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[訃報] 樹木希林さん死去=女優「寺内貫太郎一家」-75歳 はてなブックマーク - [訃報] 樹木希林さん死去=女優「寺内貫太郎一家」-75歳

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 テレビドラマ「寺内貫太郎一家」や映画「万引き家族」など数多くの作品で個性的な脇役として活躍した女優の樹木希林(きき・きりん、本名内田啓子=うちだ・けいこ)さんが15日午前2時45分、東京都内の自宅で死去した。75歳だった。東京都出身。葬儀は30日午前10時から東京都港区南麻布4の11の25の光林寺で。
 1960年代に悠木千帆(ゆうき・ちほ)の芸名でドラマ「七人の孫」「時間ですよ」などに出演し、人気を得た。74年、TBS系ドラマ「寺内貫太郎一家」に小林亜星さん演じる主人公・貫太郎の母役で出演。見事な老け演技と、沢田研二さんのポスターの前で身もだえながら「ジュリー」と叫ぶ場面がお茶の間の話題となった。77年にテレビ番組の企画で樹木希林に改名した。
 近年は映画を中心に活躍。「歩いても 歩いても」でナント三大陸映画祭最優秀女優賞、「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~」「わが母の記」で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受けるなど内外の高い評価を得た。今年5月にフランスで開かれたカンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した「万引き家族」にも出演。是枝裕和監督らと現地入りし、レッドカーペットを歩くなど元気な姿を見せていた。
 70年代後半にはドラマで共演した郷ひろみさんとのデュエット曲「林檎(りんご)殺人事件」などが大ヒット。フジカラーのCMでのユーモラスな掛け合いなどでも親しまれた。
 5年前に全身にがんが転移していることを公表。先月には大腿(だいたい)骨を骨折して療養していた。
 73年に結婚した内田裕也さんとの間に生まれた一人娘の也哉子さんは俳優の本木雅弘さんの妻。2008年紫綬褒章、14年旭日小綬章。
[2018.09.16]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018091600413&g=obt

・カッコよかった名女優・樹木希林さん、さようなら
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 個性派女優として知られた樹木希林(きき・きりん、本名・内田啓子=うちだ・けいこ)さんが15日午前2時45分に都内の自宅で死去した。関係者が16日、明らかにした。75歳だった。死因の詳細は明らかになっていないが、2012年に「全身がん」であると告白。今年8月には転倒して左大腿(だいたい)骨を骨折し、一時危篤状態になったことを義理の息子で俳優の本木雅弘(52)が公表していた。通夜はこの日、近親者のみで営まれ、葬儀は30日に港区内で執り行われる予定だ。
 センスと実力に裏打ちされた変幻自在の演技に加え、歯に衣(きぬ)着せぬ発言で幅広い世代に愛されていた樹木さんが、6年にわたる全身がんとの闘いに、ついに力尽きた。
 関係者によると最期は家族に囲まれ、自宅で息を引き取ったという。先月13日に知人宅の外階段で転び、左大腿骨を骨折。手術後は、一時危篤状態に陥ったこともあったが、危機を回避して復帰に向け、リハビリを行っている最中と本木が説明していた。
 1961年に文学座付属演劇研究所に1期生として橋爪功や寺田農らと入所。在団中からテレビにも活躍の場を広げ、64年の「七人の孫」で演じた東北弁のお手伝いさん役で人気を博した。「寺内貫太郎一家」では、人気歌手・沢田研二のポスターの前で「ジュリー!」と身もだえ。郷ひろみとのデュエット曲「林檎殺人事件」では「フニフニ…」とユーモラスなダンスを披露。「美しい人は美しく、そうでない方はそれなりに」に代表される富士フイルムのCMも毎年話題に。自らの芸名「悠木千帆(ゆうき・ちほ)」をチャリティー番組でオークションにかけるという前代未聞の行動も。怪演ぶりはドラマや映画で欠かせない存在になった。
 年齢を重ねるにつれ、出演作品はむしろ増加。今年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した「万引き家族」の是枝裕和監督(56)の作品には“常連”として出演、順調な女優生活を続けていた。
 一方で、60代に入ってからは病魔との闘いが続いた。2003年に左目の網膜剥離を発症して失明。翌04年には乳がんが見つかり、右乳房の全摘出手術を受けた。その後も腸や副腎、脊椎などにもがんが見つかり、20か所を治療。がん体質であることを指す「全身がん」が理由だったことを12年にスポーツ報知のインタビューなどで告白した。
 最後に公の場に姿を見せたのは、7月31日。京都の建仁寺で行われた映画「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」(大森立嗣監督、10月13日公開)のイベントだった。「(撮影時から)10キロ痩せて、(身長が)7センチ縮んだ。自分の体を面白く見ていました」。闘病のために弱った体を自虐的に話した。
 「一時危篤」が明らかになった先月30日の会見では「細い糸1本でやっとつながってる。声一言もでないの。しぶとい困った婆婆です」との言葉が書かれたイラスト付きの文面を本木に託し、ちゃめっ気を見せていた樹木さん。ファンが心配しないよう、最後まで「らしさ」を見せたまま旅立った。

 ◆樹木 希林(きき・きりん)1943年1月15日、東京都生まれ。64年文学座研究所時代に出演したTBS系「七人の孫」(森繁久彌主演)で注目される。65年座員になるも翌年退団。77年旧芸名「悠木千帆」をテレビの企画でオークションにかけ「樹木希林」に改名。代表作は報知映画賞主演女優賞を受賞した河瀬直美監督「あん」。主な出演作に「寺内貫太郎一家」、「夢千代日記」、「歩いても 歩いても」、「わが母の記」など。64年に岸田森さんと結婚するも離婚。73年に内田裕也と再婚。娘の内田也哉子は95年に本木雅弘と結婚している。
via https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180917-OHT1T50015.html

・女優・樹木希林さん死去‥突然の訃報に驚きと悲しみが広がっている
  https://matome.naver.jp/odai/2153708394822554701

・樹木希林 :Wikipedia
・女優 樹木希林さん 写真特集:https://www.jiji.com/jc/d4?p=kkk001&d=d4_psn
・樹木希林さんの足跡を写真で振り返る【画像集】
  https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/17/kikikirin-image_a_23529598/

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※映画「万引き家族」でカンヌ国際映画祭に参加した樹木希林さん(右)と是枝裕和監督(2018.05)

・女優の樹木希林さんが死去 75歳 2012年に「全身がん」公表
 「全身がん」を公表していた女優の樹木希林(きき・きりん、本名・内田啓子)さんが15日に死去したことが16日、分かった。75歳だった。シリアスからコメディまでこなせる個性派俳優として活躍する一方、2012年に、がん体質であることを指す「全身がん」を公表。04年の乳がん発症以降、約20か所のがんと闘ってきたが、ついに帰らぬ人となった。
 20代からおばあちゃんを演じ、コメディからシリアスまで、変幻自在の演技で日本を代表する演技派女優として活躍した希林さんが静かに旅立った。
 関係者によると、希林さんは15日午前2時45分、家族に見取られながら、静かに息を引き取った。葬儀は同30日に東京都港区南麻布の光林寺で営まれる。
 今年8月13日に知人宅の外階段で転び、左大腿骨を骨折。娘の内田也哉子(42)に付き添われて病院に行き、同15日に足にチタンを入れる手術を受けた。也哉子の夫で俳優の本木雅弘(52)は同30日に容体を説明。「一時は危篤状態の場面もありましたが、無事に危機を回避した」と話していた。
 2012年にがん体質であることを指す「全身がん」を本紙インタビューなどで告白。翌年2月の日本アカデミー賞では表彰式のテレビ中継で「全身がん」を改めて公表した。
 毒舌で開けっぴろげな性格に見える希林さんを変えたのは、やはりがんだった。最初に襲ったのは乳がん。04年に見つかり、翌年右乳房を全摘手術した。その後、腸や副腎、脊椎などにも見つかり、治療は約20か所にも及んだ。
 最初のがんから14年。人生観、死生観も変わった。「がんがありがたい」と思えるようになっていた。「私の場合、体に広がる全身がん。でもがんに感謝。経験してなければろくに『死』にも向き合わず、内田(裕也)さんのこともちゃんと理解しようと思わなかった」
 最初のがんの術後が良くなく、苦しみ、独学でがんを猛勉強した。希林さんが選択したのが「体への負担が少ない」とされる放射線をピンポイントで照射する方法だった。「がんが見つかってもおっかなびっくりしない。出ればつぶせばいい。がんには必ず要因がある。生活習慣も見つめ直す。簡単に治らないからこそ、自分に客観的になれ、生き方がつましくなった」と語っていた。
 がんだけではない。03年には左目の網膜剥離を発症し、役者にとっては致命的な失明宣告を受けたこともあった。一時は視界は真っ白で何も見えない状態に。しかし医師の勧めた手術に納得できず、拒んだ。しばらく様子を見ていると、少し視力が戻る奇跡が起きた。「人間には医師も理解できない不思議な自然治癒力があるのよ」が口グゼだった。
 日本を代表する女優の一人でありながら、マネジャーなしでスケジュールも出演料も、すべて自分で管理し、決めていた。この理由も「社員を抱えると責任を感じる」と自身の病気が背景になっていた。「でも何の痛痒も感じない。一人で何ら困ったことはないわ」と答えていた。
 夫のミュージシャン、内田裕也とは別居しながら暮らす独特の夫婦関係を続けた。夫が事件で世間を騒がせた時も「私は逃げ隠れするのが一番嫌だから」と率先してマスコミに対応し、自ら詳細を説明した。離れて暮らしながらも、心の中で夫を思い続けていた。
via https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180916-OHT1T50170.html


・内田裕也、樹木希林さんの最期みとれず…
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 樹木さんの夫で、ミュージシャン、映画監督の内田裕也(78)は16日、樹木さんの自宅を訪れ、無言の対面を果たした。最期をみとることはできなかった。関係者は、内田について「急なことでとてもショックを受けている。心と頭の整理がつかない状況」と説明。数日中にコメントを出すという。
 2人はムッシュかまやつさんらの紹介で出会い、1973年10月に結婚するも、同居したのはわずか1年半。76年、長女・也哉子誕生後も、別居婚を続け、内田は81年に離婚届を提出した。しかし、樹木さんが裁判所に離婚届の無効を訴えて認められると、つかず離れずの独特の夫婦関係を築いてきた。
 内田は14年にスポーツ報知のインタビューで樹木さんについて「KKさん」と呼び、「オノ・ヨーコさんを紹介したら妙に仲良くなりやがってね。俺すっとばして、今でも日本来たら必ず食事してるらしいよ。そのツーショットは見たくないよ。ちょっと引くよなあ」などと愛情を込めて語っていた。15年に樹木さんが報知映画賞主演女優賞を受賞した際には「俺が家族の中で一番最初に報知映画賞を2つ取ったんだよ。ひそかな俺の自慢だったんだけどな。でも、いい話だな。ロックンロールだ」と祝福していた。
 樹木さんは16年にNHKの番組に出演した際、「自宅でみんなに囲まれて、夫に『どちら様ですか』と言って死にたい。『俺のことは連れて行くな』と言われてるのよ」とコメント。また今年7月の映画のイベントでは「もし、縁があってこの地球上に戻って来ることがあったら、小さな茶室を設けて、夫と向き合って、静かな人生を送りたいなぁ……という気持ちになりましたね」と話していた。
 内田は昨年脱水症状で入院。今年7月、テレビのドキュメンタリー番組で車イス生活を送る姿が放送されたが、現在は自宅療養し、恒例の年越しライブに向けて準備しているという。
via https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180917-OHT1T50081.html

・樹木希林さん「出会いが貯金に」=脇役から個性派に
 異能の女優、樹木希林さんが亡くなった。どんなに小さな役柄でも存在感を発揮する演技で見る者を楽しませ、「衣装を着て、7、8割の形ができれば、ところてんみたいに自然に役の気持ちが出てくる。だから苦労はないんです」とおおらかに話していた。
 当初は堅実に脇を締める俳優の印象もあったが、ドラマ「寺内貫太郎一家」で演じた変な「おばあちゃん」役や、「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに」が流行語にもなったCMなどが受け、個性派として引っ張りだこの存在になった。
 後年は「体力がなくなってテレビのサイクルについていけなくなった」との理由で、活躍の場を映画にシフト。「私は遅れてきた映画参加者」との言葉とは裏腹に、「作品を選ばない」をモットーに積極的に話題作、問題作に出演した。
 半世紀以上に及ぶ女優生活で大きな糧になったのは、「寺内貫太郎一家」などで組んだテレビディレクターの故久世光彦さんやドラマ「七人の孫」で共演した故森繁久弥さんら「当時の芸能界の先頭を走っている人との出会い」だったという。「その面白さと大変さが今の私の貯金になっている」と語っていた。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018091600455&g=soc

・「生きるのも日常、死んでいくのも日常」  樹木希林さんが語っていた死生観
9月15日に死去。話題の広告についてコメントしていた。
「生きるのも日常、死んでいくのも日常」ーー。かつて女優の樹木希林さんが語っていた死生観を象徴する言葉だ。
2016年に大きな話題となった宝島社の広告「死ぬときぐらい好きにさせてよ」にコメントとして発表したものだ。

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その樹木さんが9月15日、75歳で死去した。9月16日、テレビ朝日などが報じた。
がん闘病が伝えられていたが、今年、カンヌ映画祭で最高賞パルムドールを受賞した「万引き家族」での演技が高く評価されていた。
樹木さんといえば、2016年に登場した宝島社の企業広告「死ぬときぐらい好きにさせてよ」が大きな話題になったことも記憶に新しい。
死は特別なものとして捉えられているが、死というのは悪いことではない。
ジョン・エヴァレット・ミレイの代表的な作品「オフィーリア」をモチーフに、グリーンのドレスに身を包み、水の中に横たわる樹木希林さんの姿に「死ぬときぐらい〜」のコピー。正月早々、全国紙に大きく掲載された広告は大反響を呼び、その年の広告賞を軒並み受賞した。
当時のプレスリリースで樹木希林さんは死生観をこう語っている。
「生きるのも日常、死んでいくのも日常」
死は特別なものとして捉えられているが、死というのは悪いことではない。
そういったことを伝えていくのもひとつの役目なのかなと思いました。

すべては日常の中にある。死と向き合っていた個性派女優らしい言葉だった。
via https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/16/kikikirin_a_23528585/

・死ぬときぐらい好きにさせて…亡くなった樹木希林さんの死生観がすごかった
 https://matome.naver.jp/odai/2153710009329567401

・樹木希林さん「がんに感謝」壮絶闘病を支えた独自の人生哲学
9月16日、樹木希林さんが都内の自宅で亡くなっていたと各紙が報じた。75歳だった。各紙によると樹木さんは、家族に看取られながら息を引き取ったという。
13年の日本アカデミー賞表彰式で全身がんであると明かした樹木さん。先月13日に左大腿骨を骨折し、入院。その際に娘婿である本木雅弘(52)が気管支の弱さやがんの影響から「一時は危篤の状態だった」とイベント内で発言し、心配の声が上がっていた。
乳がんの後、がんが副腎と脊椎に転移。さらに今年3月には、骨にも転移していたという。そういった自らの宿命を受け入れるには、想像を絶する覚悟が必要だと思われるが――。
「樹木さんは、がんのおかげで自分の死と向き合うようになったそうです。自分の人生を改めて振り返る機会にもなり、『むしろ、がんに感謝している』とも話していたほどでした。生活習慣を慎ましくすることで、新たな発見があったとも明かしていたとも。そこには、どんな苦境に立たされても楽しむという樹木さん独自の哲学がありました」(芸能関係者)
現実を受け止め、最後まで自分らしさを貫いた樹木さん。
Twitterでも《闘病中だとあっけらかんとおっしゃいながら元気にお仕事されていた印象。まだまだ演じていただきたかったのに残念です》《樹木希林さんだけは死なないと思ってた……長い間本当にお疲れ様でした》《ガンと共存しながら自分らしく生きる。何度勇気もらったかわからない。ありがとうございました》との声が上がっている。
長い闘病生活を終え、今は心安らかに眠っていることだろう――。
 via https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1665469/


・樹木希林がチューブつけ寝たきり状態、“覚悟の外出”も断念
 9月4日の午後7時半過ぎ。台風21号の影響でジメジメとした空気が漂う中、明治記念館(東京・港区)には多くのメディア関係者が集まっていた。
「蓬莱の間」で行われたのは、10月13日公開の映画『日日是好日』のプレミアム試写会。壁一面に飾られている、「蓬莱山」を描いた縦3.6m、幅18mもある綴錦織を左手に、主演の黒木華(28才)や大森立嗣監督(48才)らが立ち、挨拶。フォトセッションには高円宮久子さま(65才)もご臨席され、会は滞りなく終了した。
 報道陣が最も気にしていたのが、樹木希林(75才)の“動向”だった。この映画は、黒木演じる主人公が茶道を通して成長していく物語で、樹木は茶道教室の先生という重要な役を演じている。
「当初、希林さんは試写会に出席する予定はなく、事前にマスコミに配られていたリリースにも名前はありませんでした。しかし、“極秘で試写会に来る”という情報が流れ、そのために集まったメディア関係者も少なくなかったようです。が、結局は前日に急遽キャンセル。“この度高円宮久子妃殿下(中略)の御臨席を賜りましてひたすら有難く頭を低れるばかりです 台風接近もともない申し訳なく涙涙でございます 心ふるえるような時をいただいてをります”という直筆メッセージが配られ、黒木さんが代読しました」(スポーツ紙記者)
 樹木は8月13日に左大腿骨を骨折し、15日に手術。現在も入院生活を送る。
「希林さんは久子さまが試写会においでになることを病室で聞き、“ありがたい”と、拝むように胸の前で手を合わせました。そして“なんとしても私も出席したい”と話したそうです。久子さまは2015年に希林さんが主演した映画『あん』の試写会にもご臨席されていて、以前から交流がありました。久子さまがお出ましになられたのも、“樹木さんが出られるから”という理由もあったそうです。希林さんは無理を押して試写会に出席しようと考えていましたが、試写会の前々日、体調が急変。本人は“最後の外出”というくらいの覚悟はあったようですが…」(樹木の知人)
 8月30日、樹木の娘・内田也哉子(42才)の夫で義理の息子にあたる本木雅弘(52才)が、「全国統一防災模試」のPRイベントに出席し、樹木がけがをした経緯と容体について語った。樹木は8月13日、知人宅の階段を無理して上った際に骨折し、一緒にいた也哉子が樹木を抱えて病院に連れていったという。

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 15日に骨折した箇所にチタンを入れる手術をしたが、本木によれば「一時は“危篤状態”みたいな場面もあった」という。気管支が弱いことに加え、「がんの影響もあって肺に弱っている部分があった」ことが原因だという。
 本木はさらに、樹木が描いたというイラストも公開。そこには《細い糸1本でやっとつながってる 声一言もでないの しぶとい 困った 婆婆です》という樹木の言葉も書き込まれていた。

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「本木さんは、手術前に希林さんが夫の裕也さんに“もしものことがあったら…今までいろいろ悪かったわね”と電話をし、裕也さんが“おーそうか、こっちこそ悪かったな”と応じたことも話しました。ただ、あえてそういったエピソードや危篤だったことを明かしたり、希林さんの自虐的なイラストを見せるなど、“元気だ”ということをアピールしているようにも思いました」(テレビ局関係者)
 樹木は声が出ない中、筆談で生活を送り、リハビリに励んでいるという。本木は「全治6週間」と説明しているが、実際にはそう楽観視できる状態ではないようだ。
「肺に取り込める酸素の量が少ないため、息苦しい状態が続き酸素マスクをつけています。食べ物を誤嚥してしまった際に吐き出す力がないので、流動食しか口にすることができないそう。寝たきりの状態で、全身の筋肉も落ちている。体は至るところがチューブでつながれており、見た目は痛々しいです。動ける状態ではないため、試写会への登壇は断念せざるをえず、外出は叶いませんでした」(前出・知人)

■寝たきりになり体に負担がかかる
 樹木は長きにわたる闘病を続けてきた。乳がんが見つかったのは2004年夏。翌年には右乳房の全摘出手術を受けたが、2008年頃にはがんが副腎、脊髄にまで転移していることが判明。以降、受けてきたがん治療は実に30回にもわたる。
 2013年3月には日本アカデミー賞授賞式で「全身がん」宣言をし、世間を驚かせた。それでも公の場では決して笑顔を絶やさず、「死ぬ死ぬ詐欺です」と自嘲してきたが、体調が思わしくなく、苦しそうなことも多かったという。
 そんな樹木に、一時も離れることなく寄り添っているのが、娘の也哉子である。
「今年5月にカンヌ国際映画祭で『万引き家族』が最高賞のパルムドールに輝き、出演していた希林さんが授賞式のためにカンヌに赴いたときもそうでした。希林さんが車から降りる時は也哉子さんが必ず介助し、歩く時は傍らでサポート。常に希林さんの近くで様子を見守っていました」(カンヌを取材したメディア関係者)
 現在も常に樹木に付き添い、必死の介護をしているという。果たして、樹木の病状とは―清水整形外科クリニックの清水伸一院長が説明する。
「樹木さんが“チタンを入れた”ということは手術を受けてプレートで固定したり、人工関節を入れた可能性が高い。一時的に危篤状態になったということは、術後に出血して貧血を起こし、心肺機能が低下したことが想定されます。また、術後、寝たきりの状態が続けば、静脈がうっ血し、血液粘度が上昇して血栓が飛ぶことがある。その症状を『深部静脈血栓症』といい、血栓が肺に流れたら『肺塞栓』、脳に流れれば『脳塞栓』が起き『脳梗塞』にいたる可能性もあります。いずれにせよ、体は大きなダメージを受けているはずです」
 大女優の、一日も早い復活が望まれる。[2018.09.06]
via https://www.news-postseven.com/archives/20180906_755569.html


・郷ひろみ&樹木希林/林檎殺人事件


◆フジカラーCM
・1980


・2000


・2008


・2015


・2018


◆1978-1995 樹木希林CM集


・樹木希林さん死去 AERAに明かした「ヌードより恥ずかしい姿」で見せた女優魂
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 https://dot.asahi.com/aera/2018091600019.html

・樹木希林さんに著名人が追悼の声続々 「カッコいい日本人としてのお手本」
 https://www.j-cast.com/2018/09/17338794.html?p=all
・樹木希林さん、現場で色々な言葉をかけていた。
 https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/16/kikikirin-rip_a_23529302/

・浅田美代子、亡くなる直前まで樹木希林さんに付き添っていた「身をもって死と向き合っていた」
 https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180917-OHT1T50147.html

◆樹木希林さん、名物CMで「全国区」になった小さな町と40年続いた縁
9月15日に亡くなった俳優・樹木希林さんが出演したCMで、一気に知名度が上がった貼り薬「ピップエレキバン」。CMの舞台となったのは、北海道比布(ぴっぷ)町(人口約3800人)のJR宗谷本線比布駅だ。

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注目を浴びたあのCMから40年近くがたった。樹木さんの死去を機に調べてみると、樹木さんと駅は、40年近くたった後も意外な交流が続いていた。
比布駅は、大正時代に木材輸送の拠点として発展したものの、その後石北線の開通で産業が衰退、長く閑散としていた。
一躍脚光を浴びるようになったのは、1980年8月。「ピップエレキバン」のテレビCMが全国放送されたのがきっかけだった。

■どんなCMだった?
プラットフォームの駅看板を背に立つのは、樹木さんとピップエレキバンの製造会社の横矢勲会長(故人)。
「とうとうここまでやってきましたね」と会長と握手した樹木さんが「何か来ないうちにおっしゃったらどう?」と促し、会長が「ピップ...」と何か言い始めた途端、列車が大きな音をたてて通過。声がかき消されてしまう。
過ぎ去った後、「聞こえた?」と聞く会長に「ううん、なんにも」と樹木さんがとぼける。



■午前中1本しかない急行列車を狙った
町広報誌「広報ぴっぷ」の2016年8月号の特集によると、以前から個性的なCMを流していたピップエレキバンと同じ冠名の比布駅を、旅行中の大学生が見つけ、ぜひここでCMを、と79年に署名活動を展開したのがきっかけとされる。
CMは80年6月に撮影。午前中唯一の急行列車が駅を通り過ぎるのを狙って撮影したという。もしうまく撮影できなかった場合、次は夕方まで待たないといけない、緊張感あふれるものだったという。
このCMが大当たりし、全国から観光客が押し寄せた。入場券が1日1000枚も売れる日もあったという。
84年、駅が無人化になった後も駅の事務所が喫茶店となり、CMの舞台を見に、多くの観光客が訪れたという。

2015年には駅舎の老朽化による建て替えで、旧駅舎を取り壊すことに。その際、樹木さんは報道機関へのコメントとして撮影当時を振り返り、「列車通過のシーンで私の顔が真剣だったのが今も笑えます」「古い比布駅さまお疲れ様でした」と述べていたという。
新しい駅舎は、2016年9月4日に再オープンした。

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その際も、樹木さんは次のような自筆のお祝いメッセージとイラストをしたため、駅関係者に送っていた。

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比布グランドオープンめでたいわぁ~
あの頃 ぴっぷなんて地名があるのにビックリ!駅もあり神社もあり、おかげで面白いCMになったかなあ。
(おばあさんのイラストとともに)わたしは、こんなになったけど駅はこ~んなになったようで 嬉しいような淋しーーいような
マ、いいか
平成28年9月4日
当時ピップエレキバンCMガール
樹木希林


■樹木さんとの縁、いまも
ピップエレキバンCMで比布町の知名度を全国区にした、樹木さんとの縁はこれまでも続いてきた。町は旧駅舎取り壊しで改めて駅舎が注目された2015年、あのCMを再現したシーンを含む町紹介の動画を作った。



北海道新聞によると、村中一徳町長が2018年春、町の応援大使に就任してもらえないか樹木さんに頼んだ際、樹木さんは電話で体調不良を理由に固辞したものの「比布の発展を祈っています」と答えたという。
同年8月、町の応援大使に就任したのは、ピップエレキバンの製造元「ピップ」の松浦由治社長。町広報のブログによると、CMがきっかけで、町と同社は「比布deエレキバン杯」というパークゴルフ大会や車椅子の寄贈などで交流を深めてきたという。
樹木さんの訃報に際し、村中町長はTwitterでメッセージを発信した。


・内田裕也が妻・樹木希林さんへ追悼コメント発表「啓子 今までありがとう。見事な女性でした」     
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 15日に死去した女優の樹木希林(きき・きりん、本名・内田啓子)さん(享年75)の夫でミュージシャンの内田裕也(78)が20日、所属事務所を通じてコメントを発表した。
 「最期は穏やかで綺麗な顔でした。啓子 今までありがとう。人を助け 人のために祈り 人に尽くしてきたので 天国に召されると思う。おつかれ様。安らかに眠ってください。見事な女性でした」
 樹木さんとは1973年10月に結婚したが、同居したのは最初の約1年半だけ。その後は別居状態を続けながら、つかず離れずの独特な夫婦関係を築いてきた。
 関係者によると、樹木さんの容体が急変した14日深夜、親族が別居中の裕也に電話で連絡し、声が聞こえるようにスピーカーをオンの状態に。裕也は、次第に意識が薄れていく樹木さんに名前を呼ぶなど言葉を掛けた。樹木さんはそれから程なくして、息を引き取ったという。最期をみとることはできず、16日に樹木さんの自宅を訪れ、無言の対面を果たした。
 17日に都内の斎場で営まれた密葬に参列。黒スーツに黒いハット、メガネ姿で斎場を訪れた。関係者によると、長女で女優の内田也哉子(42)ら親族と会話する場面もあったが、終始うなだれた様子だったという。荼毘(だび)に付された際は遺骨を拾い、妻を見送った。その後、車いす乗り、無言で帰宅。同行した女性スタッフは「(裕也は)ショックを受けていて、気持ちを整理して後ほどコメントします」と話していた。
via http://www.hochi.co.jp/entertainment/20180920-OHT1T50110.html
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