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“日本サッカーの父”クラマー氏が死去…2度の欧州制覇など輝かしい実績 享年90歳 はてなブックマーク - “日本サッカーの父”クラマー氏が死去…2度の欧州制覇など輝かしい実績 享年90歳

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 日本代表のコーチを務めたドイツ人のデットマール・クラマー氏が、17日にドイツ、ライト・ イム・ヴィンクルの自宅で亡くなった。90歳だった。同氏が監督を務めたバイエルンが公式HPでコメントを発表している。
 バイエルンのカール・ハインツ・ルンメニゲCEO(最高経営責任者)は「クラマー氏は(監督を務めた後も)長年に渡り、無給でクラブに携わってくれた。私にとって彼は父親のようであり、友人でもあった。バイエルンの元監督、特別な人物としてご冥福をお祈りする」とコメントしている。
 クラマー氏は、ヴィクトリア・ドルトムントで選手としてのキャリアをスタートさせると、ゲルマニア・ヴィースバーデンなどに在籍。16歳の時に元ドイツ代表監督のゼップ・ヘルベルガー氏から指導者としての指南を受けると、パーダーボルンなどでは選手兼コーチとしてもプレーした。
 現役引退後の1960年に日本代表のコーチとして招へいされると、基礎的な部分から熱心に指導を行い、チームの強化に成功。4年後の東京オリンピックではベスト8に入り、“日本サッカーの父”として尊敬集めた。
 その後はエジプト代表、アメリカ代表などで監督としての経験を積み、1975年に就任したバイエルンではUEFAチャンピオンズカップ(現・UEFAチャンピオンズリーグ)で2連覇を達成。ドイツ国内外でも名声を手にし、2005年に第1回日本サッカー殿堂入り。2011年にはドイツサッカー連盟(DFB)からDFB名誉賞を受けていた。
via http://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20150918/351389.html

 ブンデスリーガのバイエルン・ミュンヘンは18日、デットマール・クラマー氏が90歳で他界したことを発表した。享年90歳。
 クラマー氏はバイエルンを率いて1975年、76年に渡ってヨーロッパチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)の2連覇を達成。当時のメンバーには、フランツ・ベッケンバウアー(バイエルン名誉会長)、カール=ハインツ・ルンメニゲ(現バイエルンCEO)、ゲルト・ミュラーらが揃っていた。
 クラマー氏は日本サッカー界の発展に大きく貢献した人物でもある。日本サッカー協会(JFA)は1960年8月にクラマー氏を日本代表のコーチとして招聘。1964年の東京五輪ではアルゼンチン代表を破り、ベスト8入りを果たした。
 また、日本初の全国リーグである日本サッカーリーグ(JSL)もクラマー氏の提言で1965年に発足。これがのちにJリーグ発足へとつながる。
 クラマー氏の指導により、日本代表は1968年のメキシコ五輪で銅メダルを獲得。そのためクラマー氏は“日本サッカーの父”と言われる存在である。
 ルンメニゲ氏は「私にとって、彼は父親であり友人でもあった。私がフットボールで大きな成功を収めることができたのは、彼のおかげである。バイエルンは素晴らしい監督であり、素晴らしい人間に哀悼の意を表する」と述べている。
via http://www.footballchannel.jp/2015/09/18/post108963/

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◇デットマール・クラマー 「日本サッカーの父」■1968メキシコ五輪銅メダル


・日本サッカーの父デットマール・クラマー氏を惜しむ
 http://qoly.jp/2015/09/19/rip-dettmar-cramer

・90歳のサッカーライター賀川氏、“トゥルーフレンド”の故クラマー氏を偲ぶ
 http://www.soccer-king.jp/news/japan/national/20150925/353610.html

・デットマール・クラマー:Wikipedia

・釜本邦茂氏 五輪得点王に育ててくれたサッカー界の父を語る
 どんな大物だろうと天才だろうと、人生の中では思い悩み苦しむことがあった。そんな時に光を照らし道を示してくれた恩師の思い出は、今も色鮮やかに心に刻まれている。サッカー解説者の釜本邦茂氏(71)が、そんな恩師へ感謝の言葉を綴る。
 私にとっての恩師は1960年にサッカー日本代表強化のために来日した、デットマール・クラマーさんをおいて他にない。最初の出会いは私が山城高(京都)の2年生の時だ。クラマーさんが京都代表の選抜合宿の指導に来られたのだが、その時のデモンストレーションの相手役に選ばれたのが私だった。
 当時、世界最高峰だったドイツサッカーの技術を自らが手本になって教えてくれて、人間教育にまで言及する話に感動したのを覚えている。本格的に指導を受けるようになったのは、早大2年で東京五輪代表に選ばれた時だ。この時、最初にいわれた言葉は今でも忘れない。
「遅い! このままでは北海道の熊で終わるぞ」
 私はフォワードでありながら、ボールを受けてからゴールへ振り向くスピードが遅かった。南米の選手は『1』、欧州の選手でも『1、2』でゴールに振り向くが、私は『1、2の3』とさらにワンテンポかかった。体の大きさと相まって、お前はまるで北海道の熊だというわけだ。
 まずはこのスピードを上げることから始めた。海外のストライカーの映像や資料を見ながら、自分自身で考え、反復練習を繰り返して技術をモノにしていった。
 結果、マークから離れて半身でパスを受けることで、スルッとゴール方向に振り向けるようになり、得点能力が格段に上がった。
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 当時の日本サッカーは世界から著しく遅れていた。「とにかく走って点を入れろ」としか指導されておらず、全員がボールに集まる有様だ。
 クラマーさんはそれを抜本的に変え、パス回しなどサッカーのイロハから教えてくれた。口を酸っぱくしていわれたのは、「パスを出したらとにかく走れ」ということ。それも闇雲に走るのではなく、相手の動きを見てパスのもらえる場所に動けということだ。
 今では当然だが、そんな指導を受けたことがなかったので当時は新鮮だった。この指導があったからこそ、私はメキシコ五輪での得点王を取れ、チームは銅メダルという快挙を達成したのだと思っている。
 私はいま、クラマーさんから教わったことを3つの『B』として子供たちに伝えている。
 蹴る、止める、運ぶの動作“ボールコントロール(Ball Control)”、スピード、スタミナ、スピリッツの総合力“ボディバランス(Body Balance)”、柔軟に対応できる考え“頭脳(Brain)”。これがサッカーでは一番大切だ。
 これからもクラマーさんの志を未来のストライカーに伝えていくつもりだ。それが「日本サッカーの父」への恩返しになると思っている。
via http://www.news-postseven.com/archives/20151122_364356.html

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