FC2ブログ

気になりィーモ!!

気になった記事や事柄を 自分のノート代わりとする場に していけたらと思ってます。

≫ EDIT

川端康成の貴重なカラーフィルム映像が発見 はてなブックマーク - 川端康成の貴重なカラーフィルム映像が発見

珍しい!なんと川端康成のカラーフィルム映像が発見されました!着物が似合う! | ガジェット通信


「雪国」や「伊豆の踊子」などの作品で知られる作家、川端康成のカラーのフィルム映像が見つかりました。
フィルムでは、互いに尊敬し合っていた詩人のサトウハチローが川端の文学についての詩を朗読していて、関係者は「生前、唯一出演したテレビコマーシャルの未放送の部分などではないか」と話しています。
映像が見つかったのは東京に本社がある映像制作会社の倉庫で、カラーの35ミリフィルムに5分ほどの映像が記録されていました。
映像には作家、川端康成が神奈川県鎌倉市の自宅の庭で盆栽を眺めたり、書斎で執筆したりする様子が収められています。
また、「リンゴの唄」などで知られる詩人、サトウハチローが川端の文学について書いた詩を「ほかの人が持っていないすがすがしい空気で出来ている」などと読むナレーションが収録されています。
川端康成に関する資料を保管している「川端康成記念会」によりますと、川端のカラーの映像は珍しく、「昭和43年にノーベル文学賞を受賞した3年後に、生前、唯一出演した大手電機メーカーの空調設備のコマーシャルの元となった映像を、未放送の部分も含めて編集し直したのではないか」と話しています。
サトウハチローの遺族によりますと、もともと、コマーシャルに出演するはずだったサトウが体調を崩し、出演できなくなったため古くからの友人だった川端が代わりに出演したということで、最晩年に至るまで深く尊敬し合う仲だったことがうかがえます。
川端康成の娘の夫で、川端康成記念会の理事長を務める東京大学名誉教授の川端香男里さんは「二人の深い交流が分かる映像で、改めて見つかって大変うれしい」と話していました。
今回見つかった映像は、来月20日から松江市の島根県立美術館で開かれる「巨匠の眼川端康成と東山魁夷」展で上映されることになりました。

■最晩年まで続いた2人の“心の交流”
川端康成は明治32年生まれ、サトウハチローはその4年後の明治36年に生まれました。
大正時代から川端は純文学作家として、サトウは詩人、童謡作家として活動を始めましたが、2人を結びつけたのは東京・浅草で若者を中心に人気を集めていた「浅草オペラ」でした。
サトウハチローは劇の原作を書くなど活躍し、川端は当時の浅草を舞台にした小説、「浅草紅団」を執筆しています。
その後、川端は小説「雪国」「千羽鶴」などを発表、サトウは戦後のヒット曲「リンゴの唄」、童謡「ちいさい秋みつけた」などを発表し、2人はそれぞれの分野で地位を確立していきますが、当時、作家や文化人が多く住んでいた神奈川県鎌倉市で川端らが作った野球チームのキャッチャーをサトウハチローが請われて務めるなど、分野の枠を超えて親交は続きました。
サトウハチローの次男で、岩手県北上市にあるサトウハチロー記念館の館長、佐藤四郎さん(77)は、「サトウは川端を純文学の作家として深く尊敬し、川端の名前を呼ぶ際は『川端先生と呼べ』と家族にも命じ、うっかり『川端さん』と呼ぶと厳しく怒られた」と振り返ります。
また川端も、サトウの童謡や詩を高く評価し、「国宝級の童謡作家」と評していたということです。
サトウハチローは心臓に持病があり、昭和46年、体調を崩してそれまで出演していた大手電機メーカーのコマーシャルに出演できなくなりました。
佐藤四郎さんによりますと、広告代理店に勤めていた佐藤さんの義理の兄のもとに「川端康成が直接電話をしてきて、サトウハチローの代わりにコマーシャルに出ると申し出があった」と連絡があり、それを聞いたサトウハチローは、療養中ながら川端の住む鎌倉まで礼を言いに行ったということです。
川端は撮影された翌年の昭和47年に亡くなり、サトウも昭和48年に亡くなりました。
純文学と童謡という異なる分野ながら、共に生きることの美しさやはかなさ、そして切なさを描いた2人は、最晩年まで深い心の交流がありました。
via http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150223/k10015672141000.html

・島根県立美術館:http://www1.pref.shimane.lg.jp/contents/sam/

関連記事
スポンサーサイト
ブログパーツ アクセスランキング

| 動画 | 23:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

| PAGE-SELECT |