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[訃報] 衣笠祥雄さん 死去 元広島の「鉄人」 はてなブックマーク - [訃報] 衣笠祥雄さん 死去 元広島の「鉄人」

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 元広島の衣笠祥雄氏が23日に死去したことが分かった。
 死因は上行結腸がん(大腸がん)。71歳だった。
 2215試合連続出場の記録を持ち「鉄人」として親しまれた。87年にはプロ野球界2人目となる国民栄誉賞も受賞した。76年盗塁王、84年打点王、MVP。通算2677試合、2543安打、504本塁打、1448打点、打率2割7分。96年野球殿堂入りした。
 19日に横浜スタジアムで行われたDeNA-巨人でTBSの解説を務めたのが、公の場に姿を現した最後になった。体調を気遣い「代わりましょうか?」と関係者から打診されたものの、仕事への強い意欲を示したという。
via https://www.nikkansports.com/baseball/news/201804240000356.html

プロ野球 広島で、当時、大リーグを超える連続試合出場の記録を作り、「鉄人」と呼ばれて国民栄誉賞も受賞した衣笠祥雄さんが23日夜、東京都内で大腸がんのため亡くなりました。71歳でした。
衣笠さんは京都府出身、昭和40年に平安高校から広島に入団しました。
体全体を使ったフルスイングが持ち味で、昭和50年には、山本浩二さんとともに中軸を打って活躍して「赤ヘル旋風」を起こし、球団創設26年目での悲願の初優勝に貢献しました。
その後も主力として5回のリーグ優勝と3回の日本一に導き、広島の黄金時代を支えました。
さらに、歴代3位となる161個のデッドボールを受けながらも試合に出続け、昭和54年には左肩を骨折した状態でも休まず出場し、「鉄人」と呼ばれました。
プロ6年目の昭和45年の秋から現役最後のシーズンとなった昭和62年まで連続試合出場を続け、現役最後の年には当時大リーグ記録だったルー・ゲーリッグの2130試合連続出場を抜き、プロ野球では王貞治さん以来の2人目の国民栄誉賞を受賞しました。
連続試合出場は2215まで伸ばして引退し、その後、平成10年に大リーグのオリオールズでプレーしたカル・リプケンさんに抜かれましたが、今でもプロ野球記録です。

WS002

通算成績は2677試合に出場して、2543安打、ホームラン504本、1448打点をあげていて、打点王と盗塁王に1回輝き、昭和59年には最優秀選手に選ばれました。
背番号「3」は広島の永久欠番になっています。
引退後は野球評論家を務め、明るく気さくな解説で野球ファンに親しまれ、平成8年には野球殿堂入りしていました。
衣笠さんは今月19日にテレビの中継の解説も行っていましたが23日夜、東京都内で大腸がんのため亡くなりました。71歳でした。

■「鉄人」17年間休まなかった男
「鉄人」と呼ばれた衣笠祥雄さんは京都府出身で、昭和40年(1965年)広島に入団しました。
体全体を使ったフルスイングが持ち味で、4年目にファーストでレギュラーの座をつかみ、昭和50年(1975年)には山本浩二さんとともに中軸を打って活躍し、球団創設26年目での悲願のリーグ初優勝に貢献しました。
当時、広島の躍進ぶりはチームカラーにちなんで「赤ヘル旋風」と呼ばれ話題になりました。
また、当時の近鉄と対戦した昭和54年の日本シリーズ第7戦、いわゆる「江夏の21球」として知られる場面では、衣笠さんの人柄がしのばれるエピソードがあります。
9回、ノーアウト満塁の大ピンチでリリーフの準備を始めたベンチにいらだつ江夏豊さんの様子に気づいた衣笠さんはファーストからマウンドに駆け寄り、「バッターだけをみて勝負しろ」と励ましました。
江夏さんは「同じ気持ちのやつがいてくれてうれしかった。気持ちが楽になった」とこのピンチを抑え、球団初の日本一に輝きました。
衣笠さんは歴代3位となる161個のデッドボールを受けながらも試合に出続けたほか、昭和54年(1979年)には左肩を骨折した状態でもプレーを続けるなど体の強さとガッツから「鉄人」と呼ばれました。
プロ入り6年目の昭和45年(1970年)の途中から現役最後のシーズンとなった昭和62年(1987年)まで連続試合出場を続け、シーズンの全試合出場は17年間におよびました。
現役最後の年には当時、大リーグ記録だったルー・ゲーリッグさんの2130試合連続出場を抜き、直後にプロ野球では王貞治さん以来2人目となる国民栄誉賞を受賞しました。
連続試合出場は2215まで伸ばし、現在もプロ野球記録となっています。
また通算成績は出場試合が歴代5位の2677試合、ヒットが歴代5位に並ぶ2543本、ホームランが歴代7位に並ぶ504本で、打点王と盗塁王にそれぞれ1回輝き、4回目のリーグ優勝だった昭和59年には最優秀選手に選ばれました。
衣笠さんは主力としてチームを5回のリーグ優勝と3回の日本一に導いて広島の黄金時代を支え、背番号「3」は広島の永久欠番になっています。[2018.04.24]
via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180424/k10011415441000.html

・骨折してもフルスイング=「大好きな野球」一筋-衣笠さん
 1987年6月13日の広島市民球場。40歳の大ベテランになっていた衣笠さんが野球少年のような笑みを浮かべていた。米大リーグのルー・ゲーリッグの記録を抜き、2131試合連続出場という当時の世界最多記録を樹立。そしてこう話した。「死ぬまで野球をやりたい。好きな野球をやりたくて野球選手をやっているので、休みたいという気は起こらない」
 京都・平安高校での活躍が認められてプロ入り。血気盛んな若者の生活態度は、程なく乱れた。契約金をはたいて購入した高級外車を乗り回して事故を起こした。
 こうした苦い経験を重ね、野球ができなくなってしまうという危機感に目覚めた。練習に打ち込み、振った後に体勢を大きく崩す程のフルスイングを身に付けた。山本浩二と並ぶ広島の主砲に成長。入団時の弱小チームも黄金期を迎えた。
 79年8月1日の巨人戦で記録継続のピンチを迎えた。西本聖のシュートを左肩に受けて骨折。両チームの乱闘騒ぎとなった。しかし、翌日も代打で登場すると、江川卓の速球を3球とも豪快に振り抜いて三振。巨人ベンチを含め、球場全体から拍手が湧き上がった。
 死球はプロ野球歴代で3番目に多い161。当たった直後も痛がるそぶりを見せず、紳士的な態度で投手の謝罪に応じた。著書で「死球は投手の投げ損ないと打者のよける技術の不足が重なったもの。怒るのは自分の責任を棚に上げ他人を責めるに等しい」と胸中を明かしている。
 入団から10年間つけた背番号が28だったことから、テレビの人気アニメにちなんで「鉄人」と呼ばれた。けがもスランプも言い訳にならない厳しい実力の世界で、いつしか愛称通りの存在になっていた。
 「大好きな野球」だから、70年10月から引退まで18年、何があっても出場を続けられた。引退試合でも「満足している」と言い、涙はなかった。引退後は解説者としてネット裏で活躍。幸せな人生だったに違いない。 
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018042400742&g=bsb

・衣笠祥雄さんの人生、言葉で振り返る 「僕をここまで育ててくれたのは野球です」    
 https://www.huffingtonpost.jp/2018/04/24/lifeandwordskinugasa_a_23418670/

・プロ野球界から芸能界まで‥衣笠祥雄さん訃報に悲しみの声が止まない
 https://matome.naver.jp/odai/2152462179443330701

・衣笠祥雄&山本浩二はONにも匹敵。18年で4657安打のスーパーコンビ。
  http://number.bunshun.jp/articles/-/830611
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