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なぜNHK「まんぷく」は、安藤百福の“台湾ルーツ”を隠したのか はてなブックマーク - なぜNHK「まんぷく」は、安藤百福の“台湾ルーツ”を隠したのか

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日清食品創業者の安藤百福(1910-2007)と、その妻・仁子をモデルにしたNHK連続テレビ小説「まんぷく」が好調だ。視聴率は放送開始1ヶ月以上を経ても、20%超をキープする。インスタントラーメンという国民食への視聴者の関心の高さを感じさせるが、物語には、一切触れられていないことがある。
それは安藤百福が台湾出身者であるという来歴である。なぜ台湾というルーツが消されたのか。安藤とはいかなる人物だったのか。『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』著者の野嶋剛氏が台湾の故郷への現地取材を行うと意外な事実が次々と明らかになった。

■国籍と即席麺
放送が始まったのが今年10月。私もほとんど欠かさず見ており、戦前戦後の厳しい社会環境でたくましく支え合う2人の夫婦愛に時には心を揺さぶられ、時にはハラハラしながら引き込まれている。現在までの視聴率もなかなか好調なようである。
このドラマでは、安藤は日本人として描かれている。しかし、実際のところ、安藤は台湾人の両親のもとに生まれ、台湾で教育を受け、台湾でビジネスをスタートさせ、成人してから日本に拠点を移している。日本国籍を正式に取得したのも、即席麺ビジネスが軌道に乗った後だった。
事実関係からいえば、安藤は、台湾出身の華僑(または華人)である。ところが、その台湾要素がドラマからは綺麗さっぱり抜け落ちているのだ。
筆者は、台湾出身者の日本での活躍を描いたノンフィクション『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』(小学館)を今年6月に刊行し、その中で、安藤についても一定のページを割いて取り上げている。そのこともあって、「まんぷく」で安藤の台湾ルーツが触れられていないことには、いささか違和感を感じないではいられなかった。

■曖昧にするしかなかった理由
安藤のバックグラウンドについて、10月に放送された「まんぷく」第8回のなかで、安藤役の主人公の萬平(長谷川博己)が、妻の仁子役である福子(安藤サクラ)に語りかけるシーンがある。このドラマではしばしばラーメンを食べるシーンがでてくるが、2人の初デートでもラーメンを食べながら、萬平は自分の過去をこう語った。
「父親はものごごろつく前に、母親はそのすぐ後に亡くなりました。ぼくは兄弟がいなかったから、一人で親戚の家を転々としたんです。ぼくは自分が迷惑をかけるのが嫌だったから18歳で働き始めたんです。修理屋でね。そのうちカメラでも時計でも大概のものは直せるようになって、25歳で大阪に来ました」(福子の相槌などは省略)
ここに台湾はなく、萬平は台湾人ではなく、日本人として描かれていくことが決定した瞬間であった。安藤が早くに両親を亡くし、若くして働き始め、大阪に来て仕事をするようになったのは事実だ。
しかし、萬平が日本のどこで育ったのか、両親や祖父はどこにいたのか、ということは触れられていない。フィクションとはいえ、史実に近づけながら描く宿命のなかで、萬平のルーツについては曖昧にするしかなかったのだろうと私は推察した。
一方、それゆえに不自然さも否めない箇所もあった。結婚式を挙げた2人が近親者と一緒に記念写真をとる場面があった。並んだのは、萬平以外はほとんどが福子の親族や関係者たちで、萬平の家族や親族は一人もいなかったようだった。ここでは萬平の過去はほとんど消えているように見える。
では、なぜ萬平は台湾人ではなく、日本人でなければならないのか。それを考えるため、私は、安藤の出身地である台湾中部の嘉義へ行くことにした。台湾新幹線で台北から一時間半。嘉義は台湾の米どころであり、日本人観光客にも人気のある阿里山があるところだ。

■故郷も取材していたが……
安藤百福が生まれた場所は、当時「台南州東石郡朴子街」と呼ばれた。現在は地名変更で「嘉義県朴子市」になっている。日本の区にあたる朴子市の市役所を訪れると、市役所の盧春霖行政室主任が対応してくれた。
「『まんぷく』のことは知っています。その件で、つい先日、NHKの方がリサーチに来ました」と盧主任。朴子市のトップである王如経市長からは「私が育った家は呉百福さんの家の真向かいなんですよ」という話も聞かされた。
王市長と話し込んでいると、思わぬ来客が市長室に現れた。
「こんにちは、呉仁健といいます。呉百福(安藤百福)は私のおじです」
呉さんは長く教育界で働き、校長まで務めた。市長からも「呉校長」と呼ばれる地元の知名人だ。呉さんはたまたま講座を聞くために市役所に来ているところ、「日本からメディアの取材が来ている」と言われ、私を訪ねてきてくれたのだ。血の繋がりのせいか、顔立ちがどこか安藤に重なる。
呉さんによれば、呉さんと安藤は遠い親戚にあたり、安藤より呉さんはひとつ下の世代で、いとこ甥にあたる。呉家の先祖は、1793年、台湾へ中国大陸・福建省の漳州から日本に渡った。後日私のお願いで呉さんから送られてきた族譜(家系図)によれば、安藤の父親・呉阿獅には三人の息子がいて、安藤はその末っ子だった。
呉阿獅は早くに亡くなり、安藤は祖父・呉武に育てられた。

■台湾にいたもう一人の夫人
「呉家はみんな『六脚郷更寮村』と呼ばれる場所に暮らしていて、呉百福の一家は私たちの家の隣に暮らしていました。といっても、彼とは一度も会っていません。彼の奥さんが暮らしていて、息子さんを育てていました。私などは奥さんにいつも可愛がってもらっていました。彼の家の前には楊桃(スターフルーツ)の樹があって、実をとって私たち近所の人間に配ってくれた優しい人でした」(呉)
安藤には、日本で仁子と結婚する以前に、台湾のふるさとで結婚している女性がいたのだった。彼女の名前は黄綉梅といい、すでに亡くなっている。
ここでいう「息子さん」は安藤宏寿のことで、のちに台湾から日本に呼び寄せられ、一時期、日清の社長に就任している。安藤は日本と台湾で家庭を持っていたことになるが、当時こういう形は珍しいわけではなかった。もちろん「まんぷく」では萬平にほかに家庭があった、という設定はなされていない。
呉家の間では、安藤百福は神秘的な存在で、複雑な思いを抱く存在だという。呉氏が共同所有する「六脚郷更寮村」にはいまも安藤名義分の土地もあるという。呉仁健さんは安藤と故郷との関係を、こんな風に語った。
「日本で大成功を収めていることは知っています。故郷の誇りという気持ちもあります。ただ、彼は私の知る限り一度も故郷に戻らず、呉家との縁も切っています。彼は若い頃、嘉義で衣類を売る事業を失敗していたそうです。それで台北に行ったと聞いています。もしかすると嘉義にいい思い出がなかったのかもしれません。そのことも故郷と距離を置いた理由のように思います」
華僑の間には「故郷に錦を飾る」ということが一つの成功者のモラルとなっている。それは自分を育て支えてくれた故郷に恩返しをする、という考えに基づくのだが、故郷愛がなかったかどうかはわからないが、事実だけをみれば、安藤がこうした行動をとった形跡は嘉義には残されていなかった。
日清食品のホームページで安藤の経歴を解説する「安藤百福クロニクル」でも台湾出身であることは完全に伏せられている。
日清食品の関係者に、安藤の国籍に関して質問したことがあるが、「安藤氏はほとんど日本人だったと聞いています」という答えだった。しかし、少なくとも成人する前のほとんどの時間を台湾で過ごし、その後も台湾で家族を持っていた安藤は、台湾人のアイデンティティを強く持っていたはずで、本人の意思で意識的に台湾との縁を切ろうとしていた可能性が高いように思える。

■チキンラーメンが理由…?
では、どうして安藤側は台湾との関係を強調しなくなったのか。
安藤については、日本の台湾華僑社会で評判が芳しくないことは確かだ。それは、安藤がチキンラーメンの販売で成功する前に、華僑との間で金銭的なトラブルがあったと指摘する華僑もいる。彼が経営者を務めて倒産した信用組合の問題が絡んでいるとも言われるが、古い時代のことなので検証は難しい。
ただ、安藤はチキンラーメンの発売後、台湾との関わりをほとんど語らなくなり、華僑社会との人間関係も失われていったと言われる。
もう一つ考えられるのは、チキンラーメンの「発明」と台湾との関わりに議論が及ぶことを避けようとしていた可能性がある。
安藤が「発明」としている麺を油で揚げて調味料をまぶし、お湯をかけて食べる調理法については、安藤の出身である台湾南部において、戦前から「雞絲麵」(ジースーミエン)「意麺」(イーミエン)などと呼ばれる油揚げの即席麺が広く存在していたからだ。
安藤がその故郷の即席麺にヒントを得て、油で麺を揚げたチキンラーメンの商品化に成功したのではないかという推理を、私は前掲著「タイワニーズ」のなかでも展開した。また、日本の台湾華僑の間でも、同様の指摘はあちこちで耳にする。
そうしたことも、安藤サイドが台湾との関わりを語りたくなかった理由かもしれない。だが、即席麺を大量生産化し、日本と世界に広げた安藤の経営業績は、たとえそれが完全な発明でなくてもまったく曇ることはないのだが。
NHKは作品公式サイトに、「実在の人物をモデルとしますが、激動の時代を共に戦い抜いた夫婦の愛の物語として大胆に再構成し、登場人物や団体名は改称した上、フィクションとしてお届けします」と前置きしている。台湾というルーツは、「夫婦の愛の物語」には必要なかったということだろうか。
しかし、今後のドラマの主要な中身となる「チキンラーメン」の「発明」については、前述のように安藤が台湾出身でなければ思いつかないことであった可能性が高い。
また、成功を目指して必死に事業を起こしては失敗し、それでも最後に日清食品の創業に結びつけた彼のたゆまぬ努力は、日本社会でマイノリティであった台湾出身者のハングリー精神抜きに語ることは難しい。
さらに重要なことは、日本と台湾との歴史的関係のなかで、安藤が戦前、日本語教育を受けたゆえに戦後の日本でも活躍の道が広がったことについて一切触れないことで、日本が日清戦争で清朝から獲得した台湾を、50年間にわたって統治した史実すら隠してしまう歴史認識の問題も孕んでいるように思える。
ドラマではすでに萬平は台湾人ではないという設定になっているので変更は難しいだろうが、安藤が台湾出身者であるという事実については、今後も日本社会で広く知られていくべきであると私は考えている。
via https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58365


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天皇陛下のお言葉。平成最後の戦没者追悼式(全文) はてなブックマーク - 天皇陛下のお言葉。平成最後の戦没者追悼式(全文)

20180815
終戦から73年を迎えた8月15日、政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれた。天皇、皇后両陛下や安倍晋三首相、遺族約5500人が参列し、310万人の戦没者の冥福を祈った。
天皇陛下は2019年4月30日に退位することが決まっており、平成最後の追悼式となる。
式典では、正午に合わせて1分間の黙祷がささげられた。その後天皇陛下はお言葉で戦没者を追悼。2015年の戦後70年から加えた「深い反省」という表現は継続した。
お言葉の全文は以下の通り。
--------------
本日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」にあたり、全国戦没者追悼式に臨み、先の大戦において、かけがえのない命を失った数多くの人びととその遺族を思い、深い悲しみを新たにいたします。
終戦以来、既に73年。国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時を偲ぶ時、感慨は今なお、尽きることがありません。
戦後の長きに渡る平和な歳月に思いをいたしつつ、ここに過去を顧み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い、全国民とともに、戦陣に散り、戦禍に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

via https://www.huffingtonpost.jp/2018/08/14/the-end-of-war_a_23502437/

◇新たな皇室の時代築いた天皇陛下 戦争と向き合った在位30年
JAPAN-EMPEROR-
第2次世界大戦の終結から60年後、サイパン島の断崖の上で天皇皇后両陛下が静かに頭を下げた時、両陛下の祈りは、言葉よりも雄弁な、共感を呼ぶメッセージを人々に伝えた。
天皇陛下(今上天皇)は、30年にわたる在位中に、過去の戦争にゆかりのある多くの地を訪問した。2005年6月の訪問もその中の1つだった。他の訪問と同様に、両陛下は日本人だけでなく、米国人や韓国人の戦没者も慰霊した。
元宮内庁長官の羽毛田信吾氏はロイターのインタビューで、天皇陛下のこうした訪問について「私なりに解釈すれば、2つの意味合いがあると思う」と語る。「1つは犠牲になった人たちを心から悼む追悼の気持ち。もう1つは、先の戦争の悲惨な歴史を忘れてはいけないこと。後の世代、とくに戦争を知らない世代に伝えること。両陛下の後ろ姿は、悲惨な戦争の歴史を忘れてはいけないことを訴えている」。
羽毛田氏を含む、ロイターが取材した天皇陛下を直接知る6人は、昭和天皇が1989年1月7日に崩御されてから、天皇陛下がいかに平和・民主主義、和解のシンボルとして積極的な役割を果たされてきたかを語った。
政治には関与できないが、天皇陛下は、日本の戦争について理解の幅を広げた、と専門家は評価する。これは、日本人がその名の下に戦い「現人神」(あらひとがみ)とされた昭和天皇のレガシーからの決別でもあった。
現在84歳の天皇陛下は、来年、生前退位する。
退位は、中国、韓国との関係が緊張化している中で行われる。また、安倍晋三首相の保守的な政策スタンスから日本が右傾化していると見られることで、天皇陛下のレガシーも危機にさらされる可能性がある。
日本の政府首脳は、戦時中の日本の行動について反省と謝罪を繰り返してきたが、天皇陛下のお言葉は重みが違う、と専門家は指摘する。
城西国際大学のアンドリュー・ホバット客員教授は「天皇はローマ教皇のようなもの。天皇の言動は、象徴的なメッセージとなる」との見方を示す。
日本政府の謝罪は、これまで立場の異なる政治家によって否定されたり後退させられたりしてきたが、天皇陛下の言葉は一貫している、という。

■既成の枠にとらわれない
政府の謝罪についての著書があるダートマス大学のジェニファー・リンド教授は「人々は、両陛下が、戦争被害者に対し、真心をこめ、敬意を持って、象徴的、調和的なやり方で手を差し伸べようとしている、とみている」と述べた。
天皇陛下の友人や学識者によると、天皇陛下に戦後教育の基礎を授けるうえで影響があったのは、クエーカー教徒の家庭教師、エリザベス・ヴィニング氏と元慶應義塾大学塾長の小泉信三氏。小泉氏は多くの教え子を戦争でなくした。
天皇陛下の級友だった明石元紹(もとつぐ)氏は「今、日本の国民のほとんどが、陛下は優しく人に対して親切で、人のことを大変に想う天皇だと思っている。それは戦後のこと。戦争をやっている間は、象徴天皇ではなく日本全体を引っ張り戦争する、というのに近い立場だった」と話す。
理論的には、天皇陛下は憲法に違反しない限り、自分が言いたいことを言える立場にある。憲法は天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とし、国政に関する権能を有しない、と規定している。
実際に、外交に影響を与えるような発言は、慎重に吟味される。
1990年代に、ブリティッシュ・カウンシルの代表を務めていた際に天皇陛下と交流のあったマイケル・バレット氏は「天皇陛下と皇后陛下は、籠に閉じ込められた鳥だと言われていたが、天皇陛下は、鳥籠の扉を開けた」と話す。

■保守派の反撃
1990年5月、韓国政府は1910─1945年の日韓併合について、新天皇による謝罪を求めた。
与党は皇室が謝罪をすることに反対し、当時の海部俊樹首相が代わりに韓国の盧泰愚大統領に謝罪することを申し出た。
しかし、天皇陛下は、こうした際に沈黙を守った昭和天皇とは違う道を選んだ。渡辺允元侍従長は、ロイターに対し「天皇陛下は、日本が韓国の人々に苦しみを与えたということをはっきりさせたかった」と話す。
盧大統領を迎えた晩餐会で、天皇陛下はこう言った。「我が国によってもたらされたこの不幸な時期に、貴国の人々が味わわれた苦しみを思い、私は痛惜の念を禁じえません」。
天皇陛下の即位から、しばらくの間は、日本の戦争責任をめぐる議論が盛んで、1995年の村山富市首相(当時)による謝罪(村山談話)を含め、日本政府の謝罪がたびたび行われた。
こうした謝罪や、学校で子どもたちに日本が戦時中に行ったことについて教えようとする試みは、「自虐的」な歴史を教えることで日本人のプライドやアイデンティティーを損なわせるとして、保守派からの大々的な反撃を引き起こした。
1992年、天皇陛下は近代の皇室として初めて中国を訪問した。国内の右派勢力は訪中に反発、中国の活動家は天皇陛下に謝罪を要求した。
天皇陛下は、中国で「両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し、多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります」と述べた。
その翌年から、天皇陛下は戦争の舞台となった地への訪問を始める。最初の訪問地は戦争で多大な犠牲を払った沖縄だった。1995年からは長崎、広島などへの「慰霊の旅」を続けた。

■海外の戦地
戦後60年、天皇陛下は海外の戦地として、最初にサイパン島を訪問した。羽毛田元宮内庁長官は「(天皇陛下は)国内だけでなく、国外でも先の大戦で犠牲になった、日本人だけでなく、世界の人に対して慰霊したいということを、前から強くご希望だった」と振り返る。
同氏は「外国訪問は基本的に受身のことが多いが、この件に関しては、陛下の非常に強いご希望があり、その意味で異例な外国訪問だったと思う」と述べた。
天皇陛下は、高齢に加え、心臓手術や前立腺がんを患ったにもかかわらず、その後もこの戦地訪問を続けてきた。
1944年に激しい戦闘があったパラオのペリリュー島へは2015年に訪問、2016年にはフィリピン、今年は沖縄を再訪問した。
2015年8月15日の終戦70周年の戦没者追悼式では、戦争について「深い反省」との言葉を使い、これまでの「深い悲しみ」という表現から一歩踏み込んだ。
安倍晋三首相はこの前日に、「痛惜の念」を表すと述べつつも「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはならない」と述べており、天皇陛下の言葉は、安倍首相に対し婉曲に異を唱えたものだと受け止める向きが多かった。
82歳の誕生日に行った2015年の記者会見で、天皇陛下は「この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います」と述べた。
天皇陛下の後を継ぐ徳仁(なるひと)皇太子(58)は、天皇陛下と考えをともにする。しかし、皇太子が天皇に即位したあと、日本人の若い世代がどれほど天皇陛下の発言に影響を受けるかは不明だ。
終戦時に11歳だった父親とは異なり、皇太子は戦争を知らない。慶應義塾大の笠原英彦教授は言う。皇太子が天皇になった時に「『反省』と言われたら、多くの人は『何の反省?』と聞くだろう」。
via https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/08/30-19.php


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[訃報] ジョエル・ロブション氏死去=「フランス料理の神様」 はてなブックマーク - [訃報] ジョエル・ロブション氏死去=「フランス料理の神様」

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 仏紙フィガロなどによると、「フランス料理の神様」と称される著名シェフのジョエル・ロブション氏が6日、スイスのジュネーブで死去した。73歳だった。がんを患っていたという。
 東京など世界各都市でレストランを展開し、仏格付け本の「ミシュランガイド」で最多の総数27個の星を持つ。4月には旭酒造(山口県岩国市)の日本酒「獺祭」とコラボした複合レストランをパリでオープンするなど精力的に活動を続けていた。
 1945年4月、仏西部ポワチエでれんが職人の家に生まれる。神学教育を受けたが、料理に目覚め15歳で地元のシェフに弟子入り。81年にパリで、最初のレストラン「ジャマン」を開いた。
 米国や香港などに20以上の店舗を構える。テレビ番組に多く出演し、一般人にも親しみやすいフランス料理を広めた。[2018.08.06] 
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018080601017&g=soc

・ロブション氏が死去 フレンチの巨匠、日本食に深い造詣「獺祭」とコラボも
世界的に有名なフランス料理家のジョエル・ロブション氏が8月6日、死去した。73歳だった。フィガロなど複数のメディアが伝えた。同紙によると、がんを患っていたという。
ロブション氏は、レストランガイド「ゴー・ミヨ(Gault & Millau)」で「世紀のシェフ」として紹介された料理人としても知られている。パリで若くして三ツ星を獲得し、巨匠としてフランス料理界を牽引した。

●51歳でシェフ業を引退、フレンチの巨匠
ロブション氏は1945年、フランス中部ポワティエ市の熱心なカトリック信者の家庭に生まれた。12歳で神学校に入学し、15歳で料理の道を志した。29歳でコンコルド=ラファイエット・ホテル総料理長に就任し、36歳で独立。39歳でミシュランの三ツ星を史上最短記録で獲得した。
1994年には、東京・恵比寿にあるシャトーレストラン「タイユバン・ロブション」の料理監督に就任。96年、51歳の時に「最高の状態で辞めたい」としてシェフ業を引退し、料理界に衝撃を与えた。引退後はレストランのプロデュースや後進の育成、テレビの料理番組の監修などに取り組んだ。
日本食にも造詣が深く、2018年6月には、日本酒の人気銘柄「獺祭」の蔵元・旭酒造とコラボし、パリに共同店舗「ダッサイ・ジョエル・ロブション」を開業したばかりだった。
via https://www.huffingtonpost.jp/2018/08/06/joel-robuchon-dies-at-age-73_a_23496657/

・ジョエル・ロブション:Wikipedia

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岡本太郎の名言、10選 はてなブックマーク - 岡本太郎の名言、10選

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01. 目的のない闘い
目的を持たないことが、“ぼくの目的”だった。
つまりね、限定された目的なんか持ちたくない。
いつも目的を超えて平気でいる。
そこから自分がひらけていく。
目的なんかない闘いだったが、
それだけが、ぼくが生を貫いていく筋だった。

02. 意志
意志を強くする方法なんてありはしない。
そんな余計なことを考えるな。
きみはほんとうは激しく生きたいんだよ。
だから、“死”が目の前に迫ってくる。
それはとても正常なことだ。

03. 信念
信念のためには、
たとえ敗れるとわかっていても、おのれを貫く、
そういう精神の高貴さがなくて、
何が人間ぞとぼくはいいたいんだ。

04. 思想
思想はほとんどの場合、社会の情勢とは悲劇的に対立する。
しかし、その対立で世界は充実していく。それが“思想”なんだよ。
ほんものの思想だったら、情況はどうあれ、
そんなにかんたんにコロコロと変わるものではないはずなんだ。

05. 大人
よく、大人たちは若者の気が知れないとか、だらしないとか、
自分たちの時代のズレを、若い世代のほうにおっかぶせる。
未熟なら未熟なりに、成熟したら成熟したなりの顔をもって、
精いっぱいに挑み、生きていけ。
大人たちからみた、道徳がないようにみえる若い世代にこそ、
新しい今日の状態に即応した道徳が生まれなければならないのだ。

06. 矛盾
社会内の個。
純粋であればあるほど人生というものは悲劇だ。
人間はすべて矛盾のなかに生きている。だから矛盾に絶望してしまったら負け、落ちこむのだ。
それよりも、矛盾のなかで面白く生きようと、発想を転換することはできないだろうか。

07. 釘
誰もが、あえて出る釘になる決意をしなければ、時代はひらかれない。

08. 生活
ただ食えて、生命をつないでいるだけじゃ、辛いよ。
たとえ生活の不安がなくても、毎日が実に空虚だし、実際、むなしい。
何を自分はほんとうにやりたいのか。そうなってからじゃ、もう遅いんだなあ。

09. 社会
ぼくは全人間的に社会的な問題にも発言して、
絵はもちろん描くが、その他のことでも、
いろいろな問題とぶつかって日本で闘っていきたい。

10. 僕
ぼくはきみの心のなかに実在している。
疑う必要はいっさいないさ。そうだろ。

※書籍『強く生きる言葉』:岡本太郎著から抜粋
via http://getnews.jp/archives/1980008


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[訃報] 広島原爆投下“第一報” 岡ヨシエさん死去 はてなブックマーク - [訃報] 広島原爆投下“第一報” 岡ヨシエさん死去

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 旧日本軍の司令部に学徒動員され、広島市に原爆が投下された直後、「広島が全滅です。新型爆弾にやられました」と第一報を軍に伝えたとされる、岡ヨシエさんが、悪性リンパ腫のため亡くなりました。86歳でした。
岡ヨシエさんは昭和20年、高等女学校の3年生だった14歳のときに、広島城にあった旧日本軍の司令部に連絡係として学徒動員され、原爆が投下された直後に「広島が全滅です。新型爆弾にやられました」と電話で第一報を軍に伝えたとされます。
 自身も原爆の後遺症に苦しみ、被爆した元教師などで作る会に所属して、当時の体験や平和への願いを訴える証言活動を長年にわたって続けてきました。
 去年5月にアメリカのオバマ大統領が広島を訪問する直前には、原爆の被害を語り継ぐ会に参加し、「罪のない市民がどんな苦しみを受けたのか、しっかり見てもらいたい」と発言していました。
 親族によりますと、岡さんは悪性リンパ腫のため、ことし3月に入院して治療を受けていましたが、今月19日に亡くなったということです。[2017.05.30]
via http://www3.nhk.or.jp/news/html/20170529/k10010999531000.html

◇広島平和記念資料館データベース:被爆者証言ビデオ(岡さん=当時56歳)


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交換機に向かって「広島県、8時13分、空襲警報は…」って言いかけた途端なんですね。ものすごい紫色の閃光がパッと目をいりましてね。瞬間、ちょっと頭の中では「電気の事故かな?」とこう思ったわけなんですね。
…と、思う間もなくズーンと体が浮き上がって、そのまま意識がなくなったわけなんです。それで、時間にすれば1分か2分ぐらいのもんじゃないかと思うんですけど、目の前が灰色一色なんですね。
それでおかしい、どうかしたのかしらと思いながらだんだん目を開けてみましたときに、自分が仕事の位置から1m以上飛ばされて、その場で仰向けに倒れてたわけなんですね。それで「あ、これは何事か起きたのだ。これは大変なことなんだ。これはただ普通の電気の故障ではないな」と思いました。
外に出てパッと一瞬外を見ましたら、今まであった参謀本部の立派な建物も全然なくて。で、なんかもう全般的に茶褐色って感じだったんですね。赤茶けた感じというわけで。
どうかなったのかしらと、ただキョロキョロ、キョロキョロしていましたら、その時に、防空壕を出ました右側の方にですね、用水路がございまして。その辺りにいらっしゃいました兵隊さんが「新型爆弾にやられたぞ」と、うめきとも叫びともつかない声でおっしゃったわけです。
で、「新型爆弾…?」っていうのを自分自身心の中で繰り返してみたんですね。で、「え、新型爆弾どうなってるんだろう、どういうことだろう」と思いましたから、横からお堀端に上がりまして広島の街を見たわけです。
そうしましたらね、一瞬、ばっと目の中に海が入ってきたんですね。そしてもう家が全然建物がなくて。赤茶一色の瓦礫の街という風景で、似島がもう目の前にパッとそびえてたわけなんです。で、もう愕然としましてね、なんかもう血が引く思いというか、頭から血がズーンと下がるような思いがしましてね。
「これは大変だ!広島がやられた!広島がやられた!広島がやられた!」と心の中では思いましたけれど、周りには元気な方はいらっしゃらないわけなんです。みんなうめいてらっしゃる方とか、誰かわけのわからない方ばかりで。
私はそこにあります電話機の倒れているのを起こしましてね、手当たり次第に回して、一番初めに出てくださった方に「大変です!」って言ったわけなんですね。(質問者:最初に出た相手は?)その方が福山の司令部の、お名前はあとでわかったんですけど、福山司令部のオガワさんという当時、一等兵の方だったらしいんですね。
それで私はもうしゃにむに出られた方に「大変です、広島がやられました」と言ったんですね。
そしたら「なに、師団がやられたのか?」とおっしゃったわけです、割れるような声で。それで「いえ、広島、全滅です」って言ったんです。思わず。それで「なに?!」と割れるような声でおっしゃったわけですね。
そうこうしてましたら、(中略)防空壕の中にゴーッという音とともに熱い風がごうごう入ってきましてね。私は「もう火がつきましたから、ここを出ます」って言ったんです、その連絡した兵隊さんに。そしたらその兵隊さんが「頑張ってください、しっかりしてね」と言われて。それでこの防空壕を後にしたわけなんです。ちょうど私たちの交代の番にあたっておりました学徒が大本営の前で、朝礼の後に竹槍訓練が長引いてたみたいなんですね。で、竹槍を持ったまま即死した同級生もおりますし、みんなもう虫の息でね。そういう友達をみんな幼年学校に私たちがずっと、もう夜ここで仕事をして、交代でまた夜幼年学校に来て看病したんです。
ずっと7日、8日、9日と看病したんですけれども、「きっと痛いだろう、つらいだろう」と思うのに、もう一言もみんな「つらい」とか「痛い」とか言わないんですよ。
で、私たちがやかんにお水をくみましてね、あの当時のみんな軍医さんから「火傷に水をやるとすぐ死ぬるからやってはいけない」なんていう言葉をそのまま信じましてね。
「一口だけよ、一口だけよ、たくさん飲んじゃダメなのよ」って言いながら、やかんで口に直に持っていって「一口だけ、一口だけ」って言いながら、みんなを看病して歩いたんですけども、みんなお仕事のことしか言わないんですね。「交代の時間です、交代の時間です」って。
もう意識の中に交代の時間だということがあるもんですから、「交代の時間だから行かせてください」とかそういうお仕事のことしか言わなくて。私たちも看病しながら非常に辛かったんです。
兄が二人おりまして、その兄がですね……。未だに胸が痛いのは、亡くなります時にね、本当に気力もないのに、昔の人はそういう教育をきちっと受けてたんですね。お布団の上に正座しましてね。「天皇陛下バンザーイ」と叫びましてね。
「お父さん、お母さん、お世話になりました」って言って亡くなりました。
あの当時19歳でね。まあそういう風な立派な死に方をするっていう人はね、あの当時だからこそじゃないかなと思います。
やっぱりもう心からお国のためにっていう気持ちをね、もう本っ当に詰め込まれてた、純粋に信じ込んでたというか、そういう風に思いましたね。

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