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ベルルスコーニ体制の”ミラン究極ベストイレブン” はてなブックマーク - ベルルスコーニ体制の”ミラン究極ベストイレブン”

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先日中国の投資グループへの売却が決定し、ミランのシルヴィオ・ベルルスコーニ体制は幕を閉じた。ベルルスコーニ氏がいた31年間でミランは数々の名選手を育成・獲得し、トロフィーも何度も掲げた。ミランにとって特別な時間だったのは間違いない。
そこで英『Squawka』は、「ベルルスコーニ体制のミラン、究極のベストイレブン」を選出。同氏が好んだ[4-3-1-2]のシステムに当てはめ、豪華すぎる選手とともに黄金時代を振り返っている。
GK:セバスティアーノ・ロッシ
DF:アレッサンドロ・コスタクルタ、フランコ・バレージ、アレッサンドロ・ネスタ、パオロ・マルディーニ
MF:フランク・ライカールト、アンドレア・ピルロ、ルート・フリット、カカー
FW:アンドリー・シェフチェンコ、マルコ・ファン・バステン
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これが同メディアの選んだ究極のイレブンだ。伝説のオランダトリオ、イタリア人選手で構成された堅すぎる最終ライン、近年でチームを最も成功に導いたカカーなどレジェンドがズラリと並んでいる。
もちろんここに入りきれなかった名選手も数多く存在する。同メディアは特別賞としてカフー、ヤープ・スタム、カルロ・アンチェロッティ、ロベルト・ドナドーニ、デメトリオ・アルベルティーニ、ズラタン・イブラヒモビッチ、ジョージ・ウェアなどを選んでいるが、これらの選手たちがイレブンに入れないところにベルルスコーニ体制の凄さがある。世界最強クラスのチームを2、3は作れるはずだ。
via http://www.theworldmagazine.jp/20170417/01world/italy/125997

・The ultimate AC Milan XI from the Silvio Berlusconi era
  http://www.squawka.com/news/the-ultimate-ac-milan-xi-from-the-silvio-berlusconi-era/933742

◆ベルルスコーニ・ミランの31年
「無名のサッキとカペッロ、オランダトリオで世界を席巻」
■「素人の選択」と言われたサッキがサッカーに革命を起こす。
 1986年2月、二度のセリエB降格を経て破産の危機にあったミランの経営権を買い取ったシルビオ・ベルルスコーニが最初にやったのは、ヘリコプターでミラネッロに乗りつけて、監督、選手、そしてスタッフの全員と食事を共にし、彼らに『カルティエ』の銀杯をプレゼントすることだった。
「この銀杯で皆さんとともに勝利の美酒を味わう日が遠からず来ることをお約束しよう」
 当時、不動産やマスコミなどの分野で飛ぶ鳥を落とす勢いだった50歳の実業家は、そこからの数年間で、それまでの常識を覆す大胆かつ斬新な試みを繰り返して、保守的なカルチョの世界を席巻。あらゆる意味で新しい時代をイタリア、そしてヨーロッパのサッカー界にもたらすことになる。
 当時の相場を大幅に上回る資金を投じて、ルート・フリット、マルコ・ファン・バステン、フランク・ライカールトの「オランダトリオ」をはじめとするトッププレーヤーを次々と買い集めると、当時はセリエBのパルマで指揮を執っていた無名の若手監督アリーゴ・サッキを抜擢してそのチームを委ねる。セリエAでの実績どころかプロ選手としての経験すら持たない指揮官の起用を見たマスコミは、ベルルスコーニを素人扱いして批判した。

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 しかしサッキは、ゾーンディフェンスの4-4-2によるプレッシングサッカーという、当時としては最先端の戦術をチームに根付かせ、就任1年目の1987-88シーズンに「ディエゴ・マラドーナのナポリ」を終盤戦の直接対決で下して逆転でスクデットを勝ち取る。その翌年にはチャンピオンズ・カップ(現CL)でも優勝し、さらに89年12月のトヨタカップを制して、わずか2年半で世界の頂点まで駆け上がった。

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 サッキがミランで実現した4-4-2のプレッシングサッカーは、1970年代初頭の「ヨハン・クライフのアヤックス&オランダ代表」によるトータルフットボール以来、20年ぶりにサッカーの世界を揺るがせた戦術革命だった。

■監督経験がほぼ皆無だったカペッロの博打も当たる。
 サッキ・ミランは、縦横両方向に圧縮されたコンパクトな3ラインの布陣が一体となって、前線からアグレッシブなプレッシングを敢行し、敵からボールをプレーするための時間とスペースを奪い取ってしまう。苦し紛れのロングパスは、名手フランコ・バレージが統率する一糸乱れぬオフサイドトラップの格好の餌食になるだけだった。
 奪ったボールは素早くサイドに展開して、パス3本でフィニッシュまで持ち込んでしまう。相手はまったくサッカーをさせてもらえないまま、ミランの圧力に押し潰されるだけだった。
 スローなリズムの中でジーコ、マラドーナ、ミシェル・プラティニといったアーティストたちが華麗なテクニックや創造性を競っていた旧来のサッカーは、それからほんの数年の間に、「サッキのミラン」が先駆けとなったハイテンポな展開の中でアスリートたちがスピードと運動量を競うモダンフットボールによって、ほぼ完全に駆逐されることになる。
 1991年、サッキがイタリア代表監督に転身してミランを去った時、ベルルスコーニが後釜に選んだのは、それまで監督経験がほとんどなかったファビオ・カペッロだった。
 カペッロは1980年にミランで現役を引退した後、育成部門コーチを経て、ベルルスコーニがミラン買収後に設立した総合スポーツクラブ『ポリスポルティーバ・メディオラヌム』(野球、ラグビー、バスケットボール、バレーボールなどのセミプロチームを持っていた)の総責任者を務めており、トップチームを率いた経験は、サッキ就任の前年(86-87)、シーズン終盤にニリス・リードホルム監督が解任された後を受けた、たった5試合だけしかなかったのだ。
 だがカペッロは、就任1年目にセリエA無敗優勝を達成すると、続く4シーズンで3回のスクデット、そして93-94シーズンには「ドリームチーム」(クライフ率いるバルセロナ)を決勝で4-0と完膚無きまでに叩きのめしてCL優勝を勝ち取るなど、「リ・インヴィンチービリ」(無敵軍団)と呼ばれる一時代を築くことになる。

■ベルルスコーニはミラン人気に支えられ一気に首相の座へ。
 カペッロの戦術は、極端なまでにラインを押し上げアグレッシブなプレッシングを続けるサッキのそれと比べると、より保守的で中庸、言い方を変えれば得点を挙げるよりも失点しないことに重きを置くものだった。それを象徴するのが、就任1年目の無敗優勝、そして93-94シーズンの34試合でわずか36得点・15失点というミニマムな成績で勝ち取ったスクデットである。
 右からマウロ・タッソッティ、アレッサンドロ・コスタクルタ、バレージ、パオロ・マルディーニという鉄壁の4バックを、鋼鉄のような肉体を持つ守備的MFマルセロ・デサイーがプロテクトする守備ブロックは、「水も漏らさぬ」という形容そのものの堅固さを誇った。
 攻撃を担ったのは、92-93シーズンまでがオランダトリオ、93-94シーズン以降はデヤン・サビチェビッチ、ズボニミール・ボバン、ジョージ・ウェアといった外国人スターたちだった。
 ほんの数年間でミランを世界最強のクラブに仕立て上げ、圧倒的な人気と名声を築いたベルルスコーニは、1994年にそれを利用して政界進出を図った。『フォルツァ・イタリア』というサポーターグループもどきの政党を立ち上げると、自らのTV局をフルに活用して「新製品の市場プロモーション戦略と同じ」と言われるほどの選挙キャンペーンでマスコミを埋め尽くして庶民の人気を勝ち取り、あっという間に首相の座に登り詰めてしまった。
 それまでは、ミランの経営にあらゆる面で首を突っ込み指図してきたベルルスコーニだが、政界に進出して超多忙となった後は、クラブ買収当時からの片腕であるアドリアーノ・ガッリアーニ副会長に経営の実権を委ねることになる。
 つまり、会長/名誉会長を務めた31年間のうち、全権を握って陣頭指揮を執ったのは実のところ最初の8年間のみ。その後はオーナー会長として重要な決断を下しながらも、日常のクラブ運営に関してはガッリアーニに任せ、自らはご意見番として時折口を出す立場に留まってきた。

「アンチェロッティ時代の栄光、そして斜陽と終焉へ」
■ザッケローニも短命に終わりアンチェロッティを招聘。
 ガッリアーニに実権が移った当初のミランは、決して順風満帆とは言えなかった。95-96シーズンに自身4度目のスクデットを勝ち取ったカペッロが勇退すると、続く2シーズンは10位、11位という惨憺たる成績に終わる。ガッリアーニが自ら選んだウルグアイ人監督のオスカール・タバレスは、わずか半年で解任され、その後に呼び戻したサッキとカペッロも、もはや神通力を失っていた。
 この迷走に終止符を打ち、「ガッリアーニは無能だ。やはりベルルスコーニがいないとミランはダメだ」という世評をはね返したのは、アルベルト・ザッケローニだった。ウディネーゼから抜擢された就任1年目の98-99シーズンにオリバー・ビアホフ、ボバン、レオナルドといった選手の活躍によって、誰も期待しなかったスクデットを勝ち取ったのだ。
 しかしそのザッケローニも続く翌年は3位止まり、3年目の00-01シーズンは中位に低迷して途中解任の憂き目に遭う。すでに「隠居」の身だったチェーザレ・マルディーニを引っ張り出して6位でシーズンを乗り切ったガッリアーニは、翌01-02シーズンの監督にフィオレンティーナを率いて魅力的な攻撃サッカーを見せていたトルコ人のファティ・テリムを指名した。
 しかし、この人選は完全に失敗だった。プレシーズンキャンプとシーズン序盤の戦いぶりから、それを早々に悟ったガッリアーニは、わずか9試合でテリムを見限り、ユベントスを解任されて浪人中だったカルロ・アンチェロッティを招聘する。サッキ時代にセントラルMFとしてOBが、パルマからもオファーを受けて交渉を進めていたところを、サイン直前で割り込んで「強奪」した。
 途中就任したこの01-02シーズンは、CL出場権圏内の4位を何とか確保したアンチェロッティ。続く02-03シーズンは、前年に獲得したマヌエル・ルイ・コスタに、リバウド、クラレンス・セードルフ、アンドレア・ピルロという3人を新たに加えた計4人もの「10番」が顔を揃えたチームを機能させるという、困難な宿題に取り組むことを強いられる。

■ピルロを司令塔に抜擢して一時代を築く。
 だが、この難題を「ピルロを中盤の底にコンバートする」というコロンブスの卵的な発想によって解決したことが、その後の6年間にわたる黄金時代を築く礎になったのだから、サッカーというのは分からないものである。
 元々はトレクアルティスタ(トップ下)で、卓越した戦術眼と高い技術、そして長短の精確なパスワークを備えたピルロをレジスタ(司令塔)としてチームのヘソに据えた4-3-2-1の「クリスマスツリー・システム」を採用し、優れたテクニックを備えた攻撃的なプレーヤーを数多くピッチに送ったことで、ミランはそれまでのイタリア・サッカーとは一線を画す、ボールポゼッションを重視したテクニカルな攻撃サッカーを確立した。
 その一方では、攻守のバランスを重視して組織的なディフェンスをないがしろにしないイタリア的なメンタリティーも保っており、戦術的な完成度の高さは他の追随を許さないレベルにあった。
 この新たなスタイルを引っ提げてヨーロッパの舞台に復活した02-03シーズンにミランは、準決勝でインテル、決勝ではユベントスを破って、8年ぶり6回目の欧州制覇を成し遂げた。

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 その後も、カカ、アンドリー・シェフチェンコ、フィリッポ・インザーギ、エルナン・クレスポといったアタッカー陣、アレッサンドロ・ネスタ、マルディーニ、カフーに代表されるDF陣の活躍により、06-07まで6シーズンに渡ってCLベスト8以上、決勝進出3回、優勝2回という素晴らしい実績を残し、2000年代の欧州サッカーを代表するチームとして歴史に名を残すことになる。
 04-05シーズンの決勝で前半を3-0で折り返しながら、後半の6分間に3失点を喫して最後はPK戦で敗れた「イスタンブールの悲劇」、そして2年後の06-07シーズン決勝で同じリバプールにリベンジを果たした「アテネの復讐」など、記憶に残る試合は少なくない。

■ベルルスコーニ家の業績不振が原因で…。
 しかし、そんなミランにも斜陽の時代がやってくる。ベルルスコーニ家の持ち株会社『フィニンベスト』のトップを務めるベルルスコーニの長女マリーナが、民放TV局『メディアセット』、大手出版社『モンダドーリ』などグループ企業の業績不振による財政悪化を理由に、それまで年間数千万ユーロ単位で行ってきたミランへの赤字補填をストップすると宣言したのだ。
 それを認めざるを得ない立場に立たされたベルルスコーニは2009年夏、それまで何度も繰り返してきた「ミランは家族のようなクラブ。カネのために主力選手を手放すことは絶対にありえない」というポリシーを翻して、カカをレアル・マドリーに6800万ユーロ(約81億6000万円)で売却する決断を下す。その売却益はすべて、同シーズンの赤字の穴埋めに回された。
 それから現在までの7年間、独立採算による緊縮財政を強いられたミランは、それまでのように資金力に任せて即戦力のスター選手を獲得するという補強戦略から一転、他のメガクラブで主力を外れたベテランを移籍金ゼロ、あるいはレンタルで獲得するなど、半ば行き当たりばったりのやり繰りによって戦力レベルを維持することを強いられてきた。
 それでも10-11シーズンには、マッシミリアーノ・アッレグリ監督の下、ズラタン・イブラヒモビッチ、チアゴ・シウバ、ロビ―ニョ、ケビン=プリンス・ボアテングなどを擁して、今のところ最後となるスクデット獲得に成功している。
 だが、続く11-12シーズンを2位で終えた直後の2012年夏には、ベルルスコーニが公約を反故にする形でイブラヒモビッチとT・シウバを再び赤字補填のためにパリSGへダブル売却。これがダメ押しとなる形で、本格的な低迷への道を歩み始めることになる。

■29個のタイトルと延べ7人のバロンドール受賞者を。
 続く12-13こそCL圏内の3位に入ったものの、翌13-14からは8位、10位、7位と3シーズン連続でCLどころかELの出場権さえも得られず、ヨーロッパの舞台から遠ざかった。
 80歳が近くなったベルルスコーニも老化による判断力の低下は避けられず、13-14シーズン半ばのアッレグリ解任&監督経験なしのセードルフ招聘にはじまり、トップチームでの指導経験を持たないインザーギの抜擢(14-15)、ガッリアーニ主導で招聘したシニシャ・ミハイロビッチの解任、やはり下部組織からクリスティアン・ブロッキを抜擢した終盤戦に結果が残せずEL出場権を逃す(15-16)といった失態を続けることになった。
 ベルルスコーニが「もはやいちファミリーの経済力でミランのようなクラブの競争力を維持することは不可能。今やサッカーは世界的なインダストリーになった」という理由で、クラブの売却に動き出したのが2015年初頭のことだった。
 そこから、最初はタイ人のブローカーで「ミスターB」ことビー・タエチャウボル、続いてイタリア系アメリカ人ブローカーのサルバトーレ・ガラティオートが代表を務める中国の投資家グループ、そして最後はそのグループから仲間割れの形で分離したヨンホン・リーと、交渉相手が二転、三転した末、この4月13日にやっとクラブ株式売却の成立にこぎ着けた。

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 31年間の「治世」を通して勝ち取ったタイトルは、最後のトロフィーとなった昨年末のイタリア・スーパーカップを含めて29に上る。
・インターコンチネンタルカップ:2回(1989、1990)
・クラブワールドカップ:1回(2007)
・チャンピオンズ・カップ/チャンピオンズ・リーグ:5回(1988-89、89-90、93-94, 2002-03、06-07)
・セリエA:8回(1987-88、91-92、92-93、 93-94、95-96、98-99、2003-04、10-11)
・コッパ・イタリア:1回(2002-03)
・イタリア・スーパーカップ:7回(1989、1992、1993、1994、2004、2011、2016)
・UEFAスーパーカップ:5回(1989、90、 1994、2003、2007)

 また、この間にミランからは延べ7人のバロンドール受賞者が生まれている。
・1987:ルート・フリット
・1988、1989、1992:マルコ・ファン・バステン
・1995:ジョージ・ウェア
・2003:アンドリー・シェフチェンコ
・2007:カカ
via http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=24728
http://www.soccerdigestweb.com/news/detail/id=24734

・ミランの帝王ベルルスコーニが去る。偏狭で、強権で、魅力的な男だった。
 http://number.bunshun.jp/articles/-/827880
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