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天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い-北野武,たけし流祝辞 はてなブックマーク - 天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い-北野武,たけし流祝辞

北野武監督(72=ビートたけし)が10日、東京・国立劇場で行われた式典「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」で、ユーモアを交えた祝辞を述べて、会場を沸かせた。
紋付きはかま姿で登壇し、出番になると、安倍晋三首相ら出席者に一礼して舞台中央に立った。
まずはおじぎをして、演壇にあったマイクにおでこをぶつけるおなじみのボケで笑いを誘った。さらに「祝辞」と言った後、上包みに書かれた言葉を読み出して「あっ、こっちじゃない」とボケを続けた。
ようやく、祝辞を読み始めるかと思ったら、終わりの部分から逆さまに読み始め「あっ、こっちだ」と言って再び笑いを誘い、その後、祝辞を読み始めた。
以下、祝辞全文
「お祝いの言葉。天皇皇后両陛下におかれましては、御即位から30年の長きにわたり、国民の安寧と幸せ、世界の平和を祈り、国民に寄り添っていただき、深く感謝いたします」

「私はちょうど60年前の今日、当時12歳だったその日、母に連れられて日の丸の旗を持ち、大勢の群衆の中にいました。波立つように遠くの方から歓声が聞こえ、旗が振られ、おふたりが乗った馬車が近づいてくるのが分かりました。母は私の頭を押さえ、『頭を下げろ! 決して上げるんじゃない』と、ポコポコ殴りながら『ばちが当たるぞ』と言いました。私は母の言うとおり、見たい気持ちを抑え、頭を下げていました。そうしないと、ばちが当たって、急におじいさんになっていたり、石になってしまうのではないかと思ったからです。そういうわけで、お姿を拝見することはかないませんでしたが、おふたりが目の前を通り過ぎていくのは、はっきりと感じることができました」

「私が初めて両陛下のお姿と接したのは、平成28年のお茶会の時でした。なぜか呼ばれた私に、両陛下は『交通事故の体の具合はどうですか』『あなたの監督した映画を見ています』『どうかお体を気をつけてください』『頑張ってください』と声を掛けていただきました。この時、両陛下が私の映画のことや体のことまで知っていたんだと驚き、不思議な感動に包まれました」

「ただ、今、考えてみれば、天皇陛下がご覧になった映画が、不届き者を2人も出した『アウトレイジ3』ではないということを祈るばかりです。また、おみやげでいただいた銀のケースに入っているコンペイトーは、わが家の家宝になっており、訪ねてきた友人に、1粒800円で売っております」

「5月からは、元号が『令和』に変わります。私がかつて居た『オフィス北野』も、新社長につまみ枝豆を迎え、社名を変えて『令和』に対して『オフィス冷遇』にして、タレントには厳しく当たり、変な情をかけないことと決めました」

「私は、自分が司会を務めた番組で、私たちがニュースなどで目にする公務以外にも陛下が、1月1日の四方拝を始め、毎日のように国民のために儀式で祈りをささげ、多忙な毎日を過ごされていることは、知ってました。皇后陛下におかれましては『皇室は祈りでありたい』とおっしゃいました。お言葉の通り、両陛下は私たちのために、日々祈り、寄り添ってくださっていました。私は、感激するとともに、感謝の気持ちでいっぱいです」

「平成は平和の時代であった一方、災害が次々と日本を襲った時代でもあります。そのたびに、ニュースでは、天皇、皇后の両陛下が被災地を訪問され、被災者に寄り添う姿が映し出されました。平成28年8月、陛下は次のように述べておられます。『私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず、国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍らに立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えて来ました』。国民の近くにいらっしゃり、祈る存在であること、そのお姿に私たちはひかれ、勇気と感動をいただきました。あらためて、平成という時代に感謝いたします。また、ずっと国民に寄り添っていただける天皇、皇后両陛下のいらっしゃる日本という国に、生を受けたことを、幸せに思います。ありがとうございました」
[2019.04.10]
via https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201904100000587.html



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終戦玉音放送の原盤、宮内庁が公開 「聖断」の場も はてなブックマーク - 終戦玉音放送の原盤、宮内庁が公開 「聖断」の場も

 戦後70年に当たり、宮内庁は1日、昭和天皇がラジオを通じて国民に終戦を伝えた「玉音放送」などの録音原盤と音声を初めて公開した。これまで出回っている音声より鮮明で、重大な発表に臨む昭和天皇の息づかいも感じられる。同庁は昭和天皇が終戦の「聖断」を下した皇居内の地下施設・御文庫(おぶんこ)付属室の写真や映像も公表し、いずれも同庁ホームページに掲載する。
 初公開されたのは「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ」という内容で知られ、1945年8月15日にラジオ放送された玉音放送のレコード原盤5枚と、翌46年5月に放送された「食糧問題の重要性に関する昭和天皇の御言葉」のレコード原盤1枚。6枚は1つのレコード缶に収められ、宮内庁が厳重に管理してきた。
 宮内庁は昨年12月、専門家の協力を得て玉音盤を再生し、約4分30秒の音声をデジタル録音した。音声には経年劣化などによるパチパチという音が含まれる一方、昭和天皇の声がはっきり聞こえ、緊張感のある収録当時の雰囲気が伝わってくる。今年6月には天皇、皇后両陛下や皇太子さま、秋篠宮さまも音声を聞かれたという。
 玉音盤は終戦前日の45年8月14日深夜、宮内省内廷庁舎(現宮内庁庁舎)で録音された。御政務室に置かれたマイクの前で昭和天皇が終戦の詔書を読み上げ、隣室で日本放送協会の技術職員が録音機を操作した。録音は2度行われ、翌日の放送には2度目の方が使われた。
 2度目の録音原盤は2枚組と3枚組の計5枚あり、宮内庁が皇室の所蔵物として保管してきた。46年7月にはGHQ(連合国軍総司令部)に一時貸し出されており、テレビ放送などに使われてきた音声は、この際に複製された音源を基に複製されたものとみられている。
 放送に使われなかった1度目の録音原盤7枚も宮内庁が戦後管理していたが、75年5月からNHK総合放送文化研究所に貸し出し、現在はNHK放送博物館で展示・保管されている。こちらは傷みが激しく再生不可能という。

■御文庫付属室 壁や床 朽ち散在 「手を加えず管理へ」
 御文庫付属室は戦後20年の1965年以来、50年ぶりの公開。付属室は吹上御苑・地主山の森林に埋もれたような状態にある。10トン爆弾にも耐える鉄筋コンクリート造りであるため、戦後70年を経た現在でも構造物としての強さは建設当時とほぼ変わっていない。
 宮内庁の山本信一郎次長によると、気温30度ほどの時期でも付属室内は16~17度くらいでひんやりとしており、湿気が高いという。長年にわたり雨水や泥などが内部に流入し、換気をしていないため内部は結露が発生。このため木製の壁や床が朽ち果て、はがれた木材が散在している。金属製の扉はサビがひどく、トイレなどのタイルは剥落している。照明も壊れており、中は真っ暗。
 戦後20年の1965年の公開時にはすでに天井に水滴がたまり、羽目板は湿気で膨れあがっていた。出入り口にかかったカーテンにはびっしりと青カビが生えている状態だった。
 「昭和天皇実録」によると、昭和天皇は戦後9年たった54年2月に付属室を撤去できるかどうか側近に尋ねたことがある。しかし、取り壊しに経費がかかりすぎるためそのままになった。
 山本次長によると、天皇陛下は以前に付属室内に入られたことがあり、皇太子さまと秋篠宮さまも今年7月中旬に見学されたという。同次長は「歴史的に意義ある資産なので、基本的には手を加えず管理していく」と話している。[2015.08.01]
via http://www.nikkei.com/article/DGXLZO90027660R00C15A8CR8000/

・玉音放送、10秒以上短かった…原盤を初の公開
 戦後70年にあたり、宮内庁は8月1日付で、昭和天皇による終戦の玉音(ぎょくおん)放送の録音原盤と音声を初めて公開した。
 レコード原盤から再生した声は、複製を重ねた既存の音源に比べて明瞭で、ラジオ放送を通じて自ら終戦の混乱収拾にあたった44歳当時の昭和天皇の肉声がよみがえった。終戦の「聖断」が行われた皇居内の御文庫(おぶんこ)付属室(地下防空壕(ごう))内部の写真、映像なども公開された。1日から同庁のホームページで公開される。
 宮内庁によると、テレビなどで聞かれる玉音放送の読み上げ時間は多くが4分41~43秒だったが、今回再生された原盤はそれより10秒以上短い4分30秒だった。
 既存の音声は1946年7月、連合国軍総司令部(GHQ)が原盤から複製したものが音源。その後、複製を繰り返す中で、再生速度が遅くなり、本来の肉声より低く、くぐもった声になったとみられる。[2015.08.01]
via http://www.yomiuri.co.jp/national/20150801-OYT1T50015.html

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□玉音放送 原文
 朕(チン)深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑(カンガ)ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲(ココ)ニ忠良ナル爾(ナンジ)臣民ニ告ク
 朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
 抑々(ソモソモ)帝国臣民ノ康寧(コウネイ)ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕(トモ)ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々(ケンケン)措カサル所曩(サキ)ニ米英二国ニ宣戦セル所以(ユエン)モ亦(マタ)実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固(モト)ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戦巳(スデ)ニ四歳(シサイ)ヲ閲(ケミ)シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々(オノオノ)最善ヲ尽セルニ拘ラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦(マタ)我ニ利アラス加之(シカノミナラズ)敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻(シキリ)ニ無辜(ムコ)ヲ殺傷シ惨害ノ及フ所真(シン)ニ測ルヘカラサルニ至ル而(シカ)モ尚交戦ヲ継続セムカ終(ツイ)ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延(ヒイ)テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯(カク)ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子(セキシ)ヲ保(ホ)シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ
 朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ悲命ニ斃(タオ)レタル者及其ノ遺族ニ想(オモイ)ヲ致セハ五内(ゴナイ)為ニ裂ク且(カツ)戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙(コウム)リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念(シンネン)スル所ナリ惟(オモ)フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨(オモム)ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス
 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚(シンイ)シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情(ジョウ)ノ激スル所濫(ミダリ)ニ事端(ジタン)ヲ滋(シゲ)クシ或ハ同胞排擠(ハイサイ)互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道(ダイドウ)ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確(カタ)ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏(カタ)クシ誓(チカッ)テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ

□現代語訳
 私は、深く世界の情勢と日本の現状について考え、非常の措置によって今の局面を収拾しようと思い、ここに忠義で善良なあなた方国民に伝える。
 私は、日本国政府に、アメリカ・イギリス・中国・ソ連の4国に対して、それらの共同宣言(ポツダム宣言)を受諾することを通告させた。
 そもそも、日本国民の平穏無事を確保し、すべての国々の繁栄の喜びを分かち合うことは、歴代天皇が大切にしてきた教えであり、私が常々心中強く抱き続けているものである。先にアメリカ・イギリスの2国に宣戦したのも、まさに日本の自立と東アジア諸国の安定とを心から願ってのことであり、他国の主権を排除して領土を侵すようなことは、もとより私の本意ではない。
 しかしながら、交戦状態もすでに4年を経過し、我が陸海将兵の勇敢な戦い、我が全官僚たちの懸命な働き、我が1億国民の身を捧げての尽力も、それぞれ最善を尽くしてくれたにもかかわらず、戦局は必ずしも好転せず、世界の情勢もまた我が国に有利とは言えない。それどころか、敵国は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使い、むやみに罪のない人々を殺傷し、その悲惨な被害が及ぶ範囲はまったく計り知れないまでに至っている。
 それなのになお戦争を継続すれば、ついには我が民族の滅亡を招くだけでなく、さらには人類の文明をも破滅させるに違いない。そのようなことになれば、私はいかなる手段で我が子とも言える国民を守り、歴代天皇の御霊(みたま)にわびることができようか。これこそが私が日本政府に共同宣言を受諾させるに至った理由である。
 私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して、遺憾の意を表さざるを得ない。日本国民であって戦場で没し、職責のために亡くなり、戦災で命を失った人々とその遺族に思いをはせれば、我が身が引き裂かれる思いである。さらに、戦傷を負い、戦禍をこうむり、職業や財産を失った人々の生活の再建については、私は深く心を痛めている。
 考えてみれば、今後日本の受けるであろう苦難は、言うまでもなく並大抵のものではない。あなた方国民の本当の気持ちも私はよく分かっている。しかし、私は時の巡り合わせに従い、堪え難くまた忍び難い思いをこらえ、永遠に続く未来のために平和な世を切り開こうと思う。
 私は、ここにこうして、この国のかたちを維持することができ、忠義で善良なあなた方国民の真心を信頼し、常にあなた方国民と共に過ごすことができる。感情の高ぶりから節度なく争いごとを繰り返したり、あるいは仲間を陥れたりして互いに世情を混乱させ、そのために人としての道を踏み誤り、世界中から信用を失ったりするような事態は、私が最も強く戒めるところである。
 まさに国を挙げて一家として団結し、子孫に受け継ぎ、神国日本の不滅を固く信じ、任務は重く道のりは遠いと自覚し、総力を将来の建設のために傾け、踏むべき人の道を外れず、揺るぎない志をしっかりと持って、必ず国のあるべき姿の真価を広く示し、進展する世界の動静には遅れまいとする覚悟を決めなければならない。あなた方国民は、これら私の意をよく理解して行動してほしい。

・朽ちた「終戦聖断の場」…皇居「御文庫付属室」公開
 昭和天皇が終戦の「聖断」を下した皇居内の※御文庫(おぶんこ)付属室(地下防空壕(ごう))。宮内庁は1日付で、戦後70年を経た内部の写真や映像、関連資料を「玉音放送」原盤とともに公開した。
 310万人が犠牲になった大戦の終結を決断した歴史の舞台は、床が抜け、壁ははがれ、往時の姿はない。朽ちるに任せているのは、昭和天皇の意向があったからという。

WS001
※御文庫付属室 大本営会議などを開くため、日米開戦前の1941年9月に軍が建設。42年7月、約100メートル南西に昭和天皇の防空用住居「御文庫」(地上1階、地下2階)も完成、戦局が悪化した43年1月から天皇が毎日寝起きするようになり、戦争末期は空襲警報の度に約135メートルの地下通路を通って付属室に避難した。地下通路は現在、埋められている。御文庫の名称は、防空施設であることを隠すための隠語との説がある。

WS002

■最後の御前会議
 皇居・吹上御苑の奥、武蔵野の面影を残す濃い緑に囲まれた一角に「聖断」の場となった付属室がある。
 「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び、一致協力、将来の回復に立ち直りたい」
 1945年8月14日、昭和天皇は、付属室で開かれた御前会議で、改めて終戦の決意を伝えた。抗戦か和平か意見が拮抗(きっこう)する中、聖断は4日前、同じ場で下されていたが、陸軍が無条件降伏に抵抗し、再度の聖断だった。
 涙をぬぐうように頬を白い手袋で触る天皇。室内は政府や軍の首脳らのむせび泣きで満たされた。
 「必要ならマイクの前に立とう」。2度にわたる聖断の言葉をもとに「終戦の詔書」がまとめられ、深夜、宮内省(当時)庁舎で、天皇の朗読が録音された。
 翌15日正午、天皇は付属室で開かれていた枢密院会議を中断、隣室に移り、ラジオから流れる自身の玉音放送を聞いた。皇居の外では、初めて天皇の声を聞く国民が、敗戦を知った。

■松代移転に難色
 サイパン、フィリピンと「絶対国防圏」の要衝が陥落し、戦局が悪化した44年以降、本土空襲が相次いだ。そこで求められたのは、付属室の強化だった。
 陸軍は当時、長野・松代(まつしろ)に巨大な地下壕「松代大本営」を構築し、昭和天皇を移して、本土決戦に臨もうともくろんでいた。だが、松代に立てこもることは一億玉砕を意味する。天皇は、松代行きに難色を示したとされる。
 日米開戦が迫る41年9月、陸軍が50日間の「戊号演習」で完成させた付属室。だが、連合軍は想定を上回る強力な爆弾を使用し、皇居に残る天皇を守るため、補強工事が急務だった。
 付属室上部に新たにコンクリートと鉄筋の層を重ねる工事は「一号演習」と呼ばれた。任に当たったのは、天皇と皇居を警衛する近衛師団。45年6月から7月末まで、のべ12万人を要した工事に22歳の上等兵だった今井栄吉さん(92)(千葉県市川市)も加わった。
 近衛師団の営庭から、生コンを積んだトロッコを4~5人がかりで押して数百メートル先の付属室に運んだ。
 夜を徹しての作業だったが、「陛下の馬前で戦うのだ」と士気は高かった。
 今井さんは、休憩中に昭和天皇に出くわし、「体が硬直した」と振り返る。一方で不安も感じた。「皇居の防空壕を補強するのでは、いよいよ負け戦では」と。

■今後も補修せず
 歴史の転換点を見守った付属室だが、70年間、維持管理が一切行われず、放置されてきた。
 代々の宮内庁幹部の間で、「維持管理は無用」との昭和天皇の考えが引き継がれてきた。「国民が食糧難に苦しむ中、多額の費用をかけて維持する必要を認めなかったのだろう」。幹部の一人はそう推し量る。
 公開に先立ち、皇太子さまと秋篠宮さまも付属室を視察された。宮内庁は今後、定期的に立ち入って記録は残すが、補修などはしない方針だ。
・・・[2015.08.01]
 via http://www.yomiuri.co.jp/matome/archive/20150801-OYT8T50017.html

終戦の玉音放送 - 宮内庁http://www.kunaicho.go.jp/kunaicho/koho/taisenkankei/syusen/syusen.html
音声  ・写真  ・詔書

・「玉音放送」の原盤初めて公開…初公開にあたっては想定外の発見も
 http://matome.naver.jp/odai/2143838395311080401

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・【戦後70年】「なぜ天皇は戦犯にならなかったのか?」という疑問に対する現代の視点
  http://tocana.jp/2015/08/post_7206_entry.html
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