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新天皇陛下即位、象徴責務へ決意=「国民に寄り添う」-戦後生まれ初、令和始動 はてなブックマーク - 新天皇陛下即位、象徴責務へ決意=「国民に寄り添う」-戦後生まれ初、令和始動




 新天皇陛下が1日、皇位に就かれ、平成に続く令和の時代が始まった。新陛下は同日午前、皇居で国民の代表と会う儀式「即位後朝見の儀」に臨み、「常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓います」と最初のお言葉を述べた。
 新陛下は、退位した上皇さまに触れて「上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます」と語った。新陛下は1960年2月23日生まれの59歳で、お名前は徳仁(なるひと)。戦後生まれの初めての天皇となった。
 今回の皇位継承は、2017年6月に成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づく。宮内庁の記録によると126代目の天皇となり、現行憲法が規定する象徴天皇としては3代目、現憲法下での即位は2人目。退位した陛下は上皇、皇后さまが上皇后となり、皇太子妃の雅子さまが新皇后となった。
 政府は即位儀式として、1日午前10時半から皇居・宮殿「松の間」で皇位の証しとされる剣と勾玉(まがたま)、国の印である国璽、天皇の印である御璽を受け継ぐ「剣璽等承継の儀」を実施した。剣や勾玉は鏡とともに、いわゆる「三種の神器」と呼ばれ、皇室経済法で「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」と位置付けられる。
 儀式には安倍晋三首相ら三権の長や閣僚らが参列。同席する皇族は前例を踏襲し、成年男性に限定された。
 続いて午前11時10分から即位後朝見の儀が行われ、政府、国会、裁判所の要人や地方代表ら292人が参列。新陛下のお言葉に続き、首相が国民代表の辞を述べて祝意を表明し、「令和の御代(みよ)の平安と皇室の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げる」と語った。
 皇位継承順位は、皇嗣になった秋篠宮さま(53)が1位、秋篠宮さまの長男悠仁さま(12)が2位、上皇さまの弟の常陸宮さま(83)が3位。皇位継承資格者の減少により、安定的な皇位継承に向けた検討が急務となる。
 儀式に先立ち、政府は1日午前の臨時閣議で、二つの即位儀式を国事行為と位置付けることを決定した。[2019.05.01]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100178&g=pol

https://jp.reuters.com/article/reiwa-idJPKCN1S62RO?feedType=RSS&feedName=worldNews

・新陛下、晴れやかに即位宣言=勲章姿、国民の前に-皇居・宮殿で二つの儀式



 1989年1月以来、30年ぶりに皇居・宮殿で執り行われた「剣璽等承継の儀」と「即位後朝見の儀」。元号が改まった1日、新天皇陛下は晴れやかな表情で両儀式に臨み、即位を宣言された。
 新陛下は午前9時50分すぎ、赤坂御所の正門から車で皇居へ出発。にこやかな表情で沿道に集まった人々に後部座席から手を振り、歓声に応えた。
 前日に「退位礼正殿の儀」が行われたのと同じ宮殿・松の間に入ったのは同10時半。新陛下はえんび服に白のちょうネクタイ、「大勲位菊花章頸飾(けいしょく)」などの勲章を着け、中央の壇上に立った。皇位継承権を持つ成年皇族である秋篠宮さま、常陸宮さまも勲章姿で左右に並んだ。
 剣璽と国璽、御璽を恭しくささげ持った侍従らが別の扉から入室。目前にしつらえられた台の上に置かれると、新陛下は真剣な表情でわずかにうなずいた。同35分、新陛下は剣璽などを持った侍従らと共に退出した。
 続いて、同11時12分から即位後朝見の儀が行われた。新陛下は新皇后の雅子さまと共に松の間に入り、安倍晋三首相ら292人の国民代表の前へ。加地正人・新侍従次長が紫のふくさから差し出した原稿を開き、皇位を継承したことを宣言した。
 新陛下ははっきりと響く声で即位後初のお言葉をよどみなく読み上げた。傍らの雅子さまは、きらきらと輝くティアラを着けたローブデコルテ姿で、新陛下を見守った。
 安倍首相が国民代表の辞を述べ、新両陛下と皇族方が退出した後、同20分に扉が閉じられた。新陛下はその後、継承した剣璽と共に車で赤坂御所へ。二つの重要儀式が無事終わり、新天皇としての歩みが始まった。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100374&g=soc

・天皇陛下 即位後初めてのおことば 全文
日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。
この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。
 via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190501/k10011902991000.html






・天皇陛下「即位後朝見の儀」おことばに感動の声広がる
  https://matome.naver.jp/odai/2155667922869478001

・新陛下、2番目の高齢即位=8世紀以降-皇位継承

 新天皇陛下は59歳。間違いが少ないとされる「続日本紀」(797年完成)に記載がある文武天皇以降では、60歳で即位した奈良時代の光仁天皇に次いで2番目の高齢即位となった。
 55歳で皇位に就いた天皇陛下は3番目となり、平安時代の光孝天皇の54歳が続く。飛鳥・奈良時代の元明天皇と、奈良時代の称徳天皇(重祚)が即位したのは、共に46歳の時だった。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100038&g=soc


・86年ぶり皇太子不在に=秋篠宮さまは新天皇陛下の弟-皇位継承

 新天皇陛下即位に伴い、天皇の直系男子が就く「皇太子」の地位は86年ぶりに空位となった。皇室典範は「皇嗣たる皇子(天皇の男の子)を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫(天皇の男の孫)を皇太孫という」(第8条)と規定。秋篠宮さまは皇位継承順位1位の皇嗣だが、新天皇陛下の弟であるため皇太子にはならない。
 昭和天皇が即位してから、退位された天皇陛下が1933(昭和8)年12月に生まれるまでの約7年間が皇太子不在の時代だった。秋篠宮さまは皇太子待遇となり、対外的には「クラウンプリンス」として活動する。
 via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100039&g=soc


・令和元年の初日、新天皇陛下の即位...主要5紙はどう報じた? 比較すると、各紙の個性が際立っていた   
 https://www.huffingtonpost.jp/entry/reiwa-newspaper5_jp_5cc8ea14e4b0913d078a518b

・天皇陛下の即位と退位、海外メディアはどう伝えたか?
 https://www.huffingtonpost.jp/entry/japan-emperor_jp_5cc8f476e4b0d123954c0add

◆アングル:新天皇と皇后で変わる日本、「令和」時代の皇室とは
 https://jp.reuters.com/article/japan-emperor-new-idJPKCN1S20FU?feedType=RSS&feedName=worldNews

・新しい天皇陛下が即位 「令和」始まる
  https://www.bbc.com/japanese/48101947


・令和時代の天皇陛下はどんな方?趣味は山登りで、“皇居ラン”をこなす健脚 
■1960年2月23日に誕生。小学生時代は野球の大ファン。“ごひいき”は末次利光選手
新たに即位された天皇陛下(徳仁さま)は1960年2月23日、皇居・宮内庁病院で当時の皇太子明仁親王と皇太子妃美智子さまの間に誕生した。



幼少時の名前として与えられた「称号」は浩宮さまだった。称号は、古典から学者が選出し、天皇陛下が字を選出される。
1960年2月29日の朝日新聞夕刊によると、称号「浩宮」とお名前である「徳仁」は四書五経の「中庸」の第三十二章から、祖父・昭和天皇が命名された。
大空のように広くて偏りのない様子を示す「浩々たる天」から浩の字を、「聡明聖知にして天徳に達する者」から徳の字を取ったという。
浩宮さまは、天皇家では初めて父親の皇太子明仁親王(現在の上皇陛下)、母親の美智子さま(上皇后)が子育てにあたられた。
明仁親王は天皇家の伝統的風習に従って、3歳で両親のもとを離れ、東宮仮御所で、「傅育官」らに育てられた経緯があった。
そのことについて明仁親王は「私は世情にうとく、人に対する思いやりの足りない心配がある。どうかよく人情に通じた、思いやりの深い人に助けてもらいたい」と語っていたという。
明仁親王と美智子さまはそうした背景もあり、世間や周囲の反感を買うこともあったが、3人の子どもたちの子育ては乳母を付けずに家族で同居を通した。
学習院初等科時代には、野球に熱中された浩宮さま。
1971年10月17日朝日新聞東京本社版の朝刊によると、10月16日の日本シリーズ第4戦の読売ジャイアンツー阪急ブレーブス戦を学友と共に観戦。
読売ジャイアンツの外野手として活躍した末次利光(当時は民夫)選手の満塁ホームランに飛び上がって拍手を送ったという。
浩宮さまは末次選手の大ファンで、学校の野球チームでも末次選手の背番号38を付ける熱狂ぶりだった。

■趣味は山登り。健脚ぶりを“皇居ラン”でも発揮
趣味人としても知られる天皇陛下(徳仁さま)の一押しのレジャーは山登りだ。
日本山岳会員であり、日本山岳写真協会の特別会員でもある。父親である上皇陛下と、ともに登山に向かうこともあった。
初めての登山は、5歳で訪れた長野・軽井沢の離山だった。登山雑誌「山と渓谷」(1995年1月号)には、父親である上皇陛下に連れられて登頂した思い出をエッセーでつづられている。
国内の様々な山を踏破した天皇陛下は、山の楽しみ方をこのエッセーで次のように語っている。

「自分をゆっくりと大自然のなかにおき、動植物や地質を観察し、自然の恩恵に浴すこと、そして、個々の山の歴史に思いを致し、登山の行程全体を楽しむことである」

また、文章の中では当時の天皇陛下と美智子さまを「両親」、そして皇太子妃(当時)である雅子さまを「妻」として、自身との関わりを記したことも、大きな話題を呼んだ。
登山を支える健脚ぶりは、40代後半に差し掛かった2007年の“皇居ラン”でも発揮された。
2007年2月26日に配信された新聞各紙のニュースによると、皇居外周の2周約10㎞を51分ほどで走った。また、55歳の誕生日の2日後である2015年2月にも皇居外周1周を約27分で走り終えている。
登山のほかに、ヴィオラ奏者としての顔も国民には広く知られている。
上皇陛下がチェロを弾かれ、美智子さまがピアノを演奏。天皇陛下はもともと学んでいたヴァイオリンのほかに、大学時代からはヴィオラの演奏も始められた。
大学時代は音楽部管弦楽団に所属。チャリティーコンサートでビオラの独奏を披露されることもある。
天皇陛下は海外での経験も豊富だった。
初めての海外滞在は1974年、14歳のとき。オーストラリア・メルボルン郊外にあるポイントロンズデールで15日間を過ごした。
学習院大学を卒業後に大学院に進み、その後オックスフォード大学マートンカレッジに2年間留学。
学習院大学の卒論は「中世瀬戸内海水運の一考察」。大学時代から一貫して史学に興味を持たれ、幼いころから「道」に一層の関心があった影響でとくに交通史を選んで学ばれていた。
オックスフォード大学でも18世紀のテムズ川の交通について研究された。
徳仁さまは、大学卒業後に海外で研究を続けられた初めての天皇陛下となった。
留学を終え、日本に戻ってからは海外の賓客の対応にも留学で培った英語力を発揮。
英国のチャールズ皇太子、故ダイアナ妃(当時)と歓談することもあった。

■「皇太子」となり、結婚そして父親へ
徳仁さまは1989年、昭和天皇の崩御に伴い今上天皇が即位されたことにより、皇位継承順位1位の皇太子となった。



1991年2月23日、31歳となった日に立太子宣明の儀が執り行われた。
立太子宣明の儀は、皇位継承者としての徳仁親王の地位を天皇陛下(当時)が内外の代表の前で披露される立太子の礼のなかでも中心となる儀式。
1993年には、外務省キャリア官僚だった小和田雅子さん(当時)と結婚。



二人の最初の出会いは1986年10月、東京・元赤坂の東宮御所(当時)で開かれたスペインのエレナ王女歓迎レセプションの茶会の席という。
天皇陛下の「初恋」だったといい、その後の1年間で、東宮御所や高円宮邸などで計4回顔を合わせた。
1992年8月16日に再会。陛下はその後、雅子さまにひんぱんに電話を入れ、思いを伝えたという。
2001年12月1日には、長女・愛子さまが誕生。
祖父である天皇陛下(当時)が決められた愛子さまの称号は「敬宮(としのみや)」となった。
名前と称号の出典は「孟子」の「離婁章句下(りろうしょうくのげ)」。広く人間社会で修養すべき基本的道徳を述べ、敬と愛の重要さを説いた部分からとったという。
愛子さまの誕生後、初の会見となった2月23日の徳仁さまの誕生日会見では「子どもとは、こんなにかわいいものだったかと、改めて知ることになりました」と笑顔を見せた。
子育てや教育方針については「父親として、できるだけ子育てに積極的にかかわっていきたい」と話されていた。
そして2019年4月30日、徳仁さまは皇太子としての役目を終え、5月1日に天皇陛下に即位された。
 via https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cc7a94ce4b07c9a4ce80b7e


◇【特設】皇室特集~新陛下、「令和」と共に~:https://www.jiji.com/jc/tokushu?g=ryl



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新元号は「令和」 出典は「万葉集」 はてなブックマーク - 新元号は「令和」 出典は「万葉集」


平成に代わる新しい元号について、政府は1日の臨時閣議で「令和(れいわ)」とすることを決め、菅官房長官が発表しました。また、「令和」の典拠、いわゆる出典は日本最古の歌集である万葉集であると発表しました。元号は、皇太子さまが天皇に即位される来月1日に「令和」に改められます。
政府は1日午前、総理大臣官邸で、各界の代表や有識者からなる「元号に関する懇談会」を開き、新しい元号の複数の原案を示し意見を聞くなどしたうえで、臨時閣議で新しい元号を「令和」とすることを決定し、菅官房長官が午前11時半すぎからの記者会見で発表しました。
この中で、菅官房長官は「さきほど閣議で元号を改める政令、および、元号の呼び方が閣議決定された。新しい元号は令和であります」と述べ、書を掲げて、平成に代わる新しい元号を「令和」に決定したと発表しました。



そのうえで、「令和」の典拠、いわゆる出典について「『令和』は『万葉集』の梅花の歌、三十二首の序文にある『初春の令月(れいげつ)にして、気淑く(きよ)風和らぎ(やわらぎ)、梅は鏡前(きょうぜん)の粉(こ)を披き(ひらき)、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(こう)を薫(かお)らす』から引用したものだ」と述べました。
菅官房長官は記者会見で、新しい元号の考案者について「考案者ご自身が秘匿を希望していることに加え 考案者を明らかにすれば新元号と特定の個人との結びつきが強調されることになりかねないため、お答えは差し控えたい」と述べました。
また、懇談会で出された意見や原案の数について質問されたのに対し、「意見聴取の場でどんなご意見があったかについてお答えすることは差し控えたいと思う」と述べました。
また、「新元号が日本人の生活の中に深く根ざしていくためには、他の案と比較して議論されることは適当でないと考えており、新元号として決定されたもの以外の案については、その数も含めてお答えは差し控えたい」と述べました。
そのうえで、「いずれにしても、今般決定された新元号が広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくよう努めていきたい」と述べました。
日本の元号は、研究者によりますと、「平成」までの247すべてが中国の古典を典拠としているとされていますが、日本の古典から引用されたのは初めてだということです。
新元号を定める政令は1日中に天皇陛下の御名・御璽(ぎょめい・ぎょじ)、いわゆる署名・押印を得て公布され、元号は、皇太子さまが即位される来月1日に「令和」に改められます。
外務省によりますと「令和」の英語のつづりは「R・E・I・W・A」だということです。[2019.04.01]
via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190401/k10011868721000.html




・新元号「令和」、5月1日から=国書で初、万葉集由来-政府、6原案を提示
 政府は1日の臨時閣議で、新たな元号を「令和(れいわ)」と決定した。5月1日の皇太子さまの新天皇即位に合わせ、同日午前0時に元号が平成から改まる。現存する日本最古の歌集である「万葉集」が由来で、歌人の大伴旅人(おおとものたびと)の漢文から引用した。確認できる限り、日本の元号の典拠が日本古典(国書)となるのは初めて。
 菅義偉官房長官が記者会見で、墨書された新元号を発表。安倍晋三首相も会見して談話を読み上げた。首相は「日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継ぎ、日本人がそれぞれの花を大きく咲かせることができる日本でありたいとの願いを込めた」と説明した。
 「万葉集」の「初春の令月にして、気淑く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後の香を薫らす(しょしゅんのれいげつにして、きよくかぜやわらぎ、うめはきょうぜんのこをひらき、らんははいごのこうをかおらす)」を典拠とした。考案者は公表しない。政府は令和を含む六つの原案を提示したが、選に漏れた候補も明らかにしない。
 過去の元号に「令」の字が使われたことはなく、政府関係者によると「令和」が候補となったこともないとみられる。新元号は645年の「大化」以来248番目。これまで日本の元号の由来は確認できる限り全て中国古典(漢籍)だった。
 政府は3月14日、国文学、漢文学などを専門とする複数の学者に新元号の考案を正式に依頼。菅長官が六つの原案に絞り込み、有識者による「元号に関する懇談会」と衆参両院正副議長に相次ぎ提示し、意見を聴いた。全閣僚会議で協議し、臨時閣議で新元号を定める政令を決定した。政府関係者によると、令和への異論は出なかった。
 発表直前に天皇陛下と皇太子さまに伝えられた。政令は直ちに陛下が署名して官報に掲載、公布された。5月1日に施行される。
 改元は、憲政史上初めてとなる天皇退位に伴うもの。国民生活への影響を最小限に抑える観点から、改元1カ月前に発表した。1989年1月から始まった平成は、4月30日の陛下の退位とともに幕を閉じる。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019040100783&g=pol


・【安倍首相談話全文】「令和」に込めた思いは… 「人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つ」
新元号「令和」が発表された。安倍晋三総理大臣は、菅官房長官の発表に続き、記者会見で談話を発表した。談話の全文は以下の通り。 

<<本日元号を改める政令を閣議決定致しました。
新しい元号は令和であります。これは万葉集にある『初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、蘭(らん)は珮後(はいご)の香(かう)を薫(かをら)す』との文言から引用したものであります。
そして、この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。万葉集は1200年あまり前に編纂された日本最古の歌集であるとともに、天皇や皇族、貴族だけでなく防人や農民まで幅広い階層の人々が詠んだ歌が収められ、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。
悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたいとの願いを込め、令和に決定致しました。
文化を育み、自然の美しさを愛でることができる平和な日々に、心からの感謝の念を抱きながら、希望に満ち溢れた新しい時代を国民の皆様と切り開いていく。新元号の決定にあたり、その決意を新たにしております。
5月1日に皇太子殿下が御即位され、その日以降、この新しい元号が用いられることとなりますが、国民各位のご理解とご協力を賜りますようお願い致します。
政府としてもほぼ200年ぶりなる歴史的な皇位の継承がつつがなく行われ、国民こぞってことほぐことができるよう、その準備に万全を期してまいります。元号は皇室の長い伝統と、国家の安泰と、国民の幸福への深い願いとともに1400年近くにわたる我が国の歴史を紡いできました。日本人の心情に溶け込み、日本国民の精神的な一体感を支えるものとなっています。
この新しい元号も広く国民に受け入れられ、日本人の生活の中に深く根ざしていくことを心から願っています。>>
via https://www.huffingtonpost.jp/entry/reiwa-abe_jp_5ca17f54e4b0474c08d0b676


・漢字2文字に理想込め=元号、現在は日本のみ

 特定の年代に漢字の名前を付ける元号(年号)は中国・前漢の武帝の時代から始まった。「統治者が時間も支配する」という考えに基づくとされ、さまざまな理想が込められている。ベトナムや朝鮮にも広がったが、現在も使われているのは日本だけだ。発祥の地である中国では清の滅亡とともに廃止され、現在は西暦が用いられている。
 日本で最初の元号である「大化」は645年に定められた。しかし、続く「白雉」「朱鳥」とも実際にはほとんど使われなかったとみられている。
 4番目の「大宝」(701年)以降、公文書には全て元号を用いると定められたことで定着。「天平勝宝」のように漢字4文字が使われたり、南北朝時代に二つの元号が並立したりした時期もあるが、基本的には漢字2文字を使った元号が現在まで切れ目なく続いている。
 江戸時代までは天皇の即位だけでなく吉兆や災害などでも改元したため、一つの元号の平均期間は短く、十干十二支と併せて使われていたと考えられている。明治への改元とともに天皇1代で元号一つとする「一世一元の制」が定められ、天皇と元号の結び付きが強まった。
 戦後に皇室典範が改正され、元号は法的根拠のない単なる慣習となった。このため一時は廃止論も唱えられたが、1979年に元号法が成立。近年はグローバル化の進展もあり、日常生活では西暦使用が拡大しているが、公文書などでは今も原則として元号が使われている。
 元号に詳しい所功・京都産業大名誉教授(日本法制史)は「年の名前を漢字で表すことで、そこに理想や希望を込めることができる。西暦と元号は矛盾するものではなく、うまく使い分けることで日常生活の役に立つ」と話している。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019040100154&g=soc

・新元号は「令和」。この選定に「万葉集」が使われたワケが話題に
 https://matome.naver.jp/odai/2155409002765725601

・新元号 6案すべて判明 「令和」考案は中西進氏か
新元号の選定作業で、政府が示した6つの原案すべてが明らかになり、新元号に決まった「令和」以外は、
▽「英弘(えいこう)」、
▽「久化(きゅうか)」、
▽「広至(こうし)」、
▽「万和(ばんな)」、
▽「万保(ばんぽう)」の5つの案でした。「令和」の考案者は、関係者の話などから万葉集が専門の国文学者、中西進氏とみられます。
新元号の選定にあたって政府は、考案を委嘱した専門家から提出された候補名を、読みやすく、書きやすいなどの「元号選定手続」に定められた留意点に沿って絞り込み、1日、「元号に関する懇談会」などに6つの原案として示しました。
「英弘」が日本の古典を、「広至」は「日本書紀」と儒教の基本的な考え方を示した中国の古典、「四書五経」の「詩経」の2つを、
典拠としているということです。
また「久化」「万和」「万保」は中国の古典が典拠に含まれているということです。
一方、政府は「令和」の考案者は明らかにしないとしていますが、関係者の話などから、万葉集が専門の国文学者で国際日本文化研究センター名誉教授の中西進氏とみられます。

■中西進さん 独自の視点で万葉集を長年研究
中西進さん(89)は長年にわたり万葉集の研究を続け、日本の古代文学の研究に大きく貢献してきました。
中西進さんは東京都の出身で、東京大学を卒業したあと、筑波大学や国際日本文化研究センターの教授を歴任し、大阪女子大学や京都市立芸術大学の学長を務めました。
長年にわたり万葉集の研究を続け、万葉集の和歌の作り方が当時の中国の影響でどのように変化したかを論じるなど、独自の視点で研究を行い、日本の古代文学の研究に大きく貢献してきました。
また研究のかたわら、子どもたちに万葉集を講義する「万葉みらい塾」を全国の都道府県で開くなど、古典の普及にも努めています。
こうした功績が評価され、平成25年には文化勲章を受章しています。
 via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190402/k10011870221000.html
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