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[オピニオン] 「働き方改革」が、働く人をさらに二極化させている、という事実。(by安達裕哉) はてなブックマーク - [オピニオン] 「働き方改革」が、働く人をさらに二極化させている、という事実。(by安達裕哉)

最近、「働き方改革」というキーワードが流行っている。
ただ、「働き方改革」の中身は、人によってかなり解釈が異なり、一種のバズワード、と言って良いかもしれない。
もちろんこれは、政府が主導で「働き方」についての議論をしているからだ。
首相官邸ではその議事録を公開している。

首相官邸 働き方改革実現会議

中を見ると女性の活用やテレワーク、障がい者の雇用など、一見、様々なテーマがあるように見えるが、結局のところ、この二つに話題は収斂する。

1.同一労働同一賃金
2.長時間労働の抑制

例えば、同一労働同一賃金をすれば、中流が復活する、女性が活躍する、非正規雇用が減る。
また、長時間労働の抑制をすれば、少子化が解消する、健康になれる。消費が増える。
そんな話をしているのが「働き方改革」の中身である。
だが、これをみて、多くの「できる」ビジネスパーソンは違和感を抱くに違いない。
議事録を見ていると、「この人達、会社で働いたことあるのだろうか?」と思ってしまう。いや、逆に知っていて無視を決め込んでいるとしたら、さらにたちが悪い。
あまり声高に言う人は少ないが、はっきり言えば、企業にとって「働き方」はさほど重要な事柄ではない。
繰り返す。
企業にとって「働き方」は2次的な話であり、優先度の低い話題である。
知人の経営者は「働き方改革って、話題ばかり先行しているけど、結局企業の足を引っ張っているだけだよね」という。
ある戦略コンサルティング会社のマネジャーは「働き方改革をする前に、労働者の意識改革のほうが先じゃないかな。」という。
総合商社に勤める知人は、「政府が働き方に口を出すとろくなことにならない。一律にやろうとするからね。」という。
では何が重要なのか。
もちろん、企業にとって最も重要な話題は「消費者」や「取引先」が、自社のサービスや商品を買ってくれるかどうかである。
どうやったら、Googleに勝てるか。どうやったらAmazonに勝てるか。Uberに勝てるか、トリップアドバイザーに勝てるか、Appleに勝てるか、
それが、企業の重要な課題である。
グローバル経済に取り込まれていく中で、どうイノベーションとマーケティングを行い、顧客と取引先に喜ばれるか。
それが企業にとってもっとも重要なことである。
でなければ、鎖国して自国の中で経済を回すしか選択肢はない。
だが、日本にとって鎖国を選択する、というのは今の生活水準を大きく落とす、という選択肢に他ならない。現実的にはそんな政策は支持されないだろう。
だから、「働き方改革」に対して、なぜ多くの企業人たちが白けているのか、理由は明白だ。
結局のところ「消費者」「取引先」が買ってくれるサービス、製品を作れるのであれば、どんな働き方であろうと問題はないからだ。
1日に1分だけ働けば成果が出るやり方があれば、企業は喜んでそれを推進するだろう。
ろくに会社に来なくとも、成果を上げてくれさえすれば、喜んで企業は「どこにいてもいいよ」というだろう。
ここを履き違えて、
「同一労働同一賃金」
「長時間労働の抑制」
といっても、「成果を追求する働き手」にとっては、片腹痛いという他はない。
その証拠に、「同一労働同一賃金」「長時間労働の抑制」などと言っている企業は、すでに多くの顧客を抱えて裕福な企業がほとんどである。
余裕があるから、「働き方改革」というバズワードを広報の一環として採用することができるのだ。
逆に、貧しい企業は「働き方の前に、国が企業活動の邪魔をしないでくれ」というだろう。
「働き方改革」は現在のところ、「公務員」「裕福な大企業」「収益性の高い金持ち企業」の道楽である。
********
あるIT業の経営者は「「働き方改革」って言っている会社と取引している会社は、今厳しいよ。」と言った。
「何故ですか?」と聴くと、彼は「しわ寄せが、下請けや取引先、協力会社に行くからさ。実際、社員の残業を減らすために、取引先に無理な要求をしている会社が最近多いんだよ。」と言った。
すでにお金と人材を有している、その企業が「長時間労働の抑制をしよう」ということ。
実はそれは、格差を拡大しているのである。
また、「長時間労働の抑制」をすれば、良い人材が集まる、という人もいるが、だが、私の知る実態は逆だ。
良い人材ほど、「メチャメチャ働きたい」と言う。
彼らにとっての問題は、労働時間の長さではない。裁量権である。自由にやらせろ、そしたら好きなだけ働けるし、成果も出してやる。
そう彼らは言う。
したがって、政権の言う「働き方改革」は、的外れである。
大衆に迎合しても、「働き方改革」は実を結ばないし、それを主導すべき人々にはメッセージが届かない。
本当に議論してほしいのは、
「重要なのは、従業員がどのような働き方をしたら、最も成果をあげることができるのか?」の他にはない。
その観点がほとんどすっぽり抜けているから、茶番に見えるのだ。
だから、「働き方改革」の議論は、「働き方をかえたら、本当に企業の業績が上がるのか?」について、データを元に厳密に検証しなければならない。
最近、長時間労働を罰するために、労基署が盛んに活動しているという。
だが、「働き方改革」の名のもとに、企業を規制するだけの世の中は、どうも居心地が悪い。
via http://blog.tinect.jp/?p=39735

◇キッズウィークよりも有給休暇の義務化をすることが先だと思う(by さぴこ)
プレミアムフライデーに続き、キッズウィーク導入という話が聞こえて来ました。
プレミアムフライデーってそんなのもあったね、なんて開始後3ヶ月で言われているように、プレミアムフライデーについては全く浸透しないままフェードアウトしそうな雰囲気です。
プレミアムフライデーは実験的な試みということでは一部の人だけ恩恵を受けたり、しわ寄せが来たりという状況でしたが、キッズウィークとなると話しは別。
何と言っても子供が巻き込まれてしまうのですから、プレミアムフライデーのように意味のないものにされては巻き込まれてしまう子供達が可哀想なことになってしまいます。
北海道の場合元々夏休みが長いわけではなく、夏と冬がほぼ同じ長さの休みとなっていますから、できれば北海道の短い夏を堪能できる夏休みをこれ以上減らしてほしくはないのですよ。

■そういえば有給の義務化ってどうなったの?
そういえば厚生労働省が年5日の有給休暇の取得を義務化するという話はどうなったのでしょう。
記憶ではすでに昨年の4月からなんていう話だったような気がするのですけど。
しかも政府は2020年までに有休取得率を70%まで引き上げるとかなんとか言っていたのですから、あと2年半しかないということを考えても一律5日なんていうケチくさいことは言わないで、まずは有給休暇の50%取得を義務化したらいいんじゃないですかね。
さぴこが会社員だった頃は妊娠するまではほとんど有給を取ったことはなく、2年を経過した際に毎年19日くらい消滅していました。
当時は周りもそんな感じで取得100%になるのは辞めるときくらいでしたね。
6年半同じ会社で働けば有給休暇も年に20日になりますから、有効期限が2年と定められているのでMAXは40日です。
もし有給休暇の50%の取得が義務付けられれば1年に5〜10日は必ず休暇を取って休まなければならなくなる計算になります。
10日取得できる休日があれば、キッズウィークに限らず子供の行事とかそう言ったところでも休みやすくなるのでは?
一応以前のニュースでは1年で5日の有給取得義務化については罰則規定もあるということだったので、会社としては休ませなければならないという方向に変わって行くと思いますけど。

■いっそのこと有給休暇の有効期限をなくしたら?
現在、有給休暇には時効があり、取得後2年で消滅してしまいます。
もし有効期限がなくなったとしたら、1年で最大20日の状態が10年あったとするとそれだけで200日になりますね。
有効期限をなくし、有給消化を義務化したとすると、もし退職によって権利を行使できなかった有給休暇を金銭的に清算する場合、有給の分だけでも9ヶ月近い月給分の支払いとなりますのでかなり大きいです。
しかも通常退職金がない、長期間フルタイムパートで有給を消化していない人にもまとまった金額、または長期有給の取得が可能となります。
こうなると企業側としては社員の有給管理をしなければ経営にも大きく影響を受けますから、閑散期の有給取得の促進や人員配置等を見直す必要が出て来ますよね。
今は企業側はほとんどが努力義務ばかりで理想論だけ先行し、大企業や公務員にしか適応されないことが多すぎる気がします。
なぜ日本人は祝日じゃないと休めないのか、それは企業側が社員を休ませることを前提とした人員配置をしていないからなんですもの。
社員には有給をとらせないといけない、そしてこれは罰則義務だよといえば会社もそうしていくはずなのに。

■サービス業の問題
親がサービス業に従事している場合、どうしても子供と休みを合わせるのは難しいです。
ダンナの両親はどちらもサービス業だったので、子供時代は親子で旅行に行った思い出はほとんどないと言っていました。
連休になると「稼ぎ時」のイメージがあるサービス業ですけど、もう日曜も祝日もいつでも便利なお店というのは少しづつ淘汰されて行くような気がします。
人口の減少で働き手が減ってしまう以上、サービス業も昔のように日曜日はお休みで営業時間も夜7時までのようににすることを考えなければいけないと思うのです。
さぴこが子供の頃は近所のお店も日曜日はどこも閉まっていて、営業時間も短かったんですよね。
もちろんコンビニもなかったですし。
今の便利な生活に慣れてしまうとちょっと考えられないところもありますけど、これからはそういう不便さも考えなければならないのかなと思ったり。
学校が休みなら親も休めるような社会にならなければ、キッズウィークなんて作ったって無駄なような気がしてなりません。

■まずは有給休暇を取りやすい世の中に!
日本人の国民性として祝日や休んでもいいよとされている日以外は休めないというものがあります。
周りも休まず働いているからとか、会社としても別に社員を休ませなきゃならない罰則義務もないんだからとか、そういう意識が多いために有休消化率を上げようとしてもなかなかうまくいかないのでしょう。
でも罰則規定にはとても敏感に反応するお国柄もあります。
本来は有給休暇の50%消化を会社に義務付けて、努力義務として5日以上の連続休暇を含む有給の70%消化とすると、年に1度はちょっと遠くまで旅行に行けるかもなんて思える世の中になるんですけどね。
子供がいると、一緒に旅行に行こうと思っても休めるタイミングがどうしても限られてしまい、そしてその時期は旅行代金も跳ね上がるようにできています。
最近は国際結婚も増えていて、周りにはドイツ人とフランス人の方と結婚した知人達がいますけど、どちらもバカンス時期には1ヶ月ほど日本に滞在しているんですよ。
子供達はどちらも日本を第二の故郷としているようで、夏のバカンスをとても楽しみにしているようです。
もし日本人も1ヶ月近くバカンスを取れるような世の中になったら、きっと世界が変わって見えるんでしょうね。
バカンス以前にまずは有給休暇問題が立ちはだかっていますから、まずはここから変えていかないと何も変わらないままでしょう。
via みんなたのしくすごせたら:http://sapic.hatenablog.com

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星野源 「人見知り」は言い訳だったと持論語る はてなブックマーク - 星野源 「人見知り」は言い訳だったと持論語る

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29日放送の「サワコの朝」(TBS系)で、星野源が「人見知り」に持論を語った。
番組では星野がゲスト出演し、音楽を始めたキッカケや、思春期のエピソード、恋愛観などを語った。その中で、昨年と一昨年のことを綴っている今年3月発売のエッセイ「いのちの車窓から」(KADOKAWA)にある一節を紹介。
星野は「数年前から、人見知りだと思うことをやめた」「そもそも人間が好きではないと思おうとしていたが、僕は人が、人と接することが大好きだったのだ」と綴っている。
20代のころの星野は「人見知りなんで」と、よく言っていたとか。「人見知り」という「便利な言葉」で言い訳し、コミュニケーションが苦手という事実から目をそらしていたと説明する。
しかし星野の場合は、本当は「人と話すことが好き」。それなのに「人見知り」と伝えることは「気を使ってください」と言っていることと同じであり、相手に「すっごい失礼」「何様なんだ」と感じるように。こうして、星野は「嫌われてもいいや」と歳を重ねるにつれ、思えるようになったそうだ。
via http://news.livedoor.com/article/detail/13000991/

・星野源さん、テレビ番組で「人見知り」についての持論を述べる
 https://togetter.com/li/1105672

・星野源 相手に自分のことを「人見知り」というのをやめた理由
 http://grapee.jp/327110

・星野源にタモリ!人見知りについて芸能人の名言が深い…
 https://matome.naver.jp/odai/2149372955197593201
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| オピニオン | 22:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味 (by 小暮聡子) はてなブックマーク - 【原爆投下】トルーマンの孫が語る謝罪と責任の意味 (by 小暮聡子)

<2016年5月27日にバラク・オバマ米大統領が広島を訪問するのに先立ち、本誌は原爆投下を決断した第33代大統領ハリー・トルーマンの孫、クリフトン・トルーマン・ダニエルを訪ねていた。2時間余りに及ぶインタビューの中で、ダニエルが率直に語った「祖父の決断」とその責任、そして、彼自身がヒロシマ・ナガサキの被爆者と交流を続ける理由とは>

 謝罪(apology)──バラク・オバマ米大統領の広島訪問を前に、日米両国でにわかにこの言葉への注目が高まっている。オバマは日本人に謝罪すべきなのか。日本国民は米大統領に謝罪を求めるのか。戦時中の行為をめぐる「謝罪」について、日本はこれまで他国から求められることはあっても、こと原爆に関してアメリカにそれを求める声は大きくなかった。
 では国家間の話ではなく、「当事者同士」という個人レベルの謝罪についてはどうなのか。日本には大勢の被爆者と、その血を受け継ぐ子孫たちがいる。一方、アメリカ側にも当事者はいる。その中心的な存在が原爆投下を決断し、指示した第33代大統領ハリー・トルーマンだ。
 トルーマンは72年に死去したが、その血を引く人物が近年、日本の被爆者と交流を続けている。クリフトン・トルーマン・ダニエル、58歳。彼の母親はトルーマン元大統領の一人娘で、ダニエル自身は娘と2人の息子の父親だ。
 戦後生まれのダニエル自身は、第二次大戦の「当事者」ではない。しかもアメリカでは今も原爆投下を正当化する声が根強い。にもかかわらず、彼はなぜ被爆者の体験をアメリカに伝える活動を続けているのか。祖父が下した決断と、どう向き合ってきたのか。それを知りたくて、今月14日、シカゴにあるダニエルの自宅を訪ねた。  閑静な住宅街にあるレンガ造りの一軒家。日本のように靴を脱いで上がったリビングで、元大統領の目鼻立ちをはっきりと受け継いだダニエルは2時間余り、片時も記者から視線をそらすことなくインタビューに答えてくれた。ダニエルの言葉を通して「謝罪」と「責任」の本質を探る――。

――オバマ大統領の広島訪問の話をする前にまず、おじいさんについて聞かせてください。トルーマン元大統領はあなたにとってどんなおじいさんでしたか。

 私にとっては普通の「おじいちゃん」だった。ヒロシマとナガサキについて話すとき、「おじいさんから話を聞いたか」とよく質問されるが、答えはノーだ。祖父は私が15歳のときに亡くなった。私たち兄弟はまだ子供で、祖父に会うのはクリスマスや感謝祭、春休みなど学校の長期休暇中だった。せっかくの休みに、歴史の授業が展開されるような質問はしたくなかった。
 そもそも私たち家族は祖父の大統領時代についてあまり話をしなかった。祖父母も私の両親も、私たち兄弟に「普通」の生活を送らせようとしていた。だから、私たちはハリー・トルーマンの家系に生まれたことを重大なこととは考えていなかった。
 私が原爆について学んだのは、一般の人と同じく歴史の教科書や先生を通してだ。アメリカ史を学び始めるのが9歳か10歳で、より総合的な歴史を学ぶのは高校に入ってからだ。

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(トルーマン元大統領と幼き日のダニエル、1959年)

――どのように教わったのですか。

 とてもシンプルだ。歴史の教科書は今も昔も、アメリカ史をすべて網羅しないといけない。分厚い教科書の中で原爆についての記述は1~2ページ。内容は原爆が投下された理由と犠牲者の数、キノコ雲の写真くらいのものだ。原爆の実態や具体的な被害、人々が受けた傷の深さについての記載は一切なく、原爆が戦争を終わらせた、日本とアメリカはトモダチになり、今はすべてがうまくいっているといった内容だった。私の印象もそのようなものだった。

――そんなあなたがなぜ、教科書以上のことを知るようになったのですか。

 まったくの偶然だった。94年、ノースカロライナ州でジャーナリストとして働いていたとき、ホームステイに来た17~18歳の日本人留学生の女の子が地元の人々に生け花を教えるというので、取材に出掛けた。彼女のホストファミリーは引退した地元の判事で、私の知り合いでもあった。
 彼女と生け花について20~30分話した後、判事が私に「あなたのおじいさんが誰だか彼女に話してある」と言ってきた。彼女は笑顔を浮かべて「素晴らしいですね」と言い、私は「ありがとう」と答えた。
 すると判事は彼女に向かって、「あなたのおじいさんについても話してあげなさい」と促した。彼女は非常に居心地が悪そうな表情を浮かべたまま答えなかった。彼女が何も言わないので、最終的には判事が口を開いた。「彼女のおじいさんはヒロシマで死んだ」と。
 私にとって、原爆の影響を直接的に受けた人やその家族に会ったのはそれが初めてだった。当時自分がどう思ったのかは覚えていないが、とにかく不意を突かれた。彼女が怒っているのではないか、と思ったかもしれない。でも彼女は笑顔を浮かべて「ありがとう」と言った。印象的だったのは、彼女が私の気持ちを心配しているように見えたことだ。判事が私たち2人を居心地悪くさせたことに、少し怒っているようにも見えた。
 私が彼女に伝えたのは、ただひとこと。大切な人を亡くした相手に誰もが言う言葉だ。「アイム・ソー・ソーリー」。国を代表して、あるいは祖父に代わって私が「謝る」という意味の「ソーリー」ではなく、「おじいさんを亡くされたことをとても残念に思います」という意味だ。
 その2日前、私はまったく別の体験をしていた。(連合軍勝利のきっかけとなった)ノルマンディー上陸作戦50周年を祝う式典に母と出席したときのことだ。アメリカの退役軍人2人が目に涙を浮かべていたので「どうしたのですか」と聞くと、「何でもない、何でもない。ただ、あなたのお母様に感謝しているのです。彼女のお父様が原爆を落とさなかったら、われわれは死んでいた。ここにはいなかったのだから」と言われた。
 私は数日のうちにアメリカの退役軍人と、ヒロシマで祖父を亡くした若い女の子の双方から話を聞いたわけだ。ずっと頭に残る経験だった。
 それから5年後、長男が学校からサダコの本を持ち帰ってきた(編集部注・広島で被爆して後遺症に苦しみながらも、回復を願って千羽鶴を折り続けた少女、佐々木禎子の実話)。学校の先生が読書の授業で読み聞かせてくれたという。長男はその本を気に入っていた。他の児童書のようなハッピーエンドではない本当の話だったから。私にとっても、これがヒロシマ、ナガサキに関するヒューマンストーリーに接した初めての体験となった。
 それまで私は長男に、曽祖父の決断について理解することが重要だと話したことはなかった。ヒロシマとナガサキが経験した被害を知ることが重要だと話したこともなかった。(サダコの本を読んでくれた)先生は子供たちに日本の歴史や文化について教え、日本食レストランや茶道教室に連れて行ってくれた。日本に関するさまざまなことをわが家に持ち込んでくれた。
 このエピソードを数人の日本人記者に話したところ、それを知ったサダコの兄の佐々木雅弘が04年か05年に「いつかお会いできますか」と電話してきた。会ってどうするかまでは考えなかったが、私は「イエス」と答えた。
 結局、私たちは10年にニューヨークで会った。雅弘と彼の息子の佐々木祐滋(ゆうじ)が禎子の折り鶴を9・11テロの追悼施設に寄贈したときだ。祐滋がプラスチックの箱から小さな鶴を取り出して私の手のひらに乗せ、「これは禎子が亡くなる前に最後に折った鶴です」と言った。そして、雅弘と祐滋は「広島と長崎の平和記念式典に来ることを検討していただけますか」と言った。
 私は「イエス」と答え、2年後に日本に向かった。長女は仕事のため行けなかったが、当時23歳だった長男と15歳の次男を連れて行った。これがすべての始まりだ。

――広島、長崎についてお子さんたちにどのように教えたのですか。
 彼らは既にその話に触れていたから、教える必要はなかった。長男はサダコの本を読み、歴史の授業を受けていた。広島と長崎に一緒に行き、翌13年には被爆者13人の証言を録画して伝えるために日本を再訪した。
 録画テープをハリー・トルーマン大統領図書館(ミズーリ州)のウェブサイトに掲載するために、被爆者の話に英語の字幕を付けようとしている。ドキュメンタリーや映画、テレビ番組などで使えるようにするためだ。

――サダコの本を読んだ当時、息子さんから何か質問をされましたか。

 長男は当時10歳だった。特に何も聞かれなかったが、私は「(原爆投下の)決断を下したのは、ひいおじいちゃんだ」と伝えた。その事実は知っていたはずだが、彼の中では(サダコの物語と曽祖父のことは)つながっていないようだった。まったく別の話として読んでいたから。

――それを聞いた息子さんの反応は?

 ......受け入れていた。彼はあの本を気に入っていたし、鶴を折るのが好きだった。日本が好きで、武道を習って育った。彼は単純にヒロシマ、ナガサキに興味を持っていた。

――それから17年がたちました。その間に息子さんから何か質問されたことは?

 聞いてくる必要はなかった。彼自身が(トルーマン元大統領について)本を読むなどしてきていたから。

――あなたに対して「おじいさんの決断をどう思うか」と聞いてきたことはないのですか。

(少し声を荒らげて)ノー! 息子と私は一緒に活動してきたようなものだ。私は被爆者に向かって、原爆投下は素晴らしい考えだったと言ったりはしない。しかし一方で、太平洋戦争を戦ったアメリカの退役軍人に対し、原爆投下が間違っていたと言うこともできない。私はその真ん中で身動きができなくなっており、息子も同じなのだと思う。私たちにとって、あの決断が正しかったかどうかという問いは、その後に相手の立場を理解することや、何が起きたかを伝えていくことの大切さに比べれば重要ではない。

――これはあくまで私の想像ですが、あなたはおそらく、祖父の決断が正しかったかどうかを知りたくなったのではないでしょうか。そして、その決断を正当化できるか否かを理解しようと努力してきたはずです。しかし、その結果たどり着いた結論を口に出したら、日本人とアメリカ人の双方に大きな影響を与えてしまう。だから言わないでいるのでは?

 話すことはできる。祖父が大統領時代に使っていたキーウェストの保養地で毎年学術会議が行われており、14年のテーマは原爆だった。伝統的な歴史学者は原爆は戦争を終結させ、日米双方の多くの命を救ったと主張する。一方、歴史修正主義者は日本は既に負けたも同然で、原爆投下はソ連を威嚇するためだったと言う。(主催側である)われわれは当初、両陣営を交えた議論を想定していたが、会議の議長はこの議論をするといつも怒鳴り合いになるだけだと吐露していた。
 それこそが、このテーマの問題点だと思う。どちらか一方の極端な主張だけを採用すると誰も前に進めず、ただ怒鳴り合うだけだ。だから私は、(原爆投下が正しかったかという問いに)関わらないことにしている。

――あなたは何らかの結論に達したのではないでしょうか。ここでその内容を話してもらわなくてもいいですが。

(ため息をついて)同じことを言うようだが、本当のところを知ることはできないと思う。現実として原爆は落とされたのだから。そして、戦争は終わった。仮に私の祖父が「原爆は使わない」と言っていたら、あれほど早く戦争が終結したかは分からない。おそらく、とか多分という話しかできない。
 原爆が戦争終結を早めたことを示す、私がみるところ説得力のある証拠はある。それは、その反対(原爆を使っても戦争終結の時期は変わらなかったこと)を示す証拠よりも説得力があると思う。
 ただ私がこう話すときも、日本人や広島と長崎の人々への敬意を忘れているわけではない。結果をてんびんに掛ければ、原爆が戦争終結を早めたという説のほうが有力に見えると言っているだけだ。それも、本当のところは誰にも分からない。

――それでも、後から振り返って、原爆投下が正当だったか否かという議論はあるのではないでしょうか。

 原爆という爆弾を使ったことを正当化できるかどうか、か。あれは戦争だった。(連合国でも枢軸国でも)人々は市民を攻撃する行為を正当化できると思っていた。当時行われたことのすべてについて、多くの「正当化」がなされた。原爆ほど残虐なものはないと言う人もいるが、残虐な行為はほかにもたくさんあった。東京大空襲で放射能の被害はなかったが、死者数は広島に匹敵する。どれも最悪の出来事であり、どれも正当化することはできない。

――広島と長崎への初訪問の前後で、原爆への見方は変わりましたか。

 変わっていない。そこに行ったとき、私は原爆が戦争を終結させたか否か、正当な行為だったか否かについて語ることをやめた。
 訪問の目的はただ1つ、被爆者の話を聞くことだった。亡くなった方々に敬意を表し、生存者の話を聞く。目的は癒やしと和解であり、原爆使用の是非を議論することではない。

――そもそもなぜ、2つの都市を訪れようと思ったのですか。

 祖父の行いを見たからだ。祖父は1947年にメキシコを公式訪問した際、その100年前の1847年にメキシコ対アメリカの戦争(米墨戦争)で亡くなったメキシコ人士官候補生6人の墓に花輪をささげた。アメリカ人記者が祖父に「なぜ敵をたたえるのか」と尋ねたら、祖父は「彼らに勇気があったからだ。勇気に国境は関係ない。勇気がある人なら、どこの国の人だろうがたたえるものだ」と答えた。
 同じようにヒロシマとナガサキでも、苦しみに耐えて体験を語る勇気は、国とは関係なくたたえられるべきものだ。
 ヒロシマとナガサキについて書き始めた私は、バランスに気を付け、米兵の体験についても語るようにしてきた。ある米海兵大尉は長崎への上陸計画に関わっていたが、計画を実行すれば日本軍の反撃に遭って仲間の多くを失うと思い悩んでいた。だから長崎に原爆が投下されて戦争が終結したとき、彼らは皆安堵した。
 しかし終戦直後に長崎に入った彼らは、破壊された光景を目の当たりにして大きな心的ダメージを受け、平静ではいられなかったという。これこそが人間的な反応だと思う。生き残ったことに安堵するが、ひとたび生き延びたら、相手に何が起きたかを知り、感情移入をする。そうあるべきだと思う。

――日本を訪問する前に、行くことが怖くなったりはしませんでしたか。

 ほかにもそう思っている人がいたが、怖くはなかった。ただ、私の訪問が日米双方で間違った形で受け止められないか、建設的で前向きな訪問にできるのかという点は心配だった。
 日本に到着してテレビ局のインタビューを受けた際、「謝罪をしに来たのか」と聞かれた。私は「いや違う。死者に敬意を表し、生存者の話を聞きに来た。謝罪が目的ではない」と答えた。その記者はとても攻撃的で、通訳が気分を害してインタビューを止めようとしたほどだった。
 そのとき、佐々木雅弘がこう切り返してくれた。「あなたがダニエル氏にヒロシマについて謝罪を求めるなら、ダニエル氏は真珠湾について謝罪を求めてもいいはずだ。だが、そこから何が生まれるのか」 
 スタートは悪かったが、その後の日本滞在は素晴らしく、メディアも好意的だった。私が会った被爆者は誰一人として謝罪を求めたり怒りを見せたりしなかった。被爆者たちは一般的に謝罪を求めていないと聞いている。彼らにとって、謝罪を受けることより重要なのは体験を伝えることなのかもしれない。核爆弾の恐ろしさを伝えて、二度と使われないようにするために。

――謝罪について問われて、「戦争を始めたのは日本じゃないか」と反論したくなったことは?

 ないない、私にはそうした怒りはない(笑)。ただ、祖父は言い返したことがある。確か1958年のテレビインタビューで、彼は原爆を使ったことに良心の呵責や戸惑いは一切ない、もしまた同じ状況に直面したら再び投下を決断するだろうと語った。これに広島市議会が激怒して、祖父に発言の撤回を求める手紙を送った。
 祖父は戦争に至る経緯を順序立てて説明する丁重な手紙を送り返し、もし日本が真珠湾を奇襲攻撃しなければ、これらすべてのことは必要なかったと結論付けた。祖父は「そっちが先に始めたんだろう」とやり返したわけだ。
 しかし、私はこうしたやり方が有益だとは思わない。私たちは当時を生きた当事者ではないからだ。戦争を経験していない世代のアメリカ人と日本人は、再び険悪な関係になりたいわけではない。だから「謝罪しに来たのか」と聞かれたら私は、あの戦争のすべての痛みを注意深く、公平に見ようではないかと答えるだろう。
(相手の行動の)理由を知ろうとすることも役に立つ。私は(真珠湾攻撃の際に日本の首相だった)東條英機のひ孫である東條英利とメールのやりとりをしている。私たちは昨年、オーストラリアのテレビ番組にそれぞれ遠隔地から出演したが、中立の立場を探そうとしている点で互いに共感できた。「そっちが先に始めたんだろう」と言い合うより、(過去の敵と味方が)一緒になって、当時何が起き、なぜあれほど険悪な関係に陥ったのかと考えるほうが有益だ。非難や怒りを差し挟まずに歴史の経緯を振り返る作業だ。

――今から言うことは、何かを非難することが目的ではありません。単なる質問だと思って聞いてください。あなたは今まで、日本人に対して罪の意識を持ったことはありますか。

 ノー。なぜなら、私はあの時代を生きた世代ではなく、戦争に直接関わっていないからだ。私が感じるのは「責任」という意識だ。物事を良くするために尽力する責任だ。

――過去に対する責任ではなく、未来に対する責任だと。

 過去の行為に対する責任ではなく、過去に背を向けずに人の役に立つという意味での責任だ。当時の人間でないから関係ない、というのではない。
 被爆者たちが素晴らしいのは、アメリカ人がこの問題に積極的に関わりやすいよう配慮してくれる点だ。彼らは怒りや非難の応酬を抜きにして接してくれる。とても礼儀正しく「あなたは知る必要がある」と言ってくる。「どんな体験だったか、知らなければならない。私が教えてあげよう」と。

――「知る必要がある」と言われて、非難されているように感じたことは?

 ない。一度もない。

――あなたはトルーマン元大統領自身ではありませんが、日本人は「トルーマンの孫」としてあなたに接するでしょう。「自分はあのトルーマンではない!」と叫びたくなったことは?

 ないよ(笑)。私は偶然、大統領の家系に生まれた。重荷になることもあるかもしれないが、それをできる限り建設的に使うべきだ。家族の名声を責任を持って生かしていくのが責務だ。

――こういう取材を受けるときにはトルーマンの孫として答えているのか、それともあなた自身の言葉として語っているのですか。

 2つのアイデンティティーがあると感じることはあるが、両者を切り離すのは難しい。常にトルーマンの孫として生きてきたから、それ以外の生き方を知らない。
 メディアの質問には両方の立場で答えている。孫として話すとき、例えば祖父はどんな人だったかと聞かれれば、いい人だったと答えられる。正直で単刀直入で、正しいことをやろうとする人。ヒロシマとナガサキで多くの犠牲者が出たことに非常に心を痛めていた。
 彼は、戦争を早く終結させてアメリカ人の命を救うために原爆投下は正しい判断だったと戦後も信じていたが、一方で犠牲者を悼んでいた。公の場で何度かそう語っている。

――元大統領は、娘であるあなたのお母さんには原爆のことを話していたのでしょうか。

 もちろんだ。母は戦時中にホワイトハウスに住んでおり、原爆が投下された当時、21歳だった。原爆投下はトップシークレットだったから、祖父はすべてが終わってからしか話せなかったが。母にとっては、原爆が戦争を終結させ、人々の命を救ったというシンプルな話だ。彼女はより大きな全体像を見ようとする人ではなかった。

――そのお母さんから原爆について話を聞かされたことはありますか。

 記憶にはないが、学校で原爆について教わったとき、母に「本当におじいちゃんがやったの?」と聞いただろうと思う。覚えていないが、母はきっと「もちろんよ」と即答したはずだ。
 母は8年前の08年に他界した。私が広島と長崎を訪問する前だ。彼女が生きていたら、何と言っただろう。私の訪日をすごく喜ぶかといえば、それは疑問だ。おそらく私は、なぜ日本に行くのか丁寧に説明しなければならなかっただろう。
 母は訪日を「謝罪」とか「弱腰」と呼ぶ人々と同じ考えだったかもしれない。祖父のたった1人の子供で、あらゆる面で祖父を擁護していた。私の活動について語り合うのは、互いに難しかっただろう。

――もしお母さんが生きていたら、聞いてみたいことは?

 特にないな(笑)。ただ、彼女を違う方向に後押しできたらいいとは思うかもしれない。少なくとも、ただ怒りを募らせるのではなく、事実を認識して共感する方向に。これはある意味シンプルなことで、ヒロシマとナガサキで起きたことを直視し、「ひどい! 自分には何ができるのか」と考えること。それだけのことだ。戦争は終わったし、終わってから71年もたつ。

――では逆に、子供や孫に伝えたいことは?

 あらゆる物語について、真実は常に中間にある。すべての物語はその人の視点で語られていて、必ず偏っている。語る人の生い立ち、両親、育った場所、仕事の内容などすべてが視点に影響するし、人は自分なりの見方があるとそれに固執するものだ。
 しかし私は、世界は信じられないほど複雑だということを知った。ものの捉え方は膨大にあり過ぎて、全部を網羅することは不可能だ。
 それでも、第二次大戦が起きるに至った歴史について、全体像を知るためにできる限りの努力をすべきだと思う。可能な限り多くの視点で物事を見るべきだと、私は子供たちに常に教えようとしている。偏見にとらわれるな。自分と違うからといって相手を嫌ったり無視したりするな。相手がなぜそう考えるのか理解できるよう努力しろ、と。
 私が付き合いにくいと感じるのは、極端な思想を持ち、それを少しも曲げようとしない人だ。原爆投下は誤った判断で、祖父は最悪だという見方もあれば、反対に日本人が戦争を始めたのだから当然の報いだという見方もあるが、どちらも同じくらい不愉快だ。その中間に立つ人々が、理解するのに苦しんでいるのだと思う。

――オバマ大統領の広島訪問についてどう思いますか。

 素晴らしいことだ。そう思わない理由がどこにあるのだろう。私はホワイトハウスに手紙を送り、広島と長崎訪問を促したことがある。訪問が難しければ、アメリカ国内で被爆者と面会すべきだと進言したこともある。
 オバマは09年(のプラハ演説で)、アメリカは原爆を使用した唯一の国として核兵器の削減や廃絶に主導的役割を果たすべきだと語っていた。だから私が12年に訪日した際、被爆者はオバマに来てほしいと言っていた。
 被爆者が望んでいるのは核廃絶だ。広島で亡くなった人々に敬意を示すのはもちろん立派な行為だが、オバマ大統領には少なくとも数人の被爆者に会って直接話を聞いてほしいと思う。

――とはいえ、オバマは原爆投下を命じた張本人ではありません。それでも彼が広島に行くことの意味とは?

 現職の大統領だからだ。ジミー・カーター元大統領も訪れているが、退任後だった。現職の米大統領が広島を訪れるのはこれが初めてとなる。原爆は今も存在しており、大きな政治課題だ。オバマなら、原爆は誰にとっても悪であり、アメリカが核廃絶を主導していくとの決意を語ることもできる。

――オバマが謝罪することはないでしょうが、もしも彼が原爆投下は間違っていたと述べたら、あなたはどう思うでしょう?

 そんなことは言わないだろう。これは私の想像でしかないが、もしそう言ったとしても、一部の日本人は喜ぶかもしれないが、多くは喜ばないと思う。私の感覚では、それはすべての日本人が望んでいることではない。
 それに、原爆投下は過ちだったと口にすれば、大半のアメリカ人は激怒するだろう。繰り返しになるが、謝罪は求められてはいないのだと思う。求められているのは、何があったのかを正直に認めることだ。
 私なら被爆者にこう言える。祖父は戦争を早期に終結させ、アメリカ人の命を救うことを最優先にして原爆投下を決断した。彼は日本人の命も救いたいと願ってはいたが、優先的に考えたのは自国民の命だ。
 私は祖父を敬愛している。だが一方で私には、その決断によってひどく傷つけられた友人たちがいて、彼らのことも敬愛している。被爆者たちは、祖父の決断によって大きく、大きく傷つけられた。
 オバマ大統領はこういう言い方もできるかもしれない。アメリカはすべきと思うことをやった。だが、それがもたらした傷についても認めないといけない。
 同じように、日本人も連合軍の戦争捕虜の扱いをめぐる問題を認めるのに苦労してきた。誰も悪者にはなりたくないし、なる必要もない。私は日本人が(アメリカ人の)戦争捕虜を傷つけた嫌な国民だなんて決して思わない。戦争捕虜を苦しめた日本人もいたが、それは日本人全員ではない。日本人を集合体として語ることはできない。

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(ダニエルの自宅に飾られた折り鶴 2016.05、シカゴ)

――原爆について、日本側の物語を知らなければよかったと思ったことはありますか。

 ノー、ノー! なかなか話す機会がないのだが、日本に行ったとき、成田空港から宿泊先の品川に向かう電車の中でものすごく興奮したんだ。「日本にいるんだ! すごい!!」と。窓の外には田んぼと家屋が見えた。私は『鉄腕アトム』のような日本のアニメを見て育ち、大人になるにつれてさらに多くの日本のものがアメリカに入ってきた。息子と一緒に宮崎駿監督の映画も見た。だから日本に着いたときは、「素晴らしい!」とうれしくなった。
 まじめな目的で訪日していたから注意が必要だったが、実際には心からうれしかった。日本でスシを食べる、広島でお好み焼きを食べる、サケを飲む。最高だった。いつも話から漏れてしまうが、私たちは日本の食べ物も文化も大好きだ。
 それに、私には佐々木雅弘や祐滋という友人がいる。彼らと一緒にいるとつい笑いそうになって、テレビカメラの前で真剣に見えるよう気を付ける必要さえあった。最高の瞬間だった。
 いつか単なる観光客として日本に行きたい。これまでは観光する機会がなかったから、今度はちゃんと観光がしたい。2度目の訪日で最もよかったのは、私と息子、知人の長崎在住のアメリカ人の3人だけで過ごした夜。うどんを食べた後、息子と知人は買い物に出掛け、私は1人でホテルに歩いて戻った。ぶらぶらと、周りを見ながら。いつかまた、日本に行きたい。

* * *

 インタビューを終えると、「また近々お会いしましょう」と言ってダニエルと別れた。玄関の外まで見送りに出てくれた彼と握手をし、日本式に互いに一礼をして笑顔で手を振り合った。
 繰り返しになるが、ダニエルはトルーマン元大統領その人ではない。それを知っていながら心の内を問いただすような質問をぶつけたのは、それらの問いがすべて、私自身が祖父の過去をめぐって長年、自分に問い掛けてきた疑問だったからだ。
 私の亡き祖父は戦時中、岩手県釜石市にある連合軍捕虜収容所の所長を務めていた。終戦後、祖父はアメリカ率いる連合軍に「戦争犯罪人」として裁かれ、収容所での管理責任などを問われてB級戦犯となった。
 私は今から20年前の高校時代に祖父が書いた戦争体験記を読み、「教科書以上」の歴史に初めて触れた。まさに、ダニエルにとってサダコの本がそうであったように。
 戦後30年が過ぎた頃、祖父は釜石の収容所にいたオランダ人の元捕虜と文通を始め、収容所での生活を振り返ったり家族の様子を伝え合うなど友好関係を築いていた。巣鴨プリズンを出所した後に記者になった祖父は、手記の中で自分は捕虜を守るためにできる限り尽力したと固く信じていた。孫である私も、7歳のときに他界した「優しいおじいちゃん」を敬愛していた。
 その一方で私は、なぜ祖父が戦犯として裁かれたのかが知りたくなった。答えを求めて大学時代にアメリカに留学すると、それまで知らなかったアメリカ側の物語が目の前に広がった。
 祖父の収容所にいた人を探してアメリカの元捕虜が集まる戦友会に参加すると、祖父を直接知らない人から「元捕虜収容所長の孫」という理由で冷たい視線を向けられ、中には怒りをぶつけてくる人もいた。国際政治の授業で原爆のキノコ雲の映像を見た際には、一部の学生から拍手喝采が上がった。
 まだ大学生だった私は、「私は祖父本人でもなければ、戦争を体験してもいないのに」と何度言いたくなったか分からない。「そっちだって原爆を落としたのに、その罪を認めようとしないじゃないか」という言葉が喉元まで出かかったこともあった。

■過去ではなく、未来に対する責任
 一方で元捕虜たちの体験を聞くと、なぜ彼らが原爆を正当化するのか、その理由が見えてきた。日本軍が捕らえた連合軍捕虜はいわゆる「地獄船」で日本に送られ、国内各地の収容所で強制労働に就かされた。そのうち約3500人が飢えや病、事故や虐待、連合軍による爆撃などで終戦を迎える前に死亡している。
 日本国内で捕らえられていた元捕虜たちは、口をそろえてこう語る。「アメリカ軍が日本に上陸したら、自分たちは日本軍に皆殺しにされると聞かされていた。原爆が私の命を救ってくれた」。原爆使用の是非はさておき、「原爆のおかげで生き延びられた」という認識は、彼らにとっては1つの真実だ。
 これまでに数十人の元捕虜やその家族に接するなかで、私が謝罪を求められたことは一度もない。今では、祖父の収容所にいた元アメリカ人捕虜(94)とその娘たちが家族ぐるみの付き合いをしてくれている。
 ダニエルは何度も「empathy /エンパシー(共感)」という言葉を使っていたが、私が元捕虜から常に受ける印象は「聞いてほしい、そして伝えてほしい」ということだ。ダニエルはインタビューの中で、被爆者の中には本当は今も怒りを抱いている人もいるのだろうと遠慮気味に口にした。アメリカで原爆正当化論は根強いが、少なくとも彼は被爆者の心情を理解しようとしている。翻って日本人は、アメリカがなぜ原爆投下を正当化するのかを十分に考えてきたと言えるだろうか。
 過去ではなく未来に対する責任。ダニエルは今、広島で被爆した日本の友人をモデルにした絵本を制作している。サダコの本からインスピレーションを得た英語の本だ。挿絵を描いたのは、サダコの本に出合わせてくれた長男。これが彼が「エンパシー」の先に見いだした1つの答えなのだろう。
via http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/08/post-5611.php
http://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2016/08/post-5612.php

・クリフトン・トルーマン・ダニエル :Wikipedia
・ハリー・S・トルーマン :Wikipedia

・原爆投下前と投下後の広島
14b08b32-horz

◆8月6日、広島。「はだしのゲン」の原画が、原爆の悲劇を語りかけてくる
https://www.buzzfeed.com/mamikonakano/how-barefoot-gen-saw-hiroshima?utm_term=.bjPJyKKea#.ahgqlGGw1

51Z8IyUJueL[1]

不朽の反戦マンガ「はだしのゲン」 :汐文社
・はだしのゲン: Wikipedia
・中沢啓治 : Wikipedia

・なぜ慰霊碑の向こうに原爆ドームが見えるのか? 世界的巨匠:丹下健三が託した思い

Cenotaph_Hiroshima[1]

https://www.buzzfeed.com/satoruishido/kenzo-tange-hiroshima?utm_term=.uuOK1RRkB#.ou8QeLLaZ

sub-buzz-16705-1464259313-1[1]

・世界の原爆理解と報道――救世主、天罰、無差別虐殺・戦争犯罪
http://www.huffingtonpost.jp/yasuhiro-inoue/hiorshima-war_b_11360562.html

◆Bombing Hiroshima changed the world, but it didn't end WWII (by Oliver Stone and Peter Kuznick)
http://www.latimes.com/opinion/op-ed/la-oe-stone-kuznick-hiroshima-obama-20160524-snap-story.html

・米国「俺達が教わった歴史は嘘だった」 原爆投下の真実にアメリカ人から様々な声
今回は、オリバー・ストーン氏とピーター・カズニック氏が、
共同でロサンゼルス・タイムズ紙に寄稿した、
「広島への原爆投下は世界を変えたが、戦争を終結させてはいない」
というタイトルの記事からです。

早速ですが、以下が記事の要点になります。
・ほとんどのアメリカ人は、原爆投下が戦争を終わらせたため、
 原爆を使用したことは正当であったと教えられてきた。
 この誤った主張は、今でも高校の歴史教科書に記載されている。


・トルーマン大統領は、広島への原爆投下に狂喜し、
 「アメリカの歴史上最も偉大な瞬間だ」と口にした。
 しかし、米軍の指導者たちは、彼の熱狂を共有しなかった。


・ドワイト・アイゼンハワー元大統領、ダグラス・マッカーサー元帥など、
 当時の8人の元帥のうち7人が、原爆投下は軍事的に不要であったし、
 人道的に非難されるべきものであったと主張している。


・合衆国陸海軍最高司令官(大統領)付参謀長だったリーヒ氏は回顧録に、
「日本は既に敗北を悟り、降伏する準備ができていた。
 この野蛮な爆弾を投下した事は無意味であった」と記している。
 マッカーサー氏はフーバー元大統領に対して、
 「皇室の維持を認めれば、日本は進んで降伏する事になる」と進言していた。


・太平洋戦を終わらせたのは広島と長崎への原爆投下ではない。
 日本を降伏へと動かしたのは、1945年8月8日深夜に始まった、 
 ソ連軍の満州やその他の日本の植民地への侵攻である。


・残虐で非人道的であった両都市への原爆の投下は、
 即時降伏に関して、日本の首脳部の決断に大きな影響を与えなかった。
 既にアメリカは日本の100以上の都市を破壊していたのだ。


・河辺虎四郎中将は後に米国の尋問に対してこう語った。
 「広島や長崎の惨状が知れ渡るようになるのには時間を要した。
  しかし、ソ連の参戦は、即座に大きな衝撃を与えた」


・鈴木貫太郎元首相は、日本が即時降伏せざるを得なかった理由として、
 「ソ連が満州、朝鮮、樺太だけでなく、北海道にも来るだろう。
  そうなれば日本の根本を壊すことになってしまう。
  アメリカと交渉出来るうちに話をまとめなければならない」と語った。
 日本の上層部はまた、皇室の存続という日本の最優先事項に関して、
 ソ連が厳しい対応をしてくることを知っており、それを恐れていた。


・ソ連の侵攻により日本の敗戦が決定的になることを、
 連合国側の諜報機関は上層部に報告していた。
 トルーマンもそのことを理解していたが、なお原爆の投下を決断した。

・・・
via http://kaigainohannoublog.blog55.fc2.com/blog-entry-2022.html

・広島原爆の日に (by 小名木善行)
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2724.html#more

・原爆投下から2年後の広島の姿 平和への願いを込めて鐘を鳴らす




8月6日、世界で初めて原子爆弾が落とされた日。そして、初めて広島の地に『平和の鐘』が鳴り響いた日でもあります。
広島市の9割以上の建物を焼き尽くした原爆。
それから2年後の1947年8月6日、現在も行われている『平和記念式典』の前身となる『平和祭』が、原爆ドーム対岸の平和広場で執り行われ、鎮魂そして平和への願いを込めた鐘の音が鳴り響きました。
平和祭には、多くの市民が集まり、犠牲者の方々を弔いました。
そして、その中にはアメリカ陸軍元帥のダグラス・マッカーサーの姿も。
動画にも映っている『平和の鐘』は、当時の人々が抱いていた「平和への願い」を込めて、今も鳴らされています。「過去の過ちを繰り返さない」その決意を、この鐘は次世代にも送り続けているのです。
via http://grapee.jp/208544
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松田優作、力道山…日本の芸能・スポーツ界を支える「在日」が出自を隠す理由と苦悩-知られざる在日コリアンの実像-(by朴一) はてなブックマーク - 松田優作、力道山…日本の芸能・スポーツ界を支える「在日」が出自を隠す理由と苦悩-知られざる在日コリアンの実像-(by朴一)

「日本のプロ野球の一線で活躍するほとんどが韓国人って話もある」—元阪神の桧山選手はさらりと言う。在日3世の識者が、戦後日本を熱くしたコリアンスターたちの知られざる実像を語り尽くす。

■「タブーなき芸人」のタブー
歯に衣着せぬ発言で関西を中心にカリスマ的な人気を誇った故・やしきたかじんと私は、10年来の友人でした。しかし私は、彼のルーツが私同様朝鮮半島にあるのを知りながら、生前、直接彼に生い立ちについて尋ねることは、ついにできませんでした。
「怖いもの知らずのはちゃめちゃ芸人」として天皇制や部落問題、暴力団や右翼などのタブーに果敢に取り組んだ彼でさえ、自らが「在日コリアン」とカミングアウトすることはなかったのです。ところが死後、彼の出自や生い立ちに触れた本が立て続けに刊行され、世の人々の知るところとなりました。
素顔の彼はきわめて繊細で、ナイーブな性格でした。「やしきたかじん」というタレントのイメージを大切にしていたのです。そんな彼が自らの出自を知られるのを恐れたことは、私には痛いほどわかります。
いまでこそ本名を名乗る在日コリアンを採用する日本企業が増えてきました。芸能界やスポーツ界でも、堂々と民族名(コリアンネーム)を名乗る人が増えています。サッカー日本代表で活躍した李忠成、タレントのソニン、料理評論家のコウケンテツ、モデルのアンミカら、現在30代くらいの在日3世、4世たち。NHKの朝ドラ『マッサン』でおなじみの玉山鉄二も、清々しくカミングアウトしています。
しかしその一方で、在特会によるヘイトスピーチにも表れるように、日本社会における在日コリアンへの「まなざし」はまだまだ温かいとは言い切れません。

私が『僕たちのヒーローはみんな在日だった』(講談社+α文庫)を著したのは、日本社会における、私たち在日コリアンへの「まなざし」の変化の可能性を探ることで、本当の意味で在日の人たちが日本を韓国とともに祖国として受け止めることができる時代が来ることを切に願うからにほかなりません。

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私はいまから三十数年前に京都の同志社大学を卒業しましたが、同じサークルにいた数十人の在日コリアンのなかで、日本企業に就職できたのは2人だけでした。高度成長期の当時、私たち在日2世、3世が日本企業に就職するのは決して簡単ではなかったのです。
そんな中、容貌が優れていたり、実力さえあればのし上がれる芸能界やスポーツ界は、在日コリアンにとって打ってつけの就職先だったのです。
そうはいっても、やはり「人気に影響するから」との理由から、所属するプロダクションは在日という出自をタブー視する傾向があり、それは実はいまも続いています。

■隠さなければならない理由
私が大学生のころ、夢中になった女優が松坂慶子でした。同世代で、妖艶なバニー姿の『愛の水中花』に魅了された男はあまりにも多いことでしょう。その当時、居酒屋で飲んでいると、たまたま『愛の水中花』が流れてきたのですが、同席していた友人が、こんなことを口走ったのです。
「松坂慶子、たまらんなあ。在日ちゃうんかな、あの顔はもろ在日やで」
私はこの友人のヨタ話のような酔言を「ほんまかいな」と聞きつつ、少なからず動揺してしまいました。憧れのあの松坂慶子が自分と同じ在日?そうであってほしいという気持ちとそんなはずはないという気持ちが入り混じっていたのです。
ところが後に、この友人のヨタ話が事実であることが判明しました。松坂慶子の両親が著書『娘松坂慶子への「遺言」』(光文社)を刊行し、父が戦前、15歳のときに釜山から渡ってきた在日コリアンであったことを明らかにしたのです。
父の本名は韓英明といい、長崎の高島炭鉱、福岡の筑豊炭鉱で働きました。筑豊炭鉱は、松坂慶子が体当たりの演技を見せた『青春の門』の舞台です。その後、紆余曲折の後に日本人の妻と出会い、娘を非嫡出子として妻の戸籍に入れて、松坂慶子は日本籍となって、女優としての才能を開花させていったのです。

スポーツ界に目を向けてみれば、誰もがその名を知るのは力道山でしょう。
1940年に朝鮮半島から力士となるために渡ってきたシルム(朝鮮相撲)の選手でした。民族名は金信洛。二所ノ関部屋から初土俵を踏み、十場所で関取まで昇格、「横綱間違いなし」と見られながら1950年に突如引退してしまいます。この当時、朝鮮半島出身の力士は多く、力道山以後も、元横綱・玉の海('71年没)をはじめ、多くの在日力士が活躍し、日本の大相撲の発展に寄与したのです。
力道山は1953年に日本プロレス協会を設立します。そして空手チョップでアメリカレスラーを仕留める雄姿が、普及し始めたテレビで全国に流され、力道山は国民的英雄になったことはご承知の通りです。
しかし力道山は、自らの朝鮮半島出身という出自を隠し続けました。最初は角界での出世の妨げになるのを恐れてのことでしたが、結局は力士を引退後の'51年に、後見人を頼って日本国籍を得ます。そして、レスラーとして国民の喝采を浴びる中、自分が朝鮮半島出身であることが世に知られて「日本のヒーロー」から転落することを恐れたのです。
こうした力道山の姿勢に、同じ在日コリアンで、現在もプロ野球界のご意見番として喝を飛ばす、ハリさんこと張本勲氏は、力道山を慕う立場から、堂々と出自を公言すべきと進言したことがあります。しかし、「お前に何がわかる!」と大喝され、力道山の苦労も知らずに思慮分別に欠けたことを言った、差別の根深さを思い知ったと悔恨しています。
そんな力道山でしたが、皮肉なことに、日本の国の事情のために母国の地を踏むことを余儀なくされていくのです。1960年ごろ、難航する日韓国交正常化交渉の切り札として、結婚式の仲人を務めた大野伴睦自民党副総裁、興行で世話になっていた山口組の田岡一雄三代目組長ら有力者から極秘訪韓を強く要請されました。
1963年、ついに力道山は日本のマスコミにはまったく知らされないまま祖国の地を踏み、国賓待遇で迎えられました。韓国政府高官らと折衝を重ね、1965年の日韓国交正常化の礎を築いたのです。
二つの祖国に葛藤する在日が、その2国を結びつける役割を果たしたのです。
このとき、力道山は韓国にいた親類に再会しましたが、本当に彼が会いたかったのは、北朝鮮に住んでいた両親と兄でした。彼は板門店の38度線に立ち、やおらシャツを脱ぎ捨て、鍛え抜かれた上半身を晒しながら、
「オモニー(母さん)。ヒョンニーム(兄さん)」
と哀切に叫んだといいます。

■体も負けん気も強い
プロ野球界に目を転じれば、先に挙げた張本勲氏をはじめ、400勝の金田正一投手、ミスターロッテの有藤道世氏、広島の名捕手・達川光男氏、南海や近鉄で活躍した新井宏昌氏など、こちらも多くの在日スターがいました。
いまの球界でも在日スターは多く活躍しています。今季、広島の4番に返り咲いた新井貴浩選手は、高校生のとき、韓国の全国大会で活躍しました。長らく阪神で代打の神様と崇められた桧山進次郎選手は、2004年、韓国系の『統一日報』のインタビューに、こう答えています。
「日本のプロ野球には帰化している選手も含め韓国人は多い。一線で活躍している人のほとんどが韓国人って話もある。食生活の違いもあって、体がもともと強いって事情もあるんですかね。そのうえ負けん気も強い」
在日選手がその出自で葛藤に苦しむのは、オリンピックや日本代表となったときです。2006年、第1回WBC(ワールドベースボールクラシック)の侍ジャパンメンバーには3人の在日がいました。
その一人、金城龍彦選手(昨年、巨人で引退)は2000年に帰化していましたが、第1ラウンド、第2ラウンド、準決勝と、都合3回も、もう一つの祖国、韓国と対戦することになり、しかも第1、第2ラウンドでは連敗。準決勝の前には、「韓国のスパイ」「わざと打たなかった」など、心無い誹謗中傷がファンサイトに書き込まれてしまいました。心苦しかった胸中は察するに余りあります。
結果、準決勝ではついに日本が韓国を破り、そのまま初代優勝を手に入れるわけですが、金城選手は大会後の朝日新聞のインタビューで、
「日本代表の一人として世界の舞台で戦えることがうれしかった」
と語りつつ、
「血はやっぱり韓国人だから」
と複雑な心中を明かしています。

芸能界における在日の最大のヒーローは誰でしょうか。私は1970年代、一世を風靡した松田優作を迷わず挙げます。
「太陽にほえろ!」のジーパン刑事、「探偵物語」のクールでニヒルな姿はいまも多くのファンに愛されています。優作はどこか陰のある役がよくハマる傾向がありましたが、それは彼の出自によるものだった可能性は大いにあります。
彼のルーツがはじめて公表されたのは、死から十年後、未亡人の松田美由紀がファンクラブの会報で明かしたのです。
優作は下関の遊郭で生まれ、非嫡出子であったことなどは、とくにてらいもなく明かしていました。しかし、自らが「金優作」であったことは、死ぬまで隠し通してきたのです。在日であることが知れたら、ファンは夢を裏切られた気持ちになる、という優作の悲痛な文章も残されています。

■カミングアウトする新世代
在日のスターで、はじめてカミングアウトをしたのは、演歌歌手の都はるみでしょう。1969年、人気絶頂だったはるみの半生について母が語る『週刊平凡』の特集が組まれたのです。
周囲はその中で触れられたはるみの出自について異様な関心を寄せるようになります。そして7年後、『北の宿から』が日本レコード大賞の候補になると、「日本人じゃないのに、なんでやるんだ」といった悪意が一部のマスコミから発せられました。
このとき「いじめられてもがんばりなさいよ」と優しい声をかけたのは、かの美空ひばりです。都はるみはこのことを、
「同じような問題をかかえていたかどうかわからないが、励みになった」(『サンデー毎日』)
と、意味深に語ります。
日本の芸能・スポーツ界はじめ各界で活躍してきた在日コリアンたちの生き様とパワーの源、そして苦悩。この著者だからこそ書ける、戦後の在日コリアンの深層。
美空ひばりが在日という説もあり、先に述べた金田正一氏を「オッパ(兄という意味の韓国語)」と呼んだエピソードなどが伝えられています。
特に韓国では常識のように報じられるのですが、日本の保守系メディアからは「ひばりが韓国人なんて大嘘」という声もしばしば上がるのです。
事の真偽はともかく、日本人の中に「美空ひばりが在日であってほしくない」という感情を持つ人が少なからず存在することは確かです。そうした事実が、いまだに在日芸能人がルーツを明かせずに葛藤する背景となっているのは間違いありません。
いま、芸能人で誰からも恐れられ、一目置かれるのが和田アキ子です。そんな彼女ですら、長らく自らが在日であることを秘してきたのですが、2005年、『週刊文春』に対して、役所で思いもかけず自らが「日本人ではない」と知ったことなどを明かしました。たかじんとは違い、彼女はカミングアウトの道を選んだのです。

いまを生きる在日の新世代は、自らの存在にアイデンティティを持ち、本名や出自を明かして活躍しはじめています。そんな彼ら、そして戦後日本を支えてきた在日のヒーローたちに、日本社会が改めて温かい視線を向けていただきたいと、私は心から思うのです。[2016.05.03]
via http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48555

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日本ではなぜ安全保障政策論議が不在なのか (by 細谷雄一) はてなブックマーク - 日本ではなぜ安全保障政策論議が不在なのか (by 細谷雄一)

 1992年に国際平和協力法が成立して、日本が国連平和維持活動に参加しようとしていたときに、多くのメディアと野党がそれを可決しようとする政府を激しく批判して、罵倒していた。また街中には反対派のデモが溢れていた。さらには、内戦後のカンボジアに平和と安定をもたらそうと国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)が活動する中で、日本政府もそこに協力するために自衛隊を派遣しようとした際にも、激しい批判が渦巻いていた。そこで主張されていたのは、これらによって戦後日本の平和国家としての理念が失われるということであり、戦前の軍国主義に回帰するということであった。また民意を無視した政府の強行採決が、民主主義を破壊するということだった。自衛隊のカンボジア派遣が、戦争への道へと必然的につながると懸念されていた。
 ところが、そのような批判を行い、デモを行う者が、実際のユーゴスラビア和平や、カンボジア和平の交渉の経緯に精通していることは稀であった。はたして、ユーゴスラビア和平へ向けたNATOやEU、あるいはアメリカ政府の取り組みにどのような問題点があり、日本政府がどのような提案をして、どのような役割を担うべきか。具体的な提案は、ほとんどなされていなかった。
 在日米軍と自衛隊によって守られた平和な日本で、安全が確保された状態で、大きな声で平和を叫んでいても、スレブレニッツァやルワンダの虐殺で失われた命が戻るわけではない。また、それ以後にコソボやシエラレオネの内戦で殺される人々の命を守ることにも役立たない。平和な日本で平和を叫ぶよりも、まず実際に起きている虐殺や紛争を止めるための具体的で実現可能な提案をする方が、優先されるべきではないだろうか。そのためにはまず、世界で何が起きているかを知り、国際情勢の現実に精通して、国際会議で実際に行われている交渉や議論について熟知することが重要ではないのか。
 これほどまでに抽象的な平和を説くことに熱心で、これほどまでに他国の平和を実現することに無関心な国民も世界ではほかにいないのではないか。今、官邸や国会の周辺で安保法制案に反対する人々は、実際に戦闘が行われているウクライナ東部や、「イスラム国」の攻撃を受けているシリアにおいて、具体的にどのような措置を執ることで戦闘が終わるのか提案をすることを、なぜしないのだろうか。国際社会でそれらの安全保障問題についてどのような討議が行われて、欧米諸国の政府の間でどのような協議が行われているのか、なぜ学ぼうとしないのだろうか。自分たちが戦争に巻き込まれるのはいやだけれども、他国民の命がどれだけ失われても自分たちには関係がないと考えているのだろうか。
 戦争を憎み、平和を愛する点において、私は安保法制案に反対してデモをする人々と理念を共有している。しかしながら、平和を実現するためにどのような措置を執るべきかについて、そしてどのような安全保障政策を選ぶべきかというアプローチにおいて、私はおそらく異なる考えを持っている。私は平和を破壊して、他国を侵略する行為に対して、自国民の生命を守るために自衛的措置を執ることは必要だと考えているし、それは個別的であっても集団的であっても同様であると考えている。また、そのような侵略行為に対して、国際社会が国連憲章第7章に基づいて軍事的強制措置を執り、平和を回復しようとすることを必要なことと考えており、日本がそれに協力することも必要だと考えている。
 安保法制に反対する人々の一部は、軍事的な手段を嫌い、それゆえに日米同盟を解消して、自衛隊を廃棄することが望ましいと主張している。そして、国連憲章51条で保証されている個別的および集団的自衛権を「悪」として考えて、また国連憲章第7章で規定されている「平和に対する脅威、平和の破壊及び侵略行為に関する行動」としての軍事的強制措置を、拒絶している。あらゆる紛争が、対話のみで解決可能と考えているからだ。それは、現実に紛争が溢れている世界において、平和を維持するために世界各地にPKO部隊を派遣している多くの諸国に共有される正義とはいえない。
 今回の安保法制案をめぐる議論で、もっぱら抽象的な平和主義ばかりが聞こえて、具体的な政府案に変わる望ましい安全保障政策の具体像がほとんど見られないことは、不幸なことである。政府案が常に正しいわけではない。だからこそ、それに替わる選択肢を示すことが必要なのだ。
 他国が侵略をされて、日本政府へと救援を求めてもそれを無視すること。国際社会が結束して侵略行為を阻止しようと行動をとるときにそこから離れていること。それは本当に、日本国憲法がそもそも想定していた理想なのであろうか。自国の安全以外にまったく関心を持とうとせず、国際社会で侵略行為がなされていてもそれを傍観するエゴイズムとシニシズムは、実は戦前の日本国民が抱いていた国防観とおどろくほど似たものであることに気づいてほしい。
via http://www.newsweekjapan.jp/hosoya/2015/07/post.php

◇なぜ今この国に安全保障関連法案が必要なのか
 http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/20150806/1438836735

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