日、イチロー杯閉会式で12歳の子からプロでの対戦を要求され)

「いつも期待を裏切りたいという気持ちはある。安易な責任のない意見、そういうものを裏切りたいと思っています」(19年2月16日、米19年目のキャンプインを迎え)

「いつ分かるんですかね。そんなこと。それは僕にも分からないですね。まあ、こういう質問には本当に慣れていないんだと、今また思いました」(19年3月16日、米国人記者から引退の時期をいつ、どのように決めるのかと問われ)
via https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/22/kiji/20190322s00001007146000c.html
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/22/kiji/20190322s00001007147000c.html
https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2019/03/22/kiji/20190322s00001007148000c.html


・イチロー搭乗ゲートは「51番」‥全日空の粋な計らいが素敵すぎる!
 https://matome.naver.jp/odai/2155327310418440101
関連記事
スポンサーサイト
ブログパーツ アクセスランキング

| スポーツ | 23:57 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

[訃報] 内田裕也さん逝く 79歳 希林さんの死から半年 もう聞けない“ロケンロール” はてなブックマーク - [訃報] 内田裕也さん逝く 79歳 希林さんの死から半年 もう聞けない“ロケンロール”


 ロック歌手で映画俳優としても活躍した内田裕也(うちだ・ゆうや、本名内田雄也)さんが17日5時33分、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。79歳。兵庫県西宮市出身。17年11月に脱水症状で倒れてから車椅子生活を余儀なくされていた。18年9月15日に妻で女優の樹木希林さん(享年75)に先立たれ、喪失感が消えない中での死となった。都知事選出馬など常に話題を提供し続けたロック界のカリスマだった。葬儀は近親者のみの家族葬で執り行い、後日お別れ会を執り行う。
 希林さんの死から半年、波乱に満ちた“ロケンロール人生”に幕が引かれた。年明けから体調が悪化し、17日に天に召された。1995年に俳優の本木雅弘(53)と結婚した長女の也哉子(43)らが裕也さんの遺体に寄り添った。
 晩年は病気やケガと闘う日々が続いた。16年11月に英国ロンドンのホテルの浴室で転倒し、尾てい骨を強打。17年夏には転倒して右足甲を骨折。さらに同11月に脱水症状を起こして緊急入院するなど、満身創痍(そうい)だった。
 完全復帰を目指してリハビリに励んできたが、日増しに体力は低下。自身が主催する恒例の年越しライブ「ニューイヤーロックフェスティバル」にも17~18年からは車椅子で出演。執念で立ち上がり、熱唱する状況が続いていた。12年から毎年欠かさず参列していた3月11日の東日本大震災の追悼式も今年は欠席していた。
 エルビス・プレスリーに憧れて高校を中退し、1957年にバンドボーイとして音楽活動をスタートさせた。幾つかのバンドを渡り歩き、66年のビートルズ日本公演では尾藤イサオ(75)らとの特別編成のバンドで前座を務めた。
 同年、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していた沢田研二(70)らをスカウト。これが後のザ・タイガースとなった。67年には麻生レミをボーカルに据えて結成したフラワーズにジョー山中さんらが参加し、フラワー・トラベリン・バンドとして再編成。アルバムがカナダチャートで8位を記録するなど海外でも活躍し、邦楽ロックの礎を築いた。
 70年代からは映画俳優としても活躍。崔洋一監督の「十階のモスキート」(83年)、自ら脚本を手掛けた滝田洋二郎監督の「コミック雑誌なんかいらない!」(86年)など話題作に主演した。  私生活では故かまやつひろしさんの紹介で出会った希林(当時悠木千帆)さんと73年10月にスピード結婚。裕也さんの家庭内暴力などもあり、1年半で別居生活に入った。81年には一方的に離婚届を提出。希林さんが訴訟を起こし離婚成立を阻止する一幕もあった。
 別居生活は43年半にも及び、裕也さんは大麻取締法違反(77年)、銃刀法違反(83年)、そして強要未遂と住居侵入容疑(11年)と3度の逮捕歴を重ねた。それでも離婚には踏み切らなかった。
 2人にとってお互いは特別で最愛の存在だった。長女の也哉子が離婚しない理由を聞いた際に希林さんは「彼にはひとかけらの純なものがあるから」とし、一方の裕也さんも「一生頭が上がらない」と話していた。
 91年には東京都知事選に出馬。政見放送で「パワー・トゥ・ザ・ピープル」と「コミック雑誌なんかいらない!」を歌うなど自由奔放な人生を貫き「シェキナベイベー」の名言も残した。[2019.03.18]

 ◆内田 裕也(うちだ・ゆうや)1939年(昭14)11月17日生まれ、兵庫県出身。神戸のジャズ喫茶でならし、エルビス・プレスリーに憧れて上京。58年にブルージーン・バップスを結成し59年にデビュー。渡辺プロ退社後の67年からヨーロッパを1年あまり放浪。帰国後、日本ロックの振興に大きく貢献した。阪神大震災、東日本大震災発生後はいち早く被災地に入り、ジョー山中さんや安岡力也さんら“ファミリー”を引き連れ炊き出しなどを行った。
 via https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/03/17/kiji/20190318s00041000109000c.html


・樹木希林さん死去から半年‥内田裕也さん訃報に多くの悲しみ広がる
 https://matome.naver.jp/odai/2155286528888156101

・内田裕也さんは、ロックンロールに人生を捧げた。「ヒット曲ない」と自嘲する“ロック界のドン”  
 https://www.huffingtonpost.jp/entry/rocknroll-yuya_jp_5c8ee625e4b0d7f6b0f4dfc4

・放送事故も...亡くなった内田裕也さんのロックな伝説とは?
 https://matome.naver.jp/odai/2155285393183878701

・内田裕也 :Wikipedia

・内田裕也さん、別居43年半も妻に守られた破天荒人生
 11年にストーカーでの逮捕時には希林さんが自宅に報道陣を上げて会見し、「逮捕してくれてありがたい」と矢面に。裕也さんがいつ帰ってきてもいいようにと“裕也部屋”を作ってあるといい、「縁あって結ばれた好きな人。添い遂げるのが当たり前」ときっぱり言い切った。
 昨夏にフジテレビ系で放送された裕也さんのドキュメンタリー番組には、全身がんで闘病中だった希林さんがナレーションで“共演”した。
 同9月に愛妻が死去した際、裕也さんは「見事な女性でした」と感謝。納骨時にはあごの骨を持ち帰り、深い愛情を見せた。その半年後、「裕也さんに会いたい」と死ぬまで言っていた希林さんに呼ばれるように天国へ。絶対に離婚しなかった妻は生前、長女でエッセイストの内田也哉子(43)に「だってお父さんにはひとかけらの純なものがあるから」と愛しげに語っていた。

★内田裕也さんのトラブル史
 ◆大麻取締法違反で逮捕 1977年、長崎県警佐世保署に大麻取締法違反の疑いで逮捕される(起訴猶予処分)
◆音楽興行事務所に殴り込み 83年、ウドー音楽事務所に「外国人ばかり使うな!」と包丁を持って乱入し、銃刀法違反で逮捕
 ◆東京都知事選出馬 91年、アントニオ猪木が出馬表明を撤回したことに触発され、交際相手の女優に選挙資金を提供してもらい、立候補。政党推薦のない無所属候補では最多の5万4654票を獲得するも落選
 ◆傍聴 2009~12年の民主党政権時代、国家予算見直しで行政刷新会議が行った「事業仕分け」を「ロック界の代表として政治に無関心でいられない」とたびたび傍聴
 ◆ストーカーで逮捕 11年、元交際相手のキャビンアテンダント(当時50歳)に復縁を迫り、東京都内の女性宅に侵入した容疑で逮捕(起訴猶予処分)
 via https://www.sanspo.com/geino/news/20190319/geo19031905030006-n1.html

関連記事
ブログパーツ アクセスランキング

| 芸能 | 04:04 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

天皇陛下在位30年記念式典:天皇陛下おことば 全文 はてなブックマーク - 天皇陛下在位30年記念式典:天皇陛下おことば 全文




在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。
即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。
平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。
世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。
島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。
天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。
しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。
天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。
これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。
災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の1つです。
今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。
数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。
心より深く感謝いたします。
平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。
ともどもに平(たひ)らけき代を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ
平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。
そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。
在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。[2019.02.24]

via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190224/k10011826401000.html


・飛んだおことば、皇后さまが気づく 涙声で感謝の8分半
 24日の在位30年の記念式典で、天皇陛下のおことばは8分半に及んだ。退位当日の4月30日、皇居・宮殿での「退位の礼」で最後のおことばが予定されるが、皇居外では今回が最後となる見通し。涙声で国民への感謝の思いを語った。
 おことばは象徴天皇の歩みを振り返る集大成とも言える内容だった。平成の30年間を「国民の平和を希求する強い意志」によって「近現代において初めて戦争を経験せぬ時代」と総括しつつ、決して平坦(へいたん)な時代ではなかった、とも述べた。震災などを念頭に「多くの予想せぬ困難に直面した時代」だったとし、「日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました」と振り返った。
 陛下は天皇の務めを人々の助けを得て行えたことを「幸せなこと」と振り返り、「この国の持つ民度のお陰でした」とも述べた。

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

 おことばの中で、天皇陛下は平成が始まって間もない時期に皇后さまが詠んだ歌を紹介した。当時、全国各地から「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」との「決意に満ちた言葉」が寄せられたと明かし、「私どもは今も大切に心にとどめています」と声を詰まらせながら語った。



 途中、天皇陛下が用意した原稿を読み間違えてしまう場面があった。天皇陛下は昨年5月にもベトナムの国家主席夫妻を歓迎した宮中晩餐(ばんさん)会で、おことばの原稿を1枚分飛ばしたことがあった。今回はかたわらにいた皇后さまがすぐに気付いて伝え、陛下は安堵(あんど)した様子で再び読み始めた。宮内庁関係者によると、皇后さまはおことばの作成を支え、内容を理解して式典に臨んでいたという。
 式典が終わり、天皇陛下は会場内を見渡しながら手を振った。そばには笑みをうかべる皇后さま。お二人に大きな拍手が送られた。
 式典には安倍晋三首相や衆参両院議長、外国大使ら約1100人が出席。安倍首相は式辞で「30年の長きにわたって、国民に常に寄り添ってこられた両陛下のお姿を、私たちは決して忘れることはありません」と述べた。福島県の内堀雅雄知事は国民代表として「明日に向けて歩みを進める勇気をいただきました」と東日本大震災での激励に感謝を伝えた。
via https://www.asahi.com/articles/ASM2L4SVKM2LUTIL00X.html

・天皇陛下「おことば」でハプニングも‥皇后さまのサポートに感動広がる
 https://matome.naver.jp/odai/2155099970078309101

◇「現代にふさわしい皇室を」=お言葉で振り返る在位30年
 天皇陛下は即位以来、毎年の誕生日や節目の記者会見などで、象徴の在り方や戦争、災害など、さまざまな事柄について考えを語られてきた。主なお言葉で在位30年を振り返った。

 「憲法に定められた天皇の在り方を念頭に置き、天皇の務めを果たしていきたい。国民の幸福を念じられた昭和天皇をはじめとする古くからの天皇のことに思いを致すとともに、現代にふさわしい皇室の在り方を求めていきたい」(1989年8月、即位後初の記者会見)

 「障害者や高齢者、災害を受けた人々、社会や人々のために尽くしている人々に心を寄せていくことは、私どもの大切な務め」(99年11月、即位10年の会見)

「先の大戦で大きな犠牲を払い、長い時を経て、念願してきた復帰を実現した沖縄の歴史を、人々に記憶され続けていくことを願っています」(2002年12月、69歳の誕生日前会見。沖縄復帰から30年で)

「結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます」(09年4月、結婚50年の会見)

「この20年、長い天皇の歴史に思いを致し、国民の上を思い、象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ、今日まで過ごしてきました」「心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということ」(09年11月、即位20年の会見)

「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います」(11年3月、東日本大震災後のビデオメッセージ)

「80年の道のりを振り返って、最も印象に残っているのは先の戦争のこと」「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるもの」(13年12月、80歳の誕生日前会見)

「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」(16年8月、退位の意向をにじませたビデオメッセージ)

「残された日々、象徴としての務めを果たしながら、次の時代への継承に向けた準備を、関係する人々と共に行っていきたい」(17年12月、84歳の誕生日前会見。退位日が決まり)

「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」(18年12月、85歳の誕生日前会見)。

 via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019022500183&g=soc


・「天皇陛下在位30年記念式典」で歌声披露した三浦大知に感動の嵐
  https://matome.naver.jp/odai/2155098937474257401



・式典で三浦大知さん熱唱 両陛下が合作した沖縄の思い出
 24日の天皇陛下在位30年記念式典では、沖縄県出身の歌手三浦大知さんが「歌声の響(ひびき)」を歌った。沖縄のハンセン病療養所との交流をきっかけに天皇陛下が詞を書き、皇后さまが作曲した思い出の曲だ。
 お二人は皇太子ご夫妻時代の1975年7月、初めて訪れた沖縄で名護市の「沖縄愛楽園」の入所者と交流した。ハンセン病への差別や偏見が残る時代、お二人が望んだ訪問だった。
 帰り際、入所者は感謝を伝えようと、沖縄の船出歌「だんじょかれよし」を涙ながらに歌った。当時の様子を天皇陛下が沖縄伝統の「琉歌(りゅうか)」(八・八・八・六の音数律をもつ定型詩)に詠み、皇后さまが曲をつけたのが「歌声の響」だ。両陛下の沖縄訪問は皇太子時代から11回に及ぶ。
 この日、三浦さんは千住明さんのピアノ、千住真理子さんのバイオリンに合わせ、情感豊かに歌った。
 また、ソプラノ歌手の鮫島有美子さんは皇后さま作曲の「おもひ子」を披露。皇太子妃時代、詩人で小説家の故・宮崎湖処子(こしょし)の詩をもとに作った曲で、幼い浩宮さま(皇太子さま)の子守歌として口ずさんだことがきっかけで生まれたものだった。
「歌声の響」 作詞天皇陛下、作曲皇后さま
だんじよかれよしの歌声の響(ダンジュカリユシヌウタグイヌフィビチ) 見送る笑顔目にど残る(ミウクルワレガウミニドゥヌクル)
(意味:(船出歌の)「だんじょかれよし」の歌声の響きと、それを歌って見送ってくれた人々の笑顔が今も懐かしく心に残っている)

だんじよかれよしの歌や湧上がたん(ダンジュカリユシヌウタヤワチャガタン) ゆうな咲きゆる島肝に残て(ユウナサチュルシマチムニヌクティ)
(意味:「だんじょかれよし」の歌が湧き上がった、あのユウナの咲く島が今も懐かしく心に残っている)

via https://www.asahi.com/articles/ASM2L4SVKM2LUTIL00Y.html


◇「心にしみ、実用的」美智子さまの5つのお言葉を読み解く
「美智子皇后の言葉ほど、奥深く、心にしみ、しかも実用的なメッセージは、聞いたことがない」。ノンフィクション作家の矢部宏治さんが、両陛下が国民とともに歩まれた60年を振り返り、折々に美智子さまが発せられ、時代をつくられてきた言葉を読み解く。
 天皇皇后両陛下が発せられる言葉がどのようにつくられているかは意外に知られていない。側近や宮内庁が代筆するという誤解も多いが、実は、ご自身の考えや意思が国民に伝わるよう、自ら丁寧に言葉を紡ぎ、推敲に推敲を重ねて仕上げられている。両陛下の言葉をまとめた『天皇メッセージ』(小学館)の著者である矢部宏治さんが、昨年12月23日の陛下の誕生日会見を読み解く。
「このおそらく在位中最後となる会見は、明仁天皇の万感の思いが隅々まで込められたもので、なかでもはっきりと5度、言葉を詰まらせられたことが印象的でした。そのうち2か所は美智子皇后について触れた一節でした。いかにおふたりが、ご苦労をともに分かち合い、乗り越えてこられたのかがわかりました。明仁天皇のお言葉はもとより、ご結婚以来60年、ともに大きな光と闇の時を体験されてきた皇后の言葉にも、今、耳を傾けるべきでしょう」
 以下では、矢部さんの協力のもと、美智子さまのこれまでの言葉のなかで、特に印象的な5つを並べた。それらは、時代を見事に切り取るとともに、深い懊悩を越えて、私たちに勇気を与えてくれる言葉だった。

〈私のめざす皇室観というものはありません。ただ、陛下のお側にあって、すべてを善かれと祈り続けるものでありたいと願っています〉(1994年10月/60才の誕生日文書)

 その言葉の背景に、矢部さんはまず「天皇の孤独」を読み取る。「敗戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は、明仁皇太子(当時)の15才の誕生日に、まるで見せつけるかのようにA級戦犯を処刑しました。その恐怖にも負けず、日本の復興を自らの務めと思い定めた皇太子は、学習院高等科の英語の授業で『I shall be Emperor』(私は必ず天皇になります)と宣言。以降、『新しい時代の天皇制はどうあるべきか』をひとりで模索されました。  
 天皇という『職業』についても、根本的に改革する意志を持たれていたようです。たとえば25才で結婚する直前には『ぼくは皇居内に住みたくない。皇居はなるべく開放して、大衆向きの公園に使ってほしい』『天皇になってもぼくは街の中に住む』と親しい友人に語られていたと報道されています。苦難の道を歩まれた明仁皇太子が心に抱いた孤独と恐怖を、痛切に感じ取られたのが美智子皇后でした」(矢部さん・以下同)
 1959年4月10日、明仁皇太子と結婚された美智子さまには、「一種の使命感」があったという。「“孤独な皇太子さまに、温かいホームをつくって差し上げたい”というお気持ちだったと述べられています。自らが国や皇室をどこかに導こうというのではなく、極限の苦悩の中で重い荷物を背負う明仁皇太子に肩を寄せて、ともに歩いていこうという強い使命感が、その後の60年間の根底にあったのだと思います」
 その決意が「陛下のお側」という言葉に込められている。

〈だれもが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている〉(1980 年10月/46才の誕生日会見)

 おふたりのご成婚により、国中が祝賀ムードに包まれた。ところが、初の民間出身の皇太子妃となられた美智子さまは、一部の皇族や女官などから心ない言動を受けることになる。
「1960年に長男・浩宮(現・皇太子さま)が生まれてからも、慣習にとらわれず自分の手で子育てされようとした美智子皇后は、宮中の女性から激しくバッシングされました。家柄もよく容姿端麗でスポーツもできた皇后は、皇室という巨大な存在のなかで、初めて“弱い自分”を感じながら、“人は一人ひとり自分の人生を生きている”として、決して希望を捨てませんでした。“最も高い地位〟にありながら、最も庶民に近い感性を持つ皇后の心情が滲み出る言葉です」

〈とりわけみずからが深い悲しみや苦しみを経験し、むしろそれゆえに、弱く、悲しむ人びとのかたわらに終生寄りそった何人かの人々を知る機会をもったことは、私がその後の人生を生きる上の指針のひとつになったと思います〉(2004 年10月/70才の誕生日会見)

 成婚後の美智子さまが特別に「深い悲しみ」に見舞われたのは1963年。浩宮さまに次ぐお子さまを流産された。「当時の美智子皇后は明仁天皇とともに、出産についても皇室の慣例を破り、一般家庭に近い形を貫いていた時期でした。それだけに流産によって精神的危機に陥り、葉山御用邸(神奈川)でひとり長期静養することになりました」
 その頃の美智子さまを支えた1人が、ハンセン病患者のための施設「長島愛生園」(岡山県瀬戸内市)の精神科医長だった故・神谷美恵子さんである。「神谷さんは、社会的な偏見に苦しんでいたハンセン病患者のケアを行い、弱い立場の人々とともに歩むかたでした。深い闇の中にいた美智子皇后は、神谷さんとの出会いによって傷ついた心を癒され、“国民の苦しみに寄り添う姿勢”を確立されていきました」
 その後、美智子さまは46年かけて国内のすべてのハンセン病療養所を訪問された。

〈福島の子供たちの健康はどうでございますか〉(2018年11月/最後の園遊会)

 2011年3月11日、東日本大震災。その5日後に陛下は国民に向けたビデオメッセージを発表され、3月30日から7週連続で被災地の避難所を回られた。両陛下は原発事故についても深く憂慮された。
「明仁天皇は、原発事故直後から福島第一原発の視察を強く希望され、5月に美智子皇后とともに福島県を訪問されました。さらに政治家やマスコミが原発事故への関心を失うなか、2012年から4年連続で、新年の『ご感想』のなかで、放射能汚染に見舞われた地域住民に心を寄せるメッセージを発せられました」
 美智子さまも陛下と同じ思いだった。
「両陛下は原発事故後に6度、福島県を訪問しています。昨年6月の在位中最後の訪問では、車での移動中に福島第一原発が見える地点を通られた。しかも11月の両陛下主催の最後の園遊会では、原発事故調査に携わった山下俊一・福島県立医科大学副学長に、美智子皇后が福島の子供たちの健康について尋ねました。政財官など“国家の中枢”のなかで、変わらず福島に寄り添う発言を続けているのは、明仁天皇と美智子皇后だけです」
  *
 昨年10月20日、在位中最後の誕生日にあたり、美智子さまは次のように心境を述べられた。

〈皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく――そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います〉(84才の誕生日文書)

「戦後60年間、象徴天皇としての困難な旅を続けられた明仁天皇の傍らには、常に美智子皇后の励ましの笑顔がありました。両陛下は、戦後日本のベストカップルなのです」
via https://blogos.com/article/358761/



・宮中茶会に五輪メダリストら 陛下の即位30年を祝う
 即位30年を祝い、天皇、皇后両陛下が主催する宮中茶会が26日午前、皇居・宮殿で始まった。五輪メダリストら平成を彩った各界の功労者のほか、都道府県知事らが招かれ、天皇陛下は「本日こうして茶会を催し、ともにひとときを過ごすことを誠にうれしく思います。この機会に、出席された皆さんのこれからのご健康と幸せを祈ります」と述べた。
 茶会は宮殿・豊明殿で、皇太子さま、秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族方を迎え開かれた。スポーツ界からは王貞治さんや、五輪メダリストの浅田真央さん、伊調馨さん、北島康介さん、サッカーの三浦知良さん、プロゴルファーの石川遼さんらが集った。
 学術界からは大隅良典さん、大村智さん、梶田隆章さんらノーベル賞受賞者も出席した。[2019.02.26]
via https://www.asahi.com/articles/ASM2T3S0PM2TUTIL014.html


関連記事
ブログパーツ アクセスランキング

| 歴史 | 21:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

[テニス] 全豪オープン 大坂なおみが初優勝 世界ランキング1位へ はてなブックマーク - [テニス] 全豪オープン 大坂なおみが初優勝 世界ランキング1位へ




テニスの全豪オープン(オーストラリア/メルボルン、ハード、グランドスラム)は26日、女子シングルス決勝が行われ、第4シードの大坂なおみが第8シードのP・クヴィトバ(チェコ)を7-6 (7-2), 5-7, 6-4のフルセットで破り、日本勢男女を通じて初優勝を果たした。さらに28日に発表の世界ランキングで日本勢男女最高の1位が確定した。
決勝戦、大坂は序盤からクヴィトバにブレークチャンスを与えたが、ピンチを切り抜ける。第12ゲームでは2本のセットポイントを掴むも活かすことができず、タイブレークへ突入。
その後、左利きから繰り出すクヴィトバの鋭角なサービスに対してリターンエースを決めた大坂は主導権を握り、第1セットを先取。
第2セットに入ると第2ゲームでミスを重ねて先にブレークを許したが、直後の第3ゲームでは強烈なリターンからポイントを取りブレークバックに成功。
以降も大坂の勢いは加速し、第5ゲームでクヴィトバのサービスゲームを再び破り、第9ゲームでは3本のチャンピオンシップポイントを掴む。しかし、このゲームをサービスキープされると、サービング・フォー・ザ・チャンピオンシップの第10ゲームではブレークバックを許す。そして大坂は失速し、セットカウント1-1に追いつかれる。
ファイナルセットは集中を取り戻した大坂が第3ゲームでブレークに成功。以降もリードを守って死闘を制し、昨年の全米オープン(アメリカ/ニューヨーク、ハード、グランドスラム)から四大大会2大会連続優勝の快挙を成し遂げた。[2019.01.26]


via https://news.tennis365.net/news/today/201901/122391.html







オーストラリアで開かれているテニスの四大大会、全豪オープンは女子シングルスの決勝が行われ、大坂なおみ選手がチェコの選手にセットカウント2対1で勝って優勝を果たしました。大坂選手は、大会後の世界ランキングで、男女を通じてシングルスでアジア初の1位になることが確定しました。
世界ランキング4位の大坂選手は全豪オープンのシングルスで男女を通じて日本選手初の決勝進出を果たし、世界6位、チェコのペトラ・クビトバ選手と対戦しました。クビトバ選手は、左利きの選手で、強力なサーブを持ち味に、今月行われた全豪オープンの前哨戦で優勝し、今大会は6試合連続のストレート勝ちで決勝に進出していました。
大坂選手は第1セット、今シーズン初めて対戦する左利きの相手が繰り出す高速サーブに対応し、深いリターンでポイントを重ね、タイブレークの末、7-6で取りました。第2セットは互いのサービスゲームをブレークし合う展開となりましたが大坂選手が5-3とリードして第9ゲームではマッチポイントを握りました。
しかしここでクビトバ選手に5ポイントを連続で奪われてこのゲームを落とし、流れを失って、このセットを5-7で奪われました。



最終の第3セットで、大坂選手は相手を上回る精度の高いストロークでミスを誘い、再び流れを引き寄せて6-4で取りました。
大坂選手はセットカウント2対1で勝って優勝し、去年の全米オープンに続く四大大会2大会連続2回目の優勝を果たしました。



四大大会の連覇は2014年から15年にかけて4連覇した元世界女王、セリーナ・ウィリアムズ選手以来です。
大坂選手は大会後の世界ランキングで、男女を通じてシングルスでアジア初となる1位になることが確定しました。

■大坂 穏やかな笑みでスピーチ
大坂なおみ選手は表彰式で2014年大会のチャンピオンで中国の李娜さんから優勝カップを受け取りました。
大坂選手は、この後のスピーチで「皆さんこんにちは。人前でしゃべるのは苦手なのでなんとかスピーチを乗り切りたいです。まず、ペトラ、ずっと対戦したいと思っていました。あなたは大変なことを乗り越えて来ましたよね。あなたとあなたのチームにおめでとうと伝えたいです。四大大会の決勝で戦えたことを光栄に思います」と強盗に襲われて負った左手首のけがを乗り越えて復帰し、今大会の決勝で初めて対戦したペトラ・クビトバ選手に祝辞を送りました。
そして「ファンの皆さん、ずっと暑くて大変な中、応援に来てくれて感謝しています。暑い中、走り回ってくれたボールキッズの皆さん、ボランティアの皆さんにもありがとう。そして私のチーム、あなたたちがいなければ2週間を乗り越えられませんでした。チームとして皆さんといることにも感謝します。皆さん、とにかく本当にありがとうございました。この決勝でプレーできたことを光栄に思います」と時々、穏やかな笑みを浮かべながらスピーチしました。
大坂の父親「本当の強さを証明できた」
大坂選手の父親のレオナール・フランソワさんは、試合後、会場で「去年の全米オープンよりも、全豪オープンの優勝のほうがうれしいかもしれない。1回目の優勝の時はナオミの力をみんなが信じていなかったかもしれないけれど、2回目の四大大会優勝で本当の強さを証明できた」とうれしそうに話していました。

■大坂の祖父「よくやったといいたい。おめでとう」
大坂なおみ選手の祖父で、北海道根室市の大坂鉄夫さん(74)は試合のあと、根室市役所で会見し「うれしくて興奮している」と孫の快挙を喜びました。
鉄夫さんは大坂選手の試合を自宅でテレビ観戦していたということで「誇りに思える。うれしくて実感がわかない。ひとりでコートの上で戦ってよくやったといいたい。おめでとう」と笑顔を浮かべながら話していました。
そのうえで、「これからも自然体で頑張ってほしい」と今後のさらなる活躍に期待を寄せていました。
また、鉄夫さんが74歳の誕生日を迎えた今月23日の準々決勝の後、大坂選手がテレビの中継を通じて「おじいちゃん誕生日おめでとう」と祝福のメッセージを寄せたことについては「かわいいね。どのおじいちゃんでもそう感じると思うよ」とうれしそうに話していました。
鉄夫さんは、地元漁協の組合長も務めていて、「孫にどんなものをプレゼントしたいか」という質問に対しては、「最近はダイエットしていて以前より食べないんだけど、銀ガレイをおくろうかな」と話していました。

■各国メディアも速報
テニスの全豪オープンで大坂なおみ選手が初優勝したことについて、各国のメディアも速報で伝えました。
このうち、ロイター通信は、「アジアで初めてとなる世界ランキング1位の誕生だ」と速報しました。フランスのAFP通信は、「大坂選手がクビトバ選手を破り、世界ランキングで新たな1位になる」と伝えました。
AP通信は、「四大大会で、2回続けて優勝したのは、セリーナ・ウィリアムズ選手以来で、新たなスターの誕生だ」とたたえました。そして去年9月の全米オープンの決勝では、対戦したセリーナ・ウィリアムズ選手が審判に暴言を浴びせ、大きな論議を呼んだことに触れ、「今回はあの日のような混乱も論争もない。スポットライトは彼女だけのものだ」と伝えました。
アメリカCNNテレビの電子版は、大坂選手のプレーを振り返り、「大坂選手が第2セットを落としたとき、誰も彼女が優勝するとは思わなかっただろうが、その後、すばらしい回復力で次々とハードルを克服していった」と称賛したうえで、「今後、彼女はさらに優勝を重ねていくだろう」と伝えています。
また、イギリスの公共放送BBCは、大坂選手が第2セットをクビトバ選手に奪われたあと、再び、流れを引き寄せて勝利したことについて、「驚異的な巻き返しだ」と伝えたうえで、「すばらしい選手だ。世界トップへの長い長い道のりを極めて短い時間で達成した驚くべき21歳」とたたえました。
全豪オープンのツイッターの公式アカウントでは、「大坂選手はほんの1年前は世界ランキングで72位だったが今や1位に上りつめ、四大大会を2回制覇している」と紹介しています。
またWTA=女子テニス協会は、26人目のランキング1位となる大坂選手が2014年に初めてツアー大会に出場したときの様子や、去年9月の全米オープンで元世界女王のセリーナ・ウィリアムズ選手を破った試合などをホームページの特集記事で取り上げています。

■大坂なおみとは
大坂なおみ選手は21歳。ハイチ出身の父と日本人の母を持ち、大阪市で生まれ、3歳からアメリカに移り住みました。2013年にプロに転向し、身長1メートル80センチの体格を生かした時速200キロ近い高速サーブや力強いストロークなどパワーテニスが持ち味です。
女子ツアーに本格的に出場し始めた2016年、東京でのツアー大会で準優勝し、その年、女子ツアーで最優秀新人賞にあたる賞に日本女子で初めて選ばれるなど活躍が期待されてきました。
去年は飛躍の1年となり、3月には四大大会に次ぐ格付けの女子ツアーの大会で日本選手として初の優勝をつかみました。さらに四大大会では、全豪オープンで四大大会初のベスト16に入り、全米オープンでは日本選手として初めてシングルスでの優勝を果たしました。

■四大大会と日本選手
テニスの四大大会は全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン選手権、それに全米オープンの4つを指します。
四大大会のシングルスで、日本選手は戦前に活躍した時期があり、1918年、熊谷一弥さんが全米オープンでベスト4に入り1920年には清水善造さんがウィンブルドン選手権で1931年から1933年にかけては佐藤次郎さんが全仏オープン、全豪オープン、それにウィンブルドンで合わせて5回、ベスト4に進出しました。
このあと、日本選手がベスト4に届かない時期が続きましたが、1973年の全豪オープンで沢松和子さんが女子シングルスでベスト4入りすると、伊達公子さんが1994年の全豪オープン、1995年の全仏オープン、それに1996年のウィンブルドン選手権でベスト4に入りました。
このあと、錦織圭選手が2014年の全米オープンで日本選手として初めてシングルスの決勝に進出し、準優勝となりました。錦織選手は2016年と去年の全米オープンでもベスト4入りしました。
そして、去年の全米オープンで大坂選手が日本選手として初めて四大大会のシングルスで優勝しました。

■大坂の四大大会
大坂なおみ選手が四大大会の本戦に初めて出場したのは2016年の全豪オープンです。当時18歳だった大坂選手は予選から5試合を勝ち抜いて3回戦まで進み、元世界ランキング1位で、当時世界16位だったベラルーシのビクトリア・アザレンカ選手にストレートで敗れました。その年の全仏オープン、全米オープンでも3回戦まで進みましたが、翌年(2017年)の全豪オープンは2回戦で敗れ、全仏オープンは初戦で予選を勝ち上がってきた選手に敗れました。その後の大会でも3回戦を突破することができない時期が続きましたが、去年(2018年)の全豪オープンではシード選手を続けてストレートで破り自身初の四大大会4回戦進出を果たしました。そして四大大会最終戦、全米オープンでは、四大大会のシングルスで男女を通じて日本選手初となる優勝を果たし、今回の全豪オープンで、四大大会2大会連続2回目の優勝を果たしました。

■大坂の世界ランキング
大坂なおみ選手は2012年10月に世界ランキング1016位で登場。テニスの世界ランキングは過去52週の大会成績に応じて与えられるポイントで決まりますが、大坂選手は翌年、400位台にまで一気に順位を上げました。
その後も順調に順位を上げて2014年後半には200位台、15年には100位台につけるようになりました。
2016年4月に初めてふたけた台の順位となり、9月に東京で行われたツアー大会で準優勝すると、この年の終盤には50位以内に入りました。
2017年は50位前後にとどまって伸び悩みましたが、去年3月に四大大会に次ぐ格付けの大会で初めて優勝して順位を22位に上げると、9月には四大大会の全米オープンで優勝して、一気に7位となりました。
その後のツアー大会でも好成績を収めて10月には日本選手のシングルスとしてこれまで最高だった錦織圭選手と伊達公子さんに並ぶ4位となりました。

■大坂の生涯賞金10億円突破
テニスの全豪オープン、シングルスで男女を通じて日本選手初の決勝に進んだ大坂なおみ選手の生涯賞金が大会後の賞金を合わせて10億円を突破し、杉山愛さんを抜いて日本の女子選手で最多の生涯賞金となりました。
21歳の大坂選手は、昨シーズン、四大大会に次ぐ格付けのツアー大会で初のツアー優勝を果たし、さらに四大大会の全米オープンを制してそれまでの生涯賞金128万8573ドルを1年で大幅に上回る賞金額、639万4289ドルを獲得しました。
その後も賞金額は増え、大会前には768万2862ドル、日本円にして8億4000万円余りに達していましたが、全豪オープンで優勝したことで、日本円にしておよそ3億2000万円が加わり、生涯賞金はおよそ11億6000万円となりました。
大坂選手は、この大会でこれまで生涯賞金ランキング世界58位で日本女子で史上最多だった杉山愛さんの8億円9400万円余りを抜いて最多となりました。

■四大大会初優勝後の連覇 大坂が18年ぶり5人目
大坂なおみ選手が全豪オープンで優勝し、去年の全米オープンに続く四大大会連覇を成し遂げました。女子シングルスで四大大会初優勝の後、次の四大大会も制した選手は、2001年の全仏オープンで初優勝したアメリカのジェニファー・カプリアティさんが連覇を成し遂げて以来、18年ぶり5人目の快挙となります。
四大大会初優勝の後、連覇をした女子シングルスの選手は、プロ選手が参加できるようになって以降、1971年に全仏オープンとウィンブルドン選手権を制したオーストラリアのイボンヌ・グーラゴンさんが最初です。
その後は、いずれもアメリカの選手で1974年にクリス・エバートさんが、2000年にビーナス・ウィリアムズ選手が四大大会で初優勝からの連覇を達成しました。そして2001年にカプリアティ選手が全豪オープンと全仏オープンを制したのが最後で、合わせて4人の選手が四大大会初優勝後の連覇を成し遂げています。
四大大会の連覇は、2014年から15年にかけて4連覇するなど四大大会で歴代最多の23回の優勝を誇る元世界女王、セリーナ・ウィリアムズ選手が最後です。
ウィリアムズ選手は四大大会初優勝となった1999年の全米オープン後、最初の四大大会となった2000年の全豪オープンでは4回戦で敗退しています。

■第1セット獲得でツアー60連勝
テニスの全豪オープンの決勝で大坂なおみ選手は第1セットを奪った後、第2セットを落としたものの、第3セットを取ってセットカウント2対1で勝って優勝を果たしました。大坂選手は、2016年10月に中国で行われた大会でロシアの選手に第1セットを奪ってから逆転負けしましたが、その後、およそ2年3か月の間、第1セットを取った試合で、勝ち続け、26日の決勝でツアー60連勝となりました。

■日本テニス協会会長「心より敬意」
大坂なおみ選手が全豪オープンで優勝したことについて日本テニス協会の畔柳信雄会長は「日本テニス協会はもとより、日本のすべての国民が大変喜び、称賛しています。全米オープン優勝の時以上に周りからも研究されプレッシャーも大きい中での優勝は、本当にすばらしいことと心より敬意を表します」とコメントを発表しました。

■日本テニス協会強化本部長「心技体、頭脳が充実した証」
全豪オープンの会場で大坂なおみ選手の決勝を見守った日本テニス協会の土橋登志久強化本部長は「トータルで見て心技体、頭脳が充実した証だと思う。本当に見事というほかない。決勝は苦しい戦いだったが勝ちきった。そこにはオフの期間の努力もあったと思うし、すべてが集約された一戦だった。今大会、全体的に競った試合が多かったことが、決勝で生きたのかなと思う。世界ランキング1位になったことは日本のテニス界にとって歴史的な瞬間だが彼女は日本テニス界のみならず世界の女子テニスを引き上げていく、そういう選手になっていくのだろう」と話していました。
そして大坂選手が出場を目指す、東京オリンピックについても「彼女が金メダルを狙える位置にきたのは間違いない。本人もことあるごとにオリンピックを意識した発言をしている。四大大会とはまた違った大きな大会だが、四大大会同様に一発勝負のところもあり、そこに向けてどう取り組んでいくかが重要だ」と話していました。

■吉川コーチ「さらに進化を証明」
全豪オープンの会場で大坂なおみ選手の決勝を見守った日本テニス協会で大坂選手を担当する吉川真司コーチは、「去年の全米オープンからここまででさらに彼女が進化しているというのを証明できた大会だった。彼女が勝つために努力してきたことが形になって現れたと思う。チャレンジャーの立場で臨んだ全米オープンと違い、全員が彼女に向かってくる、プレッシャーの中でコートで戦う姿勢は見ていて感動した」と話しました。
そのうえで、オフシーズン、大坂選手が力を入れて取り組んだランニングについて触れ、「相手より動ける自信があることは、コート上の彼女にこれ以上ない自信を与えてくれたと思う。どの試合も彼女は走りきったし相手より動き続けていた」と話しました。
そして「大坂選手はいま、より高いレベルで、自分が苦しい場面でも勝つために何をすべきか考えられるようになっている。バジンコーチの指導が徐々に身についてきた結果だと思う」と話していました。
via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190126/k10011792651000.html

・大坂なおみ 次の目標は「全仏OPで優勝すること」。全豪OP初Vと世界1位の偉業達成も気を引き締める

「全豪オープン」(オーストラリア・メルボルン/1月14~26日/ハードコート)女子シングルスで日本人初の優勝を飾った大坂なおみ(日本/日清食品)。その大坂が、WOWOWのスタジオでインタビューに答え、次の目標は「『全仏オープン』で優勝すること」と語った。
2018年9月の「全米オープン」に続く、グランドスラム2大会連続優勝についての気持ちを聞かれた大坂は「信じられない気持ちでした。あと、とっても疲れていました」と語った。
第2セットでチャンピオンシップポイントを3本しのがれた場面については「マッチポイントを失ったけど、この現実と向き合わなきゃと思いました」と述べた。第3セットで握ったチャンピオンシップポイントは自身のサービスゲームだったねと聞かれると「自分がサーブするとき、40-0とリードしてから覆されたことはないから大丈夫と思っていました。とにかく目一杯自分の力を出そうと考えました」とも答えた。
そして次の目標については「次の目標は『全仏オープン』で優勝することです。どのトーナメントでも良いプレーをしたいと思っています」と、早くも次のグランドスラムに向けて気を引き締めている。
チームについては「この2週間はいろんなことがありましたからね。テニスだけに集中できるようにメンタルの面でとっても助けてもらいました。その助けがなければここまで来ることはできませんでした」と少し神妙な面持ちで語った。
この優勝で世界ランキング1位が確定した大坂。いつ実感が湧いたのかという質問には「難しい試合でしたからね。正直、この大会で勝つことだけに集中していました。世界ランキングについては考えていませんでした」と話した。
会場のファンからの応援について「ここに来るたびに地元のみなさんが応援してくれているのを感じます。アジア、パシフィックのグランドスラムだと、みなさん私を含め東洋人を応援してくれます」とコメントした。
最後に日本のファンに向けて日本語で「こんばんは。なんか、できた。ありがとうございます」と語った後、友人やおじいちゃんの名前を挙げ、両手の親指を立てて勝利のポーズを決めた。
早くも「全仏オープン」を勝ちたいと語った大坂。まずはゆっくりと休みを取り、続くハードコートの試合はもちろん、クレーコートシーズンでもその活躍に期待したい。
via https://www.thetennisdaily.jp/news/grandslam/australia/2019/0035246.php


◆準優勝のクビトバ、選手生命の危機を支えたチームに感謝「私のことを諦めなかった」


テニス4大大会・全豪オープン決勝戦が1月26日に開かれ、チェコのペトラ・クビトバ選手は準優勝となった。優勝した大坂なおみ選手との激闘を繰り広げた結果だった。
過去には選手生命の危機に晒されたこともあった。2016年12月、自宅で強盗に襲われ、利き手の左手に重傷を負ってしまったのだ。その後、神経を直す手術の末、2017年の全仏オープンで復帰を果たしている。

■「また戦えたなんて信じられません」
クビトバ選手は今回の試合後、準優勝のトロフィーを手に「クレイジーなことです。グランドスラムの決勝で、また戦えたなんて信じられません」と話し始めた。優勝した大阪選手に「ナオミ、おめでとうございます。良いプレーでした」とエールを送った。
チームを感謝を述べる場面で、かつての苦難を振り返って以下のように述べた。

And to my team, thank you for everything but mostly thank you for sticking with me even when we didn't know if I would be able to hold a racket again.
「チームの全てのことに感謝します。特に、私がまたラケットを持てるかどうか分からなかったときも、私のことを諦めなかったこと」

この直後、思いがあふれたのか。涙ぐんで言葉を詰まらせた。その後、気を取り直して感謝の言葉を続けた上で、「来年また会いましょう」と結んだ。



via https://www.huffingtonpost.jp/2019/01/26/kvitova-speaks_a_23653231/

・二重国籍の大坂なおみが日本登録で出場する理由とは
大坂なおみは北海道出身の母・環さんとハイチ出身の父フランソワさんとの間に大阪で生まれ、3歳で米国に移住した。二重国籍で、日本語は話す方が苦手。それでも、日本登録で出場し、「日本人」として初の快挙を成し遂げた。大坂が日本登録で出場する理由とは?
    ◇    ◇    ◇
大坂が準決勝を戦う前、1人の米国女性記者が「彼女は本当は米国人よ」と言ってきた。その記者は、昨年10月のツアー最終戦WTAファイナルの時にも、米国の元世界女王キング夫人に「なぜ大坂を日本に持って行かれたのか」とかみついていた。
3~4歳時、生まれた大阪から米国に移住した大坂は、日本の記憶はおぼろげだ。米フロリダ在住で言葉も英語の方が流ちょう。日米の二重国籍なため、米国記者が、米国を選んだ方がいいと思うのも当然かもしれない。ならば、なぜ大坂一家は、なおみをいまだに日本登録にしているのか。
13年9月の東レ・パンパシフィック大会の時だった。日本テニス協会の女子代表コーチだった吉川真司氏(40)は、日本登録で出場していた選手をくまなくチェックしていた。予選1回戦で敗れたが、1人の初めて見る選手に、目がくぎ付けになった。それが15歳の大坂だった。
「すごい才能だと思った」。すぐに当時の女子代表監督だった村上武資氏、植田実強化本部長に大坂の存在を報告。それ以来、日本に来たときは、味の素NTCで練習できるように取りはからうなど、地道な支援を続けてきた。吉川氏も代表コーチとして大会に派遣され、大坂が出場していれば必ずコンタクトを取り続けた。
大坂は米国テニス協会のジュニア大会に多く出場しているが、目立った成績は残していない。米国では完全に埋もれた存在だった。大坂一家は米国協会に支援を申し込んだが、大して取り合ってもらえなかったという。しかし大坂が16年全豪で予選を勝ち上がり本戦で3回戦に進むと、米国協会は強烈なアプローチを仕掛けてきた。
日米争奪戦の勃発だった。米国は女子代表監督が自ら乗り出し、多額の支援を約束したと伝えられる。だが大坂の父フランソワさんは、無名の時から娘を支援し続けた日本の恩義を尊重したという。だからこそ、いまでも大坂は日本で登録し続けるのだ。
吉川氏は「僕は代表コーチとして手助けしただけ。コーチはバイン氏」と遠慮する。確かに、あくまで大坂の専属コーチはバイン氏だ。彼の手腕が卓越した大坂の才能を開花させたことは間違いない。母環(たまき)さんが、日本の文化や料理を娘に伝え続けなければ、大坂自身が「私のメンタリティーは日本人に近い」と認識することもなかっただろう。ただ、吉川氏がいなければ、大坂が「日本人」として4大大会の優勝杯を掲げることがなかったのも事実だろう。

◆吉川真司(よしかわ・まさし)1978年(昭53)1月31日、京都市生まれ。父の影響で12歳でテニスを始める。亜大時代の00年全日本学生シングルスでベスト4。卒業後、実業団でプレー。07年に引退しコーチに転向し、12年から日本テニス協会の女子ナショナルコーチに就任した。協会公認S級エリートコーチ。
via https://www.nikkansports.com/sports/news/201901270000017.html

・記念撮影で正座‥大坂なおみ選手の謙虚な姿勢が素敵すぎる!
 https://matome.naver.jp/odai/2154852287578358001

・強盗襲撃からクビトバ準V。復活の世界2位に泣けてくる
 https://matome.naver.jp/odai/2154855437687037901
関連記事
ブログパーツ アクセスランキング

| スポーツ | 05:51 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

≫ EDIT

第160回芥川賞は上田岳弘の『ニムロッド』と町屋良平の『1R1分34秒』に、直木賞は真藤順丈の『宝島』に決定 はてなブックマーク - 第160回芥川賞は上田岳弘の『ニムロッド』と町屋良平の『1R1分34秒』に、直木賞は真藤順丈の『宝島』に決定


※右から芥川賞に選ばれた「ニムロッド」の上田岳弘さんと「1R1分34秒」の町屋良平さん、直木賞に選ばれた「宝島」の真藤順丈さん
 第160回芥川・直木賞(日本文学振興会主催)の選考会が16日夕、東京・築地の新喜楽で開かれ、芥川賞に上田岳弘さん(39)の「ニムロッド」(群像12月号)と町屋良平さん(35)の「1R1分34秒」(新潮11月号)、直木賞には真藤順丈さん(41)の「宝島」(講談社)が選ばれた。
 上田さんは候補3度目での受賞。IT企業を舞台に、ネット空間で仮想通貨の「採掘」を命じられた男性社員と、その恋人や小説家志望だった同僚との間に展開する内面の絡み合いを精緻な文体でつづった。選考委員の奥泉光さんは「人類的な世界観と日常的な出来事をつなげる手際の良さ」を高く評価した。
 町屋さんは前回に続く候補2度目での受賞。アルバイトで食いつなぎながらプロの道を歩むボクサーの自意識をたどる。負けが込む焦燥感や肉体的苦痛の描写を織り交ぜ、変わり者のトレーナーとの出会いが生む主人公の心の変化を描写。奥泉さんは「この作家にならだまされてもいいと思えるほどの言葉の力」をたたえた。
 初候補で受賞の真藤さんが7年かけて書き上げた「宝島」は第2次世界大戦後の沖縄が舞台。米軍の物資を略奪する伝説のヒーローの面影を追う少年少女3人の成長を描く。現実の事件も織り交ぜ、激動の沖縄史を壮大な叙事詩に仕立てた。
 選考委員の林真理子さんは「平成最後の直木賞にふさわしい作品。東京生まれ東京育ちの作者が、返還までの沖縄の歴史を突き抜けた明るさでポップに描いた」と絶賛した。[2019.01.16]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019011601104&g=soc

◆第160回芥川賞受賞作品】
■『ニムロッド』(上田岳弘/講談社)

【あらすじ】
仮想通貨をネット空間で「採掘」する僕・中本哲史。 中絶と離婚のトラウマを抱えた外資系証券会社勤務の恋人・田久保紀子。小説家への夢に挫折した同僚・ニムロッドこと荷室仁。やがて僕たちは、個であることをやめ、全能になって世界に溶ける。「すべては取り換え可能であった」という答えを残して――。新時代の仮想通貨小説!

【プロフィール】
上田岳弘●1979年、兵庫県生まれ。早稲田大学法学部卒業。2013年、「太陽」で第45回新潮新人賞受賞。2015年、「私の恋人」で第28回三島由紀夫賞受賞。2016年、「GRANTA」誌のBest of Young Japanese Novelistsに選出。2018年、『塔と重力』で平成29年度芸術選奨新人賞を受賞。著書に『太陽・惑星』『私の恋人』『異郷の友人』『塔と重力』(以上、新潮社)がある。

■『1R1分34秒』(町屋良平/新潮社)

【あらすじ】
なんでおまえはボクシングやってんの? 青春小説の新鋭が放つ渾身の一撃。デビュー戦を初回KOで飾ってから三敗一分。当たったかもしれないパンチ、これをしておけば勝てたかもしれない練習。考えすぎてばかりいる21歳プロボクサーのぼくは自分の弱さに、その人生に厭きていた。長年のトレーナーにも見捨てられ、変わり者のウメキチとの練習の日々が、ぼくを、その心身を、世界を変えていく――。
【プロフィール】
町屋良平●1983年生まれ。埼玉県立越ヶ谷高校卒。2016年「青が破れる」で第53回文藝賞を受賞。同年、同作を収録した『青が破れる』でデビュー。


◆【第160回直木賞受賞作品】
■『宝島』(真藤順丈/講談社)

【あらすじ】
英雄を失った島に、新たな魂が立ち上がる。固い絆で結ばれた三人の幼馴染み、グスク、レイ、ヤマコ。生きるとは走ること、抗うこと、そして想い続けることだった。少年少女は警官になり、教師になり、テロリストになり―同じ夢に向かった。超弩級の才能が放つ、青春と革命の一大叙事詩。
【プロフィール】
真藤順丈●1977年生まれ。2008年「地図男」で第3回ダ・ヴィンチ文学賞大賞を受賞してデビュー。同年「庵堂三兄弟の聖職」で第15回日本ホラー小説大賞など、新人賞4賞をそれぞれ別の作品で受賞する。18年『宝島』で第9回山田風太郎賞を受賞。

■第160回芥川龍之介賞の全候補作はこの6作品
・上田岳弘『ニムロッド』(群像2月号)
・鴻池留衣『ジャップ・ン・ロール・ヒーロー』(新潮9月号)
・砂川文次『戦場のレビヤタン』(文學界12月号)
・高山羽根子『居た場所』(文藝冬季号)
・古市憲寿『平成くん、さようなら』(文學界9月号)
・町屋良平『1R(いちらうんど)1分34秒』(新潮11月号)

■第160回直木三十五賞の全候補作はこの5作品
・今村翔吾『童(わらべ)の神』(角川春樹事務所)
・垣根涼介『信長の原理』(KADOKAWA)
・真藤順丈『宝島』(講談社)
・深緑野分『ベルリンは晴れているか』(筑摩書房)
・森見登美彦『熱帯』(文藝春秋)

関連記事
[タグ] 図書 芥川賞 直木賞
ブログパーツ アクセスランキング

| 図書 | 05:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT