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知られざるモドリッチの幼少時代。小さな巨人はいかにして生まれたのか? その背景にある“故郷” はてなブックマーク - 知られざるモドリッチの幼少時代。小さな巨人はいかにして生まれたのか? その背景にある“故郷”

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■世界有数の才能の宝庫だったモドリッチが生まれた地
 技術の巨人と呼ばれるトニー・クーコッチ(クロアチアのスプリト出身でNBAでも活躍したバスケの世界的名手/編注)の恍惚感を得られるあり得ないアシスト。おそらくは、これまでハンドボールコートを踏んできた中で最たる天才だった、イヴァノ・バリッチ(ハンドボールで世界最高の選手と謳われた/編注)の手首のひねりの凶悪さ。
 ブランカ・ヴラシッチ(女子走高跳の元世界女王で北京五輪で銀、リオ五輪で銅メダル。クロアチア代表FWニコラ・ヴラシッチは弟/編注)の2メートルのバーを悠々超える高跳び。もしかすると最強のスポーツ食人鬼で、欧州のバスケットコートのゴールを決して傷ませることがなかったドラジェン・ペトロヴィッチ(バスケの伝説的名手/編注)が有する勝者の気質。
 ゴラン・イヴァニシェヴィッチ(クロアチア・スプリト出身の男子プロテニス選手としてウィンブルドン初優勝/編注)の天空をかすめるラケットの反発から繰り出されるサーブ。ピッチを踏むときには流れを決定づけたインテリ、ズヴォニミール・ボバン(ACミラン黄金期を支えた元クロアチア代表の名手/編注)の表現力に豊んだ多才性……。
 そのすべての技術、身体能力、精神はダルマチアという、1平方メートルにおける才能の取れ高が、おそらく最も多い地域で鍛え上げられた。

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■ダルマチアが数多くの才能を輩出する背景
 今日ではザダール、シベニク=クニン、スプリト=ダルマチア、ドゥブロヴニク=ネレトヴァと行政的に4つの郡に分けられているこの古代ローマの旧地域は、地理的、歴史的な豊かさを享受している。そこはアドリア海の大部分やディナル・アルプス山脈の威容を抱え込むことで美しきコントラストを誇り、その位置的な恩恵によって、何世紀にもわたり多くの文明に飛び地を促したと推定される。
 この地域で生まれたチャンピオンたちを一覧で振り返るとすれば、衝撃を受けることになるだろう。そして、ここからクロアチアの北へと向かって100キロ範囲を拡大すれば、同国トップレベルのスポーツマンの大多数を含められるのだ。
 1985年9月9日、ラドイカとスティペのモドリッチ夫妻はここダルマチアで、3人の子供の一人であり、唯一の男の子となるルカを授かっている。その時代のクロアチアはまだ、元帥ヨシップ・ブロズ、通称チトーのユーゴスラビア社会主義連邦共和国に属していた。第二次世界大戦後に築かれ、1992年1月15日にスロベニア、そしてクロアチアの独立でもって終焉を迎えた彼の国である。
 地理上のダルマチアは、今日そこを訪れる人々にとっては魅力的であり、一方その土地に住む人々の生活環境としては、歴史的に複雑な場所である。山脈と島々と岩々は住民に環境に馴染むための並々ならぬ苦労を強い、そこに民族の混在も結びつくと、時間の経過の中で感嘆すべき遺伝子が育まれた。近年の欧州において、スポーツ分野での才能を数多く輩出する地域となっている。
 イリュリア人、ギリシア人、ローマ人、フランク人、ビザンティン人、オスマン・トルコ人、ヴェネチア人、オーストリア人、イタリア人やほかの住民が、彼らの後継ぎたちにクロアチア国内のそのほかの地域、また言わずもがな国外で羨望と願望の的となる遺伝子構造を授け、そしてその遺伝子の進化は単純な自然選択に委ねられた。

■世界で最も長身な地域で稀有な男
 困難な状況の中で何とか生き延びようと、過去に多くのクロアチア人が移住してきたダルマチア。その場所が20世紀という時代に寄りすがる道具としたのは、スポーツだった。道を歩けば2メートル近い男性や、1メートル80センチを優に超える女性とすれ違うのは当たり前。その輩出先は明確だった。
 バスケットボール、ハンドボール、バレーボールが、逆境を撥ね除けるための精神的有機体として栄養を得たのである。不可欠な挑戦を達成するための気骨、野心で味付けされた勝者の複合集団は、道を塞ぐ障害や、ダルマチアの地形を乗り越えていった。そして、もちろんフットボールも。
 それは跳躍したり力持ちだったりする巨人たちの体格がハンディキャップにもなるスポーツだが、21世紀初頭のダルマチアの象徴の一人が、固定観念や壁を次々に打ち破っていった。
 174センチ、65キロと、世界で最も長身な人々が住む地域においては非常に稀有な男が、この現代フットボールで長距離を駆け抜ける偉大なミッドフィルダーになった。彼こそが、ルカ・モドリッチ。枯れることなく才能が湧き出る、ダルマチアの子の一人だ。
 単なる偶然だと非難したり、さらには冗談半分に秘教的な理論を持ち出したりする人々を欠くことはない。しかし、この世界にある苗床など、ほんのわずかだということに疑いの余地はない。少なくとも陸上選手だけでなく、個人や集団の多種多様なスポーツで、世界的スターが芽を出すだけの土壌は希少だ。
 確実に観光地化していくアドリアの海岸と、この地域のイリュリア人を長きにわたってローマ人の侵攻から守ったディナル・アルプス山脈が生みだした地理的に絶妙な混じり合い。そこに民族の混在が結びつくと、それは何百年も続くことになる完璧な組み合わせとなった。今のように生きることが容易でないときにも、世界を席巻するための才能、生得を磨いていける組み合わせに。この地球上でわずかにある、もしくはほとんどない素晴らしい、驚くべき現象が、戦争と競技場と、昔からずっと戦いの中にあった土地で生じたのだった。

■驚異的な粘り強さを育むダルマチアの精神的な源とは?
 前述したドラジェンの兄弟でありバスケットボール界のもう一人の伝説アッツォ・ペトロヴィッチの言葉によれば、ダルマチアの人々は「戦をするためのたくましい人間」であるという。人生が戦へ導くとき、もしくはスポーツに取り組むときに才能が現出し、勝利をつかませるのだと。
 遺伝、風土、食事、地理、精神。史上最高の高跳び選手の一人であるブランカ・ヴラシッチは、ダルマチアの人々の精神を成り立たせる要因〝X〞となる、ほかの言語に当てはめることが困難な言葉の存在を明かす。
「ダルマチアではそれをディシュペットと呼んでいるのだけれど、翻訳は簡単じゃない。自分たちが行なっていることから、さらに一歩を踏み出させるポジティブな強情さ、という類の言葉。私の頭の中にはいつもそれがあって、ダルマチア人精神の模範ゴラン・イヴァニシェヴィッチのように戦っているわ」
 驚異的な粘り強さを証明するのは、ヴラシッチ自身だ。彼女は高跳びよりも集団スポーツに好都合な環境の中、家族の助力もあって何もないところから五輪で2位にまで輝いたのだから。世界の準優勝者は、集団スポーツが優勢である理由にも言及している。
「ダルマチアの子供たちは、歩き始めたらボールをプレゼントされる。大抵はフットボールのものだけれど、何かしらのボールをね」
 こうした要因に、スポーツを簡単に実践させることのできるシステムが結びつくと、時間の経過とともに感嘆すべき多種多様なスポーツ資源が生まれることになった。

■「スポーツへの投資が結果をもたらしたんだ」
 社会主義のユーゴスラビアでは、若者たちに多くの競技を実践させていた。欧州バスケットボールの歴史において、おそらく史上最高のチームであったユーゴプラスティカ・スプリトの伝説的センター、ジャン・タバックは、あの社会ではどのようなスポーツにも取り組めたことを、まるで昨日のように思い出す。
「小さい頃には水泳、水球、セーリング、バレーボール、バスケットボールを実践した。自分がどこの誰で、どこから来たのかを質問する人は誰もいなかった。そのすべてが政府から助成金を受けていたからね」
 彼が14歳の頃、地元のハンドボールチームが解散することになり、そのために従兄弟からユーゴプラスティカでの挑戦に臨むよう説得された。そのユーゴプラスティカには彼を含めて、比類のない才能が集結した。禁欲的かつほぼ軍隊的で、強い精神を持つ者しか生き残れない労働体制の中、皆の記憶に残るグループがつくり上げられていった。
 純然たる進化論と銘打ってもいい月日の中で、練習方法も進化を果たした。「イタリアやアメリカでの日々で、技術やフィジカルに関する練習方法の改革を目の当たりにした。しかし自分の国では15年前から行っていたことだった。スポーツへの投資が結果をもたらしたんだ」、タバックが断言する。

■古のダルマチアから道を切り開く
 とどのつまり、ダルマチアの住民は厳格さと勇敢さを混ぜ合わせた、とても興味深い遺伝子の持ち主であり、その人生では自らを犠牲にして、厳しい姿勢で働くことを厭わない。そのために高レベルのアスリートたちが生まれる果樹園となったわけである。
 ダルマチア最大の都市スプリトでは、クーコッチ、ヴラシッチ、バリッチ、ディノ・ラジャが育った。シベニクの通りでは水球の伝説ペリツァ・ブキッチ、ペトロヴィッチ兄弟がチャンピオンとなることを夢に見て、晴れわたったドゥブロヴニクではクロアチア水球の大多数の選手たち、またアンテ・トミッチやマリオ・ヘゾニャらバスケットの価値ある選手たちが成長を遂げた。
 そしてザダールについては、特筆に値する。小さなモドリッチがスポーツマンとして歩み始めたその場所は、わずか7万5000人の人口から6人もの五輪メダリストを輩出したのである。
 欧州の選手で初めてFIBA殿堂入りを果たし、バスケットボール界のトップに君臨した伝説クレシミール・チョシッチを皮切りとして、ゾラン・プリモラッツ(卓球)や、イヴァン・ニンチェヴィッチ、ヴァルチッチ、ヨシップ&トンチ兄弟(いずれもハンドボール)が、それぞれのキャリアで栄光をつかんだのだった。
 この極まった困難とスポーツ文化の温床で、ルカ・モドリッチはその人生を歩み始めた。壮絶な逆境の中で、しかし壁を壊していく覚悟を持って。実際、フットボールの世界的スターとなるための壁は、決して少なくなかった。才能と意思の強さを持ち合わせる新たな模範的存在が、古のダルマチアから道を切り開いていったのである。
via https://www.footballchannel.jp/2018/10/19/post293667/


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天皇陛下のお言葉。平成最後の戦没者追悼式(全文) はてなブックマーク - 天皇陛下のお言葉。平成最後の戦没者追悼式(全文)

20180815
終戦から73年を迎えた8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相、遺族約5500人が参列し、310万人の戦没者の冥福を祈った。
天皇陛下は2019年4月30日に退位することが決まっており、平成最後の追悼式となる。
式典では、正午に合わせて1分間の黙祷がささげられた。その後天皇陛下はお言葉で戦没者を追悼。2015年の戦後70年から加えた「深い反省」という表現は継続した。
お言葉の全文は以下の通り。
--------------
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」にあたり、全国戦没者追悼式に臨み、先の大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人びととその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来、既に73年。国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時を偲ぶ時、感慨は今なお、尽きることがありません。
戦後の長きに渡る平和な歳月に思いをいたしつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民とともに、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

via https://www.huffingtonpost.jp/2018/08/14/the-end-of-war_a_23502437/

◇新たな皇室の時代築いた天皇陛下 戦争と向き合った在位30年
JAPAN-EMPEROR-
第2次世界大戦の終結から60年後、サイパン島の断崖の上で天皇皇后両陛下が静かに頭を下げた時、両陛下の祈りは、言葉よりも雄弁な、共感を呼ぶメッセージを人々に伝えた。
天皇陛下(今上天皇)は、30年にわたる在位中に、過去の戦争にゆかりのある多くの地を訪問した。2005年6月の訪問もその中の1つだった。他の訪問と同様に、両陛下は日本人だけでなく、米国人や韓国人の戦没者も慰霊した。
元宮内庁長官の羽毛田信吾氏はロイターのインタビューで、天皇陛下のこうした訪問について「私なりに解釈すれば、2つの意味合いがあると思う」と語る。「1つは犠牲になった人たちを心から悼む追悼の気持ち。もう1つは、先の戦争の悲惨な歴史を忘れてはいけないこと。後の世代、とくに戦争を知らない世代に伝えること。両陛下の後ろ姿は、悲惨な戦争の歴史を忘れてはいけないことを訴えている」。
羽毛田氏を含む、ロイターが取材した天皇陛下を直接知る6人は、昭和天皇が1989年1月7日に崩御されてから、天皇陛下がいかに平和・民主主義、和解のシンボルとして積極的な役割を果たされてきたかを語った。
政治には関与できないが、天皇陛下は、日本の戦争について理解の幅を広げた、と専門家は評価する。これは、日本人がその名の下に戦い「現人神」(あらひとがみ)とされた昭和天皇のレガシーからの決別でもあった。
現在84歳の天皇陛下は、来年、生前退位する。
退位は、中国、韓国との関係が緊張化している中で行われる。また、安倍晋三首相の保守的な政策スタンスから日本が右傾化していると見られることで、天皇陛下のレガシーも危機にさらされる可能性がある。
日本の政府首脳は、戦時中の日本の行動について反省と謝罪を繰り返してきたが、天皇陛下のお言葉は重みが違う、と専門家は指摘する。
城西国際大学のアンドリュー・ホバット客員教授は「天皇はローマ教皇のようなもの。天皇の言動は、象徴的なメッセージとなる」との見方を示す。
日本政府の謝罪は、これまで立場の異なる政治家によって否定されたり後退させられたりしてきたが、天皇陛下の言葉は一貫している、という。

■既成の枠にとらわれない
政府の謝罪についての著書があるダートマス大学のジェニファー・リンド教授は「人々は、両陛下が、戦争被害者に対し、真心をこめ、敬意を持って、象徴的、調和的なやり方で手を差し伸べようとしている、とみている」と述べた。
天皇陛下の友人や学識者によると、天皇陛下に戦後教育の基礎を授けるうえで影響があったのは、クエーカー教徒の家庭教師、エリザベス・ヴィニング氏と元慶應義塾大学塾長の小泉信三氏。小泉氏は多くの教え子を戦争でなくした。
天皇陛下の級友だった明石元紹(もとつぐ)氏は「今、日本の国民のほとんどが、陛下は優しく人に対して親切で、人のことを大変に想う天皇だと思っている。それは戦後のこと。戦争をやっている間は、象徴天皇ではなく日本全体を引っ張り戦争する、というのに近い立場だった」と話す。
理論的には、天皇陛下は憲法に違反しない限り、自分が言いたいことを言える立場にある。憲法は天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とし、国政に関する権能を有しない、と規定している。
実際に、外交に影響を与えるような発言は、慎重に吟味される。
1990年代に、ブリティッシュ・カウンシルの代表を務めていた際に天皇陛下と交流のあったマイケル・バレット氏は「天皇陛下と皇后陛下は、籠に閉じ込められた鳥だと言われていたが、天皇陛下は、鳥籠の扉を開けた」と話す。

■保守派の反撃
1990年5月、韓国政府は1910─1945年の日韓併合について、新天皇による謝罪を求めた。
与党は皇室が謝罪をすることに反対し、当時の海部俊樹首相が代わりに韓国の盧泰愚大統領に謝罪することを申し出た。
しかし、天皇陛下は、こうした際に沈黙を守った昭和天皇とは違う道を選んだ。渡辺允元侍従長は、ロイターに対し「天皇陛下は、日本が韓国の人々に苦しみを与えたということをはっきりさせたかった」と話す。
盧大統領を迎えた晩餐会で、天皇陛下はこう言った。「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」。
天皇陛下の即位から、しばらくの間は、日本の戦争責任をめぐる議論が盛んで、1995年の村山富市首相(当時)による謝罪(村山談話)を含め、日本政府の謝罪がたびたび行われた。
こうした謝罪や、学校で子どもたちに日本が戦時中に行ったことについて教えようとする試みは、「自虐的」な歴史を教えることで日本人のプライドやアイデンティティーを損なわせるとして、保守派からの大々的な反撃を引き起こした。
1992年、天皇陛下は近代の皇室として初めて中国を訪問した。国内の右派勢力は訪中に反発、中国の活動家は天皇陛下に謝罪を要求した。
天皇陛下は、中国で「両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し、多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と述べた。
その翌年から、天皇陛下は戦争の舞台となった地への訪問を始める。最初の訪問地は戦争で多大な犠牲を払った沖縄だった。1995年からは長崎、広島などへの「慰霊の旅」を続けた。

■海外の戦地
戦後60年、天皇陛下は海外の戦地として、最初にサイパン島を訪問した。羽毛田元宮内庁長官は「(天皇陛下は)国内だけでなく、国外でも先の大戦で犠牲になった、日本人だけでなく、世界の人に対して慰霊したいということを、前から強くご希望だった」と振り返る。
同氏は「外国訪問は基本的に受身のことが多いが、この件に関しては、陛下の非常に強いご希望があり、その意味で異例な外国訪問だったと思う」と述べた。
天皇陛下は、高齢に加え、心臓手術や前立腺がんを患ったにもかかわらず、その後もこの戦地訪問を続けてきた。
1944年に激しい戦闘があったパラオのペリリュー島へは2015年に訪問、2016年にはフィリピン、今年は沖縄を再訪問した。
2015年8月15日の終戦70周年の戦没者追悼式では、戦争について「深い反省」との言葉を使い、これまでの「深い悲しみ」という表現から一歩踏み込んだ。
安倍晋三首相はこの前日に、「痛惜の念」を表すと述べつつも「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と述べており、天皇陛下の言葉は、安倍首相に対し婉曲に異を唱えたものだと受け止める向きが多かった。
82歳の誕生日に行った2015年の記者会見で、天皇陛下は「この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」と述べた。
天皇陛下の後を継ぐ徳仁(なるひと)皇太子(58)は、天皇陛下と考えをともにする。しかし、皇太子が天皇に即位したあと、日本人の若い世代がどれほど天皇陛下の発言に影響を受けるかは不明だ。
終戦時に11歳だった父親とは異なり、皇太子は戦争を知らない。慶應義塾大の笠原英彦教授は言う。皇太子が天皇になった時に「『反省』と言われたら、多くの人は『何の反省?』と聞くだろう」。
via https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/08/30-19.php


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[動画] 世界で2番目に飲まれている飲み物「お茶」の歴史 はてなブックマーク - [動画] 世界で2番目に飲まれている飲み物「お茶」の歴史

◇The history of tea - Shunan Teng

水に次いで世界で2番目に飲まれている飲料が「お茶」です。トルコでは甘いチャイが飲まれ、対照的にチベットでは塩辛いバター茶、日本では抹茶など、お茶は消費される国によってさまざまな飲み方があるのですが、そんなお茶のルーツに迫るTEDのムービーが公開されています。

中国の神話に登場する神農は、人々に効果のある薬草を見つけ出すため、山の中で目に付く草木を片っ端から食べて歩きました。その中には毒草もあり、神農は1日に72回も食中毒になったと言われています。
そんな中、神農が見つけたお茶の葉を口にしたところ、毒で弱ったからだを復活させる効果が得られたと伝えられています。
実際のところ、お茶の葉に解毒効果はありませんが、古代の中国でお茶が重宝されていたことを書き記しているわけです。
考古学では、世界で初めてお茶の木が栽培されたのは、約6000年前の中国だと言われています。約1500年前のギザの大ピラミッドが建設されるよりはるか前から、人々はお茶をたしなんでいたのかも。そんな中国のお茶の木は世界中で飲まれているお茶の源流になっているとのこと。
しかし、お茶の葉はもともと飲料として飲まれていたわけではなく、ある国では野菜として食べたり、ある国では穀物と混ぜておかゆにしたりと、古くは食物として消費されてきました。
約1500年前になり、ようやく人々はお茶の葉にお湯を入れると飲料として飲めることに気がついたそうです。

数百年の時を経て、お茶の飲み方は洗練されていきます。中国で乾燥させたお茶の葉を挽いて粉状にしたものとお湯を混ぜた飲料が誕生し……
その飲料は「末茶(抹茶)」と呼ばれるようになりました。
中国で抹茶は非常に人気の飲料になり、中国のお茶の文化の始まりになったとも言われています。その証拠に、中国の皇帝は本や詩とともにお茶をたしなんでいたこともわかっています。

9世紀の唐王朝時代、日本人の僧侶が初めてチャノキを日本に持ち帰ったとのこと。
それが日本の茶道文化の発祥となり、独特なお茶の作法を生み出すことにつながりました。
中国では、14世紀の明王朝時代にお茶が磁器や絹に並ぶ、重大な輸出財の1つに数えられるほどになったとのこと。輸出品としてお茶の人気が高まったことで中国に多大なる経済的影響力があっただけでなく、世界中にお茶が普及するきっかけになったそうです。

1600年代になると、オランダの商船がヨーロッパに大量のお茶を運ぶようになりました。
ヨーロッパに運ばれたお茶は、1661年にチャールズ2世と結婚したキャサリン・オブ・ブラガンザ王妃に親しまれ、王妃はイギリスに紅茶の文化を根付かせた功績者とされています。
また、当時のイギリスは植民地の拡大を続ける世界的強国でした。イギリスが世界的な影響力を強めるにつれ、世界中に紅茶の文化が広まっていくきっかけにもなったとのこと。
しかし、1700年までのお茶は中国で栽培されていたため、コーヒー豆の10倍の価格で販売されていたとのこと。
高価なお茶は貿易商品としても重宝され、交易に当時で世界最速の大型帆船「クリッパー船」が使われるなど、西洋の貿易会社間での激しい競争を生み出しました。
当時のイギリスはお茶の代金として銀を支払っていたそうですが……
「お茶の葉の対価として銀は高価すぎる」ということが発覚し、紅茶の支払いには麻薬のアヘンが使われるようになったとのこと。その結果、アヘンは中国で大量の中毒者を生み出し、重大な公衆衛生問題に発展しました。
1839年に、清王朝はアヘンを運ぶイギリス船を破壊するという声明を出しました。これがきっかけで、清とイギリスの間で2年間にわたって続けられた「アヘン戦争」が勃発したわけです。
アヘン戦争に勝利したイギリスは、香港を植民地化しました。
同じころ、イギリスの東インド会社はお茶をイギリスで栽培し、市場をコントロールすることを望みました。
そこでイギリスのプラントハンターであるロバート・フォーチュンは、中国からチャノキを盗み出し、インドのダージリンへ運んだことで知られています。

中国を起点に世界中に広まったお茶はさまざまな発展を遂げ、国によってまるで異なる味わいの飲料として世界中で親しまれています。・・・
via http://gigazine.net/news/20170519-history-of-tea/



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◇ワールド・ヒストリカル・アトラス:http://x768.com/w/twha.ja

WS005

・ある時代・ある地域にあった国名・版図・統治者がひと目で分かる
・縮尺を変えるとその頃世界の他の地域はどうなっていたのかがわかる
・右上の年号に見たい西暦を入力すると刻々と情勢が変化する
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