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・北海道新聞 2016.07.11
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淡路島が徳島から兵庫へ編入となった理由~庚午事変に光 はてなブックマーク -  淡路島が徳島から兵庫へ編入となった理由~庚午事変に光

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 「あの事件」さえなければ、淡路島は兵庫県ではなく、徳島県だったかもしれない。「あの事件」とは、明治初期の洲本城下町で起きた「庚午(こうご)事変(稲田騒動)」。江戸時代は徳島(阿波)藩領だった淡路島が兵庫県に編入される発端となった史実をもっと知ってもらおうと、関係者の子孫らが、先人の足跡を紹介する取り組みを続けている。
 庚午事変とは、1870(明治3)年、徳島藩の一部藩士らが、同藩筆頭家老として淡路を任されていた稲田家と対立する形となり、稲田家臣の家などを襲った事件。徳島藩側が処罰を受け、淡路島が兵庫県に編入される契機となった。
 2013年、稲田家の子孫らが事変で焼失した学問所益習館(えきしゅうかん)にちなみ、市民グループ「益習の集い」を設立。一般の参加者と洲本市内に残る石碑や墓を巡る歴史ウオークなどの活動を続ける。
 ゆかりの地の一つ、江国寺(こうこくじ)には犠牲者を弔う招魂碑があり、側面に「三宅達太郎」の名が刻まれる。稲田家の武道師範を務めていた達太郎は事変で自決。グループ会長で、達太郎のやしゃごにあたる三宅玉峰(ぎょくほう)さん(63)=同市=は「当主のために家臣は無抵抗を貫いたが、武道の達人だった高祖父は何もせず敵の手にかかるのが屈辱だったのでは」と話す。
 グループが14年から続ける追悼式では稲田家だけでなく、徳島本藩側の死者も合わせて慰霊することにこだわった。「両者とも時代に翻弄(ほんろう)された。恩讐(おんしゅう)を超えて、和解する機会としたかった」と三宅さん。交流は重なり、徳島市のNPO法人と徳島藩主が愛したという「蜂須賀桜」を洲本市内の神社に植樹。徳島県美馬市では、事変後に北海道の開拓に尽力した稲田家臣らの功績を伝えるパネル展が催された。
 事変は、船山馨の小説「お登勢」が原作のNHK時代劇や、北海道で苦闘する家臣らを描いた映画「北の零年」で取り上げられてきたが、地元淡路島でも事変や稲田家を知らない人は少なくない。
 益習館は江戸後期に頼山陽(らいさんよう)ら高名な学者を招くなどして多くの人を育てた。三宅さんは「その精神を継ぎ、地元に誇りを持てる人材の育成に少しでも貢献したい」と話している。

 【庚午事変(稲田騒動)】1870(明治3)年5月、徳島藩の筆頭家老で洲本城代を務めた稲田家の家臣宅を、徳島藩士が襲撃。稲田家側の17人が死亡(自決2人を含む)、約20人が重軽傷を負った。前年の「禄制(ろくせい)改革」で、陪臣(家臣の家臣)である稲田家臣は士族に加えられず、士族編入を嘆願し、分藩独立運動へ。これを藩主・蜂須賀家への不忠とみた徳島本藩の家臣が暴発した。明治新政府は首謀者らを切腹や流罪などとし、稲田家側には北海道への移住を命令。翌71年には淡路島北部が、最終的に全島が兵庫県に編入されたのは、事変のしこりを後世に残さないためとされる。
via http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201606/0009176167.shtml

・庚午事変 : Wikipedia

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