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天皇陛下退位へ=平成最後の日-「象徴」に全身全霊の30年余 :「令和の平和祈る」=在位中最後のお言葉-皇居で退位礼正殿の儀 はてなブックマーク - 天皇陛下退位へ=平成最後の日-「象徴」に全身全霊の30年余 :「令和の平和祈る」=在位中最後のお言葉-皇居で退位礼正殿の儀






 天皇陛下の退位に伴う「退位礼正殿の儀」が30日夕、皇居・宮殿「松の間」で行われた。30年3カ月余り象徴として歩んだ陛下は「新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と、在位中最後のお言葉を述べられた。
 江戸時代後期の光格天皇以来、202年ぶりの退位に伴う憲政史上初の儀式で、国民に広く退位を知らせるため憲法が定める天皇の国事行為として実施。皇后さまや皇太子ご夫妻ら成年皇族15人全員に加え、閣僚や衆参正副議長、最高裁長官、国会議員、都道府県知事や市町村長の代表ら294人が参列した。
 午後5時、モーニング姿の天皇陛下が皇后さまと共に松の間に入室した後、侍従が皇位の証しとされる剣と璽(じ)=勾玉(まがたま)=、天皇の印の御璽、国の印の国璽を「案」と呼ばれる台の上に置いた。
 安倍晋三首相が退位特例法に基づき、30日限りでの陛下の退位を宣言。即位以来、国民と苦楽を共にした陛下への謝意を表した。陛下は「天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」と述べ、国民への感謝を示した。
 両陛下は剣と璽をささげ持った侍従と共に退出し、儀式は10分余りで終わった。
 両陛下は引き続き、皇族や側近、宮内庁や皇宮警察の職員らからあいさつを受けた後、お住まいの御所で平成最後の一日を終えた。
 これに先立ち、陛下は30日午前、皇居・宮中三殿で、「退位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」などの儀式に装束姿で臨んだ。
 剣と璽は退位礼正殿の儀の後、皇居・御所「剣璽の間」に再び戻され、1日午前0時の即位とともに新天皇が継承した。
 1日午前、新天皇が剣と璽などを受け継いだことを明らかにする「剣璽等承継の儀」と、即位後初めて国民代表に会う「即位後朝見の儀」が、いずれも国事行為として行われる。[2019.04.30]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019043000392&g=pol

◆天皇陛下 最後のおことば 全文
今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終えることになりました。
ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
明日(あす)から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。



・これが平成の終わりか…世界で中継された『退位礼正殿の儀』
  https://matome.naver.jp/odai/2155663081255461101

◆天皇陛下、その人間らしさ
■「最高慰問者」
1989年1月、昭和天皇の死去にともない、天皇陛下が即位した。



楽観的な時代だった。日本は金回りがよく、戦後の経済発展のピークを迎えていた。ソニーがコロンビア・ピクチャーズを買収する直前で、三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンターの買収を目前にしていた。世界中で、新たな「超大国」としての日本が話題になっていた。
しかし、天皇陛下が即位した翌年、災難が起こった。バブル経済がはじけ、東京の株式市場で株価が35%も暴落した。バブル崩壊から30年近くたつが、日本の株価と地価は1990年代の水準を下回ったままだ。
ほとんどの日本人にとって、平成(「平和の達成」を意味する)時代は経済停滞を意味してきた。加えて、悲劇に見舞われた時代でもあった。
1995年1月、マグニチュード6.9の大地震が神戸の街を襲った。ビルや道路の陸橋が倒壊し、火災が何日も続いて空が暗くなった。死者は6000人を超えた。
2011年には、さらに甚大な被害をもたらす地震が東北地方の沖合で発生した。マグニチュード9は、記録が残る中で、日本における4番目に大きな地震だった。この地震は巨大津波を引き起こし、東北沿岸の町々に壊滅的な被害を及ぼして、約1万6000人の命を奪った。
この2番目の災害の後、天皇陛下は過去の天皇がしなかったことをした。テレビカメラの前に座り、国民に向けて直接語りかけたのだ。
その2週間後、天皇・皇后両陛下は、東京から離れたスタジアムに設置された避難所を訪れた。
被災者たちは、床の上にわずかな所持品を積み重ねて生活していた。多くの人々は、福島第1原発の損壊によって出た放射線から避難していた。ほとんど全てを家の中に残したまま、いつ、果たして戻れるのかどうかさえわからずに、避難生活を送っていた。
天皇・皇后両陛下は床に膝をつけて家族を一組ずつ訪ね、静かに話しかけ、質問をし、いたわった。



保守層にとってはショッキングな、天皇陛下の姿だった。天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫にあるべき振る舞いではなかった。しかし、それを上回る数の日本人が、天皇陛下の人間味あふれる感情表現に深く感動した。
「陛下には道徳的な権威がある」とテンプル大学東京校のジェフ・キングストン教授は話す。「陛下はその権威を自ら獲得した。最高慰問者(consoler in chief)だ。陛下は父親(昭和天皇)には決してできなかった方法で民衆と関係を築いている」。
「陛下の避難所訪問は、政治家が写真撮影のために訪問して手を振って立ち去るのとは違う。人々の隣に座り、一緒にお茶を飲み、戦前には考えられなかった風に会話をする」

■父親の罪
天皇陛下は革命家には見えない。背は低く、控えめで語り口は柔和だ。発言と行動は戦後の憲法によって厳しく制限されている。イギリスのエリザベス女王と違い、陛下は日本の国家元首ではない。
その代わり、陛下の役割は「国民統合の象徴」とあいまいに定義されている。政治的な発言は認められていない。
こうした儀礼的で窮屈な役割の中でも、陛下は見事な成果を上げてきた。
まず思い出すべきは、陛下は日本がアジアで暴挙を繰り広げた1930-40年代の約15年間に日本を治めた、神格化された昭和天皇の息子だということだ。広島と長崎に原爆が投下され終戦を迎えた時、陛下は12歳だった。



教育を受けていた時期のどこかで、陛下は強固な平和主義者となり、それは現在も続いている。このことについては、アメリカ人家庭教師のエリザベス・グレイ・ヴァイニング氏の影響を指摘する人もいる。天皇陛下は昨年12月には「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べた。平成の間に1人の自衛隊員も、戦争や武力紛争で犠牲にならなかったことに、何より満足しているという。
陛下は日本のかつての敵や被害者とも心を通わせる努力をしてきた。北京、ジャカルタ、マニラからスペインまで、昭和天皇の下で生じた傷を癒すために尽力した。
「陛下は、日本の和解のための最高の特使という、天皇の新たな役割をつくり出し、地域内を何度も訪問し、償いと悔恨の意を示してきた。基本的に、過去の戦争の傷を癒そうとしてきた」とキングストン教授は指摘する。
1990年代には、それはあまり議論にはならなかった。国内の政治家は陛下を支え、1992年には歴史的な中国訪問を実現させた。だが、陛下が年齢を重ねるにつれ、日本の政治は急激に右傾化した。



かつての「謝罪外交」は、平和主義とともに支持されなくなった。安倍晋三首相は、日本の平和憲法を改めると宣言している。安倍氏や右派の人々は愛国的な教育を復活させ、彼らの言う戦後の「自虐史観」を消し去りたいと考えている。
目立たないように、しかし強い意志をもって、陛下は繰り返し歴史修正主義者たちに対する軽蔑心を表してきた。2015年、戦後70年の節目で、安倍氏は談話を発表した。
「安倍氏は基本的に、日本がいま享受している平和と繁栄は、300万人の戦死者のおかげだと述べた」とキングストン教授は言う。
「翌日、陛下はそれを否定した。陛下は日本がいま享受している繁栄は、国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識によるものだと、お言葉で述べた」
テレビ中継を見ていた何百万人もの日本人にとって、それは疑いようのない批判だった。
東京で開かれた園遊会では、右派の東京都の教育委員会委員が、国歌を斉唱するときには全教員を起立させると陛下に誇らしげに伝えた。
陛下は静かに、だがきっぱりとこう言って、その委員を諭した。
「強制になるということではないことが望ましい」

■長い別れ
在位期間を通し、陛下は最も大切な伴侶で助言者の美智子皇后と一心同体だった。一般家庭の出身の皇后陛下にとって、時に宮中での暮らしは極めて大変だった。1993年には、皇后陛下は精神的疲労から倒れ、2カ月間、言葉が出なくなった。
皇后陛下は最近、天皇陛下の決意に対する畏敬の念を文章で表している。
「振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました」
しかし、ここしばらく、天皇陛下の健康状態は衰えつつある。がんを患い、心臓のバイパス手術も受けた。陛下に近い人は、陛下が健康悪化によって動けなくなり、公務を果たせなくなることを一段と心配していたと述べる。
2009年ごろから、陛下は皇太子さまへの皇位継承が認められるよう静かに世論に訴え始めた。これは決して簡単なことではない。
戦後制定された憲法では、天皇は「終身」その地位にあると明確にしている。そのため、政治家たちは陛下の願いを無視してきたと、原武史放送大学教授は説明する。
「9年間にわたって、政府は陛下のお気持ちにまったく同調しなかった。退位したいという陛下の希望を受け入れたら、天皇が重要な決定権限をもつことになってしまい、それは憲法違反だと考えたからだ」
これは、まさに日本独特の難問だ。原教授によると、焦燥感を募らせた陛下と宮内庁は、ある計画を編み出した。
「陛下と宮内庁はどんどん我慢できなくなっていった。そこで、宮内庁の職員がNHKに情報を流し、NHKが陛下の希望を報じた」
NHKにとってそれは大スクープとなり、こう着していた局面が打開された。1カ月後、陛下は再びテレビ放送されたビデオメッセージを通して国民に直接語りかけ、退位して皇位を皇太子さまに引き継ぎたい意向を示唆した。
世論調査の結果は、大多数の日本国民が陛下の意向を支持していることを示した。安倍首相と保守層は従うしかなかった。それから2年の年月を要したが、陛下はついに退位の日を迎えた。
5月1日、皇太子さまが新天皇に即位し、時代は「令和」に変わる。
via https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48101955


・美智子さまに憧れて――陛下を支え続けた60年を秘蔵写真とともに振り返る

 いよいよ今上天皇の退位の日が近づいてきた。新元号発表に続き、多数のタレントや文化人が出席した「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が開催され大きく報道されるなど、国全体の関心事となっているが、一つの時代が終わることの感慨をしみじみ味わっているかたもいることだろう。
 現在、書籍の世界でも皇室関連本は人気だが、よく見かけるのはいわゆる天皇制や皇室の謎に迫る本。そんな中に、静かに今上天皇の時代を振り返ることができる本があるのはうれしいもの。『皇室の歴史とともに、60年――あの日の美智子さま』(渡邉みどり:監修/主婦の友社)は、長らく陛下を支え続けた皇后・美智子さまを主人公に、90年の歴史を誇った婦人誌「主婦の友」が取材活動を通じて集めた秘蔵写真の数々を紹介しながら美しく振り返る贅沢な一冊だ。当時の記事もそのまま紹介され、人々が美智子さまに向けた「憧れ」を、平成の終わりにあらためて実感する
 昭和32年夏、軽井沢のテニスコートで時の皇太子さまに見初められた正田美智子さんという一人の女性は、昭和34年「世紀のご成婚」を経て皇太子妃・美智子さまに。ご成婚報道で白黒テレビが爆発的に普及したり、パレードには沿道に53万人がつめかけたり、民間から誕生したプリンセスは「ミッチーブーム」を巻き起こす。なにより人々が夢中になったのは、美智子さまの清楚な美しさと、聡明さだった。



 振り返ってみればお二人がご成婚された昭和34年は、終戦からまだ14年弱とはいえ将来を希望的に考えられるようになってきた高度経済成長の時代だ。その頃の女性たちにとって美智子さまは、豊かな新時代の象徴であり、まぶしいほどの「憧れ」だったのだろう。当時の「主婦の友」では、美智子さまが皇室に新しく導入したライフスタイルをしばしば記事にしている。これまでの慣例(しかも皇室という日本の最古の旧家の)を上手に自分らしいスタイルに変えられていく美智子さまの姿は、多くの女性たちに未来への夢を与えたに違いない。



 実は過去3回、「ベストドレッサー賞」を受賞されている美智子さまは、女性たちの羨望の的・ファッションアイコンでもあった。当時の庶民には縁遠かったオートクチュールも見事に着こなしてしまう美貌とセンスは、いま見ても惚れ惚れしてしまう。皇太子ご夫妻時代からあらゆる国をご訪問されてきたが、訪問先への配慮を忘れない堂々たる日本のプリンセスは、世界の要人を魅了した。
 皇室に入った民間人として、ご苦労は並大抵のものではなかったことだろう。だが常に笑顔で、国民と皇室を繋ぐという重責を担われてきた美智子さま。日本の国民がなぜ皇室を大事に思い、さらに次世代にもその思いをつないでいけるのか。その理由の一つに「美智子さまの存在」があったことは間違いない。本の中の凛とした美智子さまのお姿にときめきつつ、その存在の大きさを実感し、あらためて感謝の気持ちを覚えるのだ。
via https://ddnavi.com/review/534825/a/


・【解説】 「三種の神器」、皇室が持つ謎の宝物
 https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48089944

・【図解】天皇陛下の日常
 https://www.afpbb.com/articles/-/3219341

・平成最後の記念!「元号」にまつわる場所に人が殺到している件
  https://matome.naver.jp/odai/2155654528230022801

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天皇陛下在位30年記念式典:天皇陛下おことば 全文 はてなブックマーク - 天皇陛下在位30年記念式典:天皇陛下おことば 全文




在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。
即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。
平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。
世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。
島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。
天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。
しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。
天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。
これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。
災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の1つです。
今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。
数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。
心より深く感謝いたします。
平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。
ともどもに平(たひ)らけき代を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ
平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。
そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。
在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。[2019.02.24]

via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190224/k10011826401000.html


・飛んだおことば、皇后さまが気づく 涙声で感謝の8分半
 24日の在位30年の記念式典で、天皇陛下のおことばは8分半に及んだ。退位当日の4月30日、皇居・宮殿での「退位の礼」で最後のおことばが予定されるが、皇居外では今回が最後となる見通し。涙声で国民への感謝の思いを語った。
 おことばは象徴天皇の歩みを振り返る集大成とも言える内容だった。平成の30年間を「国民の平和を希求する強い意志」によって「近現代において初めて戦争を経験せぬ時代」と総括しつつ、決して平坦(へいたん)な時代ではなかった、とも述べた。震災などを念頭に「多くの予想せぬ困難に直面した時代」だったとし、「日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました」と振り返った。
 陛下は天皇の務めを人々の助けを得て行えたことを「幸せなこと」と振り返り、「この国の持つ民度のお陰でした」とも述べた。

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

 おことばの中で、天皇陛下は平成が始まって間もない時期に皇后さまが詠んだ歌を紹介した。当時、全国各地から「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」との「決意に満ちた言葉」が寄せられたと明かし、「私どもは今も大切に心にとどめています」と声を詰まらせながら語った。



 途中、天皇陛下が用意した原稿を読み間違えてしまう場面があった。天皇陛下は昨年5月にもベトナムの国家主席夫妻を歓迎した宮中晩餐(ばんさん)会で、おことばの原稿を1枚分飛ばしたことがあった。今回はかたわらにいた皇后さまがすぐに気付いて伝え、陛下は安堵(あんど)した様子で再び読み始めた。宮内庁関係者によると、皇后さまはおことばの作成を支え、内容を理解して式典に臨んでいたという。
 式典が終わり、天皇陛下は会場内を見渡しながら手を振った。そばには笑みをうかべる皇后さま。お二人に大きな拍手が送られた。
 式典には安倍晋三首相や衆参両院議長、外国大使ら約1100人が出席。安倍首相は式辞で「30年の長きにわたって、国民に常に寄り添ってこられた両陛下のお姿を、私たちは決して忘れることはありません」と述べた。福島県の内堀雅雄知事は国民代表として「明日に向けて歩みを進める勇気をいただきました」と東日本大震災での激励に感謝を伝えた。
via https://www.asahi.com/articles/ASM2L4SVKM2LUTIL00X.html

・天皇陛下「おことば」でハプニングも‥皇后さまのサポートに感動広がる
 https://matome.naver.jp/odai/2155099970078309101

◇「現代にふさわしい皇室を」=お言葉で振り返る在位30年
 天皇陛下は即位以来、毎年の誕生日や節目の記者会見などで、象徴の在り方や戦争、災害など、さまざまな事柄について考えを語られてきた。主なお言葉で在位30年を振り返った。

 「憲法に定められた天皇の在り方を念頭に置き、天皇の務めを果たしていきたい。国民の幸福を念じられた昭和天皇をはじめとする古くからの天皇のことに思いを致すとともに、現代にふさわしい皇室の在り方を求めていきたい」(1989年8月、即位後初の記者会見)

 「障害者や高齢者、災害を受けた人々、社会や人々のために尽くしている人々に心を寄せていくことは、私どもの大切な務め」(99年11月、即位10年の会見)

「先の大戦で大きな犠牲を払い、長い時を経て、念願してきた復帰を実現した沖縄の歴史を、人々に記憶され続けていくことを願っています」(2002年12月、69歳の誕生日前会見。沖縄復帰から30年で)

「結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます」(09年4月、結婚50年の会見)

「この20年、長い天皇の歴史に思いを致し、国民の上を思い、象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ、今日まで過ごしてきました」「心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということ」(09年11月、即位20年の会見)

「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います」(11年3月、東日本大震災後のビデオメッセージ)

「80年の道のりを振り返って、最も印象に残っているのは先の戦争のこと」「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるもの」(13年12月、80歳の誕生日前会見)

「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」(16年8月、退位の意向をにじませたビデオメッセージ)

「残された日々、象徴としての務めを果たしながら、次の時代への継承に向けた準備を、関係する人々と共に行っていきたい」(17年12月、84歳の誕生日前会見。退位日が決まり)

「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」(18年12月、85歳の誕生日前会見)。

 via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019022500183&g=soc


・「天皇陛下在位30年記念式典」で歌声披露した三浦大知に感動の嵐
  https://matome.naver.jp/odai/2155098937474257401



・式典で三浦大知さん熱唱 両陛下が合作した沖縄の思い出
 24日の天皇陛下在位30年記念式典では、沖縄県出身の歌手三浦大知さんが「歌声の響(ひびき)」を歌った。沖縄のハンセン病療養所との交流をきっかけに天皇陛下が詞を書き、皇后さまが作曲した思い出の曲だ。
 お二人は皇太子ご夫妻時代の1975年7月、初めて訪れた沖縄で名護市の「沖縄愛楽園」の入所者と交流した。ハンセン病への差別や偏見が残る時代、お二人が望んだ訪問だった。
 帰り際、入所者は感謝を伝えようと、沖縄の船出歌「だんじょかれよし」を涙ながらに歌った。当時の様子を天皇陛下が沖縄伝統の「琉歌(りゅうか)」(八・八・八・六の音数律をもつ定型詩)に詠み、皇后さまが曲をつけたのが「歌声の響」だ。両陛下の沖縄訪問は皇太子時代から11回に及ぶ。
 この日、三浦さんは千住明さんのピアノ、千住真理子さんのバイオリンに合わせ、情感豊かに歌った。
 また、ソプラノ歌手の鮫島有美子さんは皇后さま作曲の「おもひ子」を披露。皇太子妃時代、詩人で小説家の故・宮崎湖処子(こしょし)の詩をもとに作った曲で、幼い浩宮さま(皇太子さま)の子守歌として口ずさんだことがきっかけで生まれたものだった。
「歌声の響」 作詞天皇陛下、作曲皇后さま
だんじよかれよしの歌声の響(ダンジュカリユシヌウタグイヌフィビチ) 見送る笑顔目にど残る(ミウクルワレガウミニドゥヌクル)
(意味:(船出歌の)「だんじょかれよし」の歌声の響きと、それを歌って見送ってくれた人々の笑顔が今も懐かしく心に残っている)

だんじよかれよしの歌や湧上がたん(ダンジュカリユシヌウタヤワチャガタン) ゆうな咲きゆる島肝に残て(ユウナサチュルシマチムニヌクティ)
(意味:「だんじょかれよし」の歌が湧き上がった、あのユウナの咲く島が今も懐かしく心に残っている)

via https://www.asahi.com/articles/ASM2L4SVKM2LUTIL00Y.html


◇「心にしみ、実用的」美智子さまの5つのお言葉を読み解く
「美智子皇后の言葉ほど、奥深く、心にしみ、しかも実用的なメッセージは、聞いたことがない」。ノンフィクション作家の矢部宏治さんが、両陛下が国民とともに歩まれた60年を振り返り、折々に美智子さまが発せられ、時代をつくられてきた言葉を読み解く。
 天皇皇后両陛下が発せられる言葉がどのようにつくられているかは意外に知られていない。側近や宮内庁が代筆するという誤解も多いが、実は、ご自身の考えや意思が国民に伝わるよう、自ら丁寧に言葉を紡ぎ、推敲に推敲を重ねて仕上げられている。両陛下の言葉をまとめた『天皇メッセージ』(小学館)の著者である矢部宏治さんが、昨年12月23日の陛下の誕生日会見を読み解く。
「このおそらく在位中最後となる会見は、明仁天皇の万感の思いが隅々まで込められたもので、なかでもはっきりと5度、言葉を詰まらせられたことが印象的でした。そのうち2か所は美智子皇后について触れた一節でした。いかにおふたりが、ご苦労をともに分かち合い、乗り越えてこられたのかがわかりました。明仁天皇のお言葉はもとより、ご結婚以来60年、ともに大きな光と闇の時を体験されてきた皇后の言葉にも、今、耳を傾けるべきでしょう」
 以下では、矢部さんの協力のもと、美智子さまのこれまでの言葉のなかで、特に印象的な5つを並べた。それらは、時代を見事に切り取るとともに、深い懊悩を越えて、私たちに勇気を与えてくれる言葉だった。

〈私のめざす皇室観というものはありません。ただ、陛下のお側にあって、すべてを善かれと祈り続けるものでありたいと願っています〉(1994年10月/60才の誕生日文書)

 その言葉の背景に、矢部さんはまず「天皇の孤独」を読み取る。「敗戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は、明仁皇太子(当時)の15才の誕生日に、まるで見せつけるかのようにA級戦犯を処刑しました。その恐怖にも負けず、日本の復興を自らの務めと思い定めた皇太子は、学習院高等科の英語の授業で『I shall be Emperor』(私は必ず天皇になります)と宣言。以降、『新しい時代の天皇制はどうあるべきか』をひとりで模索されました。  
 天皇という『職業』についても、根本的に改革する意志を持たれていたようです。たとえば25才で結婚する直前には『ぼくは皇居内に住みたくない。皇居はなるべく開放して、大衆向きの公園に使ってほしい』『天皇になってもぼくは街の中に住む』と親しい友人に語られていたと報道されています。苦難の道を歩まれた明仁皇太子が心に抱いた孤独と恐怖を、痛切に感じ取られたのが美智子皇后でした」(矢部さん・以下同)
 1959年4月10日、明仁皇太子と結婚された美智子さまには、「一種の使命感」があったという。「“孤独な皇太子さまに、温かいホームをつくって差し上げたい”というお気持ちだったと述べられています。自らが国や皇室をどこかに導こうというのではなく、極限の苦悩の中で重い荷物を背負う明仁皇太子に肩を寄せて、ともに歩いていこうという強い使命感が、その後の60年間の根底にあったのだと思います」
 その決意が「陛下のお側」という言葉に込められている。

〈だれもが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている〉(1980 年10月/46才の誕生日会見)

 おふたりのご成婚により、国中が祝賀ムードに包まれた。ところが、初の民間出身の皇太子妃となられた美智子さまは、一部の皇族や女官などから心ない言動を受けることになる。
「1960年に長男・浩宮(現・皇太子さま)が生まれてからも、慣習にとらわれず自分の手で子育てされようとした美智子皇后は、宮中の女性から激しくバッシングされました。家柄もよく容姿端麗でスポーツもできた皇后は、皇室という巨大な存在のなかで、初めて“弱い自分”を感じながら、“人は一人ひとり自分の人生を生きている”として、決して希望を捨てませんでした。“最も高い地位〟にありながら、最も庶民に近い感性を持つ皇后の心情が滲み出る言葉です」

〈とりわけみずからが深い悲しみや苦しみを経験し、むしろそれゆえに、弱く、悲しむ人びとのかたわらに終生寄りそった何人かの人々を知る機会をもったことは、私がその後の人生を生きる上の指針のひとつになったと思います〉(2004 年10月/70才の誕生日会見)

 成婚後の美智子さまが特別に「深い悲しみ」に見舞われたのは1963年。浩宮さまに次ぐお子さまを流産された。「当時の美智子皇后は明仁天皇とともに、出産についても皇室の慣例を破り、一般家庭に近い形を貫いていた時期でした。それだけに流産によって精神的危機に陥り、葉山御用邸(神奈川)でひとり長期静養することになりました」
 その頃の美智子さまを支えた1人が、ハンセン病患者のための施設「長島愛生園」(岡山県瀬戸内市)の精神科医長だった故・神谷美恵子さんである。「神谷さんは、社会的な偏見に苦しんでいたハンセン病患者のケアを行い、弱い立場の人々とともに歩むかたでした。深い闇の中にいた美智子皇后は、神谷さんとの出会いによって傷ついた心を癒され、“国民の苦しみに寄り添う姿勢”を確立されていきました」
 その後、美智子さまは46年かけて国内のすべてのハンセン病療養所を訪問された。

〈福島の子供たちの健康はどうでございますか〉(2018年11月/最後の園遊会)

 2011年3月11日、東日本大震災。その5日後に陛下は国民に向けたビデオメッセージを発表され、3月30日から7週連続で被災地の避難所を回られた。両陛下は原発事故についても深く憂慮された。
「明仁天皇は、原発事故直後から福島第一原発の視察を強く希望され、5月に美智子皇后とともに福島県を訪問されました。さらに政治家やマスコミが原発事故への関心を失うなか、2012年から4年連続で、新年の『ご感想』のなかで、放射能汚染に見舞われた地域住民に心を寄せるメッセージを発せられました」
 美智子さまも陛下と同じ思いだった。
「両陛下は原発事故後に6度、福島県を訪問しています。昨年6月の在位中最後の訪問では、車での移動中に福島第一原発が見える地点を通られた。しかも11月の両陛下主催の最後の園遊会では、原発事故調査に携わった山下俊一・福島県立医科大学副学長に、美智子皇后が福島の子供たちの健康について尋ねました。政財官など“国家の中枢”のなかで、変わらず福島に寄り添う発言を続けているのは、明仁天皇と美智子皇后だけです」
  *
 昨年10月20日、在位中最後の誕生日にあたり、美智子さまは次のように心境を述べられた。

〈皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく――そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います〉(84才の誕生日文書)

「戦後60年間、象徴天皇としての困難な旅を続けられた明仁天皇の傍らには、常に美智子皇后の励ましの笑顔がありました。両陛下は、戦後日本のベストカップルなのです」
via https://blogos.com/article/358761/



・宮中茶会に五輪メダリストら 陛下の即位30年を祝う
 即位30年を祝い、天皇、皇后両陛下が主催する宮中茶会が26日午前、皇居・宮殿で始まった。五輪メダリストら平成を彩った各界の功労者のほか、都道府県知事らが招かれ、天皇陛下は「本日こうして茶会を催し、ともにひとときを過ごすことを誠にうれしく思います。この機会に、出席された皆さんのこれからのご健康と幸せを祈ります」と述べた。
 茶会は宮殿・豊明殿で、皇太子さま、秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族方を迎え開かれた。スポーツ界からは王貞治さんや、五輪メダリストの浅田真央さん、伊調馨さん、北島康介さん、サッカーの三浦知良さん、プロゴルファーの石川遼さんらが集った。
 学術界からは大隅良典さん、大村智さん、梶田隆章さんらノーベル賞受賞者も出席した。[2019.02.26]
via https://www.asahi.com/articles/ASM2T3S0PM2TUTIL014.html


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天皇陛下のお言葉。平成最後の戦没者追悼式(全文) はてなブックマーク - 天皇陛下のお言葉。平成最後の戦没者追悼式(全文)

20180815
終戦から73年を迎えた8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相、遺族約5500人が参列し、310万人の戦没者の冥福を祈った。
天皇陛下は2019年4月30日に退位することが決まっており、平成最後の追悼式となる。
式典では、正午に合わせて1分間の黙祷がささげられた。その後天皇陛下はお言葉で戦没者を追悼。2015年の戦後70年から加えた「深い反省」という表現は継続した。
お言葉の全文は以下の通り。
--------------
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」にあたり、全国戦没者追悼式に臨み、先の大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人びととその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来、既に73年。国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時を偲ぶ時、感慨は今なお、尽きることがありません。
戦後の長きに渡る平和な歳月に思いをいたしつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民とともに、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

via https://www.huffingtonpost.jp/2018/08/14/the-end-of-war_a_23502437/

◇新たな皇室の時代築いた天皇陛下 戦争と向き合った在位30年
JAPAN-EMPEROR-
第2次世界大戦の終結から60年後、サイパン島の断崖の上で天皇皇后両陛下が静かに頭を下げた時、両陛下の祈りは、言葉よりも雄弁な、共感を呼ぶメッセージを人々に伝えた。
天皇陛下(今上天皇)は、30年にわたる在位中に、過去の戦争にゆかりのある多くの地を訪問した。2005年6月の訪問もその中の1つだった。他の訪問と同様に、両陛下は日本人だけでなく、米国人や韓国人の戦没者も慰霊した。
元宮内庁長官の羽毛田信吾氏はロイターのインタビューで、天皇陛下のこうした訪問について「私なりに解釈すれば、2つの意味合いがあると思う」と語る。「1つは犠牲になった人たちを心から悼む追悼の気持ち。もう1つは、先の戦争の悲惨な歴史を忘れてはいけないこと。後の世代、とくに戦争を知らない世代に伝えること。両陛下の後ろ姿は、悲惨な戦争の歴史を忘れてはいけないことを訴えている」。
羽毛田氏を含む、ロイターが取材した天皇陛下を直接知る6人は、昭和天皇が1989年1月7日に崩御されてから、天皇陛下がいかに平和・民主主義、和解のシンボルとして積極的な役割を果たされてきたかを語った。
政治には関与できないが、天皇陛下は、日本の戦争について理解の幅を広げた、と専門家は評価する。これは、日本人がその名の下に戦い「現人神」(あらひとがみ)とされた昭和天皇のレガシーからの決別でもあった。
現在84歳の天皇陛下は、来年、生前退位する。
退位は、中国、韓国との関係が緊張化している中で行われる。また、安倍晋三首相の保守的な政策スタンスから日本が右傾化していると見られることで、天皇陛下のレガシーも危機にさらされる可能性がある。
日本の政府首脳は、戦時中の日本の行動について反省と謝罪を繰り返してきたが、天皇陛下のお言葉は重みが違う、と専門家は指摘する。
城西国際大学のアンドリュー・ホバット客員教授は「天皇はローマ教皇のようなもの。天皇の言動は、象徴的なメッセージとなる」との見方を示す。
日本政府の謝罪は、これまで立場の異なる政治家によって否定されたり後退させられたりしてきたが、天皇陛下の言葉は一貫している、という。

■既成の枠にとらわれない
政府の謝罪についての著書があるダートマス大学のジェニファー・リンド教授は「人々は、両陛下が、戦争被害者に対し、真心をこめ、敬意を持って、象徴的、調和的なやり方で手を差し伸べようとしている、とみている」と述べた。
天皇陛下の友人や学識者によると、天皇陛下に戦後教育の基礎を授けるうえで影響があったのは、クエーカー教徒の家庭教師、エリザベス・ヴィニング氏と元慶應義塾大学塾長の小泉信三氏。小泉氏は多くの教え子を戦争でなくした。
天皇陛下の級友だった明石元紹(もとつぐ)氏は「今、日本の国民のほとんどが、陛下は優しく人に対して親切で、人のことを大変に想う天皇だと思っている。それは戦後のこと。戦争をやっている間は、象徴天皇ではなく日本全体を引っ張り戦争する、というのに近い立場だった」と話す。
理論的には、天皇陛下は憲法に違反しない限り、自分が言いたいことを言える立場にある。憲法は天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とし、国政に関する権能を有しない、と規定している。
実際に、外交に影響を与えるような発言は、慎重に吟味される。
1990年代に、ブリティッシュ・カウンシルの代表を務めていた際に天皇陛下と交流のあったマイケル・バレット氏は「天皇陛下と皇后陛下は、籠に閉じ込められた鳥だと言われていたが、天皇陛下は、鳥籠の扉を開けた」と話す。

■保守派の反撃
1990年5月、韓国政府は1910─1945年の日韓併合について、新天皇による謝罪を求めた。
与党は皇室が謝罪をすることに反対し、当時の海部俊樹首相が代わりに韓国の盧泰愚大統領に謝罪することを申し出た。
しかし、天皇陛下は、こうした際に沈黙を守った昭和天皇とは違う道を選んだ。渡辺允元侍従長は、ロイターに対し「天皇陛下は、日本が韓国の人々に苦しみを与えたということをはっきりさせたかった」と話す。
盧大統領を迎えた晩餐会で、天皇陛下はこう言った。「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」。
天皇陛下の即位から、しばらくの間は、日本の戦争責任をめぐる議論が盛んで、1995年の村山富市首相(当時)による謝罪(村山談話)を含め、日本政府の謝罪がたびたび行われた。
こうした謝罪や、学校で子どもたちに日本が戦時中に行ったことについて教えようとする試みは、「自虐的」な歴史を教えることで日本人のプライドやアイデンティティーを損なわせるとして、保守派からの大々的な反撃を引き起こした。
1992年、天皇陛下は近代の皇室として初めて中国を訪問した。国内の右派勢力は訪中に反発、中国の活動家は天皇陛下に謝罪を要求した。
天皇陛下は、中国で「両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し、多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と述べた。
その翌年から、天皇陛下は戦争の舞台となった地への訪問を始める。最初の訪問地は戦争で多大な犠牲を払った沖縄だった。1995年からは長崎、広島などへの「慰霊の旅」を続けた。

■海外の戦地
戦後60年、天皇陛下は海外の戦地として、最初にサイパン島を訪問した。羽毛田元宮内庁長官は「(天皇陛下は)国内だけでなく、国外でも先の大戦で犠牲になった、日本人だけでなく、世界の人に対して慰霊したいということを、前から強くご希望だった」と振り返る。
同氏は「外国訪問は基本的に受身のことが多いが、この件に関しては、陛下の非常に強いご希望があり、その意味で異例な外国訪問だったと思う」と述べた。
天皇陛下は、高齢に加え、心臓手術や前立腺がんを患ったにもかかわらず、その後もこの戦地訪問を続けてきた。
1944年に激しい戦闘があったパラオのペリリュー島へは2015年に訪問、2016年にはフィリピン、今年は沖縄を再訪問した。
2015年8月15日の終戦70周年の戦没者追悼式では、戦争について「深い反省」との言葉を使い、これまでの「深い悲しみ」という表現から一歩踏み込んだ。
安倍晋三首相はこの前日に、「痛惜の念」を表すと述べつつも「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と述べており、天皇陛下の言葉は、安倍首相に対し婉曲に異を唱えたものだと受け止める向きが多かった。
82歳の誕生日に行った2015年の記者会見で、天皇陛下は「この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」と述べた。
天皇陛下の後を継ぐ徳仁(なるひと)皇太子(58)は、天皇陛下と考えをともにする。しかし、皇太子が天皇に即位したあと、日本人の若い世代がどれほど天皇陛下の発言に影響を受けるかは不明だ。
終戦時に11歳だった父親とは異なり、皇太子は戦争を知らない。慶應義塾大の笠原英彦教授は言う。皇太子が天皇になった時に「『反省』と言われたら、多くの人は『何の反省?』と聞くだろう」。
via https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/08/30-19.php


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