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天皇陛下在位30年記念式典:天皇陛下おことば 全文 はてなブックマーク - 天皇陛下在位30年記念式典:天皇陛下おことば 全文




在位30年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。
即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。
平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。
世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。
島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。
天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。
しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。
天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。
これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。
災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の1つです。
今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。
数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。
心より深く感謝いたします。
平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。
ともどもに平(たひ)らけき代を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ
平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む諒闇の中に歩みを始めました。
そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。
しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。
在位30年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。[2019.02.24]

via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190224/k10011826401000.html


・飛んだおことば、皇后さまが気づく 涙声で感謝の8分半
 24日の在位30年の記念式典で、天皇陛下のおことばは8分半に及んだ。退位当日の4月30日、皇居・宮殿での「退位の礼」で最後のおことばが予定されるが、皇居外では今回が最後となる見通し。涙声で国民への感謝の思いを語った。
 おことばは象徴天皇の歩みを振り返る集大成とも言える内容だった。平成の30年間を「国民の平和を希求する強い意志」によって「近現代において初めて戦争を経験せぬ時代」と総括しつつ、決して平坦(へいたん)な時代ではなかった、とも述べた。震災などを念頭に「多くの予想せぬ困難に直面した時代」だったとし、「日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました」と振り返った。
 陛下は天皇の務めを人々の助けを得て行えたことを「幸せなこと」と振り返り、「この国の持つ民度のお陰でした」とも述べた。

 ともどもに平(たひ)らけき代(よ)を築かむと諸人(もろひと)のことば国うちに充(み)つ

 おことばの中で、天皇陛下は平成が始まって間もない時期に皇后さまが詠んだ歌を紹介した。当時、全国各地から「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」との「決意に満ちた言葉」が寄せられたと明かし、「私どもは今も大切に心にとどめています」と声を詰まらせながら語った。



 途中、天皇陛下が用意した原稿を読み間違えてしまう場面があった。天皇陛下は昨年5月にもベトナムの国家主席夫妻を歓迎した宮中晩餐(ばんさん)会で、おことばの原稿を1枚分飛ばしたことがあった。今回はかたわらにいた皇后さまがすぐに気付いて伝え、陛下は安堵(あんど)した様子で再び読み始めた。宮内庁関係者によると、皇后さまはおことばの作成を支え、内容を理解して式典に臨んでいたという。
 式典が終わり、天皇陛下は会場内を見渡しながら手を振った。そばには笑みをうかべる皇后さま。お二人に大きな拍手が送られた。
 式典には安倍晋三首相や衆参両院議長、外国大使ら約1100人が出席。安倍首相は式辞で「30年の長きにわたって、国民に常に寄り添ってこられた両陛下のお姿を、私たちは決して忘れることはありません」と述べた。福島県の内堀雅雄知事は国民代表として「明日に向けて歩みを進める勇気をいただきました」と東日本大震災での激励に感謝を伝えた。
via https://www.asahi.com/articles/ASM2L4SVKM2LUTIL00X.html

・天皇陛下「おことば」でハプニングも‥皇后さまのサポートに感動広がる
 https://matome.naver.jp/odai/2155099970078309101

◇「現代にふさわしい皇室を」=お言葉で振り返る在位30年
 天皇陛下は即位以来、毎年の誕生日や節目の記者会見などで、象徴の在り方や戦争、災害など、さまざまな事柄について考えを語られてきた。主なお言葉で在位30年を振り返った。

 「憲法に定められた天皇の在り方を念頭に置き、天皇の務めを果たしていきたい。国民の幸福を念じられた昭和天皇をはじめとする古くからの天皇のことに思いを致すとともに、現代にふさわしい皇室の在り方を求めていきたい」(1989年8月、即位後初の記者会見)

 「障害者や高齢者、災害を受けた人々、社会や人々のために尽くしている人々に心を寄せていくことは、私どもの大切な務め」(99年11月、即位10年の会見)

「先の大戦で大きな犠牲を払い、長い時を経て、念願してきた復帰を実現した沖縄の歴史を、人々に記憶され続けていくことを願っています」(2002年12月、69歳の誕生日前会見。沖縄復帰から30年で)

「結婚によって開かれた窓から私は多くのものを吸収し、今日の自分を作っていったことを感じます。結婚50年を本当に感謝の気持ちで迎えます」(09年4月、結婚50年の会見)

「この20年、長い天皇の歴史に思いを致し、国民の上を思い、象徴として望ましい天皇の在り方を求めつつ、今日まで過ごしてきました」「心配なのは、次第に過去の歴史が忘れられていくのではないかということ」(09年11月、即位20年の会見)

「被災者のこれからの苦難の日々を、私たち皆が、さまざまな形で少しでも多く分かち合っていくことが大切であろうと思います」(11年3月、東日本大震災後のビデオメッセージ)

「80年の道のりを振り返って、最も印象に残っているのは先の戦争のこと」「天皇という立場にあることは、孤独とも思えるもの」(13年12月、80歳の誕生日前会見)

「次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊をもって象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています」(16年8月、退位の意向をにじませたビデオメッセージ)

「残された日々、象徴としての務めを果たしながら、次の時代への継承に向けた準備を、関係する人々と共に行っていきたい」(17年12月、84歳の誕生日前会見。退位日が決まり)

「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵(あんど)しています」(18年12月、85歳の誕生日前会見)。

 via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019022500183&g=soc


・「天皇陛下在位30年記念式典」で歌声披露した三浦大知に感動の嵐
  https://matome.naver.jp/odai/2155098937474257401



・式典で三浦大知さん熱唱 両陛下が合作した沖縄の思い出
 24日の天皇陛下在位30年記念式典では、沖縄県出身の歌手三浦大知さんが「歌声の響(ひびき)」を歌った。沖縄のハンセン病療養所との交流をきっかけに天皇陛下が詞を書き、皇后さまが作曲した思い出の曲だ。
 お二人は皇太子ご夫妻時代の1975年7月、初めて訪れた沖縄で名護市の「沖縄愛楽園」の入所者と交流した。ハンセン病への差別や偏見が残る時代、お二人が望んだ訪問だった。
 帰り際、入所者は感謝を伝えようと、沖縄の船出歌「だんじょかれよし」を涙ながらに歌った。当時の様子を天皇陛下が沖縄伝統の「琉歌(りゅうか)」(八・八・八・六の音数律をもつ定型詩)に詠み、皇后さまが曲をつけたのが「歌声の響」だ。両陛下の沖縄訪問は皇太子時代から11回に及ぶ。
 この日、三浦さんは千住明さんのピアノ、千住真理子さんのバイオリンに合わせ、情感豊かに歌った。
 また、ソプラノ歌手の鮫島有美子さんは皇后さま作曲の「おもひ子」を披露。皇太子妃時代、詩人で小説家の故・宮崎湖処子(こしょし)の詩をもとに作った曲で、幼い浩宮さま(皇太子さま)の子守歌として口ずさんだことがきっかけで生まれたものだった。
「歌声の響」 作詞天皇陛下、作曲皇后さま
だんじよかれよしの歌声の響(ダンジュカリユシヌウタグイヌフィビチ) 見送る笑顔目にど残る(ミウクルワレガウミニドゥヌクル)
(意味:(船出歌の)「だんじょかれよし」の歌声の響きと、それを歌って見送ってくれた人々の笑顔が今も懐かしく心に残っている)

だんじよかれよしの歌や湧上がたん(ダンジュカリユシヌウタヤワチャガタン) ゆうな咲きゆる島肝に残て(ユウナサチュルシマチムニヌクティ)
(意味:「だんじょかれよし」の歌が湧き上がった、あのユウナの咲く島が今も懐かしく心に残っている)

via https://www.asahi.com/articles/ASM2L4SVKM2LUTIL00Y.html


◇「心にしみ、実用的」美智子さまの5つのお言葉を読み解く
「美智子皇后の言葉ほど、奥深く、心にしみ、しかも実用的なメッセージは、聞いたことがない」。ノンフィクション作家の矢部宏治さんが、両陛下が国民とともに歩まれた60年を振り返り、折々に美智子さまが発せられ、時代をつくられてきた言葉を読み解く。
 天皇皇后両陛下が発せられる言葉がどのようにつくられているかは意外に知られていない。側近や宮内庁が代筆するという誤解も多いが、実は、ご自身の考えや意思が国民に伝わるよう、自ら丁寧に言葉を紡ぎ、推敲に推敲を重ねて仕上げられている。両陛下の言葉をまとめた『天皇メッセージ』(小学館)の著者である矢部宏治さんが、昨年12月23日の陛下の誕生日会見を読み解く。
「このおそらく在位中最後となる会見は、明仁天皇の万感の思いが隅々まで込められたもので、なかでもはっきりと5度、言葉を詰まらせられたことが印象的でした。そのうち2か所は美智子皇后について触れた一節でした。いかにおふたりが、ご苦労をともに分かち合い、乗り越えてこられたのかがわかりました。明仁天皇のお言葉はもとより、ご結婚以来60年、ともに大きな光と闇の時を体験されてきた皇后の言葉にも、今、耳を傾けるべきでしょう」
 以下では、矢部さんの協力のもと、美智子さまのこれまでの言葉のなかで、特に印象的な5つを並べた。それらは、時代を見事に切り取るとともに、深い懊悩を越えて、私たちに勇気を与えてくれる言葉だった。

〈私のめざす皇室観というものはありません。ただ、陛下のお側にあって、すべてを善かれと祈り続けるものでありたいと願っています〉(1994年10月/60才の誕生日文書)

 その言葉の背景に、矢部さんはまず「天皇の孤独」を読み取る。「敗戦後、日本を占領したGHQ(連合国軍総司令部)は、明仁皇太子(当時)の15才の誕生日に、まるで見せつけるかのようにA級戦犯を処刑しました。その恐怖にも負けず、日本の復興を自らの務めと思い定めた皇太子は、学習院高等科の英語の授業で『I shall be Emperor』(私は必ず天皇になります)と宣言。以降、『新しい時代の天皇制はどうあるべきか』をひとりで模索されました。  
 天皇という『職業』についても、根本的に改革する意志を持たれていたようです。たとえば25才で結婚する直前には『ぼくは皇居内に住みたくない。皇居はなるべく開放して、大衆向きの公園に使ってほしい』『天皇になってもぼくは街の中に住む』と親しい友人に語られていたと報道されています。苦難の道を歩まれた明仁皇太子が心に抱いた孤独と恐怖を、痛切に感じ取られたのが美智子皇后でした」(矢部さん・以下同)
 1959年4月10日、明仁皇太子と結婚された美智子さまには、「一種の使命感」があったという。「“孤独な皇太子さまに、温かいホームをつくって差し上げたい”というお気持ちだったと述べられています。自らが国や皇室をどこかに導こうというのではなく、極限の苦悩の中で重い荷物を背負う明仁皇太子に肩を寄せて、ともに歩いていこうという強い使命感が、その後の60年間の根底にあったのだと思います」
 その決意が「陛下のお側」という言葉に込められている。

〈だれもが弱い自分というものを恥ずかしく思いながら、それでも絶望しないで生きている〉(1980 年10月/46才の誕生日会見)

 おふたりのご成婚により、国中が祝賀ムードに包まれた。ところが、初の民間出身の皇太子妃となられた美智子さまは、一部の皇族や女官などから心ない言動を受けることになる。
「1960年に長男・浩宮(現・皇太子さま)が生まれてからも、慣習にとらわれず自分の手で子育てされようとした美智子皇后は、宮中の女性から激しくバッシングされました。家柄もよく容姿端麗でスポーツもできた皇后は、皇室という巨大な存在のなかで、初めて“弱い自分”を感じながら、“人は一人ひとり自分の人生を生きている”として、決して希望を捨てませんでした。“最も高い地位〟にありながら、最も庶民に近い感性を持つ皇后の心情が滲み出る言葉です」

〈とりわけみずからが深い悲しみや苦しみを経験し、むしろそれゆえに、弱く、悲しむ人びとのかたわらに終生寄りそった何人かの人々を知る機会をもったことは、私がその後の人生を生きる上の指針のひとつになったと思います〉(2004 年10月/70才の誕生日会見)

 成婚後の美智子さまが特別に「深い悲しみ」に見舞われたのは1963年。浩宮さまに次ぐお子さまを流産された。「当時の美智子皇后は明仁天皇とともに、出産についても皇室の慣例を破り、一般家庭に近い形を貫いていた時期でした。それだけに流産によって精神的危機に陥り、葉山御用邸(神奈川)でひとり長期静養することになりました」
 その頃の美智子さまを支えた1人が、ハンセン病患者のための施設「長島愛生園」(岡山県瀬戸内市)の精神科医長だった故・神谷美恵子さんである。「神谷さんは、社会的な偏見に苦しんでいたハンセン病患者のケアを行い、弱い立場の人々とともに歩むかたでした。深い闇の中にいた美智子皇后は、神谷さんとの出会いによって傷ついた心を癒され、“国民の苦しみに寄り添う姿勢”を確立されていきました」
 その後、美智子さまは46年かけて国内のすべてのハンセン病療養所を訪問された。

〈福島の子供たちの健康はどうでございますか〉(2018年11月/最後の園遊会)

 2011年3月11日、東日本大震災。その5日後に陛下は国民に向けたビデオメッセージを発表され、3月30日から7週連続で被災地の避難所を回られた。両陛下は原発事故についても深く憂慮された。
「明仁天皇は、原発事故直後から福島第一原発の視察を強く希望され、5月に美智子皇后とともに福島県を訪問されました。さらに政治家やマスコミが原発事故への関心を失うなか、2012年から4年連続で、新年の『ご感想』のなかで、放射能汚染に見舞われた地域住民に心を寄せるメッセージを発せられました」
 美智子さまも陛下と同じ思いだった。
「両陛下は原発事故後に6度、福島県を訪問しています。昨年6月の在位中最後の訪問では、車での移動中に福島第一原発が見える地点を通られた。しかも11月の両陛下主催の最後の園遊会では、原発事故調査に携わった山下俊一・福島県立医科大学副学長に、美智子皇后が福島の子供たちの健康について尋ねました。政財官など“国家の中枢”のなかで、変わらず福島に寄り添う発言を続けているのは、明仁天皇と美智子皇后だけです」
  *
 昨年10月20日、在位中最後の誕生日にあたり、美智子さまは次のように心境を述べられた。

〈皇太子妃、皇后という立場を生きることは、私にとり決して易しいことではありませんでした。与えられた義務を果たしつつ、その都度新たに気付かされたことを心にとどめていく――そうした日々を重ねて、60年という歳月が流れたように思います〉(84才の誕生日文書)

「戦後60年間、象徴天皇としての困難な旅を続けられた明仁天皇の傍らには、常に美智子皇后の励ましの笑顔がありました。両陛下は、戦後日本のベストカップルなのです」
via https://blogos.com/article/358761/



・宮中茶会に五輪メダリストら 陛下の即位30年を祝う
 即位30年を祝い、天皇、皇后両陛下が主催する宮中茶会が26日午前、皇居・宮殿で始まった。五輪メダリストら平成を彩った各界の功労者のほか、都道府県知事らが招かれ、天皇陛下は「本日こうして茶会を催し、ともにひとときを過ごすことを誠にうれしく思います。この機会に、出席された皆さんのこれからのご健康と幸せを祈ります」と述べた。
 茶会は宮殿・豊明殿で、皇太子さま、秋篠宮ご夫妻をはじめとする皇族方を迎え開かれた。スポーツ界からは王貞治さんや、五輪メダリストの浅田真央さん、伊調馨さん、北島康介さん、サッカーの三浦知良さん、プロゴルファーの石川遼さんらが集った。
 学術界からは大隅良典さん、大村智さん、梶田隆章さんらノーベル賞受賞者も出席した。[2019.02.26]
via https://www.asahi.com/articles/ASM2T3S0PM2TUTIL014.html


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潜伏キリシタン世界遺産に=長崎など、国内22件目-ユネスコが登録決定 はてなブックマーク - 潜伏キリシタン世界遺産に=長崎など、国内22件目-ユネスコが登録決定

 バーレーンの首都マナマで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は30日、日本が推薦していた「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎、熊本両県)を世界文化遺産に登録すると決定した。文化庁が同日発表した。
 国内の世界文化遺産は、昨年の「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県)に続き18件目。自然遺産を合わせると22件目。
 登録されるのは、キリスト教が禁じられた江戸~明治初期に、既存の社会、宗教と共生しながら信仰を守り続けた潜伏キリシタンの集落や、島原の乱の舞台となった原城跡(長崎県南島原市)、国宝の大浦天主堂(長崎市)など12件。

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 事前審査したユネスコの諮問機関は、「禁教期にもかかわらず、ひそかに信仰を継続した独特の文化的伝統の証拠だ」と評価。30日の審議でも、「ユニークで傑出した歴史を語る価値ある世界遺産だ」などと登録を支持する意見が各国から相次いだという。
 政府は当初、キリスト教伝来から弾圧を経て復活するまでの歴史的価値を伝える「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として、2015年に推薦書を提出。しかし、諮問機関から日本の特徴である禁教期に焦点を当てるべきだとの指摘を受け、いったん取り下げて構成資産を絞った上で、17年に再推薦していた。
 奄美・沖縄地方の4島(鹿児島、沖縄両県)も自然遺産に推薦していたが、5月に諮問機関から「登録延期」との勧告を受けて取り下げた。
 今年2月に文化遺産として推薦した「百舌鳥・古市古墳群」(大阪府)の審査は来年行われる。[2018.06.30]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018063000413&g=soc


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・曲折経て登録実現=苦難の歴史、後世に-潜伏キリシタン世界遺産
 世界文化遺産への登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」。厳しい弾圧に耐えながら2世紀以上にわたりひそかに信仰を守った「潜伏キリシタン」が育んだ独特の文化的伝統として高く評価された。悲願達成までの道のりには、推薦の先送りや取り下げなど紆余(うよ)曲折もあった。
 当初は、長崎県沿岸部や離島に散らばる教会を中心に、キリスト教の伝来から弾圧、復活までを伝える歴史的価値を強調。大浦天主堂で信徒が信仰を告白した「信徒発見」から150年となる2015年の登録を目指し、文化審議会で世界遺産への推薦候補に選ばれた。
 しかし、内閣官房が推す「明治日本の産業革命遺産」との競合となり、官房長官裁定で14年の推薦は見送りに。中村法道知事は「先行して手続きが進んでおり、高い評価も得ていた」と悔しさをにじませた。
 翌15年、晴れて推薦されたものの、事前審査をした諮問機関から禁教期に焦点を絞るよう指摘を受け、いったん推薦を取り下げた。推薦書作成を担当してきた県職員川口洋平さん(49)は「ショックだった」と振り返る。
 それでも、「受けた指摘は納得できる」と、内容の見直しに着手。教会周辺の禁教期の遺跡や、信仰の隠れみのとなった神社や寺なども含め、集落を中心とした構成に変えた。川口さんは「内面を隠し、仮面を着けて困難を乗り越えた人たちの歴史だ。宗教を超え、現代にも訴えるメッセージがあると思う」と強調する。
 構成資産の一つ「外海の出津集落」(長崎市)にある出津教会堂の教会守で、観光客らに歴史を紹介している高橋渉さん(75)は「禁教期を乗り越えた先祖が苦労して作った教会。そういう歴史を知って、見てもらいたい」と訴える。
 via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018063000414&g=soc

・世界が祝福!長崎・天草の「潜伏キリシタンの文化」が世界遺産に登録
 https://matome.naver.jp/odai/2153039991441825801

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驚きの世界史サイト:紀元前4000年から、1年刻みで各国の国名と指導者が分かる はてなブックマーク - 驚きの世界史サイト:紀元前4000年から、1年刻みで各国の国名と指導者が分かる

◇ワールド・ヒストリカル・アトラス:http://x768.com/w/twha.ja

WS005

・ある時代・ある地域にあった国名・版図・統治者がひと目で分かる
・縮尺を変えるとその頃世界の他の地域はどうなっていたのかがわかる
・右上の年号に見たい西暦を入力すると刻々と情勢が変化する
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「日本がアメリカではなくソ連を攻撃していたら?」 第2次世界大戦の「もし」を米誌が分析 はてなブックマーク - 「日本がアメリカではなくソ連を攻撃していたら?」 第2次世界大戦の「もし」を米誌が分析

「もし、日本がアメリカではなくソビエトを攻撃していたら?」――。米外交誌『National Interest』が、第2次世界大戦の歴史ifを分析する記事を掲載している。同誌では、昨年にも、英仏が大戦初期に計画していたソビエト爆撃作戦を巡る「if」を同じ筆者が書いている。こうした分析は歴史愛好家の知的好奇心を刺激する一種の遊びではあるが、一つの判断が歴史を大きく変えることを再認識する上では、大きな意味を持つ。改正論議まっただ中にある日本国憲法にしても、第2次大戦の結果・経過が異なっていたら、内容が大きく変わっていたことだろう。その点で、今「if」の視点で第2次大戦史を振り返るのは、日本人にとってこそ、意義があることかもしれない。

◆日ソの戦力は互角か
 戦前の日本は、ソ連(ロシア)を仮想敵国とする「北進論」と英米が植民地支配する東南アジアへ侵攻する「南進論」に割れていた。前者は陸軍が支持し、後者を海軍が支持していた。実際の歴史では、1941年の真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発し、「南進」が実行に移された。アメリカとの戦争を選択した日本は結局、広島・長崎への原爆投下を経て無条件降伏。戦後米国主導で日本国憲法が策定され、専守防衛の道を歩んできたのは周知の事実だ。その憲法が今、改正の是非を問われている。
 では、もし「北進」を選択していたら、歴史はどう変わったか?『National Interest』専属の軍事ジャーナリスト、マイケル・ペック氏が、今月9日付でこのテーマで記事を寄せている。同氏は、現実の歴史では、日ソ中立条約により、ソ連は東方の憂いなくドイツとの戦争に集中できたと指摘。

Matsuoka_signs_the_Soviet-Japanese_Neutrality_Pact

その結果、最大のピンチだった1941-42年のモスクワ戦で、シベリアから精鋭部隊を回すことで首都陥落をぎりぎりで防いだことが、独ソ戦の結果を大きく左右した。もし、この時にソ連が東方で日本の相手をする二面戦争を余儀なくされていたら、歴史は大きく変わっていただろうか?
 ペック氏は、大局的には「日本が真珠湾攻撃をしなかったら、アメリカは日本に宣戦布告していたか?」「日本がロシアを攻撃していたら、西側諸国による経済制裁強化の代償はどれくらいになったか?」という2点を検討する必要があるとしている。その上で、軍事面に限れば1941年時点での日ソの軍事衝突は「興味深いもの」だとし、どちらかが一方的に有利ではなかっただろうと見ている。

◆日本がシベリア沿岸地域を制圧
 1939年のノモンハン事件で明らかになったように、戦車などの陸軍の機械化戦力の面では当時、圧倒的にソ連が優位に立っていた。また、たとえ軽装備の日本陸軍であっても、シベリアの大地に深く侵攻していくのは補給の面で大きな不安があっただろうと、ペック氏は見る。一方で、「当時の日本陸軍は日中戦争により戦い慣れしており、機敏で赤軍同様に熱狂的に戦うことができた。さらに潜入作戦と夜戦に優れていた」と日本側の強みを分析。強力な航空支援と海軍力もプラス要素に挙げ、海軍の艦砲射撃と航続距離の長い零戦部隊によって制空権を獲得することにより、重要拠点のウラジオストク港を制圧するのは十分に可能だったと見る。
 ソ連側の不安点には、スターリンの粛清により赤軍全体の力が弱まっていたことと、日本軍と対峙する精鋭のシベリア師団への西方からの補給線がドイツの侵攻により打撃を受けていた点が挙げられている。そして、「モスクワとウラジオストクのどちらを維持するかという選択に迫られたスターリンは、首都を防衛することを優先しただろう。そのため、日本はウラジオストクとシベリア沿岸地域を大きな代償を払うことなく得ることができたと思われる」とペック氏は書く。
 しかし、その大局的な効果については疑問符がつく。シベリア沿岸地域での日本の勝利が大戦全体に与える影響は「比較的マイナーなものであっただろう」とペック氏は言う。日本軍がシベリア師団のモスクワ支援を結果的に阻止することを勘案しても、「冬将軍」によって疲弊していたドイツ軍は被害を抑えることはできただろうが、どのみちモススクワ占領には至らなかったというのが同氏の見方だ。ただし、その後のドイツが歴史的大敗を喫したスターリングラード攻防戦の結果は変わっていたかもしれないとしている。

◆「オペレーション・パイク」が実行されていたら
 ただ、独ソ戦はどちらかが完全に破滅するまで終わらない「絶滅戦争」だったため、物量で勝るソ連の最終的な勝利は変わらなかっただろう。問題は、そのためにスターリンがシベリアをあきらめ、日本との休戦を選択した可能性があることだ。ペック氏は、日本とドイツの同盟はそれほど強固なものではなかったため、日独が別々の形でソ連との戦争を終わらせた可能性は高いと見る。そして、次のように結論づける。「最低でも、日ソ戦争は欧州大戦を長引かせただろう。しかし、アメリカにとっては、日本はより与し易い相手となったかもしれない。もし、日本が1941年にソ連に宣戦布告していたら、極東は中国共産党の歌にあるように赤く染まったかもしれない。しかし、それはライジング・サンの赤だった可能性もあるのだ」
 ペック氏が『National Interest』で取り上げたもう一つの第2次大戦「if 」は、英仏が1940年に計画していた「オペレーション・パイク(槍作戦)」というソ連本土爆撃作戦に関するものだ。当時、ドイツとソ連は不可侵条約を結んでいた。英仏が中東からコーカサス地方の油田などを爆撃することで、ソ連の天然資源がドイツの手に渡るのを阻止するのが狙いだった。同氏は、もし、フランスがドイツに降伏する前にこれが実行されていたら、ソ連がドイツと同盟して英仏に宣戦布告していた可能性があると指摘する。その場合、アメリカは孤立主義の壁の裏に隠れて参戦せず、「頑固なチャーチル(英首相)すら、希望のない戦争を続ける気力を維持できなかっただろう」としている。そして、「オペレーション・パイク」が実行されなかったことは、西側の歴史にとって、非常にラッキーだったとペック氏は書いている。
 この2つの記事は、一国の歴史的な判断が、世界の行方を大きく左右することを示唆する。事は戦争における判断にはとどまらない。改憲の是非を問う国民投票が日本で行われるとすれば、先のイギリスのEU離脱の決定が今、世界経済を揺るがしているように、日本国民の判断が世界に大きな影響を与える可能性があることは否定出来ない。
via http://newsphere.jp/world-report/20160716-2/


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金閣寺に高さ約110メートルの七重塔があった!?破片発見~史上最も高い木造建築物~ はてなブックマーク - 金閣寺に高さ約110メートルの七重塔があった!?破片発見~史上最も高い木造建築物~

 室町幕府3代将軍、足利義満が晩年を過ごした「北山殿」跡(後の金閣寺=京都市北区)から塔の先端部「相輪(そうりん)」の一部とされる青銅製の破片が出土し8日、京都市考古資料館が発表した。約110㍍の木造の塔とされる「北山大塔」の一部の可能性が高いという。これまで北山大塔の存在は一部の文献に記されているだけで、実際に遺物が見つかったのは今回が初めて。同資料館は「北山大塔の存在を裏付けた価値は高い」としている。
 現存する最も高い木造建築物は、東寺の五重塔(55㍍)だが、北山大塔は相国寺七重塔と並んで日本史上最も高い木造建築物とされている。
 寺院施設の改築に伴って昨年5月から昨年7月にかけて境内の北東角、約450平方㍍で行われた調査で見つかった。15世紀初頭の溝跡から最大幅37㌢、最大高25㌢など数点の青銅製の破片が出土したという。形から塔の先端の相輪の一部「宝輪」と判明。復元すると直径約2・4㍍になる。成分分析では、表面には金メッキが施されていたことも確認された。
 出土した年代や大きさなどから、義満が、禅宗寺院・相国寺に築いた高さ110㍍の七重塔が落雷で焼失した翌年の応永11(1404)年、自分の別荘の北山殿に再び建てようとした同規模の北山大塔の可能性が高いという。
 当時の貴族の日記によると北山大塔は同年4月に起工式を行い、応永?年に落雷で焼失したとされるが、一部の専門家は未完成だったと指摘。塔の存在も疑われてきたが、同資料館は「詳細な場所や塔の規模、構造の特定は難しいが、きらびやかで壮大な塔の存在は裏付けられた」と話している。[2016.07.08]
via http://www.sankei.com/west/news/160708/wst1607080056-n1.html

・祭祀王になる! 足利義満の夢のタワー 室町時代の新都心のランドマークか
 「金閣寺七重塔は本当にあった」-。国内有数の観光寺院、金閣寺(京都市北区)から、室町幕府3代将軍、足利義満が600年前、寺の前身・北山殿に建てた高さ110メートルの七重塔、北山大塔の破片が出土した。これまで塔に関する記録は少なく、実在の有無さえ疑われる幻の存在だっただけに、専門家からは驚きの声があがった。

■比類なき財力で建設
 幻の塔が実在したことを示す遺物の発見に「興奮した」と話すのは早島大祐・京都女子大准教授(日本中世史)だ。
 これまで歴史上最も高い木造建築物とされていたのは、高さ約110メートルの相国寺七重塔。北山大塔は相国寺七重塔が落雷で焼失した翌年の応永11(1404)年から建設を始まったと記録があり、早島准教授は「その財力は相当なもの。日明貿易の成功が大きかった」と指摘する。
 義満は南北朝の戦いで疲弊した朝廷の合一に尽力。その権力は上皇、天皇を突き抜け、過去に例のない位置までのぼりつめた状況だったという。

※北山大塔の原形ともされる相国寺七重塔の復元図
WS003

■新都心のシンボル
 調査では、塔が立っていた場所などは分からなかったが、出土を発表した京都市考古資料館の前田義明館長は「塔は、そんなに遠くない場所にあったことは間違いない」と話す。
 出土状況から「頑丈な青銅製だが、破片が飛び散るぐらいにたたきつけられたような感じ。落雷で塔が倒壊した際に相当なショックを受けたのだろう」と話す。
 足利幕府と寺院の関係について研究を行っている池坊総務所池坊中央研究所の細川武稔さんは、義満は北山殿周辺に新都心を建設しようとしていたと指摘。街の中心を通る南北道の先に塔があったと想定し「真っすぐに延びた道の先に建つ姿は壮麗だったに違いない」と思いをはせた。

■祭祀王としてアピール
 足利義満はなぜ、これほどまでにタワー建設にこだわったのだろうか。早島准教授は「父、義詮(よしあきら)の菩提(ぼだい)を弔うのが第一としつつ、金色に輝く金閣と合わせてシンボルにしたかったのでは」と話す。
 また、義満は北山殿で政務を行うと同時に朝廷顔負けの宗教儀式を重ねていたという記録も残る。
 今谷明・帝京大教授(日本中世史)は「国内外に朝廷以上の国王として、また祭祀王としての自分を強烈にアピールしたかったのだろう」と話していた。
via http://www.sankei.com/west/news/160708/wst1607080063-n1.html




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