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新天皇陛下即位、象徴責務へ決意=「国民に寄り添う」-戦後生まれ初、令和始動 はてなブックマーク - 新天皇陛下即位、象徴責務へ決意=「国民に寄り添う」-戦後生まれ初、令和始動




 新天皇陛下が1日、皇位に就かれ、平成に続く令和の時代が始まった。新陛下は同日午前、皇居で国民の代表と会う儀式「即位後朝見の儀」に臨み、「常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓います」と最初のお言葉を述べた。
 新陛下は、退位した上皇さまに触れて「上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます」と語った。新陛下は1960年2月23日生まれの59歳で、お名前は徳仁(なるひと)。戦後生まれの初めての天皇となった。
 今回の皇位継承は、2017年6月に成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づく。宮内庁の記録によると126代目の天皇となり、現行憲法が規定する象徴天皇としては3代目、現憲法下での即位は2人目。退位した陛下は上皇、皇后さまが上皇后となり、皇太子妃の雅子さまが新皇后となった。
 政府は即位儀式として、1日午前10時半から皇居・宮殿「松の間」で皇位の証しとされる剣と勾玉(まがたま)、国の印である国璽、天皇の印である御璽を受け継ぐ「剣璽等承継の儀」を実施した。剣や勾玉は鏡とともに、いわゆる「三種の神器」と呼ばれ、皇室経済法で「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」と位置付けられる。
 儀式には安倍晋三首相ら三権の長や閣僚らが参列。同席する皇族は前例を踏襲し、成年男性に限定された。
 続いて午前11時10分から即位後朝見の儀が行われ、政府、国会、裁判所の要人や地方代表ら292人が参列。新陛下のお言葉に続き、首相が国民代表の辞を述べて祝意を表明し、「令和の御代(みよ)の平安と皇室の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げる」と語った。
 皇位継承順位は、皇嗣になった秋篠宮さま(53)が1位、秋篠宮さまの長男悠仁さま(12)が2位、上皇さまの弟の常陸宮さま(83)が3位。皇位継承資格者の減少により、安定的な皇位継承に向けた検討が急務となる。
 儀式に先立ち、政府は1日午前の臨時閣議で、二つの即位儀式を国事行為と位置付けることを決定した。[2019.05.01]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100178&g=pol

https://jp.reuters.com/article/reiwa-idJPKCN1S62RO?feedType=RSS&feedName=worldNews

・新陛下、晴れやかに即位宣言=勲章姿、国民の前に-皇居・宮殿で二つの儀式



 1989年1月以来、30年ぶりに皇居・宮殿で執り行われた「剣璽等承継の儀」と「即位後朝見の儀」。元号が改まった1日、新天皇陛下は晴れやかな表情で両儀式に臨み、即位を宣言された。
 新陛下は午前9時50分すぎ、赤坂御所の正門から車で皇居へ出発。にこやかな表情で沿道に集まった人々に後部座席から手を振り、歓声に応えた。
 前日に「退位礼正殿の儀」が行われたのと同じ宮殿・松の間に入ったのは同10時半。新陛下はえんび服に白のちょうネクタイ、「大勲位菊花章頸飾(けいしょく)」などの勲章を着け、中央の壇上に立った。皇位継承権を持つ成年皇族である秋篠宮さま、常陸宮さまも勲章姿で左右に並んだ。
 剣璽と国璽、御璽を恭しくささげ持った侍従らが別の扉から入室。目前にしつらえられた台の上に置かれると、新陛下は真剣な表情でわずかにうなずいた。同35分、新陛下は剣璽などを持った侍従らと共に退出した。
 続いて、同11時12分から即位後朝見の儀が行われた。新陛下は新皇后の雅子さまと共に松の間に入り、安倍晋三首相ら292人の国民代表の前へ。加地正人・新侍従次長が紫のふくさから差し出した原稿を開き、皇位を継承したことを宣言した。
 新陛下ははっきりと響く声で即位後初のお言葉をよどみなく読み上げた。傍らの雅子さまは、きらきらと輝くティアラを着けたローブデコルテ姿で、新陛下を見守った。
 安倍首相が国民代表の辞を述べ、新両陛下と皇族方が退出した後、同20分に扉が閉じられた。新陛下はその後、継承した剣璽と共に車で赤坂御所へ。二つの重要儀式が無事終わり、新天皇としての歩みが始まった。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100374&g=soc

・天皇陛下 即位後初めてのおことば 全文
日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。
この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。
 via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190501/k10011902991000.html






・天皇陛下「即位後朝見の儀」おことばに感動の声広がる
  https://matome.naver.jp/odai/2155667922869478001

・新陛下、2番目の高齢即位=8世紀以降-皇位継承

 新天皇陛下は59歳。間違いが少ないとされる「続日本紀」(797年完成)に記載がある文武天皇以降では、60歳で即位した奈良時代の光仁天皇に次いで2番目の高齢即位となった。
 55歳で皇位に就いた天皇陛下は3番目となり、平安時代の光孝天皇の54歳が続く。飛鳥・奈良時代の元明天皇と、奈良時代の称徳天皇(重祚)が即位したのは、共に46歳の時だった。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100038&g=soc


・86年ぶり皇太子不在に=秋篠宮さまは新天皇陛下の弟-皇位継承

 新天皇陛下即位に伴い、天皇の直系男子が就く「皇太子」の地位は86年ぶりに空位となった。皇室典範は「皇嗣たる皇子(天皇の男の子)を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫(天皇の男の孫)を皇太孫という」(第8条)と規定。秋篠宮さまは皇位継承順位1位の皇嗣だが、新天皇陛下の弟であるため皇太子にはならない。
 昭和天皇が即位してから、退位された天皇陛下が1933(昭和8)年12月に生まれるまでの約7年間が皇太子不在の時代だった。秋篠宮さまは皇太子待遇となり、対外的には「クラウンプリンス」として活動する。
 via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100039&g=soc


・令和元年の初日、新天皇陛下の即位...主要5紙はどう報じた? 比較すると、各紙の個性が際立っていた   
 https://www.huffingtonpost.jp/entry/reiwa-newspaper5_jp_5cc8ea14e4b0913d078a518b

・天皇陛下の即位と退位、海外メディアはどう伝えたか?
 https://www.huffingtonpost.jp/entry/japan-emperor_jp_5cc8f476e4b0d123954c0add

◆アングル:新天皇と皇后で変わる日本、「令和」時代の皇室とは
 https://jp.reuters.com/article/japan-emperor-new-idJPKCN1S20FU?feedType=RSS&feedName=worldNews

・新しい天皇陛下が即位 「令和」始まる
  https://www.bbc.com/japanese/48101947


・令和時代の天皇陛下はどんな方?趣味は山登りで、“皇居ラン”をこなす健脚 
■1960年2月23日に誕生。小学生時代は野球の大ファン。“ごひいき”は末次利光選手
新たに即位された天皇陛下(徳仁さま)は1960年2月23日、皇居・宮内庁病院で当時の皇太子明仁親王と皇太子妃美智子さまの間に誕生した。



幼少時の名前として与えられた「称号」は浩宮さまだった。称号は、古典から学者が選出し、天皇陛下が字を選出される。
1960年2月29日の朝日新聞夕刊によると、称号「浩宮」とお名前である「徳仁」は四書五経の「中庸」の第三十二章から、祖父・昭和天皇が命名された。
大空のように広くて偏りのない様子を示す「浩々たる天」から浩の字を、「聡明聖知にして天徳に達する者」から徳の字を取ったという。
浩宮さまは、天皇家では初めて父親の皇太子明仁親王(現在の上皇陛下)、母親の美智子さま(上皇后)が子育てにあたられた。
明仁親王は天皇家の伝統的風習に従って、3歳で両親のもとを離れ、東宮仮御所で、「傅育官」らに育てられた経緯があった。
そのことについて明仁親王は「私は世情にうとく、人に対する思いやりの足りない心配がある。どうかよく人情に通じた、思いやりの深い人に助けてもらいたい」と語っていたという。
明仁親王と美智子さまはそうした背景もあり、世間や周囲の反感を買うこともあったが、3人の子どもたちの子育ては乳母を付けずに家族で同居を通した。
学習院初等科時代には、野球に熱中された浩宮さま。
1971年10月17日朝日新聞東京本社版の朝刊によると、10月16日の日本シリーズ第4戦の読売ジャイアンツー阪急ブレーブス戦を学友と共に観戦。
読売ジャイアンツの外野手として活躍した末次利光(当時は民夫)選手の満塁ホームランに飛び上がって拍手を送ったという。
浩宮さまは末次選手の大ファンで、学校の野球チームでも末次選手の背番号38を付ける熱狂ぶりだった。

■趣味は山登り。健脚ぶりを“皇居ラン”でも発揮
趣味人としても知られる天皇陛下(徳仁さま)の一押しのレジャーは山登りだ。
日本山岳会員であり、日本山岳写真協会の特別会員でもある。父親である上皇陛下と、ともに登山に向かうこともあった。
初めての登山は、5歳で訪れた長野・軽井沢の離山だった。登山雑誌「山と渓谷」(1995年1月号)には、父親である上皇陛下に連れられて登頂した思い出をエッセーでつづられている。
国内の様々な山を踏破した天皇陛下は、山の楽しみ方をこのエッセーで次のように語っている。

「自分をゆっくりと大自然のなかにおき、動植物や地質を観察し、自然の恩恵に浴すこと、そして、個々の山の歴史に思いを致し、登山の行程全体を楽しむことである」

また、文章の中では当時の天皇陛下と美智子さまを「両親」、そして皇太子妃(当時)である雅子さまを「妻」として、自身との関わりを記したことも、大きな話題を呼んだ。
登山を支える健脚ぶりは、40代後半に差し掛かった2007年の“皇居ラン”でも発揮された。
2007年2月26日に配信された新聞各紙のニュースによると、皇居外周の2周約10㎞を51分ほどで走った。また、55歳の誕生日の2日後である2015年2月にも皇居外周1周を約27分で走り終えている。
登山のほかに、ヴィオラ奏者としての顔も国民には広く知られている。
上皇陛下がチェロを弾かれ、美智子さまがピアノを演奏。天皇陛下はもともと学んでいたヴァイオリンのほかに、大学時代からはヴィオラの演奏も始められた。
大学時代は音楽部管弦楽団に所属。チャリティーコンサートでビオラの独奏を披露されることもある。
天皇陛下は海外での経験も豊富だった。
初めての海外滞在は1974年、14歳のとき。オーストラリア・メルボルン郊外にあるポイントロンズデールで15日間を過ごした。
学習院大学を卒業後に大学院に進み、その後オックスフォード大学マートンカレッジに2年間留学。
学習院大学の卒論は「中世瀬戸内海水運の一考察」。大学時代から一貫して史学に興味を持たれ、幼いころから「道」に一層の関心があった影響でとくに交通史を選んで学ばれていた。
オックスフォード大学でも18世紀のテムズ川の交通について研究された。
徳仁さまは、大学卒業後に海外で研究を続けられた初めての天皇陛下となった。
留学を終え、日本に戻ってからは海外の賓客の対応にも留学で培った英語力を発揮。
英国のチャールズ皇太子、故ダイアナ妃(当時)と歓談することもあった。

■「皇太子」となり、結婚そして父親へ
徳仁さまは1989年、昭和天皇の崩御に伴い今上天皇が即位されたことにより、皇位継承順位1位の皇太子となった。



1991年2月23日、31歳となった日に立太子宣明の儀が執り行われた。
立太子宣明の儀は、皇位継承者としての徳仁親王の地位を天皇陛下(当時)が内外の代表の前で披露される立太子の礼のなかでも中心となる儀式。
1993年には、外務省キャリア官僚だった小和田雅子さん(当時)と結婚。



二人の最初の出会いは1986年10月、東京・元赤坂の東宮御所(当時)で開かれたスペインのエレナ王女歓迎レセプションの茶会の席という。
天皇陛下の「初恋」だったといい、その後の1年間で、東宮御所や高円宮邸などで計4回顔を合わせた。
1992年8月16日に再会。陛下はその後、雅子さまにひんぱんに電話を入れ、思いを伝えたという。
2001年12月1日には、長女・愛子さまが誕生。
祖父である天皇陛下(当時)が決められた愛子さまの称号は「敬宮(としのみや)」となった。
名前と称号の出典は「孟子」の「離婁章句下(りろうしょうくのげ)」。広く人間社会で修養すべき基本的道徳を述べ、敬と愛の重要さを説いた部分からとったという。
愛子さまの誕生後、初の会見となった2月23日の徳仁さまの誕生日会見では「子どもとは、こんなにかわいいものだったかと、改めて知ることになりました」と笑顔を見せた。
子育てや教育方針については「父親として、できるだけ子育てに積極的にかかわっていきたい」と話されていた。
そして2019年4月30日、徳仁さまは皇太子としての役目を終え、5月1日に天皇陛下に即位された。
 via https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cc7a94ce4b07c9a4ce80b7e


◇【特設】皇室特集~新陛下、「令和」と共に~:https://www.jiji.com/jc/tokushu?g=ryl



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天皇陛下退位へ=平成最後の日-「象徴」に全身全霊の30年余 :「令和の平和祈る」=在位中最後のお言葉-皇居で退位礼正殿の儀 はてなブックマーク - 天皇陛下退位へ=平成最後の日-「象徴」に全身全霊の30年余 :「令和の平和祈る」=在位中最後のお言葉-皇居で退位礼正殿の儀






 天皇陛下の退位に伴う「退位礼正殿の儀」が30日夕、皇居・宮殿「松の間」で行われた。30年3カ月余り象徴として歩んだ陛下は「新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と、在位中最後のお言葉を述べられた。
 江戸時代後期の光格天皇以来、202年ぶりの退位に伴う憲政史上初の儀式で、国民に広く退位を知らせるため憲法が定める天皇の国事行為として実施。皇后さまや皇太子ご夫妻ら成年皇族15人全員に加え、閣僚や衆参正副議長、最高裁長官、国会議員、都道府県知事や市町村長の代表ら294人が参列した。
 午後5時、モーニング姿の天皇陛下が皇后さまと共に松の間に入室した後、侍従が皇位の証しとされる剣と璽(じ)=勾玉(まがたま)=、天皇の印の御璽、国の印の国璽を「案」と呼ばれる台の上に置いた。
 安倍晋三首相が退位特例法に基づき、30日限りでの陛下の退位を宣言。即位以来、国民と苦楽を共にした陛下への謝意を表した。陛下は「天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」と述べ、国民への感謝を示した。
 両陛下は剣と璽をささげ持った侍従と共に退出し、儀式は10分余りで終わった。
 両陛下は引き続き、皇族や側近、宮内庁や皇宮警察の職員らからあいさつを受けた後、お住まいの御所で平成最後の一日を終えた。
 これに先立ち、陛下は30日午前、皇居・宮中三殿で、「退位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」などの儀式に装束姿で臨んだ。
 剣と璽は退位礼正殿の儀の後、皇居・御所「剣璽の間」に再び戻され、1日午前0時の即位とともに新天皇が継承した。
 1日午前、新天皇が剣と璽などを受け継いだことを明らかにする「剣璽等承継の儀」と、即位後初めて国民代表に会う「即位後朝見の儀」が、いずれも国事行為として行われる。[2019.04.30]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019043000392&g=pol

◆天皇陛下 最後のおことば 全文
今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終えることになりました。
ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
明日(あす)から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。



・これが平成の終わりか…世界で中継された『退位礼正殿の儀』
  https://matome.naver.jp/odai/2155663081255461101

◆天皇陛下、その人間らしさ
■「最高慰問者」
1989年1月、昭和天皇の死去にともない、天皇陛下が即位した。



楽観的な時代だった。日本は金回りがよく、戦後の経済発展のピークを迎えていた。ソニーがコロンビア・ピクチャーズを買収する直前で、三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンターの買収を目前にしていた。世界中で、新たな「超大国」としての日本が話題になっていた。
しかし、天皇陛下が即位した翌年、災難が起こった。バブル経済がはじけ、東京の株式市場で株価が35%も暴落した。バブル崩壊から30年近くたつが、日本の株価と地価は1990年代の水準を下回ったままだ。
ほとんどの日本人にとって、平成(「平和の達成」を意味する)時代は経済停滞を意味してきた。加えて、悲劇に見舞われた時代でもあった。
1995年1月、マグニチュード6.9の大地震が神戸の街を襲った。ビルや道路の陸橋が倒壊し、火災が何日も続いて空が暗くなった。死者は6000人を超えた。
2011年には、さらに甚大な被害をもたらす地震が東北地方の沖合で発生した。マグニチュード9は、記録が残る中で、日本における4番目に大きな地震だった。この地震は巨大津波を引き起こし、東北沿岸の町々に壊滅的な被害を及ぼして、約1万6000人の命を奪った。
この2番目の災害の後、天皇陛下は過去の天皇がしなかったことをした。テレビカメラの前に座り、国民に向けて直接語りかけたのだ。
その2週間後、天皇・皇后両陛下は、東京から離れたスタジアムに設置された避難所を訪れた。
被災者たちは、床の上にわずかな所持品を積み重ねて生活していた。多くの人々は、福島第1原発の損壊によって出た放射線から避難していた。ほとんど全てを家の中に残したまま、いつ、果たして戻れるのかどうかさえわからずに、避難生活を送っていた。
天皇・皇后両陛下は床に膝をつけて家族を一組ずつ訪ね、静かに話しかけ、質問をし、いたわった。



保守層にとってはショッキングな、天皇陛下の姿だった。天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫にあるべき振る舞いではなかった。しかし、それを上回る数の日本人が、天皇陛下の人間味あふれる感情表現に深く感動した。
「陛下には道徳的な権威がある」とテンプル大学東京校のジェフ・キングストン教授は話す。「陛下はその権威を自ら獲得した。最高慰問者(consoler in chief)だ。陛下は父親(昭和天皇)には決してできなかった方法で民衆と関係を築いている」。
「陛下の避難所訪問は、政治家が写真撮影のために訪問して手を振って立ち去るのとは違う。人々の隣に座り、一緒にお茶を飲み、戦前には考えられなかった風に会話をする」

■父親の罪
天皇陛下は革命家には見えない。背は低く、控えめで語り口は柔和だ。発言と行動は戦後の憲法によって厳しく制限されている。イギリスのエリザベス女王と違い、陛下は日本の国家元首ではない。
その代わり、陛下の役割は「国民統合の象徴」とあいまいに定義されている。政治的な発言は認められていない。
こうした儀礼的で窮屈な役割の中でも、陛下は見事な成果を上げてきた。
まず思い出すべきは、陛下は日本がアジアで暴挙を繰り広げた1930-40年代の約15年間に日本を治めた、神格化された昭和天皇の息子だということだ。広島と長崎に原爆が投下され終戦を迎えた時、陛下は12歳だった。



教育を受けていた時期のどこかで、陛下は強固な平和主義者となり、それは現在も続いている。このことについては、アメリカ人家庭教師のエリザベス・グレイ・ヴァイニング氏の影響を指摘する人もいる。天皇陛下は昨年12月には「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べた。平成の間に1人の自衛隊員も、戦争や武力紛争で犠牲にならなかったことに、何より満足しているという。
陛下は日本のかつての敵や被害者とも心を通わせる努力をしてきた。北京、ジャカルタ、マニラからスペインまで、昭和天皇の下で生じた傷を癒すために尽力した。
「陛下は、日本の和解のための最高の特使という、天皇の新たな役割をつくり出し、地域内を何度も訪問し、償いと悔恨の意を示してきた。基本的に、過去の戦争の傷を癒そうとしてきた」とキングストン教授は指摘する。
1990年代には、それはあまり議論にはならなかった。国内の政治家は陛下を支え、1992年には歴史的な中国訪問を実現させた。だが、陛下が年齢を重ねるにつれ、日本の政治は急激に右傾化した。



かつての「謝罪外交」は、平和主義とともに支持されなくなった。安倍晋三首相は、日本の平和憲法を改めると宣言している。安倍氏や右派の人々は愛国的な教育を復活させ、彼らの言う戦後の「自虐史観」を消し去りたいと考えている。
目立たないように、しかし強い意志をもって、陛下は繰り返し歴史修正主義者たちに対する軽蔑心を表してきた。2015年、戦後70年の節目で、安倍氏は談話を発表した。
「安倍氏は基本的に、日本がいま享受している平和と繁栄は、300万人の戦死者のおかげだと述べた」とキングストン教授は言う。
「翌日、陛下はそれを否定した。陛下は日本がいま享受している繁栄は、国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識によるものだと、お言葉で述べた」
テレビ中継を見ていた何百万人もの日本人にとって、それは疑いようのない批判だった。
東京で開かれた園遊会では、右派の東京都の教育委員会委員が、国歌を斉唱するときには全教員を起立させると陛下に誇らしげに伝えた。
陛下は静かに、だがきっぱりとこう言って、その委員を諭した。
「強制になるということではないことが望ましい」

■長い別れ
在位期間を通し、陛下は最も大切な伴侶で助言者の美智子皇后と一心同体だった。一般家庭の出身の皇后陛下にとって、時に宮中での暮らしは極めて大変だった。1993年には、皇后陛下は精神的疲労から倒れ、2カ月間、言葉が出なくなった。
皇后陛下は最近、天皇陛下の決意に対する畏敬の念を文章で表している。
「振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました」
しかし、ここしばらく、天皇陛下の健康状態は衰えつつある。がんを患い、心臓のバイパス手術も受けた。陛下に近い人は、陛下が健康悪化によって動けなくなり、公務を果たせなくなることを一段と心配していたと述べる。
2009年ごろから、陛下は皇太子さまへの皇位継承が認められるよう静かに世論に訴え始めた。これは決して簡単なことではない。
戦後制定された憲法では、天皇は「終身」その地位にあると明確にしている。そのため、政治家たちは陛下の願いを無視してきたと、原武史放送大学教授は説明する。
「9年間にわたって、政府は陛下のお気持ちにまったく同調しなかった。退位したいという陛下の希望を受け入れたら、天皇が重要な決定権限をもつことになってしまい、それは憲法違反だと考えたからだ」
これは、まさに日本独特の難問だ。原教授によると、焦燥感を募らせた陛下と宮内庁は、ある計画を編み出した。
「陛下と宮内庁はどんどん我慢できなくなっていった。そこで、宮内庁の職員がNHKに情報を流し、NHKが陛下の希望を報じた」
NHKにとってそれは大スクープとなり、こう着していた局面が打開された。1カ月後、陛下は再びテレビ放送されたビデオメッセージを通して国民に直接語りかけ、退位して皇位を皇太子さまに引き継ぎたい意向を示唆した。
世論調査の結果は、大多数の日本国民が陛下の意向を支持していることを示した。安倍首相と保守層は従うしかなかった。それから2年の年月を要したが、陛下はついに退位の日を迎えた。
5月1日、皇太子さまが新天皇に即位し、時代は「令和」に変わる。
via https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48101955


・美智子さまに憧れて――陛下を支え続けた60年を秘蔵写真とともに振り返る

 いよいよ今上天皇の退位の日が近づいてきた。新元号発表に続き、多数のタレントや文化人が出席した「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が開催され大きく報道されるなど、国全体の関心事となっているが、一つの時代が終わることの感慨をしみじみ味わっているかたもいることだろう。
 現在、書籍の世界でも皇室関連本は人気だが、よく見かけるのはいわゆる天皇制や皇室の謎に迫る本。そんな中に、静かに今上天皇の時代を振り返ることができる本があるのはうれしいもの。『皇室の歴史とともに、60年――あの日の美智子さま』(渡邉みどり:監修/主婦の友社)は、長らく陛下を支え続けた皇后・美智子さまを主人公に、90年の歴史を誇った婦人誌「主婦の友」が取材活動を通じて集めた秘蔵写真の数々を紹介しながら美しく振り返る贅沢な一冊だ。当時の記事もそのまま紹介され、人々が美智子さまに向けた「憧れ」を、平成の終わりにあらためて実感する
 昭和32年夏、軽井沢のテニスコートで時の皇太子さまに見初められた正田美智子さんという一人の女性は、昭和34年「世紀のご成婚」を経て皇太子妃・美智子さまに。ご成婚報道で白黒テレビが爆発的に普及したり、パレードには沿道に53万人がつめかけたり、民間から誕生したプリンセスは「ミッチーブーム」を巻き起こす。なにより人々が夢中になったのは、美智子さまの清楚な美しさと、聡明さだった。



 振り返ってみればお二人がご成婚された昭和34年は、終戦からまだ14年弱とはいえ将来を希望的に考えられるようになってきた高度経済成長の時代だ。その頃の女性たちにとって美智子さまは、豊かな新時代の象徴であり、まぶしいほどの「憧れ」だったのだろう。当時の「主婦の友」では、美智子さまが皇室に新しく導入したライフスタイルをしばしば記事にしている。これまでの慣例(しかも皇室という日本の最古の旧家の)を上手に自分らしいスタイルに変えられていく美智子さまの姿は、多くの女性たちに未来への夢を与えたに違いない。



 実は過去3回、「ベストドレッサー賞」を受賞されている美智子さまは、女性たちの羨望の的・ファッションアイコンでもあった。当時の庶民には縁遠かったオートクチュールも見事に着こなしてしまう美貌とセンスは、いま見ても惚れ惚れしてしまう。皇太子ご夫妻時代からあらゆる国をご訪問されてきたが、訪問先への配慮を忘れない堂々たる日本のプリンセスは、世界の要人を魅了した。
 皇室に入った民間人として、ご苦労は並大抵のものではなかったことだろう。だが常に笑顔で、国民と皇室を繋ぐという重責を担われてきた美智子さま。日本の国民がなぜ皇室を大事に思い、さらに次世代にもその思いをつないでいけるのか。その理由の一つに「美智子さまの存在」があったことは間違いない。本の中の凛とした美智子さまのお姿にときめきつつ、その存在の大きさを実感し、あらためて感謝の気持ちを覚えるのだ。
via https://ddnavi.com/review/534825/a/


・【解説】 「三種の神器」、皇室が持つ謎の宝物
 https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48089944

・【図解】天皇陛下の日常
 https://www.afpbb.com/articles/-/3219341

・平成最後の記念!「元号」にまつわる場所に人が殺到している件
  https://matome.naver.jp/odai/2155654528230022801

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天皇陛下在位30年記念式典:天皇陛下おことば 全文 はてなブックマーク - 天皇陛下在位30年記念式典:天皇陛下おことば 全文




在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。
即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。
平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。
世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。
島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。
天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。
しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。
天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。
これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。
災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の1つです。
今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。
数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。
心より深く感謝いたします。
平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。
ともどもに平(たひ)らけき代を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ
平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。
そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。
在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。[2019.02.24]

via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190224/k10011826401000.html


・飛んだおことば、皇后さまが気づく 涙声で感謝の8分半
 24日の在位30年の記念式典で、天皇陛下のおことばは8分半に及んだ。退位当日の4月30日、皇居・宮殿での「退位の礼」で最後のおことばが予定されるが、皇居外では今回が最後となる見通し。涙声で国民への感謝の思いを語った。
 おことばは象徴天皇の歩みを振り返る集大成とも言える内容だった。平成の30年間を「国民の平和を希求する強い意志」によって「近現代において初めて戦争を経験せぬ時代」と総括しつつ、決して平坦(へいたん)な時代ではなかった、とも述べた。震災などを念頭に「多くの予想せぬ困難に直面した時代」だったとし、「日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました」と振り返った。
 陛下は天皇の務めを人々の助けを得て行えたことを「幸せなこと」と振り返り、「この国の持つ民度のお陰でした」とも述べた。

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

 おことばの中で、天皇陛下は平成が始まって間もない時期に皇后さまが詠んだ歌を紹介した。当時、全国各地から「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」との「決意に満ちた言葉」が寄せられたと明かし、「私どもは今も大切に心にとどめています」と声を詰まらせながら語った。



 途中、天皇陛下が用意した原稿を読み間違えてしまう場面があった。天皇陛下は昨年5月にもベトナムの国家主席夫妻を歓迎した宮中晩餐(ばんさん)会で、おことばの原稿を1枚分飛ばしたことがあった。今回はかたわらにいた皇后さまがすぐに気付いて伝え、陛下は安堵(あんど)した様子で再び読み始めた。宮内庁関係者によると、皇后さまはおことばの作成を支え、内容を理解して式典に臨んでいたという。
 式典が終わり、天皇陛下は会場内を見渡しながら手を振った。そばには笑みをうかべる皇后さま。お二人に大きな拍手が送られた。
 式典には安倍晋三首相や衆参両院議長、外国大使ら約1100人が出席。安倍首相は式辞で「30年の長きにわたって、国民に常に寄り添ってこられた両陛下のお姿を、私たちは決して忘れることはありません」と述べた。福島県の内堀雅雄知事は国民代表として「明日に向けて歩みを進める勇気をいただきました」と東日本大震災での激励に感謝を伝えた。
via https://www.asahi.com/articles/ASM2L4SVKM2LUTIL00X.html

・天皇陛下「おことば」でハプニングも‥皇后さまのサポートに感動広がる
 https://matome.naver.jp/odai/2155099970078309101

◇「現代にふさわしい皇室を」=お言葉で振り返る在位30年
 天皇陛下は即位以来、毎年の誕生日や節目の記者会見などで、象徴の在り方や戦争、災害など、さまざまな事柄について考えを語られてきた。主なお言葉で在位30年を振り返った。

 「憲法に定められた天皇の在り方を念頭に置き、天皇の務めを果たしていきたい。国民の幸福を念じられた昭和天皇をはじめとする古くからの天皇のことに思いを致すとともに、現代にふさわしい皇室の在り方を求めていきたい」(1989年8月、即位後初の記者会見)

 「障害者や高齢者、災害を受けた人々、社会や人々のために尽くしている人々に心を寄せていくことは、私どもの大切な務め」(99年11月、即位10年の会見)

「先の大戦で大きな犠牲を払い、長い時を経て、念願してきた復帰を実現した沖縄の歴史を、人々に記憶され続けていくことを願っています」(2002年12月、69歳の誕生日前会見。沖縄復帰から30年で)

「結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます」(09年4月、結婚50年の会見)

「この20年、長い天皇の歴史に思いを致し、国民の上を思い、象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ、今日まで過ごしてきました」「心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということ」(09年11月、即位20年の会見)

「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います」(11年3月、東日本大震災後のビデオメッセージ)

「80年の道のりを振り返って、最も印象に残っているのは先の戦争のこと」「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるもの」(13年12月、80歳の誕生日前会見)

「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」(16年8月、退位の意向をにじませたビデオメッセージ)

「残された日々、象徴としての務めを果たしながら、次の時代への継承に向けた準備を、関係する人々と共に行っていきたい」(17年12月、84歳の誕生日前会見。退位日が決まり)

「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」(18年12月、85歳の誕生日前会見)。

 via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019022500183&g=soc


・「天皇陛下在位30年記念式典」で歌声披露した三浦大知に感動の嵐
  https://matome.naver.jp/odai/2155098937474257401



・式典で三浦大知さん熱唱 両陛下が合作した沖縄の思い出
 24日の天皇陛下在位30年記念式典では、沖縄県出身の歌手三浦大知さんが「歌声の響(ひびき)」を歌った。沖縄のハンセン病療養所との交流をきっかけに天皇陛下が詞を書き、皇后さまが作曲した思い出の曲だ。
 お二人は皇太子ご夫妻時代の1975年7月、初めて訪れた沖縄で名護市の「沖縄愛楽園」の入所者と交流した。ハンセン病への差別や偏見が残る時代、お二人が望んだ訪問だった。
 帰り際、入所者は感謝を伝えようと、沖縄の船出歌「だんじょかれよし」を涙ながらに歌った。当時の様子を天皇陛下が沖縄伝統の「琉歌(りゅうか)」(八・八・八・六の音数律をもつ定型詩)に詠み、皇后さまが曲をつけたのが「歌声の響」だ。両陛下の沖縄訪問は皇太子時代から11回に及ぶ。
 この日、三浦さんは千住明さんのピアノ、千住真理子さんのバイオリンに合わせ、情感豊かに歌った。
 また、ソプラノ歌手の鮫島有美子さんは皇后さま作曲の「おもひ子」を披露。皇太子妃時代、詩人で小説家の故・宮崎湖処子(こしょし)の詩をもとに作った曲で、幼い浩宮さま(皇太子さま)の子守歌として口ずさんだことがきっかけで生まれたものだった。
「歌声の響」 作詞天皇陛下、作曲皇后さま
だんじよかれよしの歌声の響(ダンジュカリユシヌウタグイヌフィビチ) 見送る笑顔目にど残る(ミウクルワレガウミニドゥヌクル)
(意味:(船出歌の)「だんじょかれよし」の歌声の響きと、それを歌って見送ってくれた人々の笑顔が今も懐かしく心に残っている)

だんじよかれよしの歌や湧上がたん(ダンジュカリユシヌウタヤワチャガタン) ゆうな咲きゆる島肝に残て(ユウナサチュルシマチムニヌクティ)
(意味:「だんじょかれよし」の歌が湧き上がった、あのユウナの咲く島が今も懐かしく心に残っている)

via https://www.asahi.com/articles/ASM2L4SVKM2LUTIL00Y.html


◇「心にしみ、実用的」美智子さまの5つのお言葉を読み解く
「美智子皇后の言葉ほど、奥深く、心にしみ、しかも実用的なメッセージは、聞いたことがない」。ノンフィクション作家の矢部宏治さんが、両陛下が国民とともに歩まれた60年を振り返り、折々に美智子さまが発せられ、時代をつくられてきた言葉を読み解く。
 天皇皇后両陛下が発せられる言葉がどのようにつくられているかは意外に知られていない。側近や宮内庁が代筆するという誤解も多いが、実は、ご自身の考えや意思が国民に伝わるよう、自ら丁寧に言葉を紡ぎ、推敲に推敲を重ねて仕上げられている。両陛下の言葉をまとめた『天皇メッセージ』(小学館)の著者である矢部宏治さんが、昨年12月23日の陛下の誕生日会見を読み解く。
「このおそらく在位中最後となる会見は、明仁天皇の万感の思いが隅々まで込められたもので、なかでもはっきりと5度、言葉を詰まらせられたことが印象的でした。そのうち2か所は美智子皇后について触れた一節でした。いかにおふたりが、ご苦労をともに分かち合い、乗り越えてこられたのかがわかりました。明仁天皇のお言葉はもとより、ご結婚以来60年、ともに大きな光と闇の時を体験されてきた皇后の言葉にも、今、耳を傾けるべきでしょう」
 以下では、矢部さんの協力のもと、美智子さまのこれまでの言葉のなかで、特に印象的な5つを並べた。それらは、時代を見事に切り取るとともに、深い懊悩を越えて、私たちに勇気を与えてくれる言葉だった。

〈私のめざす皇室観というものはありません。ただ、陛下のお側にあって、すべてを善かれと祈り続けるものでありたいと願っています〉(1994年10月/60才の誕生日文書)

 その言葉の背景に、矢部さんはまず「天皇の孤独」を読み取る。「敗戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は、明仁皇太子(当時)の15才の誕生日に、まるで見せつけるかのようにA級戦犯を処刑しました。その恐怖にも負けず、日本の復興を自らの務めと思い定めた皇太子は、学習院高等科の英語の授業で『I shall be Emperor』(私は必ず天皇になります)と宣言。以降、『新しい時代の天皇制はどうあるべきか』をひとりで模索されました。  
 天皇という『職業』についても、根本的に改革する意志を持たれていたようです。たとえば25才で結婚する直前には『ぼくは皇居内に住みたくない。皇居はなるべく開放して、大衆向きの公園に使ってほしい』『天皇になってもぼくは街の中に住む』と親しい友人に語られていたと報道されています。苦難の道を歩まれた明仁皇太子が心に抱いた孤独と恐怖を、痛切に感じ取られたのが美智子皇后でした」(矢部さん・以下同)
 1959年4月10日、明仁皇太子と結婚された美智子さまには、「一種の使命感」があったという。「“孤独な皇太子さまに、温かいホームをつくって差し上げたい”というお気持ちだったと述べられています。自らが国や皇室をどこかに導こうというのではなく、極限の苦悩の中で重い荷物を背負う明仁皇太子に肩を寄せて、ともに歩いていこうという強い使命感が、その後の60年間の根底にあったのだと思います」
 その決意が「陛下のお側」という言葉に込められている。

〈だれもが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている〉(1980 年10月/46才の誕生日会見)

 おふたりのご成婚により、国中が祝賀ムードに包まれた。ところが、初の民間出身の皇太子妃となられた美智子さまは、一部の皇族や女官などから心ない言動を受けることになる。
「1960年に長男・浩宮(現・皇太子さま)が生まれてからも、慣習にとらわれず自分の手で子育てされようとした美智子皇后は、宮中の女性から激しくバッシングされました。家柄もよく容姿端麗でスポーツもできた皇后は、皇室という巨大な存在のなかで、初めて“弱い自分”を感じながら、“人は一人ひとり自分の人生を生きている”として、決して希望を捨てませんでした。“最も高い地位〟にありながら、最も庶民に近い感性を持つ皇后の心情が滲み出る言葉です」

〈とりわけみずからが深い悲しみや苦しみを経験し、むしろそれゆえに、弱く、悲しむ人びとのかたわらに終生寄りそった何人かの人々を知る機会をもったことは、私がその後の人生を生きる上の指針のひとつになったと思います〉(2004 年10月/70才の誕生日会見)

 成婚後の美智子さまが特別に「深い悲しみ」に見舞われたのは1963年。浩宮さまに次ぐお子さまを流産された。「当時の美智子皇后は明仁天皇とともに、出産についても皇室の慣例を破り、一般家庭に近い形を貫いていた時期でした。それだけに流産によって精神的危機に陥り、葉山御用邸(神奈川)でひとり長期静養することになりました」
 その頃の美智子さまを支えた1人が、ハンセン病患者のための施設「長島愛生園」(岡山県瀬戸内市)の精神科医長だった故・神谷美恵子さんである。「神谷さんは、社会的な偏見に苦しんでいたハンセン病患者のケアを行い、弱い立場の人々とともに歩むかたでした。深い闇の中にいた美智子皇后は、神谷さんとの出会いによって傷ついた心を癒され、“国民の苦しみに寄り添う姿勢”を確立されていきました」
 その後、美智子さまは46年かけて国内のすべてのハンセン病療養所を訪問された。

〈福島の子供たちの健康はどうでございますか〉(2018年11月/最後の園遊会)

 2011年3月11日、東日本大震災。その5日後に陛下は国民に向けたビデオメッセージを発表され、3月30日から7週連続で被災地の避難所を回られた。両陛下は原発事故についても深く憂慮された。
「明仁天皇は、原発事故直後から福島第一原発の視察を強く希望され、5月に美智子皇后とともに福島県を訪問されました。さらに政治家やマスコミが原発事故への関心を失うなか、2012年から4年連続で、新年の『ご感想』のなかで、放射能汚染に見舞われた地域住民に心を寄せるメッセージを発せられました」
 美智子さまも陛下と同じ思いだった。
「両陛下は原発事故後に6度、福島県を訪問しています。昨年6月の在位中最後の訪問では、車での移動中に福島第一原発が見える地点を通られた。しかも11月の両陛下主催の最後の園遊会では、原発事故調査に携わった山下俊一・福島県立医科大学副学長に、美智子皇后が福島の子供たちの健康について尋ねました。政財官など“国家の中枢”のなかで、変わらず福島に寄り添う発言を続けているのは、明仁天皇と美智子皇后だけです」
  *
 昨年10月20日、在位中最後の誕生日にあたり、美智子さまは次のように心境を述べられた。

〈皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく――そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います〉(84才の誕生日文書)

「戦後60年間、象徴天皇としての困難な旅を続けられた明仁天皇の傍らには、常に美智子皇后の励ましの笑顔がありました。両陛下は、戦後日本のベストカップルなのです」
via https://blogos.com/article/358761/



・宮中茶会に五輪メダリストら 陛下の即位30年を祝う
 即位30年を祝い、天皇、皇后両陛下が主催する宮中茶会が26日午前、皇居・宮殿で始まった。五輪メダリストら平成を彩った各界の功労者のほか、都道府県知事らが招かれ、天皇陛下は「本日こうして茶会を催し、ともにひとときを過ごすことを誠にうれしく思います。この機会に、出席された皆さんのこれからのご健康と幸せを祈ります」と述べた。
 茶会は宮殿・豊明殿で、皇太子さま、秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族方を迎え開かれた。スポーツ界からは王貞治さんや、五輪メダリストの浅田真央さん、伊調馨さん、北島康介さん、サッカーの三浦知良さん、プロゴルファーの石川遼さんらが集った。
 学術界からは大隅良典さん、大村智さん、梶田隆章さんらノーベル賞受賞者も出席した。[2019.02.26]
via https://www.asahi.com/articles/ASM2T3S0PM2TUTIL014.html


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