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元日本代表GK:川口能活が今季限り43歳ので引退を発表…Jリーグ通算506試合出場 はてなブックマーク - 元日本代表GK:川口能活が今季限り43歳ので引退を発表…Jリーグ通算506試合出場

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 元日本代表で現在明治安田生命J3リーグのSC相模原に所属している川口能活が今シーズン限りでの現役引退を発表した。なお、クラブは12月2日のJ3第34節・鹿児島ユナイテッドFC戦後に引退セレモニーを行う予定だと公式HPで伝えている。
 同選手は引退に際し、公式HP上で次のようにコメントしている。
「今シーズンで引退することを決めました。とにかく今は感謝の気持ちしかありません。僕がプレーした横浜F・マリノス、ポーツマスFC、FCノアシュラン、ジュビロ磐田、FC岐阜、SC相模原の各クラブに携わるすべての方々、応援してくれるサポーター、両親、家族、サッカー人生で出会い力をいただいた全ての人達、そして一緒にプレーした先輩方、仲間たちに感謝の気持ちを伝えたいと思います。自分の気持ちはまた改めて引退会見の場でお話させていただきたいと思います」
 現在43歳の同選手は、当時の横浜マリノスでプロデビューを果たすと、ポーツマスFC(イングランド2部)、FCノアシュラン(デンマーク)、ジュビロ磐田、FC岐阜とゴールマウスを守り、最後方でチームを支えた。Jリーグ通算506試合に出場し、1995年度にJリーグ新人王、2006年度にはJリーグベストイレブン、2008年度にはJリーグフェアプレー賞に輝いている。
 日本代表としては、通算106試合に出場し2度のAFCアジアカップ優勝を経験。FIFAワールドカップは、1998年フランス大会、2002年日韓大会、2006年ドイツ大会、2010年南アフリカ大会に選出されている。また、FIFAコンフェデレーションズカップ2001ではベストイレブンに選ばれるなど輝かしい経歴を残している。
via https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20181104/857847.html

川口能活(Yoshikatsu KAWAGUCHI)
■生年月日:1975年8月15日(43歳)
■身長/体重:180cm/77kg
■ポジション:GK
■背番号:1
■出身:静岡県富士市
■経歴:東海大一中→清水商高→横浜F・マリノス→ポーツマスFC(イングランド)→FCノアシェラン(デンマーク)→ジュビロ磐田→FC岐阜→SC相模原
■Jリーグ通算出場 Jリーグ通算506試合(2018年10月28日現在)
J1:421試合
J2:43試合
J3:42試合
■代表歴 日本代表通算116試合出場
1996年:U-23日本代表 1996アトランタオリンピック出場
日本代表A代表選出
1998年:1998 FIFAワールドカップフランス出場
2000年:AFCアジアカップ2000優勝
2001年:FIFAコンフェデレーションズカップ2001出場
2002年:2002 FIFAワールドカップ日韓選出
2004年:AFCアジアカップ2004優勝
2005年:FIFAコンフェデレーションズカップ2005出場
2006年:2006FIFAワールドカップドイツ出場
2007年:AFCアジアカップ2007出場
2010年:2010FIFAワールドカップ南アフリカ選出日本A代表
■ タイトル
1995年度:Jリーグ 新人王
2001年度:FIFAコンフェデレーションズカップ2001 ベストイレブン
AFC月間最優秀選手賞
2004年度:アジアカップ2004 ベストイレブン
2006年度:Jリーグ ベストイレブン 2008年度:Jリーグ フェアプレー個人賞

■コメント
「今シーズンで引退することを決めました。とにかく今は感謝の気持ちしかありません。
僕がプレーした横浜F・マリノス、ポーツマスFC、FCノアシェラン、ジュビロ磐田、FC岐阜、SC相模原の各クラブに携わる全ての方々、応援してくれるサポーター、両親、家族、サッカー人生で出会い力をいただいた全ての人達、そして一緒にプレーした先輩方、仲間達に感謝の気持ちを伝えたいと思います。
自分の気持ちはまた改めて引退会見の場でお話しさせていただきたいと思います。」

via http://www.scsagamihara.com/news/post/20181104001





・もし川口能活が登場しなかったら。日本サッカーを変えた男の引退。
 日本サッカーの潮流を変えた男が、今シーズン限りでキャリアに幕を降ろすこととなった。日本代表として4度のワールドカップに出場した川口能活が、11月4日に現役引退を発表したのである。
 プレーは革新的だった。
 GKに対する理解がいまよりもっと乏しかったJリーグ黎明期に、川口はそれまで知られていなかったこのポジションの本質を提示していった。GKはシュートストップだけでなくポジショニングやコーチングが大事であり、空中を舞うセービングはあくまでも最終手段に過ぎないといったことを、ひとつひとつのプレーを通して啓蒙していったのである。
 攻撃の起点となるプレーも、つねに意識していた。キックの精度は抜群で、日本代表では中田英寿と、横浜F・マリノスでは中村俊輔とのイメージの共有は印象深い。フィールドプレーヤーとしての感覚に優れ、素早い攻守の切り替えを実現した。
 フォトジェニックでもあった。フィールドプレーヤーにカベの位置を指示するGKがテレビ中継で抜かれるようになったのは、1996年のアトランタ五輪における川口がきっかけだったはずだ。眼光鋭くシュートに対峙するその姿は、女性ファンはもちろんサッカー少年をも惹きつけた。彼に憧れてGKを志し、Jリーガーや日本代表まで登り詰めた選手は少なくない。

■川口が登場しなかったら……。
 川口能活という選手が登場しなかったら、日本におけるGKへの理解は進まず、広がりも持てなかっただろう。その結果として、GK人口も停滞していたに違いない。日本サッカーの潮流を変えたとは、そういう意味である。
 先進的だったのは、プレースタイルだけではない。日本人GKとして初めて海を渡った。ドイツと並ぶGKファクトリーと呼ばれていたイングランドへ、2002年の日韓ワールドカップを前に乗り込んだ。

■25年のキャリアでもっとも厳しい時期。
 新天地に選んだのは、2部リーグのポーツマスだった。クロアチア代表MFロベルト・プロシネツキを同時期に獲得したチームに、プレミアリーグ昇格への即戦力として迎えられた。'98年のフランス・ワールドカップで対戦したふたりは当時の印象を胸に温めており、「ロビー」と「ヨシ」と呼び合う間柄となる。
 '01年11月のリーグデビュー戦は、勝利で飾った。しかし、ポーツマスではスポットライトの外側へ押し出されていく。プレミアリーグ昇格争いから遠のくチームで、日本からやってきたGKはスケープゴートにされたのである。
 ポーツマスで定位置獲得に至らず、日韓ワールドカップでも楢﨑正剛に正GKを譲ったこの時期は、25年に及ぶキャリアでもっとも厳しい時期だったかもしれない。

■ハイライトは、見る人の数だけある。
 キャリアのハイライトはどこだろう。彼のプレーを見つめてきた人の数だけ、答えがありそうだ。
 28年ぶりの出場でサッカー王国ブラジルを撃破した、アトランタ五輪の“マイアミの奇跡”か。
 鬼神のごときセーブでチームを窮地から救い出していった、'04年のアジアカップか。
 ダリオ・スルナのPKを止めた'06年ドイツ・ワールドカップのクロアチア戦か。
 得意のPK戦で2本のシュートストップを見せ、オーストラリアを下した'07年アジアカップ準々決勝か。
 自身のベストマッチを聞かれた川口は、「うーん……ひとつには絞れないですね」と唸るものだった。ひとつではなく3つ、4つと印象的な試合をあげるのがパターンなのだが、そのなかで漏れなくあがるのが2000年のアジアカップ決勝である。
 レバノンで行われたこの大会で、川口は苦しんでいた。グループリーグ初戦から爆発的な強さを見せつけていくチームで、彼だけは乗り切れずにいた。
 しかし、サウジアラビアとの決勝で本領を発揮する。恐るべきアウェイの空気のなかで、決定的なシュートをことごとく弾き返した。

■「日本のGKがカワグチだったから」
 1-0の勝利に貢献した川口のプレーは、サウジアラビアにとってどれほど衝撃的だったのか。レバノンでの対戦から6年後、アジアカップ予選で日本と相まみえたサウジアラビアの関係者は、1-0で日本に勝利した試合後に話した。
「日本のGKがカワグチだったから、実は今日も勝てないかと思っていたよ」
 ベテランと呼ばれる年齢に差し掛かってからは、「何歳までやりたいか」と聞かれることが増えていた。そのたびに、川口は少し困ったような表情を浮かべたものだった。
「何歳までって決めるとそこがゴールになってしまう気がするので、そういうふうには考えないようにしているんです。自分がやりたいと思っても、契約してくれるクラブがなければ続けることはできませんしね」
 心の内側を、もう少しだけ明かしたことがある。
「シルトンは40歳でイタリア・ワールドカップに出場して、そのあともクラブではプレーを続けたでしょう。僕も少なくとも40歳まではやりたいですね」
 '86年と'90年のワールドカップにイングランド代表の守護神として出場したピーター・シルトンは、川口が少年時代から背中を追いかけてきた先達のひとりだ。「少なくとも40歳まで」のあとに「45歳まではやりたいな」と続けたことがあり、「50歳までできる? どうかなあ」と笑顔をこぼしたこともあった。

■「まだできる」と自己評価の溝。
 ピッチの内外でストイックな川口は、自己管理という4文字をいつだって胸に刻んできた。明日のトレーニングに支障をきたすようなことは、徹底的に排除してきた。
 J3のSC相模原でプレーする現在も、自費を注ぎ込んで身体をケアしている。43歳となったいまでも、第一線でプレーできるコンディションは保っている。
 とはいえ、絶頂期のイメージがあまりにも鮮烈なだけに、小さな変化にも敏感になる。ひとつのミスさえ見過ごせなくなる。ハイレベルな領域で戦ってきたからこそ、譲れないものは多かったに違いない。第三者の考える「まだできる」との思いは、川口が自身に向ける評価の前では無力だった、ということなのだろう。

■「僕が日本代表にもたらした勝点は『1』」
「ワールドカップに4回出たって言われるけど、ワールドカップで勝ったことはないんです。'06年のクロアチア戦に引き分けただけで、僕が日本代表にもたらした勝点は『1』しかない。それが悔しくて、残念で」
 現役を続けていく原動力となっていた満たされない思いは、これからも彼を支えていくに違いない。指導者ライセンスの取得はすでに進めているが、引退後を見渡すのはまだ少し早い。12月2日のJ3リーグ最終節まで、川口は現役だ。
 鹿児島とのホームゲームとなる最終節では、試合後にセレモニーが予定されている。初冬の空は青く高く澄み渡り、彼の門出を祝福するに違いない。
via https://number.bunshun.jp/articles/-/832410

・【会見要旨】引退表明の川口能活「決断は後悔していない。次は指導者として経験を伝えたい」
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 今季限りでの現役引退を表明した元日本代表でJ3のSC相模原に所属するGK川口能活が、14日に相模原市内で記者会見を行った。

■引退を決めた理由は?
――これだけ多くの人が集まっていますが、どんな気持ちでしょうか。
先ほど、会見の前に(MCの)ケチャップさんがこの風景の写真を僕に見せてくれました。その時に、僕のために、これだけのみなさんが集まってくれたことに、本当に感謝の気持ちしかありません。多くの人に支えられて、選手として、サッカー選手として続けることができました。

自分が、まず、サッカー選手として必要な丈夫な体を授けてくれた両親、サッカーに出会わせてくれた兄、指導していただいた先生方、それから、プロ選手として認めてくれた横浜マリノス、ポーツマスFC、ノアシェラン、ジュビロ磐田、FC岐阜、SC相模原のクラブの皆様、そして、アドバイスあるいは常にサポートしていただいた方々、ともにプレーした先輩方、仲間たちには、時には後ろから聞きたくないようなコーチングを……うるさいと思っていたと思うんです。そういう、うるさいコーチングも、快く受け入れてくれた選手のみなさま、そして、家族、子供たち、そして妻。本当に感謝の気持ちしかありません。

――引退を決めた理由について。
実は、この1、2年ぐらいですね、プレーを続けるか、あるいは引退するか、その狭間で揺れていました。サッカーは大好きですし、続けたい。でも、試合に出られない時もありましたし、揺れてはいたんですけど、今年のロシア・ワールドカップをはじめ、日本代表の戦い、各カテゴリーのアジアでの戦いぶりを見まして、僕が代表でプレーしていた時よりも、上のレベルというか、世界で戦える日本のサッカーになってきているなと思ったんですね。その状況の中で、また違った形で貢献したいなと。日本サッカーに、自分が選手としてではなくて、違った形で貢献したいという思いが強くなって、それで引退する覚悟を決めました。

――誰かに相談はしたか?
最初に相談したのは、良い時も悪い時も、常に近くで支え、応援してくれていた妻に、まず相談しました。良い時というのは、何をやってもうまくいくんですけど、自分が思い通りにいかない時というのは、周りに当たってしまったりとか、傷つけたりもしたこともある。そういった時でも、常に近くで支えてくれた妻に、まずは相談しました。

――背中を押してくれましたか?
一番身近で見ていますから、僕が続けたいと伝えた時も、「もういいんじゃない」というやり取りがあったんですけど、最初に僕が辞めると伝えた時には、「なんで?」と。常に僕の逆をついてくるというか、そういうやり取りがあったんですけど、最終的には僕の意思を尊重してくれました。

――決断して、この日を迎えた気持ちは?
やり遂げた気持ちと、まだできるというか、体はすごく元気なので、完全燃焼したかといえば、まだ余力はあるんですけど、ただ悔いはないし、自分が常にピッチ上で、あるいはピッチ外でもベストを尽くしてきて、この決断に至ったので、後悔はしてませんし、次のステップに行くという、強い意思はあります。

――現役生活で一番うれしかったこと、一番悔しかったことは?
うれしかったことは、試合に勝って、自分がプレーして、優勝した瞬間。一番辛かったことは……うーん、なんでしょう。良いことも、悪いことも、数多く経験してきたので、辛いことはサッカーができなかったときですかね。ケガあるいは試合に出られなかったこと。そういう時は一番辛かったと思います。

――自分自身が一番驚いたセーブは?
いくつか挙げたほうがいいですか? まずは、アトランタ・オリンピックでブラジルと対戦した時に、ロベルト・カルロス選手のシュートをキャッチした時です。自分でもキャッチできるとは思っていなかった。トレーニングでもマリオGKコーチからとにかくキャッチだと。キャッチしないと終わらせてくれなかった。その賜物でキャッチすることができました。数多くあるんですけど……ドイツ・ワールドカップの時にジュニーニョ・ペルナンブカーノのシュートを止めたけど、ちょっとでも指の位置がずれていたら折れていたかもしれないぐらい強烈なシュートだった。他にもあるけど、自分の中では忘れられないものです。

――理想のGK像というのは?
自分のプレースタイルというのは、サッカーとともに進化させないといけないんですけど、ゴールマウスをしっかり守るというのは前提の上で、より攻撃的に、広い守備範囲がベースになって、攻撃的なフィード、常に攻撃の第1歩としてプレーする。失敗を恐れない。それが理想のGKだと僕は思います。

――それに近づけましたか?
今まで、一度も自分が完成形の近づいたと思ったことはなかったので、自分にはできなかったことを、将来自分が指導者になった時に。そういう選手を育てたいなと思います。

■引退後のプランは?
――今後については、どのように考えているか。
自分はやっぱりサッカーでここまで、人生を歩んできたので、やはり現場で、指導者として、自分の経験したことを伝えたい。サッカーは常に進化していますから、自分も指導者として、そのための勉強をしていきたい。指導者としての歩みを始めたいと思っています。

――今の日本代表にワールドクラスのGKがいれば、もっと上位を狙えるのではないかという指摘がある。マイアミの奇跡の立役者となって4度のW杯出場、この経験を生かしてワールドクラスのGKを育てて欲しいという声があるが。
GKが人気のあるポジションになるためにはどうしたらいいか。どうすれば、みんながGKを一番最初にやりたいとなるか、というところだと思うんです。ですから、GKのプレーのかっこよさというか、ただダイブすればいい、ただセービングすればいいという問題ではないですが、見た目の派手なプレーというか、動きがかっこいいと思えるところから入るのもありかなと思うんです。
ですから、フォームというか、形にこだわって。見栄えって僕は大事だと思うので、容姿とかそういうことではなく、プレーのかっこよさということで、そういう選手が出てくる、あるいは自分が育てれればいいかなと思うんですけど。まだそのノウハウもないし、指導実績もないので、これから勉強していきたいなと思います。

――SC相模原で選手生活の最後を迎えたが、どういう意味を持っているのか。
自分が代表、あるいはJ1、J2とプレーしてきた中で、J3でプレーするというのは自分の中での挑戦でした。その中で適応するための努力はしてきたし、もちろん厳しい状況もありましたけど、サッカーができる、サッカーが好きというのを再認識できた。プレーできる喜びを実感できた。そして選手、あるいはスタッフの絆。カテゴリーが下がるほど、スタッフも少ないし、それからボランティアの数も多いんです。そういうところを目の当たりにして学ぶことができた。
出場機会も減っていき、自分が選手として納得のいく結果を得られたかどうかは疑問に思うところもあるかもしれないですけど、自分が当たり前に思っていたことを、また大切さというのを知ることができた。非常に濃い経験ができた3年間だったと思います。

――GKを始めたきっかけは?
僕には兄がいるんですけど、その兄の勧めです。兄が公園でサッカーチームに入る前からGKの練習をしてくれた熱心な兄だったんですけど、やはり『キャプテン翼』ですね。僕はどちらかというと、翼くんや日向くんより若林くんや若嶋津くんにあこがれていました。

――GKというポジションが与えてくれたもの、ことは。
何をもたらしてくれたかというと、僕は上背があるわけではないし、その中で、練習をして、努力を重ねて、これだけのプロ生活を送ることができた。努力をすることの大切さ、常に自分は代表クラス、ワールドクラスのGKに比べて、身長がないと言われ続けて。高校生の時まではほとんど言われなかったんですけど、プロの世界に入って言われるようになって。強がってはいましたけど、内心、悔しさというか。身長がないことはどうしようもないですよね。それをなんとかしたい。動きの速さだったり、ジャンプ力だったり、自分にとってのコンプレックスを克服する。足りないものを努力するためのエネルギーというのを、GKを始めることで知ることができた。エネルギーを出すやり方、手段というのを学ぶことができたと思います。

――お兄さんや家族にこの引退のことを報告された時は、どんなリアクションだったんですか。
父と母は、内心ホッとしてました、僕が大きなケガをして続けていることが辛そうに見えたみたいなんです。だからホッとしていました。ただ兄は、改めて引退するということはリリースする前には伝えたんですけど、そのリリースが出た時に、寂しさというのは実感として湧いてきたという話はしていました。そのあとに会った時にもお前らしく頑張れと、結果を出してここまでやってきたんだから、また次のステージに行っても頑張れと声をかけてくれたけど、内心悔しさというか、まだまだやれるだろうという思いもあったみたいです。

――GKとしてもっとも大事にしてきたものは。
GKというのは最後の砦で、頼れる存在であるべきだと思うんですよね。自分にとって、環境の変化、心情の変化によってプレースタイルが変わり、若い頃のアプローチと、中堅、ベテランになっていくアプローチをまた変えていくという作業を続けていく中で、全てにおいて、進化、あるいは変化を加えていくべきポジションなのかなと思いつつ、ただ、自分の中で譲れないものというか。そういう強さもしっかりないといけない。そのバランスが非常に重要なポジション。ごめんなさい、他のポジションをやったことがないので、そこまで断言はできないんですけど、自分らしさ、信念、プラス、変化に応じての適応力、そのバランスがより高いレベルで求められるものがGKなのかなと。ただ、考え過ぎても、そこは難しい。自分らしさというのもしっかり、全てにおいて頼れるポジションでなければいけないんじゃないかと思います。

――その中で大切にしていたものは?
やっぱり不動のメンタルですかね。メンタルの浮き沈みがあってはいけない。浮き沈みがあったときに隙を突かれるし、自分のプレーするカテゴリーも下がっていったと思います。

――もう一度、サッカー人生を歩むなら、どのポジションがいいですか?
やっぱり、GKですね。大変なこともありましたけど、GKの練習が好きですし、もう一度サッカーをやれるとしても、もう一度GKをやると思います。

■最後までプロ選手としてやるべきことを全うしたい
――静岡のファン・サポーターへの一言。静岡時代の思い出は。
まず、小学校、中学校、高校と僕のサッカーの、やる上での礎を作ってくれた指導者のみなさんに感謝の気持ちを伝えたいし、ジュビロ磐田に入るときに静岡のみなさんが温かく歓迎してくれたことは忘れません。長い間応援していただいてありがとうございました。感謝の気持ちしかありません。

――横浜マリノスはどんな存在だったのか?
Jリーグが始まる前、前身の日産自動車時代から憧れがありましたし、横浜マリノスになってからも常に上位を争って、GKに当時日本代表でプレーしていた松永成立さん。松永さんの存在が非常に大きくて、将来自分が日本代表になるためには松永さんから吸収して、成長しないと日本代表になれないという思いがありました。自分が横浜マリノスを選んだ理由といのは、松永さんの存在が大きかったです。

――マリノスから一番学んだことは?
マリノスに入団した時に、元日本代表や日本代表の方々がいて、ものすごい強烈なオーラを放っていまして、とても気軽に話せるような環境ではありませんでした。「ああ、日本代表、Jのトップクラスというのは、こういうオーラが必要なんだな」と思いました。プレーするだけじゃない、また違った雰囲気を出すことも大事なんだと。もちろん、サッカーにおけるレベルの高さ、質の高さも学ぶことができましたけど、それだけじゃない選手として必要なオーラをマリノスに学びました。

――このゴールを決められてやられたなというのがあれば。このゴールが決まってうれしかったのは?
今まで受けたシュートで一番強烈だったのは、ドイツ大会のブラジル戦の時に受けた、ジュニーニョ・ペルナンブカーノの2点目のゴール。あのシュートはもう一度受けても……もしかしたら今だったら予想できるかもしれませんが、あの衝撃は今でも覚えています。素晴らしいシュートでした。

一番印象に残っているゴールは、いくつもあるんですけど、一つはオリンピック出場を決めたサウジアラビア戦、マレーシアで行われた準決勝で2-1で勝った試合の2点目のゴールですね。前園(真聖)さんが松原(良香)さんとのワンツーから決めた。ジョホールバルでの、中田英寿のミドルシュートからの、岡野(雅行)さんのこぼれ球のゴール。あの2つのゴールは、世界大会に出るために必要なゴールだったので、自分にとってはかけがえのないゴールですね。

――プロとしての基礎を作られたのは高校時代だと思いますが、母校の清商への思い、大滝先生にはどんなことを伝えたのか。
自分が在籍していたチームには同じような特別な思いはあるんですけど、清商時代はキャプテンとして全国制覇を成し遂げたので、思い出深いチームです。大滝先生には引退しますというのを伝えた時に、指導者として能活が経験したことを伝えてほしいと。W杯に4回出ているのはお前しかいないんだという声をかけてくれて、その経験を伝えてほしいと。

――50以上あるクラブの中でSC相模原で最後を過ごして、田中雄大という20歳以上下の選手とプレーしましたが、彼に引退を伝えた時のリアクションは。
ちょっと見てないんですけど……まだ3試合残っていますし、トレーニング期間も3週間あるので、田中雄大なりの何かがあるんじゃないかなと思いますけど。

――引退を伝えた時の子どものリアクションは?
プレスリリースが出る前に息子には話していて、最初は「いいよ」と言ってたんですけど、先日練習試合があった時に、「パパ、12月2日で引退するの?」って聞いてきたんです。「引退するよ」って言ったら、突然寂しくなってしまったみたいで。少しずつ、いろいろなことがわかる年齢にはなってますけど、自分の息子が記憶に残るまでプレーできたことは誇れることかなと思います。

――代表でも、これまでの所属チームでも、PKを止める姿が印象に残っているが、心がけていたことや、コツみたいなものがあれば教えてください。
特にないんですよね(笑)。目力で相手を威圧するぐらいですかね。特に、最近はキッカーの質も非常に上がってますし、PKを止めるGKも増えていますので、特にコツというのは、ないです。相手をいかに威圧するかだと思っています。
ケチャップさんがこの会見の風景を、写真を撮っていただいた時に、その写真を見て、実は会見をする前に泣いてたんです。これだけの多くの方が来てくれるとは思っていませんでした。自分にとって川口能活というのは、この1年、2年なんです。自分が代表で、J1でプレーしていた時の川口能活は過去のものなんです。ですから、僕のためだけにこれだけの方が集まってくれた。もしかしたら、自分がプレーしてきた中で今日が最高にうれしい日です。プレーを続けてきて、正直大変なこと、辛いことのほうが多かったです。でも、今日、これだけの方々が来ていただき、全て過去のものになりました。
あと、残り3試合。それから、トレーニングは2日までですから3週間あります。最後、プロの選手として、やるべきことを全うしたいと思っておりますし、皆さんにしっかり恩返しできるように、ただ最後の試合も出場確定ではありません。今まで通り、試合に向けての準備をしっかりしたいと思います。今日は、自分がプレーしてきた中で、最も喜ばしい日になりました。みなさん、ありがとうございました。
 via https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20181114/863315.html


・川口能活がいま引退を選んだ理由。燃え尽きてはいない、次の情熱へ。
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  https://number.bunshun.jp/articles/-/832533

・川口能活が日本サッカーに残した最大の功績 時代を先取り確立した「攻撃的GK像」
■今季限りで25年間のプロ生活に終止符、GKのイメージを変えたパイオニア的存在
 J3のSC相模原に所属する元日本代表GK川口能活が、今季限りで現役生活にピリオドを打つことを発表した。1996年のアトランタ五輪でブラジル代表を破る「マイアミの奇跡」を演じた守護神は、43歳にしてそのキャリアを終える。川口は日本人GKとして、プレーでもパイオニアになった存在だった。
 川口の名前がサッカー界で脚光を浴びたのは、清水商業高校(当時)のキャプテンとして全国高校サッカー選手権を制した時だった。Jリーグ初年度となった1993年度の大会で、準決勝では後のチームメートになる元日本代表FW城彰二を擁する鹿児島実業高校を相手にPK勝ちし、決勝では国見高校を破った。そして、翌年から横浜マリノス(当時)に加入する。
 そこに立ちはだかっていたのは「松永さんの存在が非常に大きくて、自分が将来、日本代表になるためには松永さんから吸収して、壁を越えないといけないという思いがありました」と話した、元日本代表GK松永成立の存在だった。
 しかし、プロ2年目の95年に当時のホルヘ・ソラーリ監督の推し進めた若返り策もありレギュラーに定着。その後はアトランタ五輪から98年フランス・ワールドカップへと、日本代表GKとして認知されるようになっていった。
 川口のプレーの特徴は、攻撃性だった。今ではGKがビルドアップに関わることや、最終ラインの背後に出たボールに飛び出して処理すること、高く浮き上がるボールではなく、ライナー性のボールで前線につなぐことなどは当たり前になった。しかし、これらのプレーは川口こそが日本のパイオニアだったと言える。本人が「コンプレックスがあった」と話す身長も、そうした能力を磨く要素だったのかもしれないが、ゴールマウスに構えてシュートを止める専門家というイメージを変えたのは川口だった。
 そのことは、川口本人も引退会見でこのように話している。

■川口のプレーに日本サッカー界の理解が追いついた
「サッカーとともに進化させなければいけなかったんですけど、ゴールマウスをしっかり守ることを前提に、より攻撃的なフィード、常に攻撃の第一歩としてプレーする。そして、広い守備範囲でゴールを守ること」
 川口はともに進化したと話すが、俯瞰してみれば川口のプレーに日本サッカー界の理解が追いついたと言うほうが適切だったのではないだろうか。
 アトランタ五輪への出場は28年ぶりであり、「マイアミの奇跡」と呼ばれたブラジル戦では28本のシュートをセーブしたことが脚光を浴びた。W杯への初出場も、彼が正GKとして引き寄せた。しかし、そうした表面的な実績よりも、日本のGK像を進化させた功績のほうが、現在にもつながる大きな功績だったと言えるのではないだろうか。
 川口がプロになってから、今年で25年目になる。四半世紀をプロサッカー選手として過ごした男は、間違いなく日本人GKのレベルを一段階上に、そしてその先の方向性を示した存在だった。
 via https://www.football-zone.net/archives/147998
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