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淡路島が徳島から兵庫へ編入となった理由~庚午事変に光 はてなブックマーク -  淡路島が徳島から兵庫へ編入となった理由~庚午事変に光

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 「あの事件」さえなければ、淡路島は兵庫県ではなく、徳島県だったかもしれない。「あの事件」とは、明治初期の洲本城下町で起きた「庚午(こうご)事変(稲田騒動)」。江戸時代は徳島(阿波)藩領だった淡路島が兵庫県に編入される発端となった史実をもっと知ってもらおうと、関係者の子孫らが、先人の足跡を紹介する取り組みを続けている。
 庚午事変とは、1870(明治3)年、徳島藩の一部藩士らが、同藩筆頭家老として淡路を任されていた稲田家と対立する形となり、稲田家臣の家などを襲った事件。徳島藩側が処罰を受け、淡路島が兵庫県に編入される契機となった。
 2013年、稲田家の子孫らが事変で焼失した学問所益習館(えきしゅうかん)にちなみ、市民グループ「益習の集い」を設立。一般の参加者と洲本市内に残る石碑や墓を巡る歴史ウオークなどの活動を続ける。
 ゆかりの地の一つ、江国寺(こうこくじ)には犠牲者を弔う招魂碑があり、側面に「三宅達太郎」の名が刻まれる。稲田家の武道師範を務めていた達太郎は事変で自決。グループ会長で、達太郎のやしゃごにあたる三宅玉峰(ぎょくほう)さん(63)=同市=は「当主のために家臣は無抵抗を貫いたが、武道の達人だった高祖父は何もせず敵の手にかかるのが屈辱だったのでは」と話す。
 グループが14年から続ける追悼式では稲田家だけでなく、徳島本藩側の死者も合わせて慰霊することにこだわった。「両者とも時代に翻弄(ほんろう)された。恩讐(おんしゅう)を超えて、和解する機会としたかった」と三宅さん。交流は重なり、徳島市のNPO法人と徳島藩主が愛したという「蜂須賀桜」を洲本市内の神社に植樹。徳島県美馬市では、事変後に北海道の開拓に尽力した稲田家臣らの功績を伝えるパネル展が催された。
 事変は、船山馨の小説「お登勢」が原作のNHK時代劇や、北海道で苦闘する家臣らを描いた映画「北の零年」で取り上げられてきたが、地元淡路島でも事変や稲田家を知らない人は少なくない。
 益習館は江戸後期に頼山陽(らいさんよう)ら高名な学者を招くなどして多くの人を育てた。三宅さんは「その精神を継ぎ、地元に誇りを持てる人材の育成に少しでも貢献したい」と話している。

 【庚午事変(稲田騒動)】1870(明治3)年5月、徳島藩の筆頭家老で洲本城代を務めた稲田家の家臣宅を、徳島藩士が襲撃。稲田家側の17人が死亡(自決2人を含む)、約20人が重軽傷を負った。前年の「禄制(ろくせい)改革」で、陪臣(家臣の家臣)である稲田家臣は士族に加えられず、士族編入を嘆願し、分藩独立運動へ。これを藩主・蜂須賀家への不忠とみた徳島本藩の家臣が暴発した。明治新政府は首謀者らを切腹や流罪などとし、稲田家側には北海道への移住を命令。翌71年には淡路島北部が、最終的に全島が兵庫県に編入されたのは、事変のしこりを後世に残さないためとされる。
via http://www.kobe-np.co.jp/news/shakai/201606/0009176167.shtml

・庚午事変 : Wikipedia

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真田家が徳川家の大群を打ち破った「第一次上田合戦」とは? はてなブックマーク - 真田家が徳川家の大群を打ち破った「第一次上田合戦」とは?

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■徳川の大軍を真田が打ち破った「第一次上田合戦」
もともと武田勝頼に臣従していた真田家は、武田家が織田信長に滅ぼされた後、生き延びるために北条、徳川、上杉…と次々と主を変える。
裏切られて業を煮やした徳川家康は、天正13年(1585年)、自らが真田昌幸に築かせた上田城に約7000と言われる大軍で攻め寄せる。
上田城は、長野県北部に位置する交通の要衝。攻める大将の鳥居元忠は、後に関ヶ原の前哨戦、伏見城の戦いで壮絶な討ち死にを遂げた猛将だ。
守る真田家は、草刈正雄演じる昌幸が知勇を兼ね備えた謀将とはいえ、兵力はわずか2000。同盟する上杉家も国力が疲弊しており、たいした援軍は期待できない。まさに絶体絶命の戦いと言える。

■「ひきつけて討つ」真田流の真骨頂
押し寄せる徳川の大軍に対して、父・昌幸は上田城に、大泉洋が演じる長男・信幸は近くの砥石城に籠城。上田城に攻めかかる徳川軍に対して、真田の前衛は早々に城内へ撤退。
勢いをかった徳川方は、城の二の丸まで攻めこむが、じつはこれ、昌幸が仕掛けた罠。大軍が活かせない城内に引きずり込まれた徳川軍は集中攻撃を受けた上に、城下町を火攻めにする作戦で退路を断たれ、混乱状態に。
そこへ城内からは昌幸の手勢が、砥石城からは信幸勢が追撃し、徳川軍は壊滅。近くの神川で溺れ死んだ者を含めると1300名もの死者を出したという。一方の真田方の死者は約40名という圧勝劇だ。

■この遺恨が二度の戦いにつながる
当時、羽柴秀吉とも対峙する大大名だった徳川家を破った真田家は、地方豪族から「信濃の大名」として地位を固めてゆく。
慶長5年(1600年)、関ヶ原へ向かう徳川秀忠軍を足止めした第二次上田合戦でも、徳川軍はふたたび「ひきつけて討つ」 真田の戦法で煮え湯を飲まされることに。
そしてドラマのタイトルともなった「真田丸」は、大阪冬の陣で大軍をひきつけて集中攻撃するため、大阪城の南側に信繁がつくらせた出城だ。徳川軍は、最後まで真田の戦い方に手を焼き続けたと言えるだろう。・・・
 via http://sirabee.com/2016/04/03/105116/

・よくわかる第一次上田合戦:攻城団ブログ
 http://kojodan.jp/blog/story/2615.html

・第一次上田合戦_上田城の戦いに見る真田昌幸の戦略!!:セレクト日本史
 http://pleasure-bit.com/1163.html

・上田合戦:Wikipedia

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白の姫路城(白鷺城)と黒の松本城(烏城)の歴史に迫る~なぜ色が違う?~ はてなブックマーク - 白の姫路城(白鷺城)と黒の松本城(烏城)の歴史に迫る~なぜ色が違う?~

 そこにあるのは、今に残る歴史の跡か、はたまた戦国武将達の熱いドラマか……。昔日の姿を私達に教えてくれる全国のお城には、どのような歴史があって、またどのような人が建てたのか? そんな疑問に答えるのが『歴史を訪ねる 城の見方・楽しみ方』(小和田哲男/池田書店)です。この本では、お城に関する豆知識をはじめ、全国のお城の歴史・特徴と簡単なアクセスが紹介されています。

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 現在では観光スポットとして有名になっている各地のお城……戦国時代には、これらのお城は全国に約3万から5万はあったといわれます。しかし、現代にいたるまで天守閣が残っているお城は、実はたったの12しかないのです(天守閣が消滅しつつも、一部の建造物が残っているお城は結構あります)。こうなった理由は、1615年に江戸幕府が発令した「一国一城令」の影響も大きいですが(これにより、全国に数万あったお城が、一気に170まで減りました)、大幅に減少したのは1863年のの事です。この頃に、維持費が払えない、木材としての利用価値があるという理由から、大半のお城が撤去される事となってしまいました。現代の人……それも歴史好き・お城好きの人からすれば「なんてもったいない事を!」と言いたくなる行為ですが、その裏には、財政難という切実な問題がありました。中には撤去費用すらなく放置されたお城(姫路城など)さえあった事からも、当時の人達がどれだけお金に困っていたかがうかがえます。ちなみに、お城に対し文化的価値を認めた地元の有力者の尽力により保存されたお城(松本城など)もあり、これに関しては「グッジョブ!」と言いたくなる人も多いと思います。

「現代にいたるまで天守閣が残っている」12のお城は、姫路城・松本城・彦根城・犬山城・弘前城・丸岡城・備中松山城・松江城・丸亀城・伊予松山城・宇和島城・高知城、です。中でも、姫路城は国宝と世界遺産に登録されているので、まさに「日本のお城」の代名詞と言えるしょう。

 姫路城は、別名を白鷺城といいます。その原型ともいえる姫山の砦は、1333年に赤松氏によって築かれ、その後1580~1601年の戦国末期に、池田輝政が大改修を行った事で、現在の姫路城の形となります。西国の諸国大名を抑える為の拠点として重要視されていたので、今に残るほどの大きな城郭となったのです。現在残っているのは、大小天守4棟と渡櫓4棟の計8棟、他に重要文化財の櫓16棟・渡櫓11棟・門15棟・塀32棟……と、合計82の建造物が現存しており、これらは江戸期の姿をそのまま留めています。外見的な造形美もさる事ながら、ここに暮らした徳川秀忠の娘・千姫にゆかりある西の丸や、かの有名な播州皿屋敷伝説を残すお菊井戸など、隠れた見所がたくさんあります。

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 地元有力者の尽力によって、明治初期の財政難を生き抜いた数少ないお城が松本城です。黒い輝きを放つ大天守と小天守の佇まいから、烏城(からすじょう)の別名もあるこのお城は、実は最初から松本城だったわけではありません。前の名を深志城といい、1504~1520年に小笠原氏によって築城されたのが始まりとされます。松本城の名に変わったのは、1593年に小笠原氏がこれを大改築した際の事です。この大改築の際に、石川数正・康長親子により天守閣などが造られました。ちなみに、この石川数正という人物は、実は元々徳川家康の家臣でした。つまり、この松本城を「すぐれたお城」として築く事は、秀吉に対する数正の忠誠心アピールでもあったのです。この大改築は、豊臣秀吉が「徳川家康包囲網」の1つとして行ったものですから、数正にとってはまさに絶好のアピールチャンスだった事でしょう。
 現在の松本城の形が出来上がるのは、これからまだもう少し後の話になります。それは、大改築から大きく時を下って1663年の事、(家康の次男である)結城秀康の三男・松平直政が、月見櫓・辰巳付櫓などを増築し、今に残る松本城の形ができました。1500年代初頭に小笠原氏によって築城され、同年代末期に徳川家康包囲網として大改築を施された城が、最終的には徳川家の子孫の手によって現在の形になったのだと思うと、少し不思議な気分になりますね。
 大天守5階の階段、(復元された)黒門と太鼓門、天守脇に残る船着き場など、歴史を感じさせてくれる見所がたくさんありますが、松本城最大の見所は、やはり天守閣の造形美でしょう。絵画にもたとえられるその様は、なるほど明治時代に有力者が文化的価値を認め、後世に残そうとしたことも納得です。

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 さて、今回紹介した姫路城と松本城……実は、この2つのお城には面白い対比があることにお気づきでしょうか? それは、色です。姫路城は、白鷺城とも呼ばれる事からわかる通り「白い城」である事に対し、松本城は別名「烏城」と呼ばれるほどに「黒い城」です。これらの色は、実は築城の際、徳川家康と豊臣秀吉のどちらが関わったかで決まっているのです。他のお城を見てみても、家康の息がかかったお城は白い城(宇和島城など)、秀吉の息がかかった城は黒いお城(大坂城など)となっています。ちなみに、大阪城は、現在はそうでもないですが、戦国当時は金箔の瓦と黒漆の壁で造られたお城だったとされます。これは、言ってしまえば家康と秀吉の趣味の違いが顕著に反映された結果なのです。
 姫路城が良い例ですが、白いお城というのは、見る者に優美さを感じさせます。家康が関わったお城が白い理由は、そんな優美さを持った白亜の城を好んだからといわれます。
 一方で、秀吉が黒を好んだ理由は、ずばり「金が映える色」だからなのです。大坂城は秀吉ゆかりのお城であり、またその金箔瓦はよく知られています。このお城は、黒に金が映えている良い例と言えるでしょう。・・・
via http://ddnavi.com/news/272078/a/

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