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長谷部誠、ブンデス日本人最多の235試合出場を達成! 31年ぶりに記録更新 はてなブックマーク - 長谷部誠、ブンデス日本人最多の235試合出場を達成! 31年ぶりに記録更新

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 フランクフルトに所属する日本代表MF長谷部誠が、日本人選手のブンデスリーガ最多出場記録を31年ぶりに更新した。
 長谷部は5日に行われたブンデスリーガ第23節のフライブルク戦に先発出場。これで同リーグ通算235試合目の出場を果たし、奥寺康彦氏がケルン(1977〜80)とブレーメン(1981〜86)で記録した234試合を上回った。
 現在33歳の長谷部は2008年1月に浦和レッズからヴォルフスブルクに移籍。翌2008-09シーズンには日本人で奥寺氏以来31年ぶりのブンデスリーガ優勝を経験した。その後、2013年夏に移籍したニュルンベルクを経て、2014年夏にフランクフルトに加入。ブンデスリーガ通算235試合出場で7ゴールを記録している。
via https://www.soccer-king.jp/news/world/ger/20170305/559364.html


◇現在ブンデスリーガでプレーする選手
長谷部誠(10年目/ヴォルフスブルク、ニュルンベルク、フランクフルト) 235試合7得点
酒井高徳(6年目/シュツットガルト、ハンブルク) 131試合2得点
香川真司(5年目/ドルトムント) 118試合35得点
内田篤人(7年目/シャルケ) 104試合1得点
大迫勇也(3年目/ケルン) 76試合9得点
原口元気(3年目/ヘルタ) 75試合4得点
宇佐美貴史(3年目/バイエルン、ホッフェンハイム、アウクスブルク) 31試合2得点
武藤嘉紀(2年目/マインツ) 29試合9得点

◇過去にブンデスリーガでプレーした選手
奥寺康彦(9年/ケルン、ブレーメン) 234試合26得点
高原直泰(6年/ハンブルク、フランクフルト) 135試合25得点
岡崎慎司(5年/シュツットガルト、マインツ) 128試合37得点
清武弘嗣(4年/ニュルンベルク、ハノーファー) 117試合17得点
細貝 萌(3年/アウクスブルク、レバークーゼン、ヘルタ) 102試合3得点
※現在は2部のシュツットガルトでプレー
酒井宏樹(4年/ハノーファー) 92試合2得点
乾 貴士(4年/フランクフルト) 75試合7得点
尾崎加寿夫(3年/ビーレフェルト、ザンクト・パウリ) 62試合9得点
稲本潤一(2年/フランクフルト) 43試合0得点
小野伸二(3年/ボーフム) 29試合0得点
矢野貴章(2年/フライブルク) 15試合0得点
長澤和輝(2年/ケルン) 11試合0得点
大久保嘉人(1年/ヴォルフスブルク) 9試合0得点
槙野智章(2年/ケルン) 8試合0得点
大前元紀(1年/デュッセルドルフ) 7試合0得点
山口 蛍(1年/ハノーファー) 6試合0得点
金崎夢生(1年/ニュルンベルク) 4試合0得点
大津祐樹(1年/ボルシアMG) 3試合0得点
丸岡 満(2年/ドルトムント) 1試合0得点
(※2017年3月5日現在)


◇先駆者が奥寺康彦が語るブンデスリーガ
奥寺康彦氏がブンデスリーガ初の日本人プレーヤーとしてドイツに渡ったのは1977年10月。1993年にJリーグが誕生する十数年も前のことだ。奥寺氏はケルン、ヘルタ・ベルリン、ブレーメンに在籍し、9年間にわたってドイツで活躍。ブンデスリーガ通算出場数は234試合にも上る。それから約40年の時を経て、アイントラハト・フランクフルトの長谷部誠がブンデスリーガ通算235試合出場を達成、奥寺氏が長年保持していた日本人選手の最多出場記録を塗り替えた。今回の記録更新によって改めてクローズアップされた奥寺氏の偉業を本人の独占インタビューで振り返る。

■バイスバイラー監督との出会い
——まだJリーグさえなかった時代、ドイツのブンデスリーガでプレーするきっかけは何だったのですか?

奥寺 日本代表がドイツに遠征して、向こうでトレーニングや練習試合をする機会がありました。当時の代表監督だった二宮寛さんはケルンの(ヘネス)バイスバイラー監督とすごく仲が良くて、そのツテを使って練習場を確保したり、試合の相手をアレンジしてもらったりしていたんです。今では考えられませんが、日本代表選手が5人一組に分かれてブンデスリーガの各クラブのサマーキャンプに参加しました。その時に僕が参加したのがケルンのキャンプだったんです。ドイツ人に混ざって練習する中でプレーを気に入ってもらって、それで「来ないか?」と誘いを受けました。

——実際にケルンに加入したのはシーズンが始まった後の1977年10月でした。この時期まで加入がずれ込んだのはなぜですか?

奥寺 これはいかにも日本人的な考え方なんですが、僕の日本リーグでの通算出場数が100試合まであと2試合だったんです。「ドイツに行くのは100試合を達成してからでも遅くないんじゃないか」ということでクラブに問い合わせたら、「それでも構わない。終わってからでいいから来てくれ」と言ってくれた。そういう理由で10月までずれ込んだんです。

——ドイツ行きに関して迷いはなかったですか?

奥寺 迷いましたね。当時25歳で、結婚もしていました。サッカーに関して迷いはなかったんですが、家族のことを考えると、ドイツに住むということに少し躊躇があった。今のように簡単に行き来できる時代でもないし、言葉の問題もある。向こうで家族に何かあったらどうしようという不安はありましたね。

——そういう中でドイツ行きの決め手となったのものは何ですか?

奥寺 やはり、バイスバイラー監督が必要としてくれたことです。「レギュラーとしてプレーしてほしい」、「すぐに来てくれ」と言ってもらえましたから。

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——ドイツでのデビュー戦を覚えていますか?

奥寺 10月22日のデュイスブルク戦です。実はその前にフランクフルト戦もあったんですが、熱を出してしまって出場することができなかった。それでアウェーのデュイスブルク戦が最初の試合になったんです。実はいきなりアクシンデントがあって(笑)。試合が始まってすぐに僕がファウルをして相手にPKを与えてしまったんです。最終的にはGKの(ハラルト)シューマッハーが止めてくれましたけど、デビュー戦はそれが強く印象に残っていますね。

——ドイツでの初ゴールはドイツサッカー連盟カップ(DFB杯)のエッセン戦でした。

奥寺 12月の準々決勝でした。周囲から「そろそろ取るんじゃないか」と言われながら、なかなか取れずにいたんですが、2部のチームを相手にホームで2点決めました。

——1年目はリーグ戦で4ゴールを記録していますが、その4ゴールはすべてシーズン終盤の大事な場面でのゴールでした。

奥寺 確かに大事な試合でした。中でもシュトゥットガルトとのホーム最終戦でのゴールは重要でしたね。あの時点でメンヘングラートバッハ(ボルシアMG)と勝ち点で並んでいましたから、負けたら終わってしまう。そういう試合で決勝ゴールを決めたことは記憶に残っています。

——最終的にはブンデスリーガとDFB杯の二冠を達成しました。ドイツに渡って1年目から結果を残せた要因は何だと思いますか?

奥寺 まず周りの選手がよかった。当時のケルンには代表選手がそろっていたし、戦力的にも優勝を狙えるチームでした。そんなチームに呼んでもらって、戦力として貢献できたのはよかったですね。良い選手たちにうまく絡んでいくことができた。

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——ドイツでの生活にはすぐに馴染めましたか?

奥寺 最初はバタバタでした。10月にドイツに渡って、11月に家族が来て、2月には息子が産まれて、そこからシーズンが佳境に入って……。慣れるというよりは、目の前のことをただこなしていくという感じでしたね。先のことを考える余裕もなかったし、与えられたことをしっかりとこなしていくだけでした。

——海外に挑戦した選手が精神面で苦しむケースは少なくありません。

奥寺 僕の場合は家族がいたことが大きかった。練習が終わった後、家で待っていてくれる人がいるというのはやはり大きいですよ。だからホームシックのようなものも一切なかった。もし離れて暮らしていたら、会いたくなっただろうし、苦しい時についつい弱気になっていたかもしれない。そういう意味で家族の存在は本当に励みになりました。妻は出産もドイツでしましたが、そういう中で僕がサッカーに集中できる環境を作ってくれたことには本当に感謝しています。

——言葉の面で不自由しなくなったのはいつ頃ですか?

奥寺 最初は練習の前後でドイツ語学校に通っていました。3カ月ぐらい通ったかな。その後は片言ながらチームメイトと会話をして、少しずつ、少しずつ覚えていった感じです。ただ、細かいニュアンスも含めて本当に理解できるようになったのは2年ぐらい経ってからですね。

——海外でプレーする上でやはり言葉は重要なポイントですか?

奥寺 自分の考えをちゃんと相手に伝えること、監督がミーティングでどんな指示を出しているかしっかりと理解すること。細かいニュアンスまで理解できるかどうかも含めて、そこは大事だと思います。

■ドイツで9年間やってきたことの意義
——2年目には欧州チャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)にも出場しています。この大会の思い出を聞かせてください。

奥寺 1回戦、2回戦の記憶はあまりないんですが、ノッティンガムでの試合はよく覚えています(準決勝でイングランドのノッティンガム・フォレストと対戦)。後半からピッチに入って、終了間際に同点ゴールを決めました(試合は3ー3の引き分け)。残念ながらホームでの第2戦には負けてしまいましたけど、あの一戦に懸ける選手たちの熱量やサポーターの盛り上がりというのはすごかったですね。

——ケルンのサポーターはとても熱狂的という印象があります。

奥寺 もちろん、当時から熱狂的でした。あれがドイツ人の気質というか、自分たちのクラブを必死に応援する感じは当時からありましたね。昔はファンの間でいざこざも多かったですし、若い女性や子どもはなかなかスタジアムに行けない雰囲気がありました。

——ケルンでは3年間プレーしましたが、バイスバイラー監督の退任もあって、1980年に当時2部のヘルタ・ベルリンに移籍しました。2部でプレーすることに迷いや葛藤はなかったですか?

奥寺 全くなかったですね。ケルンでは試合に出られなかったので、だったら試合に出られるチームに移りたいと思った。当時はエージェントがいなかったので、フロントに「どこかチームを探してくれ」と頼みました。そうしたらすぐにヘルタの名前が挙がったんです。当時のヘルタは2部の優勝を狙っていて、「一緒に1部に昇格したい」という話を聞きました。それが新たなモチベーションになりましたね。

——翌年にはブレーメンに移籍してブンデスリーガの舞台に復帰しました。当時の監督はオットー・レーハーゲルでしたが、彼はどんな監督でしたか?

奥寺 選手の特性を生かしたチーム作りをする監督という印象があります。とにかくサイド攻撃が大好きで、いつも「サイド! サイド!」と言っていたし、サイドの選手が後ろからどんどん味方を追い越してクロスを上げる、というサッカーを好んでいました。それほど細かいことを言うタイプではなかったですけどね。

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——レーハーゲル監督の下でいろいろなポジションをこなしたと聞いています。

奥寺 ケルンに加入した頃は左ウイングでしたが、両足が使えたので試合中に右サイドと入れ替わってプレーしたり、MFとしてもプレーしたりしました。ヘルタではサイドでうまくいかずボランチでもプレーしましたし、初めて右サイドのディフェンスをやったのもその頃です。それからはいろいろなポジションをやるようになりました。

——ご自身のプレースタイル、持ち味はどんなものでしたか?

奥寺 若い頃は前線でプレーすること、点を取ることが好きで、スピードもそれなりにあったのでウイングは合っていたと思う。でも年齢を重ねるうちに「後ろのポジションもいいな」と思い始めました。相手のプレッシャーが少ない分、後ろのほうがうまくプレーすることができたんです。とにかく、どのポジションにも新しい発見があって面白かったですね。

——当時のブンデスリーガのレベルはどうでしたか?

奥寺 当時の西ドイツ代表のレベルを考えてもらえれば分かりやすいと思います。ヨーロッパの中でも上位でしたし、イングランド、スペイン、イタリアと比べても遜色はなかったと思う。

——一緒にプレーした選手、対戦した選手で特に印象に残っているのは誰ですか?

奥寺 個人がどうこうというのはあまりないんですが、例えばバイエルン・ミュンヘンには(カールハインツ)ルンメニゲがいましたし、ブレーメンでチームメイトだった(ルディ)フェラーもすごかった。後に台頭してくる(ユルゲン)クリンスマン、(ローター)マテウスなんかも素晴らしい選手でしたね。

——まだ日本にプロリーグがない時代のチャレンジでしたが、そういう時代にブンデスリーガでプレーしたことの意義についてご自身ではどのように捉えていますか?

奥寺 ドイツでやっていた頃はあまり考えたことがなかったんですが、日本に帰って来た時に、日本サッカー協会が初めてスペシャル・ライセンス・プレーヤー(事実上のプロ選手)として認めてくれました。日本人選手のプロ化のきっかけを作れたことが、ドイツで9年間やってきたことの意義なのかなと思います。

■「若い世代に経験を伝えてほしい」
——長谷部選手について伺います。今回の記録更新について率直な感想を聞かせてください。

奥寺 うれしいですね。長くやっていなければ破ることができない記録でしたし、本当によくやってくれたなと思います。いろいろと状況が変わる中で、ケガが少なく、カードも少なく、何より監督やチームメイトの信頼を勝ち取ってきたことが大きい。235試合というのはいろいろな要因がそろわないと成し得ない数字ですし、彼の努力、人間性、体とメンタルの強さ、すべてが重なった結果だと思います。

——長谷部選手はドイツに渡ってすぐにブンデスリーガを制し、これまで3つのクラブを渡り歩いてきました。ご自身のキャリアと重なる部分もあるのでは?

奥寺 長いキャリアを築くためには、まず彼を必要とするクラブがなければならない。彼にはそれがあったということですよね。今は一つのクラブで長年プレーするケースが減っていますが、そういう状況下でしっかりと自分で判断し、臨機応変にクラブを代えてこられたのも記録達成の要因かもしれませんね。

——日本人選手が当たり前のようにブンデスリーガでプレーしている現状をどう見ていますか?

奥寺 率直にうれしいですよ。ドイツはヨーロッパの中でも特に日本人選手を受け入れてくれている。それだけ日本人の良さが理解されているということだと思います。もちろん、日本人の真面目さや献身性というのが、ドイツの国民性、気質に合っているのも大きいですね。

——ドイツとの相性の良さはご自身の現役時代から感じていたことですか?

奥寺 僕自身が初の日本人プレーヤーだったので、ドイツ人はまだ何も知らない状態でした。もちろん、日本人の良さというものはある程度理解してくれていましたが、それは日本人全体というよりも僕個人に対してのイメージだったように思います。それが今では日本人選手に対するイメージが確立され、その特徴が評価されるようになりました。ただし、今後は足りないもの、欠けているものに対しての要求も高まっていくでしょうから、その要求にどう対応していくかがポイントかもしれません。

——今もドイツとのつながりはあるのですか?

奥寺 頻繁にコンタクトを取ることはないですが、誰かが日本に来た時に会う機会はありますし、僕がドイツに行った時も古巣を訪れたりすることはあります。

——長谷部選手にメッセージをお願いします。

奥寺 まずは「おめでとう!」と言いたいですね。まだまだできると思うし、ケガに気をつけて、これからもどんどん試合に出続けてほしいです。

——今後の長谷部選手に期待することは何ですか?

奥寺 機会があれば、彼がやってきたことをぜひ日本の若い選手たちに伝えてほしいですね。僕がプレーしていた頃とはまた環境も違うと思うし、彼にしか知り得ない部分は多いと思います。今の若い世代は「世界はすぐそこにある」という感覚を持っていて、多くの選手が世界を目指している。そうした若い選手たちに「世界の厳しさ」を伝えられるのは彼しかいないと思います。
via bundesliga.com

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