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[プロ野球] 「結局、新井は凄かった」盟友・黒田が自費で出した新井への"労い広告" はてなブックマーク - [プロ野球] 「結局、新井は凄かった」盟友・黒田が自費で出した新井への

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11月5日付の中国新聞に掲載された広告が、広島カープファンを感動させている。
新井とは、もちろん今シーズン限りで引退する新井貴浩さんのこと。広告を出したのは元カープの選手であり、新井の盟友でもある黒田博樹さんだ。
新井さんの広告は2面で構成されており、1面はこれまでの新井さんのプレーを伝えた新聞記事の切り抜きで構成されている。
記事は「新打線 新井ブレーキ」「流れを変えた空振り」など、新井さんがミスをしたりした場面ばかり。
新井さんがミスをした部分の記事には青のペンで線が引かれ、黒田さんの活躍に触れた部分には赤のペンで引かれている。

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カープが弱かった時代を知る黒田さんと新井さんだから成り立つジョークであり、そして労いだ。

そして広告をめくると現れるのが、もう一つの広告。
カープのソウルレッドに染まった真ん中に新井さんのガッツポーズするシルエット。そして「結局、新井は凄かった。」の文字が掲載される。
親しみやすく後輩選手からもいじられるキャラと、不器用だがひたむきに努力する姿でチームを鼓舞してきた新井さんを表すのにふさわしい言葉だ。
右下には「広告主 黒田博樹」との文字とサインが添えられている。
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黒田さんのコラムにはこんなことも書いてある。「おまえがいなかったらおれも2年間、活躍できなかったかもしれない。そして、もうひとつ。おまえが帰ってこなかったらカープの3連覇はなかった。」
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via https://www.buzzfeed.com/jp/tatsunoritokushige/araisanforever


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[プロ野球] 広島カープが25年ぶり7回目のリーグ優勝 はてなブックマーク - [プロ野球] 広島カープが25年ぶり7回目のリーグ優勝

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プロ野球、セ・リーグは、優勝へのマジックナンバーを「1」としていた広島が、2位の巨人に6対4で勝って、25年ぶり7回目のリーグ優勝を果たしました。
優勝へのマジックナンバーを「1」としていた広島は、10日夜、東京ドームで2位の巨人と対戦しました。この試合に勝つか、引き分ければ優勝が決まる広島は、ことし7月に日米通算で200勝を達成し、今シーズン8勝を挙げている黒田投手が先発しました。
黒田投手は、1回に5試合ぶりに先発に復帰した巨人の坂本選手にツーランホームランを打たれて2点を先制されました。
追う広島は3回、相手のエラーで1点を返し、4回に、5番・鈴木選手がチーム初ヒットとなる、25号ホームランを打って、同点に追いつきました。さらに続く6番・松山選手にも10号ホームランが出て、3対2と勝ち越しました。5回には鈴木選手が2打席連続ホームランとなるツーランを打って、突き放しました。
広島は、黒田投手が6回3失点と先発の役割を果たし、リードを保ったまま、9回は抑えの中崎投手が締めて6対4で勝って、25年ぶり7回目のリーグ優勝を果たしました。広島の前回の優勝は平成3年で、12球団では、最も優勝から遠ざかっていました。[2016.09.10]

■緒方監督「長い間お待たせしました」
広島の緒方孝市監督は、胴上げで7回宙を舞いました。そして、優勝インタビューで、「胴上げは最高に気持ちよかった」と笑顔で話しました。
また、今シーズン42回目の逆転勝ちで優勝を決めたことについて、「今シーズンやってきた戦いがきょうもできた。本当に選手たちは1試合、1試合、力をつけて頼もしいかぎりだ。厳しい練習を乗り越えてよく頑張ってくれたと思う、ありがとう」と選手たちをたたえました。
そして、「広島や全国のカープファンのみなさん、本当に長い間お待たせしました。おめでとうございます」とファンに感謝を示したあと、「クライマックスシリーズを勝ち上がって日本一をつかみ取りましょう」と力強く話しました。

■広島市内ではファンが歓喜
広島市中心部の繁華街では、カープ優勝の瞬間を分かち合おうと、飲食店が外から見えるように設置したテレビ画面の前に大勢のファンが集まりました。
店の前には、数百人が集まり、幅6メートルほどの道路が、通れなくなるほどの人で埋め尽くされました。9回裏には、ストライクやアウトを取るたびに大声や拍手が沸き起こり、優勝が決まった瞬間には、集まった人全員で何度も「バンザイ」と手を上げながら叫んだり、カープの応援歌を合唱したりして喜びを分かち合っていました。

■コミッショナー「試練乗り越え心からお祝い」
広島が25年ぶりにセ・リーグで優勝を果たしたことについて、熊崎勝彦コミッショナーは、「優勝から遠ざかっていた間には、球界ではFAの制度ができ、たびたびチームの中心選手が他球団に移籍しました。また、15年連続で4位以下など幾多の試練の時がありました。しかし、そのすべてを乗り越え、歓喜の瞬間を迎えた緒方監督をはじめ、コーチ、選手、スタッフ、球団職員の皆様に心からお祝いを申し上げます。今や本拠地のみならず、セ・リーグの各球場を熱心なカープファンが真っ赤に埋め尽くす、その様子はまさに球団の野球に対する真摯な姿勢、地道な努力が実を結んだ成果だと思います。この優勝を礎として、さらにカープ野球がセ・リーグをけん引するするように心から期待しています」とコメントしています。

■25年ぶりの優勝への軌跡
去年4位の広島は、エースの前田健太投手が大リーグに移籍し、ことしは苦しい戦いが予想されました。
しかし、広島は、序盤から打線が力を発揮して白星を重ねました。来日5年目のエルドレッド選手が、長打力に加えて状況に応じたバッティングで序盤は打率3割台をマーク、ベテランの新井貴浩選手も、4月は22試合で19打点を挙げるなど勝負強さを見せ、通算2000本安打も達成しました。
広島は6月5日以降、首位を守り、苦手としてきた交流戦でも4年目の鈴木誠也選手が6月のオリックス3連戦で、初戦と2試合目にサヨナラホームラン。3試合目も終盤の決勝ホームランで劇的な勝利を収めるなど、交流戦3位の成績を残し、首位をキープしました。
投手陣では、去年5勝の野村祐輔投手がインコースを突くピッチングを武器に前半戦だけで両リーグトップの11勝を挙げるなど、前田投手の抜けた穴を埋める活躍を見せました。
投打がかみ合った広島は、交流戦の後半から32年ぶりとなる11連勝をマーク、2位に10ゲームの差をつけ、20年ぶりに首位で前半戦を折り返しました。
後半戦に入ると、ベテランの黒田投手が史上2人目となる日米通算200勝の偉業を達成。リリーフ陣も新加入のヘーゲンズ投手とジャクソン投手が中継ぎの役割を果たし、9回は中崎翔太投手が防御率1点台と、去年を上回る成績できっちりと抑えました。
広島は、8月に入って今シーズン初の4連敗を喫し、2位巨人とのゲーム差は4.5まで縮まりましたが、8月7日の巨人戦で1点を追う9回、ツーアウト、ランナーなしから菊池涼介選手のホームランと新井選手のツーベースでサヨナラ勝ちして連敗を食い止めると、再び勢いを取り戻しました。
広島は、リードされても逆転する脅威の粘りで勝利を重ね、8月24日には優勝へのマジックナンバー20が点灯しました。その後、さらに勢いを加速させた広島は、80勝に到達。2位巨人を大きく引き離す圧倒的な強さで、25年ぶりのリーグ優勝を果たしました。

■球団の歩み 地元に支えられて
カープは、原爆が投下されて焼け野原となった広島の復興の象徴として、終戦から5年後の昭和25年に創設されました。地元でのプロ野球の球団の誕生に市民は沸き立ちましたが、親会社をもたず、自治体の支援も限られる中、カープは選手の給料の支払いもままならないなど、創設直後から資金不足に苦しみ、球団の存続が危ぶまれる事態に陥りました。
これに対し、市民からは「カープを救おう」と戦後の苦しい生活の中、多くの寄付が寄せられました。中でも球場の入り口に置かれた酒だるに寄付する「たる募金」は地域に支えられた球団を象徴するエピソードとして語り継がれています。
そして、昭和32年には「ナイター設備のある球場を」という市民の声を受けて、地元経済界の寄付で原爆ドームの近くに旧広島市民球場も誕生しました。
今から41年前の昭和50年、球団創設から26年目のシーズンにカープは後楽園球場での巨人戦に勝って悲願の初優勝を果たしましたが、地元のファンと喜びを分かち合おうと、5日後には広島市内の平和大通りで優勝パレードが行われました。当時の古葉竹識監督と選手たちが参加した、このパレードでは30万人もの人たちが沿道を埋め尽くし、中には優勝を願い続けて亡くなった家族の遺影を掲げる人も多くみられました。
球場の老朽化に伴い、7年前に完成したマツダスタジアムの建設に当たっては、かつての出来事にちなんで、たるを使った募金も呼びかけられました。カープも地域を盛り上げようと、地元の商店街や公的な機関などが公共の目的で球団名やロゴなどの商標の使用を無償で許可していて、広島では街のあちこちにカープが溶け込んでいます

■赤ヘル旋風から 過去の優勝
広島の初優勝は、今から41年前の昭和50年。球団創設から26年目のシーズンでした。この年からチームカラーを赤にした広島は序盤、ルーツ監督の退任に伴ってコーチから昇格した古葉竹識監督のもと、「赤ヘル旋風」を巻き起こし、悲願のリーグ制覇を果たしました。
その後もホームラン王や打点王など数々のタイトルを獲得したミスター赤ヘル、山本浩二選手や、2215試合連続出場の世界記録を持つ鉄人・衣笠祥雄選手を中心に、生え抜きの選手たちが球界一とも言われた猛練習で力をつけました。そして、昭和54年と55年、それに59年の合わせて3回、日本一に輝くなど、「黄金時代」を築きました。
今から25年前、平成3年の前回の優勝では、「炎のストッパー」と呼ばれた津田恒実さんがシーズン序盤に病に倒れて戦列を離れる中、山本監督のもと、「津田のためにも優勝を」と、ベテランと若手が結束、全員野球で栄冠をつかみました。
その5年後、今から20年前の平成8年は、ファンの記憶に刻まれる悔しい年でした。広島はシーズン序盤から強力打線がチームを引っ張って6月から7月にかけて9連勝し、首位を独走しましたが、7月9日の巨人戦で1イニング9連続ヒットを浴びるなどして敗れて以降、一気に失速しました。広島は最大で11.5ゲーム差をつけていた長嶋監督率いる巨人に「メークドラマ」と呼ばれる大逆転優勝を許して3位に沈みました。
それ以降、広島はFA=フリーエージェントの権利を行使して、江藤智選手や金本知憲選手といった主力選手が相次いでチームを離れる一方で、抜けた穴を補うだけの戦力はそろえられず、平成10年から15年間にわたり、4位以下という低迷期が続きました。
しかし、平成25年に菊池涼介選手と丸佳浩選手の「キクマル」コンビをはじめとした生え抜きの若手が成長して16年ぶりに3位となり、初めてクライマックスシリーズ進出を果たしました。
去年からは大リーグでプレーした黒田博樹投手や阪神でプレーした新井貴浩選手がチームに復帰、そして、ついにことし、25年ぶり7回目のリーグ制覇を成し遂げました。
via http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160910/k10010680221000.html

・広島カープが25年ぶりリーグ優勝!32年ぶりの日本一へ
http://sirabee.com/2016/09/10/160320/

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・変貌遂げた「逆転の広島」=攻守充実で独走
 昨年は勝てば3位が決まるシーズン最終戦を落とし、クライマックスシリーズ進出を逃した。苦い経験を経て、足りなかった「勝負強さ」を身に付けた広島が、見事に頂点まで駆け上がった。
 「カープはこいのぼりの季節まで」とやゆされてきたが、今年は違った。4連敗が唯一で最長の足踏みで、同一カード3連戦3連敗が一度もない安定ぶり。大きかったのは8月7日の巨人戦。九回2死から菊池の同点弾、新井のサヨナラ打で5連敗を免れた。
 6月5日から首位に定着すると、セの球団が毎年苦戦する交流戦は11勝6敗1分けで7年ぶりに勝ち越し、3位に食い込んだ。交流戦明けも勢いを持続し、32年ぶりの11連勝をマークした。
 打線はつなぐ意識が徹底され、2死からでも得点を重ねる粘り強さが武器。得点は昨年の506をすでに130点も上回っている。ここまでの勝利のうち、半数以上が逆転勝ちで、黒田は「ベンチにいても何とかなるという雰囲気がある」と言う。交流戦最終カードのオリックス戦では4年目の鈴木がサヨナラ本塁打2発を含む3戦連続決勝アーチの離れ業も演じた。
 不動の上位、田中、菊池、丸が塁をにぎわせ、外国人野手1枠の中で起用された新加入のルナは確実性、エルドレッドは長打力を発揮して貢献。通算2000安打まで残り29本で開幕を迎えた39歳の新井は、4月26日に節目の記録をクリア。チャンスに強い打撃でチームに勢いをもたらした。
 エース前田の穴が懸念された投手陣は、昨季5勝だった野村が4月27日のヤクルト戦でプロ初完封を果たし、5月下旬からは8連勝。ジョンソンとともに勝ち星を重ねた。米大リーグから復帰2年目の黒田は、首や右肩に古傷を抱えながらも、7月に日米通算200勝を刻む7勝目を挙げた。
 開幕当初は不安定だった救援陣もヘーゲンズ、ジャクソン、中崎がゲームを締める形を確立。ヘーゲンズは夏場には、先発も担った。
 1975年の初優勝は球団創立から「苦節26年」を経てつかみ取った。それとほぼ同じ年月を要して成し遂げた7度目のリーグ制覇。四半世紀の時を超え、真っ赤なコイがたくましく強く躍った。
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016091000345&g=spo&m=rss

・熱さ封印、冷静に采配=カープ30年目の緒方監督
 試合前練習が進むマツダスタジアム。緒方監督が選手を呼び止め、話し込む姿をよく見かける。
 相手は登板翌日の投手だったり、前日に打てなかった若手野手だったり。監督の狙いはこうだ。「自分が見た目線の中で気付いたこと、反省してほしいことなどを伝えている。選手が結果に対してどう反省して取り組んでいるか、頭の中を知りたいからやっている」。ここぞのタイミングを見計らって、コミュニケーションを取る。
 若手の頃からともに汗を流してきた高ヘッドコーチは、1年後輩の監督を「気が短くて熱い。でも、今年はすごく我慢強く、冷静に指揮を執っている」とみている。
 就任1年目の昨季は、練習前に選手の輪に加わって檄(げき)を飛ばすなど、熱さが前面に出る場面もしばしば。ベンチでは自らもサインを出していたが、今季は高コーチに作戦を伝えるまでにとどめ、次の一手や代打、継投の判断に集中。チームの代名詞となった逆転劇への道筋を描いた。
 プロ5年目で初めて出場100試合を超えた1991年に前回の優勝を経験した。高いレベルで走攻守がそろう外野手として地位を築き、けがで盗塁が激減した現役後半は勝負強い打撃を武器に40歳まで戦ったが、チームは低迷を抜け出せなかった。カープ一筋30年目。夢を託した後輩たちと歓喜の日を迎えた。 
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016091000346&g=spo&m=rss

・カープ魂、結実…この瞬間のため帰ってきた 「黒田と新井のストーリー」

 四半世紀ぶりのリーグ制覇に選手、ファンも酔いしれた。プロ野球のセ・リーグで10日、1991年以来の優勝を決めた広島東洋カープ。2位・巨人との直接対決を制し、緒方孝市監督(47)の胴上げが始まると、敵地にもかかわらず、カープカラーの「赤」に染まったスタンドが沸き返った。地元・広島などでも、この日を待ちわびたファンが歓喜に浸った。
 この日のため、この瞬間のために帰ってきた。「黒田と新井のストーリー」。今、ここに完結した。
 黒田博樹、41歳。新井貴浩、39歳。ともに一度はカープに別れを告げ、導かれるように、ともに昨季、古巣へ戻った。
 2007年オフのフリーエージェント(FA)宣言。黒田は海を渡り、新井は故郷でもある広島から関西の地へ移った。新井が言う。「一緒にプレーすることは二度とないと思っていた。いまだに夢じゃないかと……」。「不思議な感じ」と語るのは、黒田だ。
 年齢を考えると、残された時間は決して長くない。広島復帰について、黒田は「どんな野球人生を送るか。それを考えた結果」と答えている。4月に新井が通算2000安打、7月には黒田が日米通算200勝。しかし、2人が求めるものは個人成績ではない。
 黒田に全盛期の力はない。だが、粘り強く投げ、最低限の責任を果たしてきた。新井は勝負強い打撃だけでなく、決して速くない足でも全力疾走を怠らない。2人の背中を、若手が見てきた。
 黒田は「先発投手は毎日グラウンドに立てない。毎日立つ彼の姿は大きい。広島に帰り、何とかはい上がろうという気持ちでやっている。彼の姿勢を見て気づかされる。いい見本」と、新井を評価する。新井も「黒田さんの存在なくして自分はない。それだけ大きく、大好きな存在」と言う。
 2人の復帰を何よりも喜んだのが、松田元(はじめ)オーナー(65)だ。「影響力が大きい。一緒に出てって、一緒の時に帰ってきた。何か(縁)があるんじゃないかな」と感じる。ドラフトでの逆指名制度、FA……。松田オーナーも、その影響による低迷を否定しない。ただ、情熱だけは失わなかった。「それを覆す何らかの手段を見つけて優勝できると信じていた。絶対にいいチームを作り、お金を持っている球団が勝つ風潮に一矢報いたかった」
 オーナーの悲願に応えた2人。黒田はプロ20年目、新井はプロ18年目で初めて味わうリーグ優勝。それが、舞い戻った「カープ」であったことに、大きな意味がある。2人はマウンドでの胴上げ前に泣きながら抱き合った。
via http://mainichi.jp/articles/20160911/k00/00m/050/069000c

・黒田と新井が涙の抱擁、夢にまで見たカープでの優勝-低迷期支えた主砲とエース
https://www.buzzfeed.com/tatsunoritokushige/kurodatoarai?utm_term=.ggK9188GD#.oybDKooqg

・黒田博樹は怒りさえチームのために。「カープという“原点”に帰って」
 http://number.bunshun.jp/articles/-/826501

・広島から去り、戻ってきた2人の男。黒田博樹と新井貴浩、涙の秘密。
 http://number.bunshun.jp/articles/-/826531

・交錯した野球人生がまた1つに……。新井貴浩と赤松真人、広島での邂逅。
 http://number.bunshun.jp/articles/-/826537

・カープを優勝に導いた「我慢の男」。菊池涼介は……弱みを見せなかった。
 http://number.bunshun.jp/articles/-/826549

・逆風に耐えた球団の努力=発掘、育成の方針崩さず
 広島が25年ぶりの優勝を果たすまでには、長い低迷期があった。1993年オフに導入されたフリーエージェント(FA)制度、ドラフトで有望な大学・社会人選手が入団したい球団を選ぶ逆指名制度(2001~04年は自由獲得枠、05、06年は希望入団枠)が大きな影響を及ぼしていた。
 一定の出場選手登録期間を満たした選手が各球団と自由に交渉する権利を得るFA制度で川口和久、江藤智、金本知憲、黒田博樹、新井貴浩ら主力が相次いでチームを去った。一方で広島のFA選手獲得はゼロ。10年オフには横浜からFA宣言した内川聖一の獲得争いでソフトバンクに敗れた。
 契約金や年俸以外に多額の金銭が動いたとされる逆指名ドラフトでは、その年の目玉と言われる選手獲得が難しくなった。広島は12球団で唯一、親会社を持たない独立採算であるため赤字経営は許されない。潤沢な資金や人気球団が有利な制度は強烈な逆風となった。
 松田元オーナーは「そのシステムの中でも自分たちのやり方で対抗できると思っていた」と語る。ドラフトでは磨けば光る素材の発掘を基本に戦略を立てる。2006年の高校生ドラフトでは田中将大が注目された中、「田中と同じレベルの評価」(鈴木清明球団本部長)の前田健太を一本釣りで1位指名した。
 入団後は豊富な練習量で鍛え上げる。今年のメンバーには、4年目の11年から1軍に定着した丸や今季の打撃各部門で上位につける22歳の鈴木、6位指名から抑えの座をつかんだ中崎ら高卒選手が名を連ねる。全国的には無名の中京学院大から入団した菊池は攻守で不可欠な存在となった。外国人選手のスカウト力も看板の一つと言える。
 発掘、育成を柱とした地道なチームづくりを経て、13年に野村監督の下で16年ぶりのAクラスとなる3位に入った。その後も上位争いで辛酸をなめながら地力をつけ、ようやく開花の時を迎えた。 
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016091000347&g=spo&m=rss

・広島、耐えて25年ぶりV 主力が次々と流出も自前の選手を育てて勝った
 広島が25年ぶり7度目のリーグ優勝を果たした。現在の12球団ではもっともリーグ優勝から遠ざかっていたが、今季は黒田博樹、新井貴浩らのベテランに、丸佳浩、菊池涼介、鈴木誠也といった若い選手、ジョンソン、ヘーゲンズらの外国人選手がかみ合って、圧倒的な強さを発揮した。しかしここまでの道のりは、険しいものだった。FA制度導入以降、主力選手の流出が相次ぎ、15年連続Bクラスも経験。それでも地道に選手を育て、歓喜の瞬間を迎えた。
 プロ野球にFA制度が導入されたのは93年シーズン後。98年にはポスティングシステムが導入され、選手がFA権の取得を待たずにメジャーへ移籍する道も開けた。選手にとっては大きな権利だが、資金力が乏しい広島にとっては大いなる逆風となった。
 94年オフの川口和久を皮切りに、主力選手が次々と流出。99年オフの江藤智(巨人に移籍)、02年オフの金本知憲、07年オフの新井貴浩(ともに阪神に移籍)は4番打者で、07年オフの黒田博樹、15年オフの前田健太(ともにドジャースに移籍)はチームの勝ち頭。これだけ次々と投打の柱が抜けた球団は、まず見当たらない。
 一方で、これまで国内のFA選手を獲得したことがない。これは12球団では広島だけだ。10年オフに横浜(現DeNA)からFA宣言した内川聖一の獲得に乗り出したが、ソフトバンクとの争奪戦に敗れている。
 親会社を持たず、補強に費やせる資金は限られている。その中で主力が次々と流出し、徐々に優勝争いから遠ざかっていった。96年、「メークドラマ」で巨人に最大11・5ゲーム差を逆転されて優勝を逃すと、98年から15年連続でBクラスに沈んだ。
 しかし野村謙二郎監督就任4年目の13年に3位に入り、球団史上初めてCSに進出した。ドラフトで獲得した生え抜き選手を我慢強く使って育て、チーム力は徐々に上がっていった。緒方孝市監督が指揮を執った15年シーズンから黒田、新井がチームに復帰。ベテラン、若手がかみ合う理想的なチームとなった。
 FA制度が導入されて以降、多くの球団で目まぐるしく選手が入れ替わった。スタメンの大半が移籍選手というチームもあった。しかし広島は、まったく別の道を歩んできた。「耐えて勝つ」は、1975年に広島を初優勝に導いた古葉竹識監督の言葉。球団もまさに耐えて勝った。
 広島は今、プロ野球でも屈指の人気球団となった。その理由は、生え抜き選手が躍動にもあるのかもしれない。
via http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2016/09/10/0009476161.shtml

・〔写真特集〕広島カープ優勝の歴史~75年初Vから、緒方監督胴上げまで~
 http://www.jiji.com/jc/d4?p=hcv526&d=d4_aaa

・[写真特集] 25年ぶりVに沸く広島市
http://live.sportsnavi.yahoo.co.jp/special/baseball/npb/carpvictory/hiroshima
・カープ優勝で広島市内が大変なことになってる
http://togetter.com/li/1022871
http://spotlight-media.jp/article/323928735641163309

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・25年ぶり7度目!広島カープのリーグ優勝に日本中が感動に包まれている
 http://matome.naver.jp/odai/2147351481479139701

・広島東洋カープ25年ぶりのリーグ優勝!真っ赤に染まったカープ国カープ県カープ市に、地域密着の完成形を見た件。
http://blog.livedoor.jp/vitaminw/archives/53200224.html

・祝優勝!広島カープ好きの有名人の大はしゃぎっぷりが微笑ましい
 http://matome.naver.jp/odai/2147312667087132401

・カープV歓喜の瞬間心待ちの2人 作詞家有馬さんと元選手守岡さん
http://www.sanyonews.jp/article/411494/1/?rct=okayama_sports






・誕生から41年…生みの親が明かす「カープ坊や」が愛されるわけ

社会個別   フォトニュース   スポーツ報知
 長い低迷の時代を経て、25年ぶりにセ・リーグ優勝を果たしたプロ野球・広島東洋カープ。黄金期も暗黒期も変わらず、カープを最も近いところで見守ってきたのが、マスコットキャラクター「カープ坊や」だ。ファンから愛されてやまない「坊や」の知られざる誕生秘話を“生みの親”に聞いた。(田中 俊光)
 県花・木のもみじとマンホールのふたに描かれ、お好み焼き店ではバット代わりに「へら」を持ち、駅長さんにも…。広島の街を歩くと至る所で目にできる、さまざまな「坊や」。いかに県民に愛される存在か分かる。
 誕生は1975年6月。カープが創設26年目にして悲願の初優勝を果たす4か月前のことだった。「よう考えたら、あの時と匹敵するんですよね。スゴイですね。不思議な気持ちがします」。「坊や」生みの親で広島在住のイラストレーター・岡崎福雄さん(69)は、25年ぶりの優勝を感慨深く受け止めていた。
 広告代理店のカープ担当としてポスター製作などに関わっていた岡崎さんが、チーム遠征時に使う用具運搬車につけるペットマークの公募に参加したのが28歳の時。「バットを振る鯉」も合わせて応募したが「坊や」の方が採用された。「自分としては『坊や』を推していたので良かった。子供には夢があり、希望がある。どんな人にも愛されるだろう、と」

WS001(初期のカープ坊や)
 躍動感を出すために、細部までこだわった。「1本の(同じ)線で描くと絵が止まって見える。(顔の輪郭や帽子、鼻、耳などの)線の太さにアクセントをつけ、横を向く顔の右目は大きく、左目は小さくと配慮しました。まゆ毛も角度をつけてね」。現在、球団が管理する「坊や」はオリジナルとは微妙に異なるタッチで“成長”し「一般の人には分からないかもしれませんが、線(の強弱)が少し違うんです」と苦笑する。
 モデルになった少年がいる、ともうわさされたが、実際にはおらず、かつてのオーナーが出入り業者の息子さんに対して言っていた話が広まったのが真相。岡崎さんも「いいネーミングだと思います」と支持する「カープ坊や」というカワイイ名前は「人知れず、いつの間にかついた」のだという。
 現役マスコットで12球団最古参になった。「41年も愛されて、うれしいですね」と喜ぶ岡崎さんは「坊や」が長く親しまれる理由を生みの親として、こう考えている。「“顔”というベーシックなデザインが良かったんでしょう。いつの時代でも、長続きするのは基本的なデザインなんです」
via http://www.hochi.co.jp/topics/20160915-OHT1T50056.html

・40回以上の逆転はなぜ生まれたか?石井琢朗がカープに施した打撃改革。
http://number.bunshun.jp/articles/-/826471

・広島優勝を陰から支えた元助っ人外国人 カープへの恩返し果たす 有力選手獲得の敏腕スカウト
https://www.buzzfeed.com/tatsunoritokushige/schullstrom?utm_term=.ov5mNDDJA#.btWwbxxOo


◇広島の黒田が引退=日米で20年、通算203勝
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 プロ野球広島の黒田博樹投手(41)が18日、今季限りでの現役引退を表明した。広島市内のホテルで記者会見し、「ここ2、3年、毎年そういう気持ちでシーズンを迎えていたが、リーグ優勝して、日本シリーズに進出できたことが大きな要因」と決断した理由を語った。
 22日に開幕する日本ハムとの日本シリーズが現役最後の舞台となる予定。日本一を懸けた決戦を控えるため、野球人生を振り返ることは控え、「あと何試合登板できるか分からないが、けがを恐れず目いっぱい投げたい」と最後の登板へ意欲を示した。
 黒田は大阪・上宮高から専大を経てドラフト2位で1997年に広島に入団し、11年間で103勝を挙げた。2008年から14年まで7年間は、米大リーグのドジャースとヤンキースで79勝をマーク。米国に残れば20億円とも言われた高額年俸を蹴る形で15年に広島に復帰し、「男気」と称賛された。
 日本での成績は321試合登板で124勝105敗1セーブ、防御率3.55。日米通算では203勝184敗の成績を残した。 
■黒田博樹の略歴
 黒田 博樹(くろだ・ひろき)大阪・上宮高から専大を経てドラフト2位で97年に広島入団。05年に最多勝、06年に最優秀防御率のタイトルを獲得。07年オフにフリーエージェント権を行使して米大リーグのドジャースに入団し、12年にヤンキースへ。15年に広島復帰。今年7月に日米通算200勝を達成した。日本のプロ野球通算124勝105敗1セーブ、防御率3.55。米通算79勝79敗、防御率3.45。右投げ。大阪府出身、41歳。[2016.10.18]
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101800631&g=spo&m=rss

 さらば黒田-。広島黒田博樹投手(41)が今季限りで現役を引退することが18日、分かった。同日中に記者会見を行う。
 この日はスーツでマツダスタジアム入り。黒田の意向もあり、練習前にナインに自らの口で伝えた。「個人的なことで申し訳ないが、日本シリーズ限りでユニホームを脱ぐことを決めました」などと話した。25年ぶりの優勝をつかみとった男気(おとこぎ)右腕らしく、格好良くユニホームを脱ぐ。
 黒田はここ何年も、自分の去就と向き合ってきた。広島に復帰した14年12月も、引退は広島復帰と同等の割合で頭にあった。最終的には「あと何年野球ができるかわからない。カープで野球をするほうが、より1球の重みを感じられると思った」と復帰を決断。20億円とも言われたメジャーからの巨額のオファーを断った。「男気」は黒田を象徴する言葉となった。
 昨季は11勝を挙げたが、昨オフも去就に悩んだ末に現役続行を決めた。「ぜいたくでわがままかもしれないですけど、この年齢になって、この体でもう1年野球をするというのはしんどい」とこぼしていたが最後は「(若い選手に)必要とされている部分を見せられると、振り切ってまで(やめる)というのは難しい。特にまだまだ伸びしろのある投手がたくさんいるので、少しでもプラスになるなら」と現役続行を決めていた。
 退路を断って臨んだ今季は開幕2戦目のDeNA戦で初勝利続く4月2日の巨人戦(東京ドーム)では日本球界復帰後初完封。4月30日までに6戦で4勝をマークするなど好スタートを切った。勝ち星に恵まれない時期もあったが7月23日阪神戦(マツダスタジアム)では7回無失点で7勝目。これが日米通算200勝目の節目となった。その後も優勝を決めた9月10日の巨人戦(東京ドーム)で先発。6回3失点で9勝目をマークしていた。シーズン最終戦となった10月1日のヤクルト戦(マツダスタジアム)でも7回1失点で勝ち、7年連続2桁勝利をマークした。
 輝かしい成績の一方で、体はボロボロだった。メジャー時代に打球を頭部に受けた09年からは後遺症とも闘った。試合前に「背中の骨がスレてる感じ」で首をひねることができなくても、「日本人がナメられてたまるか」とマウンドに上がったという。昨季は右腓骨(ひこつ)筋腱(けん)周囲炎(右足首の炎症)で抹消を経験。今季も慢性的な肩痛、首痛に悩まされていた。CSでの登板を控えた今月10日にはキャッチボールを中断して、トレーナーからマッサージを受けた。「いつものこと」と話したが、体は限界だった。
 チームへの還元は大きく、今季も後輩へのアドバイスを惜しまなかった。CS前には球団にモチベーションビデオを提案し、作成に立ち会った。「広島のために」を思い続けていた。
 黒田は96年に逆指名によるドラフト2位で入団。07年まで広島でプレーした後、FA宣言でメジャーに移籍した。06年から挑戦の意思はあったものの、ファンの熱意に押される形で残留。07年に涙の末に移籍した。メジャー通算7年間で79勝79敗。14年には8年ぶりに広島に復帰していた。
 日米通算203勝184敗、防御率は3・51。05年に最多勝、06年に最優秀防御率を受賞。ベストナイン、ゴールデングラブ賞を1回受賞。通算3340回2/3を投げた。
via http://www.nikkansports.com/baseball/news/1726009.html

・引退会見 一問一答 「新井だけには話していた」
 広島黒田博樹投手(41)が18日、広島市内で会見を開き、今季限りで現役を引退することを表明した。
 黒田はまず「本日はお忙しい中、そしてこのような時間帯に、こういう場を設けていただきありがとうございます。昨日、球団の方に引退の意向を伝え、そして了承していただき、本日の練習前にまずは監督、コーチ、選手、裏方さんの前で引退することを伝えました。そして、その後にこう言う場を設けていただき、今までたくさんのファンの人に応援していただいたので、そういう人たちに、最後の登板の前になんとか報告できればいいかなと思い、こういう場を設けてもらいました」と話した。

 一問一答は以下の通り。
 ―引退を決意した理由
 理由はたくさんあるんですが、まだ、みなさんご存じのように日本シリーズの登板も残っていますし、なかなか、すべてをお伝えするというのはなかなか難しいですが、まず1つは今年リーグ優勝して日本シリーズに進出できたということが、1つの大きな要因だったのかなと思います。

 ―いつ頃から考え始めた
 それは2、3年前からずっと、毎年毎年そういう気持ちでシーズンを迎えていたので。ただ、本当に自分の中で考え始めたのは9月過ぎですね。優勝が決まってから本格的に自分で考え出しました。

 ―誰かに相談は
 相談というか、引退に関しては自分自身で決めましたし、後は横におられる鈴木さん(球団本部長)にも何度かお話させてもらって。選手の中では新井だけには話していたんで、それ以外には話していなかった。

 ―新井にはいつごろ話した
 はっきりとは覚えていないですが、優勝が決まった後だったと思います。

 ―新井からは何か言われたか
 もう1年やらないんですかと言われましたけど、自分の意志が結構固かったので。本人もある程度、納得してくれたと思います。

 ―このタイミングでの発表
 いろいろ難しいところがあったんですけど、僕自身は日本シリーズがすべて終わってからみんなに伝えようと思っていたんですが、次が最後の登板になるかもしれないので。まずはチームメートに伝えなくてはいけないという気持ちと、今までたくさんの人に応援していただいたので、自分の口から伝えないといけないんじゃないかなということで、このタイミングになりました。

 ―決断に悔いは
 本当に、今年みんなの力で優勝を経験させてもらって、最高の経験をさせてもらったので、まったく悔いはないですね。

 ―日本シリーズへ
 あと何試合登板できるかわからないですけど、今までも常に最後のつもりでマウンドに上がってきたので、それは変わらないと思いますけど、めいっぱい、最後はケガを恐れずに投げていきたいと思います。

 ―ファンへ
 今まで、本当にたくさんの声援をいただいたので、日本一という形で恩返しできるように選手一丸となって日本シリーズを戦っていけたらと思います。
via http://www.nikkansports.com/baseball/news/1726030.html



◇スペシャル対談特別公開!黒田博樹×新井貴浩「俺たちの広島カープ」

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――東京ドームが真っ赤に染まった9月10日。優勝を決めた後、穏やかな表情だった黒田さんが、新井さんと抱き合った瞬間に号泣されました。胴上げされている時も涙を見せないように顔を覆うシーンが印象的でした。やはり、新井さんとの間には特別な感情があったんですか。

黒田 新井とは昔からずっと一緒にやってきて、「このチームを強くしたい」と言ってきた。だから、(泣いている)新井を見たら、こみあげてくるものがありましたね。こういう機会は長い野球人生でも、ない。最高のチームで、この仲間と優勝できてよかったです。

新井 黒田さんを見たら、グッときました。何て言っていいか、わからなかった。(胴上げは)僕はいいって言ったんですけどね。本当、夢を見ているみたいでした。

――苦しい時代を支えたエースと4番が一度、広島を離れ、また戻ってきて四半世紀ぶりの優勝に導く。奇跡のようなストーリーに思えます。

黒田 一度、広島を出た人間が偉そうに言ってはいけないと思うけど、やっぱり、外に出て、いろいろなことを経験して、外からカープを見れたっていうのは、すごく今、生きているんじゃないかな。それでまた、強くなれたんじゃないかな、と。もし、僕も新井もFA宣言せずに、僕が20年間、新井が18年間、ずっとカープにいたら、多分、この年齢で、この勢いで野球をできていない可能性が高いと思います。外を見させてもらって、またカープに対する気持ちが強くなって、今があるんじゃないかな。

新井 そうですね。僕も批判されるのを覚悟で戻ってきて、初めて打席に立ったのが去年のマツダスタジアムでの開幕戦。代打で打席に立ったと思うんですけど、そこで、絶対にブーイングされると思っていた。そうしたら、大歓声をもらった。あの打席は頭が真っ白になって、本当に膝が震えた。あの感動をもらったから、僕はもう、自分の野球人生はいつ終わってもいいと思えました。あとは、この人たちに喜んでもらうために野球をやろうと思ったんです。

――広島から出て、外の野球を見てきた2人が、若いチームの中で、どのような役割を果たしていたのですか。

新井 僕から見ると、黒田さんの背中を見ているだけでチームが締まるという感じでしたね。黒田さんが練習していたり、マウンドで投げている姿を見て、何も言わなくても、みんな気持ちが締まっていた。

 それに黒田さんが、1年間通してローテーションを守って、しんどい練習をして、とことんまで準備している。それを見れば、他の選手は自分もしんどいとは言い難いでしょうね。

黒田 なんか、変なプレッシャーを与えているみたいやな(笑)。ただ、僕は41歳で、新井は39歳。年齢を理由にして、甘えてしまうと、どうしても普段の練習や生活から緩んでしまう部分がある。年をとっても勝負するためには厳しくやるしかない。

――昨年5勝だった野村祐輔投手は今年、最多勝争いをするなど大きく飛躍しました。本人はその要因を「黒田さんがいたことがすべて」と語っています。

黒田 野村に限らずなんですけど、投手というのは、どうしても完璧を求めてしまう。先発なら0点に抑えないといけない、リリーフだったら3人で抑えないといけない、というように。特に野村は去年、結果が出なかったので、今年は0点に抑えて、自分の実力を知ってもらわないといけないという気持ちになりがちですよね。実際に、変に自分にプレッシャーをかけすぎていた部分があったので。ローテーションを1年間、守っていくためには完璧なピッチングができないこともある。そこをどうコンスタントに結果を残していくか。俗に言うクオリティースタートというか、そういうことを繰り返していけば、チームからも信頼されるよ、ということは言いましたね。

新井 僕から見ても、黒田さんは精神的な支えという部分が大きいですよね。

黒田 技術的なことは、年齢が上だからって、簡単には言えない。人それぞれ持っている技術が違うから。ただ、メンタル的なことは自分も色々な経験をしてきたんで、手助けはできるんじゃないかなと思ってやってきましたね。

 逆に僕から見ると、野手の方では新井が今年、果たした役割はめちゃくちゃ大きかった。まあ、一番大事なのはピッチャーの最年長である僕と、野手で最年長の新井が同じ方向を向くこと。僕は日本でも、アメリカでも、いろいろなチームを見てきましたが、やはり、一番のベテラン同士が同じ方向を向いて、同じ気持ちで野球をやっていないと、なかなかうまくいかないんだなとわかった。だから、とにかく、2人が同じ方向を向く。僕たちの役割としては、そこが、一番大きかったんじゃないかな。

新井 そうですね。ただ、僕たちが今年、何か特別変わったことをやったわけではなくて、カープに入って、試合に出られるようになった頃からやってきたことを、そのままやっていた感じですよね。

黒田 今年に限らず、新井とは日々、時間のある時にそういう話をしていたよな。FAでカープを出る前から、ずっとそうだったから、お互いに考えていることはわかっていた。これは、今だから言えるんだけど、自分たち2人は一度、カープを離れて、帰ってきてからも、野球観というか、野球に関する考え方がカープで育った時と変わっていない。それで、この年齢になっても第一線で野球をできているわけだから、これまで自分たちがやってきたことや考え方というのは間違っていなかったのではないかなと思えるよね。それでいて、チームに対する気持ちというのは、外に出て、戻ってきてからの方が強くなった。それが普段のプレースタイルに出ていただけじゃないかな。

新井 僕も同じ気持ちですよ。若い時に、黒田さんから教えてもらったこと、というのは、アメリカから戻ってきた後の黒田さんと話しても変わっていなかった。ただ、年齢的なもの、立場や立ち位置は変わった。昔はまだ、自分たちの上にたくさん先輩がいたけど、今は僕たちが最年長。それに対して責任感、使命感がありましたね。

黒田 それが、さっき言った『甘えられない、甘えない』という気持ちになっていた気がする。

新井 意識しているわけじゃないけど(チームメートから)見られている感覚というのは常にありましたよね。黒田さんと自分が少しでも気を抜いた練習や、プレーをしていたら、他の選手はこれでいいんだと思ってしまう。それは困る。そういう意味の使命感というのは、昔とは全然違うものがありましたね。

黒田 そう。僕たちのやることを後輩たちが見て、それが自然と伝統になってしまう。いい加減なことをしてしまうと、悪い伝統が次の世代、その次の世代へと続いてしまう。やはり、いい伝統をつくりたい。

――2人に共通する野球観とはどういうものですか。

黒田 僕も新井も、この年齢なんで、自分のためだけにプレーするのであれば、妥協してしまうところもあると思う。体はしんどいですから。でも、ファンの人に対する「恩返ししたい」という気持ちがあると、もう、ひと踏ん張り、ふた踏ん張りできる。そういうものですよね。

新井 チームのために、ファンのために、という部分では黒田さんは昔から全く変わっていないです。エースと呼ばれる存在で、エースが似合う人。これは、あくまで自分の考えなんですけど、エースってなんだろうって考えた時に、僕は自分の身を削って、犠牲にしてでもマウンドに立てる投手だと思うんです。黒田さんは周りにすごく気をつかうところが昔から変わらない。ピッチャーっぽくないんですよ。自分はたくさんの投手を見てきたけど、黒田さんは、どっちかというと野手っぽい性格だなと前から思っています。ピッチャーって、どうしても、お山の大将的な人が多い。『俺を見ろ!』というね。

黒田 そんなこと言い出したら、打者でもそういう人おるで(笑)。

新井 そうですけど(笑)。確かにプロってそういう人ばっかりなんですけど、その中でもピッチャーというのは特別。みんな野球を始めた時はほとんどがピッチャーをやりたくて、それがダメだから野手になることが多いじゃないですか。そういう環境で育ってきているんで、どうしても、ピッチャー特有の性格があるんですけど、黒田さんはそういうところがない。周りのことをすごくよく見ているし、周りに気を配ることができるんです。

――黒田さんは、新井さんにも助言をすることはあるんですか。

黒田 まあ、あんまり言うこともないですからね。ここまでのスーパースターに……。

―― ……。

新井 プッ……、ワハハハハッ!

―― (爆笑)

新井 (インタビュアーも)笑ってるじゃないですか!

黒田 それは失礼やな(笑)。

 まあ、本当に新井も昔から考え方やプレースタイルがぶれていないよな。だから、今年は野手を見ていて安心だった。若い頃から、たくさんの先輩から野球に対する考え方なんかを教えられてきたけど、その中で、「チームのために」という信念を持ってやってきたからね。

――入団は黒田さんが2年先ですが、お互いに最初の印象はどういうものでしたか。

黒田 新井が入ってきた時は、まず「でかいな」と。僕は3年目だったのかな。ローテーションに入るか、入らないか。毎年、期待されていながら、フラフラしている時期だったので、あまり自分のこと以外を見る余裕がなかったですね。

新井 僕は駒大時代、専大の黒田さんと同じ東都リーグだった。自分は当時、レギュラーではなかったので出場していなかったですけど、黒田さんは、いつも投げていた。だから、勝手に親近感はありましたね。とにかく球が速いというイメージだった。

黒田 最初に色々な話をし始めたのは新井がホームラン王を取って、僕が最多勝を取って、ある程度、周りを見ることができるようになってからじゃないかな('05年)。自分らがタイトル取っただけじゃなくて、今度はチームで勝ちたいっていうことを考え出した。球団に対しても、新井と一緒にいろいろな要望を出したりしたよな。

新井 それまでは先輩に食事に連れて行ってもらった時に、大勢の中で話す感じでしたね。

黒田 どちらかというと、その頃は投手と野手は「違う部署」という感じだった。先輩同士もそういう雰囲気があって、投手と野手で線引きされていた。

新井 初めて2人で飲みに行ったのはいつですかね。

黒田 覚えているのは新井が4番を打ち始めて、結果が出ずにボロボロになっていた時、自分もエースと言われ始めた時に全然勝てずにボロボロだった。その頃に一度、2人だけで飲みに行ったんだよ。あの時はお互い気持ちが滅入っていた。今の状態なんか、とても想像もつかなかったし、あと1、2年で野球人生が終わってしまうんじゃないかというぐらい、メンタル的な部分できつかった。特に新井は(山本)浩二さんが監督の時に初めて4番として使われて、それに応えようとするプレッシャーがあった。もう、限界を超えていたよな。痛々しかった。自分にもそういう部分でのプレッシャーがあった。ただ、お互いに、その逆境を一度、跳ね返せた、というのは野球人生の中で大きかったんじゃないかな。

新井 あの時は、本当に自分のことでいっぱいいっぱいでしたね。

黒田 自分もいっぱいいっぱいだった。だから、2人で飲みながら、ぐちぐち言っていた覚えはある。その時は、まだ、チームがどうのこうのというよりも、自分たちがどうやって、この世界で生きていくかということで必死だった。そういう話ばっかりだったような気がする。俺は店も覚えているよ。市民球場で試合が終わった後、バーみたいなところで飲んで、結構、酔っ払ったよな。

新井 そうでしたか。僕はこれまで、黒田さんには数え切れないくらい食事に連れて行ってもらっているから、どのことか思い出せないです。すいません!(笑)

――勝てない時代をともに戦った2人は同志のような関係なんですね。

黒田 それはそうですね。ただ、よく、苦しい時代を支えたという言い方をしてもらいますけど、自分たちがしっかりしていたら、そんな苦しい時代になっていなかったんじゃないかなという気持ちも強いです。だから、余計にその時、なんとか2人で周りを見返したいという気持ちだったな。

新井 そうでしたね。あの頃から、黒田さんはチームとして一体感を大事にしていましたよね。先発投手の特権で、試合前の練習だけで帰れる「上がり」の日でも、必ず試合を見ていた。そして、試合が終わるまでは食事に行かないし、外にも出なかった。

黒田 それは自分の中では普通かな。みんなが戦っているわけだから、チームの試合が気になる。仲間が1球、1球、どういう気持ちで投げているのか、どういう気持ちで打席に立っているのか、前の試合からどういう流れでプレーしているのか。そういうのを見ないと気が済まない。ビジターの球場で投げて、次の日が上がりで、新幹線で広島に帰る時も、携帯電話で試合経過を見て、チェックしていた。

新井 それがピッチャーっぽくないんですよ。僕は、それほど投手のことを知っているわけではないですけど、今は、自分が投げるため、コンディションを整えるために自分の行動を優先する人が多いと思う。でも、黒田さんは、そうじゃない。みんなが戦っている時に自分だけ飯食ったり、酒飲んだりできないっていうふうに考える人なんで。珍しいと思うんです。みんなが1つにならないと勝てないということを、昔から言っていますよね。

 それに、それを誰に言われてやっているわけでもないですからね。先輩の背中を見て、やるというのは簡単なこと。ただ、黒田さんの場合は、自分からやりだした。野球とは、チームとは、こうあるべきだというのを自分で決めた。そこらへんがすごいなと思うんです。

――黒田さんが新井さんのプレースタイルで好きなところは、どこですか。

黒田 そうですねえ。例えば、守備範囲はキク(菊池)と変わらないんですよ。

新井 これ、是非、書いておいてください(笑)。

黒田 キクは身体能力があるから守備範囲が広い。それに加えて、ここっていう時の最後のひと伸びがあるんです。ピッチャーは打たれて、打球を振り返った時に、捕れそうだなとか、無理だなとかわかるんですよ。ただ、無理そうな打球を最後のひと伸びで捕ろうとしてくれる選手がいる。キクはあれだけの守備範囲がありながら、それがあるから、賞賛される。

 新井の場合はキクほどの身体能力はないんですけど、やはり球際で伸びるんですよ。そこはすごく大事じゃないかな、と僕は思いますね。やはり(チームのためにという)ハートがないと、そこで体を投げ出して、伸びることはできないと思うんですよね。

――ずっとカープで戦ってきた2人が、'07年、ともにFA権を行使して移籍しました。お互いの決断をどう見ていたのですか。

新井 あの時、移籍先を公表したのは自分が先でしたが、じつは、もう黒田さんが(広島を)出るっていうのを知っていました。当時は今と違って、ずっと5位とか、Bクラスの中を行ったり来たりしている状態だったんで、黒田さんがいなくなると聞いた時に、自分はどうしたらいいんだ、と頭が真っ白になった。それこそ「ああ、俺ダメだ」という感覚になった。そこには、また('03年にFAで阪神に移籍した)金本さんの存在もあって、複雑にリンクしているというか。例えば、金本さんが、カープにいたら間違いなくカープを出ることはなかったと思います。でも、金本さんは、もう阪神に行っていた。自分がFA権を取った時に、もう1回、金本さんと一緒に野球をやりたいなという気持ちがありましたけど、もし、あの年、黒田さんがメジャーに行かなかったら、僕も絶対に広島を出ていない。

 自分は生まれた時から、カープファンだし、広島を出てはいけない選手だとずっと思っていました。その自分がまさか出るということになるなんて……という思いがあって、黒田さんにも相談していた。「お前、やめたほうがいいんじゃないか。残った方がいいんじゃないか」って、ずっと心配してもらっていましたよね。

黒田 まあ、心配というか、大丈夫かな、というのがあった。1人でパニックになっているように見えたから。ちょうど、新井は北京五輪予選に出場する関係もあって、決断するまでの日数が限られていた。この日までに決めないといけないと追い詰められていたよな。自分で決めているようで、自分で決めていないというような感覚だろうなと思って見ていた。

 ただ、自分も今度はアメリカに行かないといけない。最後は新井のことを考えている余裕もなくなって……。そういう部分では申し訳なかったな、と思っていた。

――カープを優勝させるために、自分が一度、外に出ないといけないという考えだったんですか。

黒田 いえ、そこまでは考えられなかったです。FA宣言した時点で帰ってくるなんて考えていないし、自分のことで必死だった。アメリカに行って(ドジャースと)3年契約して、3年で野球人生終わるだろうなという気持ちで行ったんで。ただ、3年契約が終わって、4年目、5年目になると、自分の中に(広島に)帰りたいという気持ちがあることに気づきましたね。

――同時に広島を出た2人が、'14年オフに同時に戻ってきました。新井さんの復帰が11月に決まり、その後、黒田さんが決断されましたが、その時の心境は。

黒田 まず、僕は新井が(広島復帰を)決める前から一緒に食事しながら話していたんです。(広島以外の)他球団から話があると聞いていた。広島からオファーがきていると言われるまでは一切、復帰は想像していなかったので、驚きましたね。

 ただ、新井が先に(広島復帰を)決めていたというのは、自分が戻る上でもすごく大きかった。

新井 広島から国内他球団にFA移籍して、復帰したケースはありませんでした。だから、僕自身、もう二度と広島には戻れない、戻れるわけがないと思っていました。でも、黒田さんは「大丈夫だ」と後押ししてくれたんです。

黒田 俺は、他人事だから(笑)。ただ、新井のプレースタイルや、チームに対する姿勢などを知っていたから。いい加減に野球をするタイプではないので、それさえブレなければ、大丈夫だと思った。

――新井さんは復帰した時、ブーイングされるのを覚悟されていたそうです。

黒田 僕もそう思いましたよ。新井は阪神に移籍した最初の年('08年)、タイガースのユニホームで広島市民球場に初めてきた時に大ブーイングされた。その時に(電話で)「あれは、きつかったです。ただ、これでカープへの未練というか、自分の中で断ち切れたものがあって、そこでもう1回、強くなろうと思いました」と言っていた。そういうことを経験しているから、余計に(古巣に戻った後のファンの反応が)怖かったんだと思います。

 ただ、それを乗り越えるために必要なのは、あとは結果。それはどの選手もプロとして一緒だと思う。結果を残して、見せることによって、ファンの人には伝わるものは絶対にある。そりゃあ、打てなかったら、大ブーイングでしょう。その結果、去年、クビになっていた可能性もある。実際に去年の開幕は、新井はレギュラーではなかったし、オープン戦中に二軍という可能性もゼロではなかった。球団は(ヘスス・)グスマンという新外国人選手を獲得して、それなりの契約をしているわけだから、最初は外国人選手を使いますよね。そこで、もしグスマンが結果を残していたら、今の新井はないかもしれない。ただ、やはり、チームに対しての強い気持ちがあって、それを周りも認めて、その上で結果を出し続けたから、今があると思うんです。

――新井さんは黒田さんに「一緒にやりたい」という気持ちを、どう伝えたんですか。

新井 あの時は、黒田さんは日本に帰ってきていて、その間に何回か食事に連れて行ってもらった。自分はもう広島に帰ると決まっていたんですが、黒田さんは、すごく悩んでいた。その後、これは帰ってくるだろうな、と思う時期があったんですが、最後に(サンディエゴ・)パドレスから凄まじいオファー(年俸約21億円)が来た。その話も聞いていました。黒田さんが最終決断するためにアメリカに帰る2、3日前も一緒に食事していて、メジャーのどういう球団からオファーがあるとか聞いていたので「ああ、もう、これは帰ってこないかもしれない」と思ったんです。

 もちろん、自分としては黒田さんに帰ってきてほしいと思っていました。でも、簡単に「帰ってきてくださいよ」とは言えなかった。そんな雰囲気じゃなかった。それくらい、悩んでいた。最後は答えが出ないから、結論だけ決めて、後付けで理由を探すという決断をしたんですよね。

黒田 そう。おそらく新井が阪神に行った時と一緒だと思う。考えても、考えても、結論なんて出ないし、それこそ、1分、1秒ごとに考えがガラッと変わる日がずっと続いていた。そうなると、もう、こっちだ! と決めて、後から理由を探すしかない。いろいろなことを後付けにして、そっち(広島復帰)に向かっていくしかなかった。

新井 僕が阪神に移籍した時とは、全く種類が違うんですけど、決め方は似ていますね。自分で、もう退路を断つしかないんですよね。黒田さんが帰ってくる時も、先にカープに帰るって決めて、あと(の未練は)は断ち切る。そういう感じでしたよね。

黒田 だから、鈴木さん(球団本部長)に「帰ります」と電話してからも、実は悩んでいたからね。「やっぱり、もう1回、考えさせてください」って、電話しようかと思ったもんね(笑)。

 結局、2つの道は歩けないから。この世界で、その決断が正しかったと思うためには、そこで結果を残すしかない。

 それと、じつは、僕は復帰する時に新井の気持ちに左右されたというか……。新井は「僕は1年間、二軍でもいいからカープのために退路を断って、手を抜かずに一生懸命やる」と、ずっと言っていたんです。それぐらいの腹づもりをして(広島に)戻るんだったら、自分も一緒にやってみたいな、と思った。新井の覚悟は僕の決断にすごく影響しましたね。

――その決断に、本当に納得できたのは、いつでしたか。

黒田 はっきり、いつと言うのも難しいんですけど、去年、マツダスタジアムでの初登板(開幕3戦目)で勝てた時ですかね。帰ってきて、満員のファンの前で勝てて、ほっとした。やっぱり、あの日かな……。

――チームのために、ファンのためにという姿勢をずっと大切にされてきましたが、個人主義のイメージがあるプロの世界において、何がそうさせるのでしょうか。

黒田 そうですね、う~ん……。一言で言うと、カープだから、じゃないですか。それがジャイアンツだったら、僕はそうじゃないかもしれないと思うんです。ジャイアンツに所属したことはないので適当なことは言えないですけど、カープにはそういうものがある。昔の市民球場で野球をやっていたから余計に、そういう気持ちが強くなるのかもしれません。今、たくさん球場に来てもらっている人たちにいい思いをしてほしい気持ちが強いです。

新井 自分も答えは、やはり、カープだから。僕は広島で生まれて、広島で育って、気づいた時から身近にあった。小さい頃からカープファンで(山本)浩二さんを市民球場に、走って見に行っていましたから。ただ、黒田さんは大阪で生まれ育っているのに、ここまでカープのことを愛してくれているのが、自分もうれしい。不思議なんですけど「愛してくれている」っていう表現になるんですよね。

黒田 それはファンの人と同じ感覚なんじゃないか?

新井 そうそう。ファンの方々と同じ感覚で、黒田さんが広島を好きでいてくれて、うれしいなとか、すごいなって思うんです。

黒田 新井の話を聞いていると、カープ優勝の時、自分がその中にいるっていうのは、すごく不思議な感じがするんじゃない?

新井 そうなんです。夢みたいな感じです。いろいろなことがあって、今があるわけですから。本当、去年からずっと夢みたいな感じ。ずっと、その夢が続いているような。

黒田 言っていることはわかるよ。小さい頃からカープが大好きだった少年が、25年ぶりの優勝を目指すチームの主軸になって、自分の力で優勝させられたっていうのは、夢みたいだろうな。

新井 だから(広島出身の)僕の中では黒田さんは尊敬する先輩でもあり、ヒーローでもあるんですよね。2人いるんですよ。同じチームの先輩であり、一歩引いて、プロ野球選手じゃないところから見ると、カープを強くしてくれるヒーローなんです。

――黒田さんがメジャーから戻ってくる時、「最後の一球は広島で投げたい」という言葉が、すごく印象的でした。

黒田 僕は考え方というか、いろいろな意味で決断する時に、ブレたくないというのがあったので。(カープで野球人生を終える)そのためにアメリカで頑張っていたみたいなところがあったんで。それがぶれずに、決断ができたのは、自分が(アメリカでも結果を残して)頑張ってこれたからかなと、思いますけどね。

新井 メジャーでバリバリでやっている選手が、すごい契約を目の前にして、それでも帰ってくるなんていうことは、もう二度とないと思います。今までの歴史でも初めてだし、これからも、絶対に起こらない。最初で最後ですよ。だから、これは語り継いでいかないとだめだと思っています。

 僕は黒田さんと同じタイミングで帰ってきたけど、復帰の仕方が全然違う。自分はタイガースから、あなたはもういいですよって肩を叩かれて、広島に戻ってこい、と言ってもらって、恥を忍んで帰ってきた。でも、黒田さんはヤンキースでローテーションに入っていて、すごい契約を提示されて、それを全部なしにして、こっちに帰ってきた。だから、黒田さんと自分は全然違う。

 そこらへんはちゃんと自分が伝えないといけないと思っていて、若い選手には、よく言っているんです。そういうことって、時間が経つにつれて曖昧になってくるから。去年は「うわあ、メジャーリーガーの黒田が帰ってきた」みたいな雰囲気でした。でも、時間と共に、それが当たり前になって、曖昧になってきて、ついには自分と黒田さんが一緒のような感じになってくる。それは違うよ、というのを僕が伝えていかないといけない。

黒田 今はもう新井の方が声援、大きいからね。

新井 ちょっと、何、言ってるんですか! 全然、そんなことないですよ(笑)。

 自分はたまたま、黒田さんと一緒に帰ってきて、そこそこやっているからといって、同じような扱いをしてもらうのは気が引ける。決断の仕方が全然、違います。それは、みんなに知ってほしいんです。

黒田 でも、今、声援は新井の方が大きいからね。

新井 だから、そんなことないって言っているじゃないですか(笑)。
via http://number.bunshun.jp/articles/-/826731


・沢村賞に広島ジョンソン、外国人投手はバッキー以来
 故沢村栄治氏を記念し、シーズンで最も優れた先発完投型の投手に贈られる「沢村賞」の選考会が24日、都内のホテルで行われ、広島クリス・ジョンソン投手(32)が選出された。外国人投手の獲得は64年の阪神バッキー以来となる。
 堀内恒夫選考委員長は「該当者なしという意見もあったが、最終的には全会一致でジョンソン投手を選びました。7つの基準のうち4つしかクリアしていないが、今年のNO・1投手にふさわしい」と話した。

沢村賞は以下の項目を選考の基準としている。
(1)15以上の勝利数 (2)150以上の奪三振数 
(3)10以上の完投試合数 (4)2・50以下の防御率
(5)200イニング以上の投球回数(6)25以上の登板数
(7)6割以上の勝率

 ジョンソンはこのうち、(1)勝利数15(4)防御率2・15(6)登板数26(7)勝率6割8分2厘の4項目をクリアしている。
 また、堀内委員長は「少し基準を見直す時期に来ていると思う」と話し、来年までに基準を再検討する考えを示した。山田久志委員も「投手の起用法が画一化され、長いイニングを投げさせず継投になるため完投数、投球回数のクリアが難しくなっている」と話した。今後は堀内委員長がたたき台を作り、選考委員メンバーで検討していくという。
 選考委員は堀内恒夫氏、平松政次氏、村田兆治氏、北別府学氏、山田久志氏。
via http://www.nikkansports.com/baseball/news/1728768.html


・広島カープ無念…引退する黒田博樹を作り上げた男気エピソード
 http://matome.naver.jp/odai/2147532715594333201

・黒田の「15」、永久欠番に=山本、衣笠両氏に続き
 広島が今季限りでの現役引退を表明した黒田博樹投手(41)の背番号「15」を永久欠番とする方針を固めたことが30日、分かった。
 広島では、ともに1970~80年代の黄金期を代表する強打者だった山本浩二氏の「8」、衣笠祥雄氏の「3」が永久欠番となっている。
 黒田は1997年から広島で11年間プレーした後、フリーエージェント権を行使して米大リーグのドジャースに移籍し、ヤンキースでも活躍。メジャー球団からの高額オファーを断って、広島に昨年復帰し、今季は25年ぶりのリーグ制覇に貢献した。日米通算で203勝を挙げている。
 球団幹部は「苦難の歴史と優勝を経験した黒田が、(広島に復帰して)お金以外の価値観があるという一石を投じてくれた」と話した。
 via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016103000190&g=bsb

◇広島Vパレードに31万人
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 25年ぶりにプロ野球セ・リーグを制した広島カープの優勝パレードが5日、広島市の平和大通りで行われた。カープのパレードはリーグ初優勝を遂げた1975年以来41年ぶりで、沿道には31万3000人(実行委員会発表)が詰めかけた。
 パレードは晴天の下、同市西区の西観音町電停前を出発。松田元オーナー、緒方孝市監督、今季限りで引退した黒田博樹投手、新井貴浩内野手らがオープンカー4台、オープンバス5台に分乗し、約3キロのルートを40分ほどかけて進んだ。
 開始1時間以上前から、赤や白のユニホームをまとった市民やファンで沿道が埋め尽くされた。選手を乗せた車が近づくと、「ありがとう」「おめでとう」と祝福の声が上がり、選手たちは笑顔で手を振って応えた。
 隊列がフィニッシュ地点に着くと、今季大活躍した鈴木誠也外野手は「パレード最高!」と叫び、初の体験に感激した様子だった。
 黒田は「想像以上でびっくりした。(ファンには)逆にこちらがありがとうという気持ち。新井とは『本当に優勝してよかった』と話した」とパレードを満喫した様子。
 鈴木は「予想以上に人が多く、すごい迫力だった。優勝したことへのファンのうれしさが伝わってきた」と話した。[2016.11.05]
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110500128&g=bsb&m=rss

・感動をありがとう!広島カープの優勝パレードに街が真っ赤に染まる
 http://matome.naver.jp/odai/2147831706970735001

・広島・黒田、涙の胴上げ15回 「世界一のカープファン」の前で
 今季限りでの引退を発表した広島・黒田博樹投手(41)が5日、広島市内で行われた優勝パレード後のリーグ優勝報告会で現役最後のユニホーム姿を見せた。
 セレモニーの中で、ファンに向けて最後のあいさつ。盟友・新井貴浩内野手(39)から花束を手渡されると、球場中を大歓声が包んだ。マウンド付近で全選手で記念撮影。さらにサインボールがスタンドに投げ込まれた。
 最後は、ナインが黒田を胴上げ。球団の永久欠番となる背番号「15」と同じ15回、宙に舞うと、黒田は感極まった様子。マウンドにひざまずき、抑えきれない涙を何度もぬぐった。

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 あいさつ全文は以下の通り。

  本当に朝から、たくさんのファンに来ていただいた。笑顔、涙、いろんなものを見せてもらって。僕自身が感動しています。ありがとうございました。
 本当に僕の方こそ、ファンのみなさんに背中を押してもらった。暑い夏も、苦しい時もマウンドに上がる気力を与えてもらった。正直、これで野球から離れるというホッとした気持ちと、少しずつさみしさが出てくると思います。
 20年間やってきて、まさかこんな形でユニホームを脱げると思ってなかったので、みなさんに感謝したい。言葉では言い表せないくらい、感謝の気持ちでいっぱいです。(リーグ優勝時に)泣いてはないと思いますけど(笑い)。たくさんの気持ちが出てきて、なんとも言えない気持ちになりました。
 (20年間の野球人生について)
 一言で言うと苦しい20年間だった。ただ、苦しいことを乗り越えて、みなさんの前でパレードをして、ここで話ができる。苦しいことを我慢してよかったと思います。
 最初にアメリカに渡った時に、まさかこうやってマツダスタジアムのマウンドに立てると思ってなかった。不思議な気持ちです。本当にありがとうございます。
 (チームメートに対して)
 こちらこそいいチームで2年間、やらせてもらった。すごくいい雰囲気を作ってもらって、本当にありがとうと言う気持ちです。
 (最後にファンに向けて)
 20年間、野球を続けてこられました。最後に世界一のカープファンの前で、ユニホームを脱ぐことができる。本当に最高の引き際になったと思います。20年間、ありがとうございます。

 via http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2016/11/05/0009640516.shtml

・黒田と共に…グラブの匠も引退 廃業撤回、支えた20年

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 現役ラストシーズンとなった今季、プロ野球広島の黒田博樹投手(41)は、グラブに1人の名前を刻んでいた。プロ生活20年間、グラブ製作を託した西岡将行さん(66)=奈良県三宅町=だ。西岡さんは一度引退を決めながらも、黒田投手の強い希望で、現役を続けていた。
 「made by M.Nishioka」。グラブの手首にかかる内側部分に隠れるように書かれている。黒田投手が今季開幕前に申し出た。「引退を撤回してまで、自分に合ったものを一生懸命作ってくれている。それならぜひに、と思った」。西岡さんは「思いもしていなかった。誇らしい。今までやってきたことは間違いなかった」と感謝する。
 黒田投手はプロ入りから一貫して、スポーツ用品メーカー「SSK」(本社・大阪市)のグラブを愛用している。SSKは数社の工場でグラブを生産しているなかで、黒田投手のグラブ製作を西岡さんに発注した。面識がない2人の縁は、こうして生まれた。
 西岡さんは高校卒業後、家業の工場を継いだ。市販の製品だけでなく、楽天の松井稼頭央外野手(41)や阪神の今岡真訪(まこと)2軍コーチ(42)らプロ選手からの特別注文にも対応していた。
 年間1千個以上のグラブを製作していたが、5年前、従業員の高齢化もあり、一度は廃業を決めた。そこで製作のノウハウをSSKに伝えた。だが、他のどの職人が同じ型、同じ素材で作ろうと、黒田投手は「はめた瞬間に違う人が作ったと分かった」と言う。投手の繊細な感覚に影響する商売道具に妥協はしなかった。
 グラブは全て手作り。素材のどの箇所をどう使うか、目利きも大事になる。切り方、縫い方にも個性が出る。西岡さんは「黒田選手のファンでもある。できる範囲でやらせてもらいたかった」。それからは年に10個ほどの黒田グラブに限り引き受けていた。「形や革の好みが20年間変わらなかった。一本芯が通っていた」。その姿勢は野球人生と重なって映った。

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 48年続けたグラブ職人を今季限りで引退する。「すーっと肩の荷が下りた。本当にやりきった。黒田選手と一緒です」。同じく最高の引き際と感じている。
via http://www.asahi.com/articles/ASJCB7QZNJCBPTQP00J.html

◇広島カープが広島市に5億寄付 市民の声援感謝込め原爆ドーム保存などに
 広島東洋カープが21日、広島市に寄付することを発表した。総額なんと5億円。市民への感謝を込めて、多額の地域還元となった。
 今季は25年ぶりのリーグ優勝を達成。球団は「市民を始めとする地域の方々から、多くの御支援、御声援を賜り、25年ぶりのリーグ優勝を果たすことができました」と説明する。これに加えて、昨年オフに前田健太選手(28)が、ポスティングシステムを使って、米・大リーグ・ドジャースに移籍。譲渡金による特別収入を得たこともあって地域還元、恩返しの気持ちから寄付を決めたという。
 寄付内容は、(1)西飛行場跡地で少年野球やソフトボールなどができるスポーツ広場の整備と、(2)被爆の惨禍を後世に伝える、原爆ドームの保存のための活用。寄付金額は総額5億円で、スポーツ広場の整備に4億円、原爆ドームの保存に1億円を寄付する。
 広島は今年2月にも、キャンプ地の宮崎県日南市と、沖縄県沖縄市に1億円ずつを寄付している。
via http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2016/11/21/0009685141.shtml
 http://spotlight-media.jp/article/349762244965932259
 https://matome.naver.jp/odai/2147970927971278001
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[プロ野球] 広島・黒田博樹 日米通算200勝達成~野茂以来史上2人目の金字塔 はてなブックマーク - [プロ野球] 広島・黒田博樹 日米通算200勝達成~野茂以来史上2人目の金字塔

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プロ野球広島の黒田博樹投手(41)は23日、広島市のマツダスタジアムで行われた阪神17回戦で先発して7回を無失点に抑え、今季7勝目を挙げて野茂英雄以来史上2人目となる日米通算200勝を達成した。プロ初勝利は1997年4月25日の巨人4回戦(東京ドーム)。日本球界だけで200勝を達成した投手は24人いる。
 黒田は97年にドラフト2位で広島に入団。2005年に最多勝(15勝)に輝くなど11年間で103勝を挙げ、07年オフにフリーエージェント(FA)権を行使して米大リーグのドジャースへ移籍した。12年からはヤンキースでプレーし、14年までのメジャー7シーズンで79勝。広島に復帰した15年には11勝を記録した。   [2016.07.23] 
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072300285&g=spo&m=rss

◇黒田博樹投手の略歴
 黒田 博樹(くろだ・ひろき)大阪・上宮高から専大を経てドラフト2位で97年に広島入団。05年に最多勝、06年に最優秀防御率のタイトルを獲得。07年オフにフリーエージェント権を行使して米大リーグのドジャースに入団し、12年にヤンキースへ。15年、広島に復帰した。日本のプロ野球通算121勝102敗1セーブ、防御率3.55。米通算79勝79敗、防御率3.45。右投げ。大阪府出身、41歳。

日米通算200勝を達成した広島の黒田博樹投手との一問一答は次の通り。

 -今の心境は。
 まだ実感が湧かない。僕の中では199勝も200勝もあまり変わらないが、節目としてここまで来たんだなとは思う。
 -野茂以来の記録だ。
 偉大な投手に少しでも近づけたのはうれしいこと。まさか自分がここまで来られるとは。米国に行き、マツダスタジアムでこういう日を迎えるとは想像していなかった。

 -印象的な試合は。
 初勝利がないとスタートできないので覚えているし、きょうの球場の雰囲気の中で勝てたことも印象に残るのではないか。
 -投げ続けている理由は。
 まだ体が投げられる状態なので、それなりの責任もある。少々のことでローテーションを飛ばしたくない。

 -チームは優勝に近づいている。
 このまますんなりいくとも思わないが、今年のチームは20年やってきた中でもベストのチーム。素晴らしいチームメートと最後は優勝したい。
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072300359&g=spo

・広島・黒田が日米通算200勝を達成!「残る仕事は優勝のみ」と期待の声
広島東洋カープの黒田博樹が23日の阪神戦に先発。見事な投球をみせ、日米通算200勝を達成した。
この記録は2008年の中日山本昌以来8年ぶりで、カープとしては80年代に11年連続2ケタ勝利など精密なコントロールを武器に活躍した北別府学以来2人目の快挙となる。
また、大卒での200勝達成は阪神・村山実以来46年ぶり。

■FAせず広島に残留
専修大学から広島に逆指名で入団した黒田は、カープのエースとして活躍。2005年には最多勝を獲得するなどしてチームの屋台骨を支える存在に。
そして2006年、FA権を取得。当時の広島は自前で鍛えあげた選手のFA流出が続いてたほか、在阪マスコミが阪神入り決定的との報道を繰り返したため、「黒田も出て行ってしまうのではないか」との不安が広がっていた。
しかし、広島市民球場のスタンドに浮かんだメッセージ入りの横断幕とファンの熱意に押され、残留。この決断が人々の感動を呼び、「男・黒田」のイメージが定着。その男気に魅せられる野球ファンが続出する結果に。

■21億円を蹴ってカープ復帰
広島との契約内容にメジャーリーグに自由に移籍できる条項があったことから、2007年オフにロサンゼルスドジャースと契約。当初は苦しんだが、速球派から技巧派へと転身したことで成績が安定し、2年連続2桁勝利を達成した。
2010年からはヤンキースに移籍し、16勝をあげるなど3年連続2桁勝利。エース格として信頼される存在になり、2014年オフに21億円のオファーを受けたが突如固辞し、アメリカマスコミを驚かせた。
古巣で野球人生を終えるべく、2015年からカープに復帰。1年目で11勝8敗防御率2.55の成績を残し、高い実力をみせつけた。そして今年、投手として区切りの200勝を達成したのだ。・・・
via http://sirabee.com/2016/07/23/139314/

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・「耐えて麗し」200勝=変化恐れず、日米で実績
 「耐雪梅花麗」。結果を出せずにいた大阪・上宮高時代、黒田はこの言葉に出合った。梅の木が冬の寒さに耐え、春に花咲くさまを詠んだ漢詩の一節は「苦しい気持ちを和らげてくれる」という。環境の変化や葛藤を乗り越えたプロ20年間の足跡とも重なる。
 専大から入団した広島で、5年目の2001年から7年間で6度の2桁勝利。股関節の硬さを補う技を模索しながら、さらに球威をつけた。大学の1年先輩で、社会人を経て広島入りした小林幹英(現広島投手コーチ)は「僕が入って2、3年目ぐらいから、キャッチボールでも球質が変わってきた」と振り返る。
 力に頼るだけではない。渡米前の女房役、倉義和は「スライダーに対応されると、さらに速く曲がりの小さな球を覚えるなど、常に相手の上をいくことを考えていた」と話す。
 08年、ドジャースに移ると一つの決断を迫られた。大リーグの先発は中4日の登板間隔が一般的。日本より短期間で体調を整え、100球を目安により長い回を投げることが求められる。力勝負や完投へのこだわりを捨て、打たせて取るすべの必要性を悟った。
 「スタイルを変える怖さはあったが、プロである以上は結果を残し続けないといけない」。沈むツーシームなどの動く球を習得。打者の情報や癖などを頭に入れ、どう攻めるかを具体的に想定するようになった。ドジャースでの実績を評価されて移籍した名門ヤンキースでも、ローテーションを守り続けた。
 復帰2年目の広島でも、首や肩に不安を抱えながら先発陣を支える。黒田から内角の使い方などの助言を受けた野村は既に今季12勝。「たくさんの経験がある方の話が聞けるのだから、今がチャンス」と野村。日米で培った経験は、首位を走るチームの財産でもある。
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072300292&g=spo&m=rss

・イチローならではの祝福=「日米合算認めない」
 マーリンズのイチローは、ヤンキース時代に同僚だった黒田の日米通算200勝に「日米合算なんて俺は認めない!おめでとう」とコメント。冗談めかした表現で祝福を贈った。
 イチローはピート・ローズが持つ米大リーグ歴代最多の4256安打を、日米通算で上回ったが、米国では「日米通算記録」には否定的な意見も多く、「どうしたってけちがつく」と語っていた。現在、メジャー通算3000安打にあと4本と迫っている。
 黒田は日本で121勝を積み上げた。イチローの言葉は、41歳の右腕が日本で大台に到達することを期待しているようにも聞こえる。
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016072300305&g=spo

・優勝への通過点? 日米通算200勝を達成した広島カープ黒田博樹
 http://matome.naver.jp/odai/2146166403388075801

・黒田の200勝を支えたカープファンの愛着
 http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7373
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