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[訃報] 内田裕也さん逝く 79歳 希林さんの死から半年 もう聞けない“ロケンロール” はてなブックマーク - [訃報] 内田裕也さん逝く 79歳 希林さんの死から半年 もう聞けない“ロケンロール”


 ロック歌手で映画俳優としても活躍した内田裕也(うちだ・ゆうや、本名内田雄也)さんが17日5時33分、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。79歳。兵庫県西宮市出身。17年11月に脱水症状で倒れてから車椅子生活を余儀なくされていた。18年9月15日に妻で女優の樹木希林さん(享年75)に先立たれ、喪失感が消えない中での死となった。都知事選出馬など常に話題を提供し続けたロック界のカリスマだった。葬儀は近親者のみの家族葬で執り行い、後日お別れ会を執り行う。
 希林さんの死から半年、波乱に満ちた“ロケンロール人生”に幕が引かれた。年明けから体調が悪化し、17日に天に召された。1995年に俳優の本木雅弘(53)と結婚した長女の也哉子(43)らが裕也さんの遺体に寄り添った。
 晩年は病気やケガと闘う日々が続いた。16年11月に英国ロンドンのホテルの浴室で転倒し、尾てい骨を強打。17年夏には転倒して右足甲を骨折。さらに同11月に脱水症状を起こして緊急入院するなど、満身創痍(そうい)だった。
 完全復帰を目指してリハビリに励んできたが、日増しに体力は低下。自身が主催する恒例の年越しライブ「ニューイヤーロックフェスティバル」にも17~18年からは車椅子で出演。執念で立ち上がり、熱唱する状況が続いていた。12年から毎年欠かさず参列していた3月11日の東日本大震災の追悼式も今年は欠席していた。
 エルビス・プレスリーに憧れて高校を中退し、1957年にバンドボーイとして音楽活動をスタートさせた。幾つかのバンドを渡り歩き、66年のビートルズ日本公演では尾藤イサオ(75)らとの特別編成のバンドで前座を務めた。
 同年、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していた沢田研二(70)らをスカウト。これが後のザ・タイガースとなった。67年には麻生レミをボーカルに据えて結成したフラワーズにジョー山中さんらが参加し、フラワー・トラベリン・バンドとして再編成。アルバムがカナダチャートで8位を記録するなど海外でも活躍し、邦楽ロックの礎を築いた。
 70年代からは映画俳優としても活躍。崔洋一監督の「十階のモスキート」(83年)、自ら脚本を手掛けた滝田洋二郎監督の「コミック雑誌なんかいらない!」(86年)など話題作に主演した。  私生活では故かまやつひろしさんの紹介で出会った希林(当時悠木千帆)さんと73年10月にスピード結婚。裕也さんの家庭内暴力などもあり、1年半で別居生活に入った。81年には一方的に離婚届を提出。希林さんが訴訟を起こし離婚成立を阻止する一幕もあった。
 別居生活は43年半にも及び、裕也さんは大麻取締法違反(77年)、銃刀法違反(83年)、そして強要未遂と住居侵入容疑(11年)と3度の逮捕歴を重ねた。それでも離婚には踏み切らなかった。
 2人にとってお互いは特別で最愛の存在だった。長女の也哉子が離婚しない理由を聞いた際に希林さんは「彼にはひとかけらの純なものがあるから」とし、一方の裕也さんも「一生頭が上がらない」と話していた。
 91年には東京都知事選に出馬。政見放送で「パワー・トゥ・ザ・ピープル」と「コミック雑誌なんかいらない!」を歌うなど自由奔放な人生を貫き「シェキナベイベー」の名言も残した。[2019.03.18]

 ◆内田 裕也(うちだ・ゆうや)1939年(昭14)11月17日生まれ、兵庫県出身。神戸のジャズ喫茶でならし、エルビス・プレスリーに憧れて上京。58年にブルージーン・バップスを結成し59年にデビュー。渡辺プロ退社後の67年からヨーロッパを1年あまり放浪。帰国後、日本ロックの振興に大きく貢献した。阪神大震災、東日本大震災発生後はいち早く被災地に入り、ジョー山中さんや安岡力也さんら“ファミリー”を引き連れ炊き出しなどを行った。
 via https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/03/17/kiji/20190318s00041000109000c.html


・樹木希林さん死去から半年‥内田裕也さん訃報に多くの悲しみ広がる
 https://matome.naver.jp/odai/2155286528888156101

・内田裕也さんは、ロックンロールに人生を捧げた。「ヒット曲ない」と自嘲する“ロック界のドン”  
 https://www.huffingtonpost.jp/entry/rocknroll-yuya_jp_5c8ee625e4b0d7f6b0f4dfc4

・放送事故も...亡くなった内田裕也さんのロックな伝説とは?
 https://matome.naver.jp/odai/2155285393183878701

・内田裕也 :Wikipedia

・内田裕也さん、別居43年半も妻に守られた破天荒人生
 11年にストーカーでの逮捕時には希林さんが自宅に報道陣を上げて会見し、「逮捕してくれてありがたい」と矢面に。裕也さんがいつ帰ってきてもいいようにと“裕也部屋”を作ってあるといい、「縁あって結ばれた好きな人。添い遂げるのが当たり前」ときっぱり言い切った。
 昨夏にフジテレビ系で放送された裕也さんのドキュメンタリー番組には、全身がんで闘病中だった希林さんがナレーションで“共演”した。
 同9月に愛妻が死去した際、裕也さんは「見事な女性でした」と感謝。納骨時にはあごの骨を持ち帰り、深い愛情を見せた。その半年後、「裕也さんに会いたい」と死ぬまで言っていた希林さんに呼ばれるように天国へ。絶対に離婚しなかった妻は生前、長女でエッセイストの内田也哉子(43)に「だってお父さんにはひとかけらの純なものがあるから」と愛しげに語っていた。

★内田裕也さんのトラブル史
 ◆大麻取締法違反で逮捕 1977年、長崎県警佐世保署に大麻取締法違反の疑いで逮捕される(起訴猶予処分)
◆音楽興行事務所に殴り込み 83年、ウドー音楽事務所に「外国人ばかり使うな!」と包丁を持って乱入し、銃刀法違反で逮捕
 ◆東京都知事選出馬 91年、アントニオ猪木が出馬表明を撤回したことに触発され、交際相手の女優に選挙資金を提供してもらい、立候補。政党推薦のない無所属候補では最多の5万4654票を獲得するも落選
 ◆傍聴 2009~12年の民主党政権時代、国家予算見直しで行政刷新会議が行った「事業仕分け」を「ロック界の代表として政治に無関心でいられない」とたびたび傍聴
 ◆ストーカーで逮捕 11年、元交際相手のキャビンアテンダント(当時50歳)に復縁を迫り、東京都内の女性宅に侵入した容疑で逮捕(起訴猶予処分)
 via https://www.sanspo.com/geino/news/20190319/geo19031905030006-n1.html

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[訃報] 女優:市原悦子さん死去 82歳 はてなブックマーク - [訃報] 女優:市原悦子さん死去 82歳


多くの映画やテレビドラマに出演し、民放のテレビアニメ「まんが日本昔ばなし」で、声優としても親しまれた俳優の市原悦子さんが、12日、心不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。82歳でした。
市原悦子さんは千葉県出身で、昭和32年に俳優座に入団し、舞台や映画を中心に優れた演技力を発揮しました。
昭和46年に俳優座を退団してからは活躍の場を広げ、民放のテレビドラマ「家政婦は見た!」の主役の家政婦役で人気を集めると、平成2年には、広島の原爆の被害を描いた映画「黒い雨」で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞し、俳優としての地位を確かなものにしました。
また、平成8年に放送されたNHKの大河ドラマ「秀吉」で豊臣秀吉の母、大政所を演じるなど、数多くのテレビドラマに出演しました。
一方、昭和50年からおよそ20年間にわたって放送された民放のテレビアニメ「まんが日本昔ばなし」では、愛きょうのある独特の声がお茶の間に親しまれました。
市原さんは2年余り前、自己免疫性脊髄炎と診断され、休養していましたが、去年3月にNHKの番組「おやすみ日本」の中の昔話の語り手として復帰し、先月にも入院先の病院で収録を行っていました。
所属事務所によりますと、市原さんは、12日午後1時半すぎ、心不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。
82歳でした。
市原さんの告別式は、今月18日に東京 港区の青山葬儀所で行われます。

■竹中直人さん「深い愛を持った声 耳に深く残る」
市原さんは、NHKの大河ドラマ「秀吉」で豊臣秀吉の母、大政所を演じました。
豊臣秀吉の役を演じた俳優の竹中直人さんは、市原さんが亡くなったことについて、「大河ドラマで市原悦子さんとぼくは母と息子の関係でした。一年間共にひとつの作品を作れた事は今もぼくの宝物です。市原さんの深い愛を持った声の音色はあの頃のぼくに勇気と力を与えてくれました。そして今もぼくの耳に深く残っています…ご冥福をお祈りいたします」と事務所を通じてコメントしています。

■新海誠監督「信じがたく とても残念」
市原さんは、人気アニメーション映画「君の名は。」で、ヒロインの祖母の声を演じていました。
新海誠監督は、市原さんが亡くなったことについて、ツイッターで「信じがたく、とても残念です。僕は『まんが日本昔ばなし』で育ちました。『君の名は。』の収録で初めて市原さんにお会いした瞬間、初めてセリフをいただけた時の感動、披露試写であたたかいお言葉を頂いた時、すべてつい昨日のようです」とコメントしています。

■「日本のお母さんのような人」
市原さんが亡くなったことについて、東京 渋谷では悼む声が聞かれました。
東京に住む58歳の男性は「温かい、日本のお母さんのような人でした。本当に大事な人を亡くして残念ですが、みんなの心の中に残っていると思う」と話していました。
東京の84歳の女性は「親しみがある俳優で、市原さんが出るテレビは安心して見ていた。私より少し若い方で、私が生きている間は楽しませてもらいたかった。残念です」と話していました。
横浜市の51歳の女性は「市原さんが声を担当していた『まんが日本昔ばなし』がすごい大好きで、ドラマなどでもよく見ていました。人として重みがある人がどんどん亡くなっていくのがさみしく思います」と話していました。[2018.01.13]
via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190113/k10011776901000.html

 テレビドラマ「家政婦は見た!」などで知られる女優の市原悦子(いちはら・えつこ、本名塩見悦子=しおみ・えつこ)さんが12日午後1時31分、心不全のため死去した。82歳だった。千葉県出身。葬儀は18日午前11時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。葬儀委員長は所属事務所のワンダー・プロダクション社長熊野勝弘(くまの・かつひろ)氏。
 1957年俳優座入団。児童劇でデビュー後、同劇団の舞台で頭角を現した。退団後は夫で演出家の塩見哲さんと番衆プロを設立。ドラマや映画、演劇などで幅広く活躍した。75年に始まったテレビアニメ「まんが日本昔ばなし」では、登場人物の声を俳優の常田富士男さんと2人ですべて演じ、独特の語り口で親しまれた。2時間ドラマ「家政婦は見た!」(テレビ朝日系)では他人の家の秘密を暴く主人公をコミカルに演じ、25年にわたって放送が続く人気シリーズとなった。
 映画「黒い雨」で90年、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞受賞。
 2017年1月に病気のため一時休業を発表。昨年3月からはNHK番組の朗読の仕事を続けながら療養していた。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019011300374&g=soc

・俳優の市原悦子さん死去…突然の訃報に悲しみの声が広がっている
 https://matome.naver.jp/odai/2154737293980539401

・市原悦子:Wikipedia
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[訃報] 津川雅彦さん死去 = 俳優「狂った果実」「マルサの女」 はてなブックマーク - [訃報] 津川雅彦さん死去 = 俳優「狂った果実」「マルサの女」

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 「狂った果実」から「マルサの女」まで、長年にわたって映画やドラマで幅広い役を演じた俳優の津川雅彦(つがわ・まさひこ、本名加藤雅彦〈かとう・まさひこ〉)さんが4日、心不全で死去した。78歳だった。葬儀は近親者で行った。
 1940年、京都市に生まれる。父親は歌舞伎から映画に転じた俳優の沢村国太郎、祖父は“日本映画の父”と呼ばれた製作者のマキノ省三、叔父は加東大介という芸能一家に育った。幼い頃から子役として活動。56年、日活の「狂った果実」で石原裕次郎の純真な弟を演じて注目を集めた。
 58年、松竹に移り、木下恵介監督の「惜春鳥」などで甘い二枚目を演じた。60年前後に若手監督が中心になって松竹ヌーベルバーグ運動を起こす。大島渚監督の「太陽の墓場」や「日本の夜と霧」、吉田喜重監督の「ろくでなし」など、彼らの斬新な作品で、強烈な個性の若者を演じた。
 中年に差し掛かった80年代以降は重厚な容姿を生かし、伊丹十三監督の映画の常連となる。とりわけ87年の「マルサの女」では国税査察官の宮本信子の上司、「あげまん」では宮本と結婚する銀行員など、印象的な役を数多く演じた。
 この頃、渡辺淳一原作の「ひとひらの雪」「別れぬ理由」など大人の恋愛映画で中年男の色気をにじませた。「マルサの女」「別れぬ理由」でキネマ旬報助演男優賞を受けた。
 テレビでもNHK大河ドラマ「葵 徳川三代」で徳川家康役や、TBS「野々村病院物語」で外科医役などを演じた。
 2006年、叔父のマキノ雅広監督の名前を借りたマキノ雅彦名義で映画「寝ずの番」を初監督。「次郎長三国志」「旭山動物園物語」と計3本のメガホンを取った。兄で俳優の故長門裕之さんとは長年不仲だったというが、これら弟の監督作に兄が出演、晩年は関係を修復した。
 妻で俳優の朝丘雪路さんも今年4月に亡くなったばかりだった。長女は俳優の真由子さん。74年に赤ん坊だった真由子さんが誘拐され、無事保護される事件があった。[2018.08.08]
 via https://www.asahi.com/articles/ASL7V6TZWL7VULZU010.html

・津川雅彦さん、芸能一家、娘誘拐、借金、妻の介護…波乱万丈の人生
 4日に心不全で死去した俳優、津川雅彦さん(享年78)は、祖父が「日本映画の父」と呼ばれた牧野省三監督、叔父はマキノ雅弘監督、兄は俳優の長門裕之さん(2011年死去、享年77)という芸能一家に育った。
 1956年公開の映画「狂った果実」で本格デビュー。幅広い演技力の二枚目として人気を博し87年の「マルサの女」など伊丹十三監督作品の常連として活躍した。
 私生活では73年に朝丘雪路さん(4月27日死去、享年82)と結婚するも、翌74年に生後5カ月の長女で女優、真由子(44)の誘拐事件が発生。2008年には津川さんが経営していた玩具事業で6億5000万円の負債を抱え、朝丘さん名義の自宅を売却するなどして乗り切った。
 兄の長門さんとは“確執”を噂されたことも。津川さんは1981年公開の「マノン」で第24回ブルーリボン賞助演男優賞を受賞したが、長門さんから「オレは26歳でブルーリボンの主演男優賞を取った」と言われたことなどが原因だが、のちに和解したと明かしている。
 45年連れ添った朝丘さんについては、自身の浮気騒動が浮上するたびに「もっと遊びなさい」と笑い飛ばしてくれたことを感謝。晩年はアルツハイマー型認知症を患った妻を3年4カ月にわたり献身的に介護。朝丘さんの死去を受け、5月20日に開いた会見では「悔いはいっぱいあるけど、娘を産んだこと、僕より先に死んでくれたことに感謝しています」と深い愛情を見せた。
via https://www.sanspo.com/geino/news/20180808/geo18080805050011-n1.html


・昭和の名優・津川雅彦さん死去‥突然の訃報に多くの悲しみ広がる
 https://matome.naver.jp/odai/2153365374109096801

・津川雅彦:Wikipedia

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◆朝丘雪路さんに続いて…。津川雅彦さんの人生観を大きく変えた事件
それは突然の訃報だった。女優で日本舞踊家の朝丘雪路さんに続いて、俳優の津川雅彦さん(享年78歳)が4日に心不全のため亡くなっていたことが分かった。朝丘さんの死去から僅か3ヶ月あまりの訃報となった。
朝丘さんは高名な日本画家・伊東深水氏の娘だったが、津川さんは祖父が「日本映画の父」と称された牧野省三監督で、叔父はマキノ雅弘監督。そして兄は2011年に亡くなった俳優の長門裕之さん、義姉は、2009年に亡くなった女優の南田洋子さん――まさにサラブレット級の芸能一家に生まれ育った。
その津川さんと朝丘さんは、今年、結婚45年目の年だった。
朝丘さんはアルツハイマー型認知症だったそうで、2014年4月のミュージカルを最後に自宅で療養していた。津川さんは、そんな朝丘さんを献身的に看病してきた。それだけに朝丘さんの死去には「彼女を残すよりいい結果になった」と悼んだ。「一時は、別居していたこともあった」が、朝丘さんと津川さんは芸能界の中でも"おしどり夫婦"として知られてきた。

■おしどり夫婦を襲った 娘・真由子の誘拐事件
夫妻は深い絆で結ばれていた。そのキッカケになったのは、何といっても2人を襲った愛娘・真由子の「誘拐事件」だった。追悼の意を込めて改めて振り返ってみた。
この事件は衝撃的な"昭和の事件"として現在でも語り継がれている。
それは1974年に起こった。結婚して10か月、1974年3月に第一子の真由子が生まれた。
東京・世田谷区の"津川邸"は建面積330平方メートル。そこに夫妻と真由子、他にお手伝いさんや看護婦、運転手など7人が住み込んでいた。
ところが、その他にも毎日さまざまな人が泊まりに来ていたという。
「とにかくオープンな家でしたね。戸締りらしい戸締りはほとんどしていなかったと思います。今では信じられませんが朝丘さんの熱狂的なファンまで泊まりに来ることもあったほどです」(当時を知るベテランの芸能関係者)
しかし、このオープンさが災いを巻き起こす事態が起こった。
同年8月15日午前3時48分、家中が寝静まった中、2階の部屋で寝ていた真由子が侵入してきた男に誘拐されたのだ。因みに、夫妻は別の部屋で寝ていたという。
真由子と一緒にいた看護婦は57歳のベテランだったが、
「時間も時間だったことから、真由子ちゃんが連れ去られる時はウトウトしていた。津川さんが真由子ちゃんを自分の部屋に連れて行ったものと勘違いしてしまったようです」(前出のベテラン芸能関係者)
真由子は生後5か月。ようやく首が据わりかけたころだ。

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当時の捜査状況を振り返ると、犯人の男は、どうやら夫妻の家が無用心だったことを研究済みだったようだ。勝手口から侵入した犯人は、鍵のかかっていない風呂場のドアから堂々と家の中に入った。階段で2階に上がりドアを開けると、そこに真由子が看護婦と眠っていた。そこで真由子をあやしながら抱き上げ、堂々と玄関から外に出て行った。
誘拐犯は、"津川邸"から真由子を連れ去ると、盗んだ車で自宅に戻った。
「真由子がいなくなった」
看護婦からの連絡に慌てた夫妻は「誘拐された」と判断、すぐさま警視庁に捜索願を出した。前代未聞の出来事に警視庁は新聞社、テレビ局に対して「報道協定」を要請した。これは人質の身の安全を確保するため「報道はもちろん、取材も一切しない」というものだが、実は「誘拐事件」での「報道協定」というのは今では慣例となっているが、このときが初めてのケースだったという。
犯人から電話があったのは、誘拐直後の午前4時ごろ。「500万円を第一勧業銀行(現みずほ銀行)に振り込め」と身代金を要求してきた。
事件が起こる前年の1973年1月、第一勧銀はキャッシュカードを初めて導入したばかりだった。犯人は事件の1か月前に偽名を使って新宿支店で口座を開き、キャッシュカードを使って千住、西新橋、八王子、池袋の4支店で現金を引き出してみる。
「どこでも20秒足らずで金が出てくる。これなら大丈夫だ」
犯人は自信を深めたようだ。
逮捕のキッカケになったのは、津川さんに電話をかけた時に「500万円はすぐに用意出来ない」と言われ「だったら、あすの12時(正午)までに振り込め」と指示したことだった。
第一勧銀は、警視庁の要請に1日でわが国初の「逆探知機プログラム」を開発した。指定された口座に振り込まれた金を犯人がどの銀行のATMで引き出しているかを逆探知した。
16日午後0時17分、犯人は東京駅南口の支店でキャッシュカードを使って現金を引き出しているところを逆探知され逮捕された。誘拐から32時間後、あっけない逮捕劇だった。
ところが、犯人は逮捕されたものの真由子の所在を自供しない…。
「どうせオレは死刑になるから」
そう言ったまま、真由子の居場所も安否も口を閉ざしてしまったというのだ。
しかし、指紋から前科が分かり、自宅を突き止め、真由子は無事保護された。
逮捕から8時間が過ぎていた。
この身代金要求の「誘拐事件」は32時間後に犯人が逮捕され、40時間後に真由子も無事保護されるという劇的な解決となった。 事件翌日の16日午後11時過ぎ、夫妻は赤坂の山王病院で無事、真由子と対面した。
津川さんは無精ヒゲも剃らず、目を真っ赤に腫らし、刑事から真由子を受け取ると、ひしと抱き締めた。その隣で、朝丘さんは涙で濡れた目をぬぐいもせず、津川さんの手を握り締めていた。

■「日本一のパパになるんだ」事件後 “子育て“に取り組む
逮捕された犯人は、千葉県内に住む男(当時23)だった。宮崎県出身で両親の離婚、母親の再婚、家の貧しさ、そして中学卒業後は集団就職で大阪に出てくるが、仕事になじめず職を転々とした挙げ句、犯罪に手を染めていく。東京に来る前に、すでに保護観察、検挙歴が5回もあった。夫妻の自宅で事件を起こす前の3月、車を盗み、無免許のまま乗り回していた。
「異常な部分もあるが、知能犯的な部分もあった」(捜査関係者)。
事件について津川さんは後に「新潮45」(2000年8月号)のインタビューでこう振り返っている。
「僕自身、母親のオッパイを触りながら小学6年まで添い寝してもらって、乳離れができず、父母の夫婦生活にも相当支障をきたしただろう反省の念があった。また、役者業の深夜に至る不規則な生活に赤ん坊まで巻き込みたくなかった。ただし、1人で寝かせていたわけではない。病院からの看護婦さんにずっと同室してもらっていた」
津川さんは2006年11月、紫綬褒章を受章した。
「(デビュー前は)嫌だったが、役者になってつくづくよかった」
さわやかな笑顔を見せていたが、その一方で「あの事件が、人生の転機になった。役者だけでなく、父親の視点を持つことができ、世界が何倍にも広がった」と話していた。
事件後、津川さんは「子育て」に真剣に取り組む。
…とはいっても、つきっきりで遊んでやることは不可能だ。その時に「自分に匹敵する良質な玩具で遊びを充実させることを思いついた」という。玩具屋「グランパパ」(偉大な父)の設立だった。
「日本一のパパになるんだ」
バブルの崩壊で実現出来なかったが、スコットランドから城を持ってきた「サンタの国」構想もその延長線上にあったという。
津川さんは13年に北朝鮮拉致問題早期解決のための啓発ポスターにも登場している。以来、安倍晋三総理との交流も深まっていたという。
愛娘・真由子の誘拐事件は、紛れもなく津川さんの人生観を大きく変えた事件だった。その真由子に看取られながら津川さんは78年の人生の幕を静かに閉じた。
 via http://blogos.com/article/316560/


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[訃報] 桂歌丸さん81歳=落語家、笑点で人気 はてなブックマーク - [訃報] 桂歌丸さん81歳=落語家、笑点で人気

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 人気演芸番組「笑点」で長く親しまれた落語家で落語芸術協会会長の桂歌丸(かつら・うたまる、本名・椎名巌=しいな・いわお)さんが2日午前11時43分、死去した。81歳。
 1951年、15歳で五代目古今亭今輔に入門し前座名今児(いまじ)を名乗った。2年半ほど落語界から遠ざかったが、61年兄弟子の桂米丸門下に移り米坊として出直し。64年歌丸と改名し、68年に真打ち昇進した。
 66年に始まった日曜夕方放送の「笑点」では、一時降板したが、当初からのレギュラーメンバー。三遊亭小円遊さん(80年死去)や三遊亭楽太郎(現六代目円楽)さんとの掛け合いが、茶の間の人気を呼んだ。2006年には五代目円楽さん(09年死去)に代わって5代目の司会者を16年まで務め、高視聴率番組の安定した人気をけん引した。
 生家は横浜の妓楼(ぎろう)。地元愛は有名で、74年からは地元にある三吉演芸場で独演会を開いてきた。芸や噺(はなし)の継承にも力を入れ、「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」「牡丹灯籠(ぼたんどうろう)」「怪談乳房榎(ちぶさえのき)」といった三遊亭円朝の長編の続き物を数多く手がけた。
 04年に落語芸術協会会長、10年からは横浜にぎわい座館長も務め、後継の育成や落語界発展に尽くした。
 芸術選奨文部科学大臣賞、文化庁芸術祭賞など受賞多数。07年旭日小綬章。16年文部科学大臣表彰。
 著書に「座布団一枚! 桂歌丸のわが落語人生」など。
 近年は誤えん性肺炎などで体調を崩し、入退院を繰り返していたが、今年4月の国立演芸場では隔日でトリをつとめ、長講の「小間物屋政談」を熱演していた。[2018.07.02]
via https://mainichi.jp/articles/20180702/k00/00e/040/274000c

 テレビ番組「笑点」で長く活躍した落語家で、古典落語の名手として知られる落語芸術協会会長の桂歌丸(かつら・うたまる、本名椎名巌=しいな・いわお)さんが2日午前11時43分、慢性閉塞(へいそく)性肺疾患のため横浜市内の病院で死去した。81歳だった。横浜市出身。葬儀は近親者のみで行う。喪主は妻冨士子(ふじこ)さん。後日、お別れの会を開く 生家は横浜の遊郭。小学生の頃からラジオで落語に親しみ、1951年、中学3年生で五代目古今亭今輔に入門、古今亭今児を名乗った。後に兄弟子の四代目桂米丸門下に移って桂米坊を名乗り、64年に桂歌丸に再改名。68年に真打ちに昇進した。
 66年に始まった日本テレビ系の演芸番組「笑点」に放送開始時から出演。大喜利コーナーでの故三遊亭小円遊さんとの掛け合いが受けて人気者になり、半世紀にわたる長寿番組で出演メンバーが入れ替わる中、不動のレギュラーだった。2006年5月からは、勇退した故五代目三遊亭円楽さんに代わって司会を務めていたが、放送開始50年を迎えた16年5月に引退した。
 高座では、生真面目な性格を映した折り目正しい芸風。新作派の師匠の下、若い頃は自身も新作落語に取り組んだが、30代後半以降は古典物に力を入れた。「おすわどん」「いが栗」など、埋もれていた話の復興にも尽力。90年代からは「怪談牡丹燈籠」「真景累ケ淵」「怪談乳房榎」など、明治時代の名人、三遊亭円朝作の怪談話や人情話に力を注ぎ、高く評価された。
 2004年落語芸術協会会長に就任。07年旭日小綬章。近年は持病の腰痛に加え、肺気腫などで入退院を繰り返したが、高座への意欲が衰えることはなかった。 
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018070200842&g=obt

・「笑点」だけじゃない。落語家・桂歌丸が遺した偉大すぎる業績
「笑点」で知られる人気落語家の桂歌丸さんが7月2日、死去した。
「笑点」の開始時からのレギュラーとして人気を誇ったことから、テレビの業績がクローズアップされがちだが、落語家としても偉大な業績がある。
特に有名なのが、近代落語の開祖として名高い伝説の落語家、三遊亭圓朝が手がけた長い噺を多く手がけたことだ。圓朝は明治期に活躍し、日本語の言文一致体にも大きな影響を与えた伝説の落語家である。
海外文学もや童話も落語に取り入れ、グリム童話を翻案した「死神」は今でも幅広く演じられる「古典落語」になっている。
歌丸さんは、圓朝の傑作怪談噺「真景累ケ淵(しんけいかさねがふち)」を全編通しで演じたことで知られる。長さにしてCD5枚、計約260分にも及ぶ。横浜にぎわい座で月に1度ずつ5カ月連続で演じた。それを会場側が録音したのがCDになった。
「真景累ケ淵」はあまりに長すぎるため、一部分を抜き出して高座にかけられることはよくある。しかし、全編を通しで演じ切ったのは「たぶん私のが圓朝師匠以来じゃないでしょうか」(2006年、朝日新聞のインタビューより)。
インタビューによると、大名人として知られる三遊亭圓生や、先代林家正蔵の録音をもとにしながら、圓朝全集を書き写しながら覚えたのだという。大作に挑んだ覚悟をこう語っている。
「落語家になったからには何かは残さなくちゃさびしい。よく言うんですが、落語を残すのも、落語のお客さんを残すのも、落語家の責任だと思うんですよ」
落語家・桂歌丸の実績を「笑点」ばかり語られるのはもったいない。古典落語に果敢に挑み、大きな責任を果たしたその姿もしっかりと記憶しておきたい。
 via https://www.huffingtonpost.jp/2018/07/02/utamaru02_a_23472551/

・三遊亭円楽「ジジイ!早すぎるんだよ!」 歌丸さんへ思い叫び、こらえきれず涙…
 落語家の桂歌丸(かつら・うたまる、本名:椎名巌=しいな・いわお)さんが2日、慢性閉塞性肺疾患のため横浜市内の病院で亡くなったことを受け、8日放送の日本テレビ系『笑点』(毎週日曜 後5:30)では、当初の内容を変更して「桂歌丸師匠ありがとうスペシャル」を放送。歌丸さんへの感謝をテーマにした大喜利で、三遊亭円楽は最後のネタを披露した直後、こらえきれず大粒の涙を流した。
 この日は前半で、歌丸さんの回答者時代と司会者時代の名シーンVTRを放送。司会の春風亭昇太が「歌丸師匠の思い出をたっぷり語りながら偲んでいこうと思うのですが、そこはやはり『笑点』ですから、しんみりではなく明るく思い出を語って、師匠をお送りしたいと思います」と切り出し、全メンバーが歌丸さんの思い出を語り合った。
 後半は大喜利のコーナーで、テーマは「ありがとう歌丸師匠」。歌丸さんが喜びそうなことに座布団1枚という特別ルールで、各メンバーが笑いを交えながら歌丸さんへの思いを伝えていった。
 最後に円楽が指名されると、「最後に一言いわせてください。ジジイ!早すぎるんだよ!」と大声で叫び、会場からは万感の拍手。最後に観客と視聴者に頭を下げるシーンで、円楽は流れてくる涙をハンカチで抑えながら、歌丸さんへの感謝の意を示した。
via https://www.oricon.co.jp/news/2115155/full/

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[2016年5月22日撮影]

・歌丸さん追悼大喜利 死亡ネタから円楽涙の叫びに号泣『笑点』
  https://matome.naver.jp/odai/2153103161067004601


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[訃報] 高畑勲氏が死去:82歳=宮崎駿氏盟友のジブリ映画監督 昨夏頃に体調崩し入退院繰り返す はてなブックマーク - [訃報] 高畑勲氏が死去:82歳=宮崎駿氏盟友のジブリ映画監督 昨夏頃に体調崩し入退院繰り返す

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 宮崎駿監督(77)と並ぶ日本アニメーション界の巨匠で、ジブリ映画「火垂るの墓」「平成狸合戦ぽんぽこ」などを監督した高畑勲氏が5日、東京都内の病院で死去した。82歳だった。
 関係者によると、高畑監督は昨年の夏頃に体調を崩し、その後入退院を繰り返していた。心臓が悪かったという情報もある。
 昨年11月に高畑監督に会った別の関係者によると、以前よりも痩せていて、歩く時は体を支えられていたという。この関係者は「子供のような好奇心でキラキラした表情が印象的な人だが、元気がなく、全く違った人みたいだった」と話した。通夜、葬儀は近日中に営まれる。
 高畑監督は東大卒業後の1959年に入社した東映動画(現・東映アニメーション)で宮崎監督と出会い、アニメ制作会社をともに移籍しながら、70年代にはテレビアニメ「アルプスの少女ハイジ」「赤毛のアン」などを生み出した。85年に宮崎監督らとスタジオジブリを設立。「火垂るの墓」「ホーホケキョ となりの山田くん」などヒット作を次々と送り出した。人気は世界に広がり、2015年にはフランス芸術文化勲章のオフィシエを受章している。
 徹底した取材によるリアルで自然な世界観に加え、「想像力が羽ばたく余地が生まれてこそアニメ」がモットー。こだわりが強く遅筆で、宮崎監督が「ナマケモノの子孫」と呼んだことも。「柳川堀割物語」は製作費を大幅にオーバーして話題になった。
 愛称は「パクさん」。食パンが好きで、東映時代にパクパク食べていたことから、宮崎監督やジブリの鈴木敏夫プロデューサー(69)が親しみを込めて呼んだ。
 アニメ作りの情熱や姿勢は宮崎監督を始め、後進のアニメ関係者にも大きな影響を与えた。

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・高畑 勲(たかはた・いさお)
1935(昭和10)年10月29日生まれ。三重県出身。東大文学部卒業後、東映動画(現・東映アニメーション)に入社。68年、映画「太陽の王子 ホルスの大冒険」で長編監督デビュー。「アルプスの少女ハイジ」「母をたずねて三千里」などの演出を手掛けたほか、「じゃりン子チエ」などの監督を務める。84年、「風の谷のナウシカ」のプロデューサーを担当。85年、スタジオジブリの設立に参加。98年、紫綬褒章受章。

via http://www.sanspo.com/geino/news/20180406/geo18040605050006-n1.html

・高畑勲監督 訃報 - スタジオジブリ|STUDIO GHIBLI
 http://www.ghibli.jp/info/012850/

・高畑勲:Wikipedia

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◆亡くなった「高畑勲監督」ドラえもんの救世主だった
 4月5日、アニメーション監督の高畑勲さんが肺がんで亡くなった。82歳だった。
 高畑さんは東大仏文科在学中、フランスの長編アニメ『やぶにらみの暴君』に感銘を受け、アニメーションの世界に関心を持った。大学卒業後、東映動画(現・東映アニメーション)に入社し、1968年、『太陽の王子 ホルスの大冒険』で監督デビュー。
 1971年、宮崎駿監督らとAプロダクションに移り、『ルパン三世』を手がけた。以後、『アルプスの少女ハイジ』『母をたずねて三千里』『赤毛のアン』などに関わる。
 1985年、宮崎監督らとスタジオジブリを設立し、『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』など数多くの名作を作り上げてきた。2013年の『かぐや姫の物語』では、アカデミー賞アニメ部門にノミネートされている。
 そんな高畑さんを悼むのは、シンエイ動画名誉会長の楠部三吉郎さんだ。
「高畑さんは僕の恩人ですから。今、すごく悲しいです」
 楠部さんが高畑さんを「恩人」と評するには理由がある。楠部さんは1976年、Aプロダクションから独立してシンエイ動画を起業する。しかし、仕事がまったくなかった。そのときひらめいたのが、『ドラえもん』のアニメ化だ。
 もともと、アニメ『ドラえもん』は1973年に放送されているが、視聴率7%で半年で打ち切られている。だが、ドラえもんの魅力にとりつかれた楠部さんは、原作者・藤本弘(藤子・F・不二雄)に再アニメ化を持ちかける。
 しかし、打ち切りの悲哀を味わった藤本はなかなか了承しない。楠部さんがこう話す。
「藤本先生に直接お会いして、どうか『ドラえもん』をボクにあずけてください、と言ったんです。でも、藤本先生はこっちの気が遠くなるくらい黙ってから、“どうやって『ドラえもん』を見せるのか教えてもらえませんか。原稿用紙3、4枚でいいから、あなたの気持ちを書いてきてください”と言うのです」
 楠部さんは企画書を考えるが、なかなか形に出来ない。そのとき頼ったのが、高畑さんだった。楠部さんは高畑さんに『ドラえもん』全巻を渡し、読んでもらった。
「高畑さんは『こんなすごい作品が日本にあったの? 子供の願望をこんな形で叶えるキャラクターを出現させるなんて、これは画期的だよ!』と驚き、企画書の作成を受けてくれたのです」
 企画書の現物は残っていないが、楠部さんの著作『「ドラえもん」への感謝状』にはこう書かれている。
《『ドラえもん』は、子どもたちの夢想空想を、大人の知恵で少しだけふくらませてあげる。笑いの中で子どもたちの夢をふくらませてあげる。でも、現実世界はそんないいことばかりじゃない。だからのび太はできそこないで、最後はいつも失敗してしまう。子どもたちの夢想空想を笑いの中へ解放してくれる、解放戦士こそ、『ドラえもん』なのだ》
 藤本は、一読すると、楠部さんの目を見据え、「あなたにあずけます」とひと言だけ語ったという。こうしてドラえもんはアニメ化され、大人気となった。
 楠部さんが言う。
「高畑勲という人間がいなかったら、いまのアニメ『ドラえもん』は生まれていなかったかもしれません。高畑さんは、ドラえもんの恩人の一人です」
via https://smart-flash.jp/showbiz/37885


◇「火垂るの墓」ポスターに隠された意味
亡くなった高畑勲監督のアニメ映画「火垂(ほた)るの墓」(1988年)がテレビ放映されたのを機に、公開当時のポスターにネット上で関心が集まっている。
戦火で親を亡くした14歳の兄と4歳の妹が、草むらの中に分け入り、束の間の蛍の乱舞を楽しんで...。

■B29爆撃機のような影と焼夷弾のような光の玉
当時のポスターを見ると、こんな微笑ましい光景のようにも思える。
ところが、ツイッター上では、ポスターをよく見ると、背後に黒い影があるのが分かると、ここ数日大きな話題になっている。
その指摘によると、黒い影は、神戸大空襲にも参加した米軍のB29のような爆撃機の形をしていた。さらに、蛍の乱舞のように見えた光の玉は、その一部が米軍の落としていった焼夷弾らしいというのだ。実際、光の玉は、丸い形や流線型の形もあって、色も少し違っていた。
指摘したツイートは、13万件ほども「いいね」が押されており、大きな反響を呼んだ。ツイッター上では、「知らんかった」「うわほんとだ 上にいる」「そういうことだったなんて...」などと驚きの声が次々に上がっている。
それで、映画のタイトルに火が垂れるという表現をかけているのか、といった声も出た。ネット掲示板では、英語版のポスターの写真も投稿され、それを見ると爆撃機の姿が分かるとの指摘もあった。

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(日本版ポスター)

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(英語版ポスター)

■「当時を知る人が少なく、確証が得られない」 火垂るの墓は、主人公の兄妹が、親を亡くして防空壕で暮らし始めるが、栄養失調で妹が亡くなり、残された兄は街中をさまよって...というストーリーだ。原作が作家の故・野坂昭如さんの短編小説で、テレビドラマなどにもなっている。
悲しいストーリーだが、ポスターだけは、つかの間の美しい光景を描いたものと思われていたようだ。しかし、爆撃機や焼夷弾なども描かれているらしいと知って、ポスターへの見方も変わったといった声がネット上で出ている。話題は海外にも拡散し、台湾のネットメディアなどでも取り上げられた。
このポスターは公開当時作られたものの一つと見られるが、アニメを制作したスタジオジブリは4月16日、ポスターについて、「当時を知る人が少なくなっており、確証を得られるものがありませんので、お答えは控えさせて下さい」とJ-CASTニュースの取材に答えた。
映画を手がけた新潮社は16日、「文庫版は弊社から出ていますが、弊社の方では分かりかねます」と出版部が取材に答えた。
via https://www.j-cast.com/2018/04/17326287.html?p=all

◇高畑勲さん「お別れ会」 宮崎駿監督は声を詰まらせながら、亡き盟友を偲んだ(追悼文全文)
dims (1)
4月5日に肺がんで亡くなったアニメーション監督の高畑勲さんを偲ぶ「お別れの会」が、5月15日に東京・三鷹の森ジブリ美術館で開かれた。
冒頭、宮崎監督が"開会の辞"として挨拶。宮崎監督は高畑さんと出会った東映動画時代を振り返りつつ、「パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた」と、声を詰まらせながら盟友を偲んだ。
その全文を紹介する。
dims
パクさんというあだ名の言われはですね、まあ定かでない部分もあるんですが、大体もの凄く朝は苦手な男でして、東映動画に勤め始めた時もギリギリに駆け込むというのが毎日でございまして。買ってきたパンをタイムカードを押してからパクパクと食べて、水道の蛇口からそのまま水を飲んでいたと。それで、パクパク、パクになったという噂です。
追悼文という形ではありませんが、書いてきたものを読ませていただきます。
パクさんは95歳まで生きると思い込んでいた。
そのパクさんが亡くなってしまった。自分にもあんまり時間がないんだなあと思う。
9年前、私たちの主治医から電話が入った。「友達なら高畑監督のタバコをやめさせなさい」。真剣な怖い声だった。
主治医の迫力に恐れをなして、僕と鈴木さんはパクさんとテーブルを挟んで向かい合った。姿勢を正して話すなんて、初めてのことだった。
「パクさんタバコを止めてください」と僕。「仕事をするためにやめてください」。これは鈴木さん。
弁解やら反論が怒涛のように吹き出てくると思っていたのに、「ありがとうございます。やめます」。パクさんはキッパリ言って頭を下げた。そして本当に、パクさんはタバコをやめてしまった。
僕はわざとパクさんのそばへタバコを吸いに行った。「いい匂いだと思うよ。でも、ぜんぜん吹いたくならない」とパクさん。彼の方が役者が上だったのであった。やっぱり95歳まで生きる人だなあと、僕は本当に思いました。
1963年、パクさんが27歳、僕が22歳の時、僕らは初めて出会いました。初めて言葉を交わした日のことを今でもよく覚えています。黄昏時のバス停で、僕は練馬行きのバスを待っていた。雨上がりの水たまりの残る通りを、ひとりの青年が近づいてきた。
「瀬川拓男さんのところへ行くそうですね」
穏やかで賢そうな青年の顔が目の前に遭った。それが高畑勲こと、パクさんに出会った瞬間だった。
55年前のことなのに、なんとはっきり覚えているのだろう。あの時のパクさんの顔を今もありありと思い出す。
瀬川拓男氏は人形劇団「太郎座」の主催者で、職場での講演を依頼する役目を僕は負わされていたのだった。
次にパクさんに出会ったのは東映動画労働組合の役員に推し出されてしまったときだった。パクさんは副委員長、僕は書記長にされてしまった。緊張で吐き気に苦しむような日々が始まった。
それでも組合事務所のプレハブ小屋に泊まり込んで、僕はパクさんと夢中に語りあかした。ありとあらゆることを。中でも作品について。僕らは仕事に満足していなかった。もっと遠くへ、もっと深く、誇りを持てる仕事をしたかった。何を作ればいいのか。
すみません、どうやって...。
パクさんの教養は圧倒的だった。僕は得難い人に出会えたのだと嬉しかった。その頃、僕は大塚康生さんの班にいる新人だった。大塚さんに出会えたのはパクさんと出会えたのと同じくらい幸運だった。アニメーションの動かす面白さを教えてくれたのは大塚さんだった。ある日大塚さんが見慣れない書類を僕に見せてくれた。こっそりです。
ちょっと、すみません...。
それは、大塚康生が長編映画の作画監督をするについては、演出は高畑勲で無くてはならないという会社への申入書だった。当時、東映動画では「監督」と呼ばず「演出」と呼んでいました。
パクさんと大塚さんが組む。光が差し込んできたような高揚感に湧き上がっていました。
そしてその日がきた。長編漫画第10作目(「太陽の王子 ホルスの冒険」)が大塚・高畑コンビに決定されたのだった。ある晩、大塚さんの家に呼ばれた。会社近くの借家の一室にパクさんも来ていた。
ちゃぶ台に大塚さんはきちんと座っていた。パクさんは組合事務所と同じように、すぐ畳に寝転んだ。なんと僕も寝転んでいた。
(大塚さんの)奥さんがお茶を運んでくれたとき、僕はあわてて起きたが、パクさんはそのまま「どうも」と会釈した。
女性のスタッフにパクさんの人気が今ひとつなのは、この無作法のせいだったが、本人によると、股関節がずれていてだるいのだそうだった。
大塚さんは語った。「こんな長編映画の機会はなかなか来ないだろう。困難は多いだろうし、制作期間が延びて、問題になることが予想されるが、覚悟して思い切ってやろう」。
それは「意思統一」というより、「反乱」の宣言みたいな秘密の談合だった。もとより僕に異存はなかった。
なにしろ僕は原画にもなっていない、新米と言えるアニメーターに過ぎなかったのだ。
大塚さんとパクさんは、事の重大さがもっとよくわかっていたのだと思う。勢い良く突入したが長編10作目の制作は難航した。スタッフは新しい方向に不器用だった。仕事は遅れに遅れ、会社全体を巻き込む事件になっていった。
パクさんの粘りは超人的だった。会社の偉い人に泣きつかれ、脅されながらも、大塚さんもよく踏ん張っていた。
僕は、夏のエアコンの止まった休日に出て、大きな紙を相手に背景原図を書いたりした。会社と組合との協定で休日出勤は許されていなくても、構っていられなかった。タイムカードを押さなければいい。僕はこの作品で仕事を覚えたんだ。
初号を見終えた時、僕は動けなかった。感動ではなく驚愕に叩きのめされていた。会社の圧力で、迷いの森のシーンは削られる削られないの騒ぎになっていたのを知っていた。パクさんは粘り強く会社側と交渉して、ついにカット数からカット毎との作画枚数まで約束し、必要制作日数まで約束せざるを得なくなっていた。
当然のごとく約束ははみ出し、その度にパクさんは始末書を書いた。一体パクさんは何枚の始末書を書いたのだろう。僕も手一杯の仕事を抱えて、パクさんの苦闘に寄り添う暇はなかった。大塚さんも、会社側の脅しや泣き落としに耐えて、目の前のカットの山を崩すのが精一杯だった。
初号で僕は初めて、迷いの森ヒルダのシーンを見た。作画は大先輩の森康二さんだった。なんという圧倒的な表現だったろう。なんという強い絵。なんという...優しさだったろう...。これをパクさんは表現したかったのだと初めてわかった。
パクさんは仕事を成し遂げていた。森康二さんも、かつてない仕事を成し遂げていた。大塚さんと僕はそれを支えたのだった。
「太陽の王子」公開から30年以上たった西暦2000年に、パクさんの発案で「太陽の王子」関係者の集まりが行われた。
当時の会社の責任者、重役たち、会社と現場の板挟みに苦しんだ中間管理職の人々、制作進行、作画スタッフ、背景・トレース・彩色の女性たち、技術家、撮影、録音、編集の各スタッフがたくさん集まってくれた。もういまはないゼロックスの職場の懐かしい人々の顔もまじっていた。偉い人たちが「あの頃が一番おもしろかったなあ」と言ってくれた。「太陽の王子」の興行は振るわなかったが、もう誰もそんなことを気にしていなかった。
パクさん。僕らは精一杯、あの時を生きたんだ。膝を折らなかったパクさんの姿勢は、僕らのものだったんだ。
ありがとう、パクさん。55年前に...あの雨上がりのバス停で声をかけてくれたパクさんのことを忘れない。

via https://www.huffingtonpost.jp/2018/05/14/isao-takahata-farewell_a_23434642/

・高畑勲監督の『お別れ会』が行われ、盟友・宮崎駿さんが別れを惜しんだ
 https://matome.naver.jp/odai/2152636467010229301
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