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[訃報] 内田裕也さん逝く 79歳 希林さんの死から半年 もう聞けない“ロケンロール” はてなブックマーク - [訃報] 内田裕也さん逝く 79歳 希林さんの死から半年 もう聞けない“ロケンロール”


 ロック歌手で映画俳優としても活躍した内田裕也(うちだ・ゆうや、本名内田雄也)さんが17日5時33分、肺炎のため、東京都内の病院で死去した。79歳。兵庫県西宮市出身。17年11月に脱水症状で倒れてから車椅子生活を余儀なくされていた。18年9月15日に妻で女優の樹木希林さん(享年75)に先立たれ、喪失感が消えない中での死となった。都知事選出馬など常に話題を提供し続けたロック界のカリスマだった。葬儀は近親者のみの家族葬で執り行い、後日お別れ会を執り行う。
 希林さんの死から半年、波乱に満ちた“ロケンロール人生”に幕が引かれた。年明けから体調が悪化し、17日に天に召された。1995年に俳優の本木雅弘(53)と結婚した長女の也哉子(43)らが裕也さんの遺体に寄り添った。
 晩年は病気やケガと闘う日々が続いた。16年11月に英国ロンドンのホテルの浴室で転倒し、尾てい骨を強打。17年夏には転倒して右足甲を骨折。さらに同11月に脱水症状を起こして緊急入院するなど、満身創痍(そうい)だった。
 完全復帰を目指してリハビリに励んできたが、日増しに体力は低下。自身が主催する恒例の年越しライブ「ニューイヤーロックフェスティバル」にも17~18年からは車椅子で出演。執念で立ち上がり、熱唱する状況が続いていた。12年から毎年欠かさず参列していた3月11日の東日本大震災の追悼式も今年は欠席していた。
 エルビス・プレスリーに憧れて高校を中退し、1957年にバンドボーイとして音楽活動をスタートさせた。幾つかのバンドを渡り歩き、66年のビートルズ日本公演では尾藤イサオ(75)らとの特別編成のバンドで前座を務めた。
 同年、大阪のジャズ喫茶「ナンバ一番」で活動していた沢田研二(70)らをスカウト。これが後のザ・タイガースとなった。67年には麻生レミをボーカルに据えて結成したフラワーズにジョー山中さんらが参加し、フラワー・トラベリン・バンドとして再編成。アルバムがカナダチャートで8位を記録するなど海外でも活躍し、邦楽ロックの礎を築いた。
 70年代からは映画俳優としても活躍。崔洋一監督の「十階のモスキート」(83年)、自ら脚本を手掛けた滝田洋二郎監督の「コミック雑誌なんかいらない!」(86年)など話題作に主演した。  私生活では故かまやつひろしさんの紹介で出会った希林(当時悠木千帆)さんと73年10月にスピード結婚。裕也さんの家庭内暴力などもあり、1年半で別居生活に入った。81年には一方的に離婚届を提出。希林さんが訴訟を起こし離婚成立を阻止する一幕もあった。
 別居生活は43年半にも及び、裕也さんは大麻取締法違反(77年)、銃刀法違反(83年)、そして強要未遂と住居侵入容疑(11年)と3度の逮捕歴を重ねた。それでも離婚には踏み切らなかった。
 2人にとってお互いは特別で最愛の存在だった。長女の也哉子が離婚しない理由を聞いた際に希林さんは「彼にはひとかけらの純なものがあるから」とし、一方の裕也さんも「一生頭が上がらない」と話していた。
 91年には東京都知事選に出馬。政見放送で「パワー・トゥ・ザ・ピープル」と「コミック雑誌なんかいらない!」を歌うなど自由奔放な人生を貫き「シェキナベイベー」の名言も残した。[2019.03.18]

 ◆内田 裕也(うちだ・ゆうや)1939年(昭14)11月17日生まれ、兵庫県出身。神戸のジャズ喫茶でならし、エルビス・プレスリーに憧れて上京。58年にブルージーン・バップスを結成し59年にデビュー。渡辺プロ退社後の67年からヨーロッパを1年あまり放浪。帰国後、日本ロックの振興に大きく貢献した。阪神大震災、東日本大震災発生後はいち早く被災地に入り、ジョー山中さんや安岡力也さんら“ファミリー”を引き連れ炊き出しなどを行った。
 via https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2019/03/17/kiji/20190318s00041000109000c.html


・樹木希林さん死去から半年‥内田裕也さん訃報に多くの悲しみ広がる
 https://matome.naver.jp/odai/2155286528888156101

・内田裕也さんは、ロックンロールに人生を捧げた。「ヒット曲ない」と自嘲する“ロック界のドン”  
 https://www.huffingtonpost.jp/entry/rocknroll-yuya_jp_5c8ee625e4b0d7f6b0f4dfc4

・放送事故も...亡くなった内田裕也さんのロックな伝説とは?
 https://matome.naver.jp/odai/2155285393183878701

・内田裕也 :Wikipedia

・内田裕也さん、別居43年半も妻に守られた破天荒人生
 11年にストーカーでの逮捕時には希林さんが自宅に報道陣を上げて会見し、「逮捕してくれてありがたい」と矢面に。裕也さんがいつ帰ってきてもいいようにと“裕也部屋”を作ってあるといい、「縁あって結ばれた好きな人。添い遂げるのが当たり前」ときっぱり言い切った。
 昨夏にフジテレビ系で放送された裕也さんのドキュメンタリー番組には、全身がんで闘病中だった希林さんがナレーションで“共演”した。
 同9月に愛妻が死去した際、裕也さんは「見事な女性でした」と感謝。納骨時にはあごの骨を持ち帰り、深い愛情を見せた。その半年後、「裕也さんに会いたい」と死ぬまで言っていた希林さんに呼ばれるように天国へ。絶対に離婚しなかった妻は生前、長女でエッセイストの内田也哉子(43)に「だってお父さんにはひとかけらの純なものがあるから」と愛しげに語っていた。

★内田裕也さんのトラブル史
 ◆大麻取締法違反で逮捕 1977年、長崎県警佐世保署に大麻取締法違反の疑いで逮捕される(起訴猶予処分)
◆音楽興行事務所に殴り込み 83年、ウドー音楽事務所に「外国人ばかり使うな!」と包丁を持って乱入し、銃刀法違反で逮捕
 ◆東京都知事選出馬 91年、アントニオ猪木が出馬表明を撤回したことに触発され、交際相手の女優に選挙資金を提供してもらい、立候補。政党推薦のない無所属候補では最多の5万4654票を獲得するも落選
 ◆傍聴 2009~12年の民主党政権時代、国家予算見直しで行政刷新会議が行った「事業仕分け」を「ロック界の代表として政治に無関心でいられない」とたびたび傍聴
 ◆ストーカーで逮捕 11年、元交際相手のキャビンアテンダント(当時50歳)に復縁を迫り、東京都内の女性宅に侵入した容疑で逮捕(起訴猶予処分)
 via https://www.sanspo.com/geino/news/20190319/geo19031905030006-n1.html

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[訃報] 女優:市原悦子さん死去 82歳 はてなブックマーク - [訃報] 女優:市原悦子さん死去 82歳


多くの映画やテレビドラマに出演し、民放のテレビアニメ「まんが日本昔ばなし」で、声優としても親しまれた俳優の市原悦子さんが、12日、心不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。82歳でした。
市原悦子さんは千葉県出身で、昭和32年に俳優座に入団し、舞台や映画を中心に優れた演技力を発揮しました。
昭和46年に俳優座を退団してからは活躍の場を広げ、民放のテレビドラマ「家政婦は見た!」の主役の家政婦役で人気を集めると、平成2年には、広島の原爆の被害を描いた映画「黒い雨」で日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞し、俳優としての地位を確かなものにしました。
また、平成8年に放送されたNHKの大河ドラマ「秀吉」で豊臣秀吉の母、大政所を演じるなど、数多くのテレビドラマに出演しました。
一方、昭和50年からおよそ20年間にわたって放送された民放のテレビアニメ「まんが日本昔ばなし」では、愛きょうのある独特の声がお茶の間に親しまれました。
市原さんは2年余り前、自己免疫性脊髄炎と診断され、休養していましたが、去年3月にNHKの番組「おやすみ日本」の中の昔話の語り手として復帰し、先月にも入院先の病院で収録を行っていました。
所属事務所によりますと、市原さんは、12日午後1時半すぎ、心不全のため、東京都内の病院で亡くなりました。
82歳でした。
市原さんの告別式は、今月18日に東京 港区の青山葬儀所で行われます。

■竹中直人さん「深い愛を持った声 耳に深く残る」
市原さんは、NHKの大河ドラマ「秀吉」で豊臣秀吉の母、大政所を演じました。
豊臣秀吉の役を演じた俳優の竹中直人さんは、市原さんが亡くなったことについて、「大河ドラマで市原悦子さんとぼくは母と息子の関係でした。一年間共にひとつの作品を作れた事は今もぼくの宝物です。市原さんの深い愛を持った声の音色はあの頃のぼくに勇気と力を与えてくれました。そして今もぼくの耳に深く残っています…ご冥福をお祈りいたします」と事務所を通じてコメントしています。

■新海誠監督「信じがたく とても残念」
市原さんは、人気アニメーション映画「君の名は。」で、ヒロインの祖母の声を演じていました。
新海誠監督は、市原さんが亡くなったことについて、ツイッターで「信じがたく、とても残念です。僕は『まんが日本昔ばなし』で育ちました。『君の名は。』の収録で初めて市原さんにお会いした瞬間、初めてセリフをいただけた時の感動、披露試写であたたかいお言葉を頂いた時、すべてつい昨日のようです」とコメントしています。

■「日本のお母さんのような人」
市原さんが亡くなったことについて、東京 渋谷では悼む声が聞かれました。
東京に住む58歳の男性は「温かい、日本のお母さんのような人でした。本当に大事な人を亡くして残念ですが、みんなの心の中に残っていると思う」と話していました。
東京の84歳の女性は「親しみがある俳優で、市原さんが出るテレビは安心して見ていた。私より少し若い方で、私が生きている間は楽しませてもらいたかった。残念です」と話していました。
横浜市の51歳の女性は「市原さんが声を担当していた『まんが日本昔ばなし』がすごい大好きで、ドラマなどでもよく見ていました。人として重みがある人がどんどん亡くなっていくのがさみしく思います」と話していました。[2018.01.13]
via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190113/k10011776901000.html

 テレビドラマ「家政婦は見た!」などで知られる女優の市原悦子(いちはら・えつこ、本名塩見悦子=しおみ・えつこ)さんが12日午後1時31分、心不全のため死去した。82歳だった。千葉県出身。葬儀は18日午前11時から東京都港区南青山2の33の20の青山葬儀所で。葬儀委員長は所属事務所のワンダー・プロダクション社長熊野勝弘(くまの・かつひろ)氏。
 1957年俳優座入団。児童劇でデビュー後、同劇団の舞台で頭角を現した。退団後は夫で演出家の塩見哲さんと番衆プロを設立。ドラマや映画、演劇などで幅広く活躍した。75年に始まったテレビアニメ「まんが日本昔ばなし」では、登場人物の声を俳優の常田富士男さんと2人ですべて演じ、独特の語り口で親しまれた。2時間ドラマ「家政婦は見た!」(テレビ朝日系)では他人の家の秘密を暴く主人公をコミカルに演じ、25年にわたって放送が続く人気シリーズとなった。
 映画「黒い雨」で90年、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞受賞。
 2017年1月に病気のため一時休業を発表。昨年3月からはNHK番組の朗読の仕事を続けながら療養していた。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019011300374&g=soc

・俳優の市原悦子さん死去…突然の訃報に悲しみの声が広がっている
 https://matome.naver.jp/odai/2154737293980539401

・市原悦子:Wikipedia
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[訃報] 樹木希林さん死去=女優「寺内貫太郎一家」-75歳 はてなブックマーク - [訃報] 樹木希林さん死去=女優「寺内貫太郎一家」-75歳

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 テレビドラマ「寺内貫太郎一家」や映画「万引き家族」など数多くの作品で個性的な脇役として活躍した女優の樹木希林(きき・きりん、本名内田啓子=うちだ・けいこ)さんが15日午前2時45分、東京都内の自宅で死去した。75歳だった。東京都出身。葬儀は30日午前10時から東京都港区南麻布4の11の25の光林寺で。
 1960年代に悠木千帆(ゆうき・ちほ)の芸名でドラマ「七人の孫」「時間ですよ」などに出演し、人気を得た。74年、TBS系ドラマ「寺内貫太郎一家」に小林亜星さん演じる主人公・貫太郎の母役で出演。見事な老け演技と、沢田研二さんのポスターの前で身もだえながら「ジュリー」と叫ぶ場面がお茶の間の話題となった。77年にテレビ番組の企画で樹木希林に改名した。
 近年は映画を中心に活躍。「歩いても 歩いても」でナント三大陸映画祭最優秀女優賞、「東京タワー~オカンとボクと、時々、オトン~」「わが母の記」で日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受けるなど内外の高い評価を得た。今年5月にフランスで開かれたカンヌ国際映画祭で最高賞を受賞した「万引き家族」にも出演。是枝裕和監督らと現地入りし、レッドカーペットを歩くなど元気な姿を見せていた。
 70年代後半にはドラマで共演した郷ひろみさんとのデュエット曲「林檎(りんご)殺人事件」などが大ヒット。フジカラーのCMでのユーモラスな掛け合いなどでも親しまれた。
 5年前に全身にがんが転移していることを公表。先月には大腿(だいたい)骨を骨折して療養していた。
 73年に結婚した内田裕也さんとの間に生まれた一人娘の也哉子さんは俳優の本木雅弘さんの妻。2008年紫綬褒章、14年旭日小綬章。
[2018.09.16]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018091600413&g=obt

・カッコよかった名女優・樹木希林さん、さようなら
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 個性派女優として知られた樹木希林(きき・きりん、本名・内田啓子=うちだ・けいこ)さんが15日午前2時45分に都内の自宅で死去した。関係者が16日、明らかにした。75歳だった。死因の詳細は明らかになっていないが、2012年に「全身がん」であると告白。今年8月には転倒して左大腿(だいたい)骨を骨折し、一時危篤状態になったことを義理の息子で俳優の本木雅弘(52)が公表していた。通夜はこの日、近親者のみで営まれ、葬儀は30日に港区内で執り行われる予定だ。
 センスと実力に裏打ちされた変幻自在の演技に加え、歯に衣(きぬ)着せぬ発言で幅広い世代に愛されていた樹木さんが、6年にわたる全身がんとの闘いに、ついに力尽きた。
 関係者によると最期は家族に囲まれ、自宅で息を引き取ったという。先月13日に知人宅の外階段で転び、左大腿骨を骨折。手術後は、一時危篤状態に陥ったこともあったが、危機を回避して復帰に向け、リハビリを行っている最中と本木が説明していた。
 1961年に文学座付属演劇研究所に1期生として橋爪功や寺田農らと入所。在団中からテレビにも活躍の場を広げ、64年の「七人の孫」で演じた東北弁のお手伝いさん役で人気を博した。「寺内貫太郎一家」では、人気歌手・沢田研二のポスターの前で「ジュリー!」と身もだえ。郷ひろみとのデュエット曲「林檎殺人事件」では「フニフニ…」とユーモラスなダンスを披露。「美しい人は美しく、そうでない方はそれなりに」に代表される富士フイルムのCMも毎年話題に。自らの芸名「悠木千帆(ゆうき・ちほ)」をチャリティー番組でオークションにかけるという前代未聞の行動も。怪演ぶりはドラマや映画で欠かせない存在になった。
 年齢を重ねるにつれ、出演作品はむしろ増加。今年のカンヌ国際映画祭で最高賞のパルムドールを受賞した「万引き家族」の是枝裕和監督(56)の作品には“常連”として出演、順調な女優生活を続けていた。
 一方で、60代に入ってからは病魔との闘いが続いた。2003年に左目の網膜剥離を発症して失明。翌04年には乳がんが見つかり、右乳房の全摘出手術を受けた。その後も腸や副腎、脊椎などにもがんが見つかり、20か所を治療。がん体質であることを指す「全身がん」が理由だったことを12年にスポーツ報知のインタビューなどで告白した。
 最後に公の場に姿を見せたのは、7月31日。京都の建仁寺で行われた映画「日日是好日(にちにちこれこうじつ)」(大森立嗣監督、10月13日公開)のイベントだった。「(撮影時から)10キロ痩せて、(身長が)7センチ縮んだ。自分の体を面白く見ていました」。闘病のために弱った体を自虐的に話した。
 「一時危篤」が明らかになった先月30日の会見では「細い糸1本でやっとつながってる。声一言もでないの。しぶとい困った婆婆です」との言葉が書かれたイラスト付きの文面を本木に託し、ちゃめっ気を見せていた樹木さん。ファンが心配しないよう、最後まで「らしさ」を見せたまま旅立った。

 ◆樹木 希林(きき・きりん)1943年1月15日、東京都生まれ。64年文学座研究所時代に出演したTBS系「七人の孫」(森繁久彌主演)で注目される。65年座員になるも翌年退団。77年旧芸名「悠木千帆」をテレビの企画でオークションにかけ「樹木希林」に改名。代表作は報知映画賞主演女優賞を受賞した河瀬直美監督「あん」。主な出演作に「寺内貫太郎一家」、「夢千代日記」、「歩いても 歩いても」、「わが母の記」など。64年に岸田森さんと結婚するも離婚。73年に内田裕也と再婚。娘の内田也哉子は95年に本木雅弘と結婚している。
via https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180917-OHT1T50015.html

・女優・樹木希林さん死去‥突然の訃報に驚きと悲しみが広がっている
  https://matome.naver.jp/odai/2153708394822554701

・樹木希林 :Wikipedia
・女優 樹木希林さん 写真特集:https://www.jiji.com/jc/d4?p=kkk001&d=d4_psn
・樹木希林さんの足跡を写真で振り返る【画像集】
  https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/17/kikikirin-image_a_23529598/

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※映画「万引き家族」でカンヌ国際映画祭に参加した樹木希林さん(右)と是枝裕和監督(2018.05)

・女優の樹木希林さんが死去 75歳 2012年に「全身がん」公表
 「全身がん」を公表していた女優の樹木希林(きき・きりん、本名・内田啓子)さんが15日に死去したことが16日、分かった。75歳だった。シリアスからコメディまでこなせる個性派俳優として活躍する一方、2012年に、がん体質であることを指す「全身がん」を公表。04年の乳がん発症以降、約20か所のがんと闘ってきたが、ついに帰らぬ人となった。
 20代からおばあちゃんを演じ、コメディからシリアスまで、変幻自在の演技で日本を代表する演技派女優として活躍した希林さんが静かに旅立った。
 関係者によると、希林さんは15日午前2時45分、家族に見取られながら、静かに息を引き取った。葬儀は同30日に東京都港区南麻布の光林寺で営まれる。
 今年8月13日に知人宅の外階段で転び、左大腿骨を骨折。娘の内田也哉子(42)に付き添われて病院に行き、同15日に足にチタンを入れる手術を受けた。也哉子の夫で俳優の本木雅弘(52)は同30日に容体を説明。「一時は危篤状態の場面もありましたが、無事に危機を回避した」と話していた。
 2012年にがん体質であることを指す「全身がん」を本紙インタビューなどで告白。翌年2月の日本アカデミー賞では表彰式のテレビ中継で「全身がん」を改めて公表した。
 毒舌で開けっぴろげな性格に見える希林さんを変えたのは、やはりがんだった。最初に襲ったのは乳がん。04年に見つかり、翌年右乳房を全摘手術した。その後、腸や副腎、脊椎などにも見つかり、治療は約20か所にも及んだ。
 最初のがんから14年。人生観、死生観も変わった。「がんがありがたい」と思えるようになっていた。「私の場合、体に広がる全身がん。でもがんに感謝。経験してなければろくに『死』にも向き合わず、内田(裕也)さんのこともちゃんと理解しようと思わなかった」
 最初のがんの術後が良くなく、苦しみ、独学でがんを猛勉強した。希林さんが選択したのが「体への負担が少ない」とされる放射線をピンポイントで照射する方法だった。「がんが見つかってもおっかなびっくりしない。出ればつぶせばいい。がんには必ず要因がある。生活習慣も見つめ直す。簡単に治らないからこそ、自分に客観的になれ、生き方がつましくなった」と語っていた。
 がんだけではない。03年には左目の網膜剥離を発症し、役者にとっては致命的な失明宣告を受けたこともあった。一時は視界は真っ白で何も見えない状態に。しかし医師の勧めた手術に納得できず、拒んだ。しばらく様子を見ていると、少し視力が戻る奇跡が起きた。「人間には医師も理解できない不思議な自然治癒力があるのよ」が口グゼだった。
 日本を代表する女優の一人でありながら、マネジャーなしでスケジュールも出演料も、すべて自分で管理し、決めていた。この理由も「社員を抱えると責任を感じる」と自身の病気が背景になっていた。「でも何の痛痒も感じない。一人で何ら困ったことはないわ」と答えていた。
 夫のミュージシャン、内田裕也とは別居しながら暮らす独特の夫婦関係を続けた。夫が事件で世間を騒がせた時も「私は逃げ隠れするのが一番嫌だから」と率先してマスコミに対応し、自ら詳細を説明した。離れて暮らしながらも、心の中で夫を思い続けていた。
via https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180916-OHT1T50170.html


・内田裕也、樹木希林さんの最期みとれず…
WS001
 樹木さんの夫で、ミュージシャン、映画監督の内田裕也(78)は16日、樹木さんの自宅を訪れ、無言の対面を果たした。最期をみとることはできなかった。関係者は、内田について「急なことでとてもショックを受けている。心と頭の整理がつかない状況」と説明。数日中にコメントを出すという。
 2人はムッシュかまやつさんらの紹介で出会い、1973年10月に結婚するも、同居したのはわずか1年半。76年、長女・也哉子誕生後も、別居婚を続け、内田は81年に離婚届を提出した。しかし、樹木さんが裁判所に離婚届の無効を訴えて認められると、つかず離れずの独特の夫婦関係を築いてきた。
 内田は14年にスポーツ報知のインタビューで樹木さんについて「KKさん」と呼び、「オノ・ヨーコさんを紹介したら妙に仲良くなりやがってね。俺すっとばして、今でも日本来たら必ず食事してるらしいよ。そのツーショットは見たくないよ。ちょっと引くよなあ」などと愛情を込めて語っていた。15年に樹木さんが報知映画賞主演女優賞を受賞した際には「俺が家族の中で一番最初に報知映画賞を2つ取ったんだよ。ひそかな俺の自慢だったんだけどな。でも、いい話だな。ロックンロールだ」と祝福していた。
 樹木さんは16年にNHKの番組に出演した際、「自宅でみんなに囲まれて、夫に『どちら様ですか』と言って死にたい。『俺のことは連れて行くな』と言われてるのよ」とコメント。また今年7月の映画のイベントでは「もし、縁があってこの地球上に戻って来ることがあったら、小さな茶室を設けて、夫と向き合って、静かな人生を送りたいなぁ……という気持ちになりましたね」と話していた。
 内田は昨年脱水症状で入院。今年7月、テレビのドキュメンタリー番組で車イス生活を送る姿が放送されたが、現在は自宅療養し、恒例の年越しライブに向けて準備しているという。
via https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180917-OHT1T50081.html

・樹木希林さん「出会いが貯金に」=脇役から個性派に
 異能の女優、樹木希林さんが亡くなった。どんなに小さな役柄でも存在感を発揮する演技で見る者を楽しませ、「衣装を着て、7、8割の形ができれば、ところてんみたいに自然に役の気持ちが出てくる。だから苦労はないんです」とおおらかに話していた。
 当初は堅実に脇を締める俳優の印象もあったが、ドラマ「寺内貫太郎一家」で演じた変な「おばあちゃん」役や、「美しい方はより美しく、そうでない方はそれなりに」が流行語にもなったCMなどが受け、個性派として引っ張りだこの存在になった。
 後年は「体力がなくなってテレビのサイクルについていけなくなった」との理由で、活躍の場を映画にシフト。「私は遅れてきた映画参加者」との言葉とは裏腹に、「作品を選ばない」をモットーに積極的に話題作、問題作に出演した。
 半世紀以上に及ぶ女優生活で大きな糧になったのは、「寺内貫太郎一家」などで組んだテレビディレクターの故久世光彦さんやドラマ「七人の孫」で共演した故森繁久弥さんら「当時の芸能界の先頭を走っている人との出会い」だったという。「その面白さと大変さが今の私の貯金になっている」と語っていた。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018091600455&g=soc

・「生きるのも日常、死んでいくのも日常」  樹木希林さんが語っていた死生観
9月15日に死去。話題の広告についてコメントしていた。
「生きるのも日常、死んでいくのも日常」ーー。かつて女優の樹木希林さんが語っていた死生観を象徴する言葉だ。
2016年に大きな話題となった宝島社の広告「死ぬときぐらい好きにさせてよ」にコメントとして発表したものだ。

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その樹木さんが9月15日、75歳で死去した。9月16日、テレビ朝日などが報じた。
がん闘病が伝えられていたが、今年、カンヌ映画祭で最高賞パルムドールを受賞した「万引き家族」での演技が高く評価されていた。
樹木さんといえば、2016年に登場した宝島社の企業広告「死ぬときぐらい好きにさせてよ」が大きな話題になったことも記憶に新しい。
死は特別なものとして捉えられているが、死というのは悪いことではない。
ジョン・エヴァレット・ミレイの代表的な作品「オフィーリア」をモチーフに、グリーンのドレスに身を包み、水の中に横たわる樹木希林さんの姿に「死ぬときぐらい〜」のコピー。正月早々、全国紙に大きく掲載された広告は大反響を呼び、その年の広告賞を軒並み受賞した。
当時のプレスリリースで樹木希林さんは死生観をこう語っている。
「生きるのも日常、死んでいくのも日常」
死は特別なものとして捉えられているが、死というのは悪いことではない。
そういったことを伝えていくのもひとつの役目なのかなと思いました。

すべては日常の中にある。死と向き合っていた個性派女優らしい言葉だった。
via https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/16/kikikirin_a_23528585/

・死ぬときぐらい好きにさせて…亡くなった樹木希林さんの死生観がすごかった
 https://matome.naver.jp/odai/2153710009329567401

・樹木希林さん「がんに感謝」壮絶闘病を支えた独自の人生哲学
9月16日、樹木希林さんが都内の自宅で亡くなっていたと各紙が報じた。75歳だった。各紙によると樹木さんは、家族に看取られながら息を引き取ったという。
13年の日本アカデミー賞表彰式で全身がんであると明かした樹木さん。先月13日に左大腿骨を骨折し、入院。その際に娘婿である本木雅弘(52)が気管支の弱さやがんの影響から「一時は危篤の状態だった」とイベント内で発言し、心配の声が上がっていた。
乳がんの後、がんが副腎と脊椎に転移。さらに今年3月には、骨にも転移していたという。そういった自らの宿命を受け入れるには、想像を絶する覚悟が必要だと思われるが――。
「樹木さんは、がんのおかげで自分の死と向き合うようになったそうです。自分の人生を改めて振り返る機会にもなり、『むしろ、がんに感謝している』とも話していたほどでした。生活習慣を慎ましくすることで、新たな発見があったとも明かしていたとも。そこには、どんな苦境に立たされても楽しむという樹木さん独自の哲学がありました」(芸能関係者)
現実を受け止め、最後まで自分らしさを貫いた樹木さん。
Twitterでも《闘病中だとあっけらかんとおっしゃいながら元気にお仕事されていた印象。まだまだ演じていただきたかったのに残念です》《樹木希林さんだけは死なないと思ってた……長い間本当にお疲れ様でした》《ガンと共存しながら自分らしく生きる。何度勇気もらったかわからない。ありがとうございました》との声が上がっている。
長い闘病生活を終え、今は心安らかに眠っていることだろう――。
 via https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1665469/


・樹木希林がチューブつけ寝たきり状態、“覚悟の外出”も断念
 9月4日の午後7時半過ぎ。台風21号の影響でジメジメとした空気が漂う中、明治記念館(東京・港区)には多くのメディア関係者が集まっていた。
「蓬莱の間」で行われたのは、10月13日公開の映画『日日是好日』のプレミアム試写会。壁一面に飾られている、「蓬莱山」を描いた縦3.6m、幅18mもある綴錦織を左手に、主演の黒木華(28才)や大森立嗣監督(48才)らが立ち、挨拶。フォトセッションには高円宮久子さま(65才)もご臨席され、会は滞りなく終了した。
 報道陣が最も気にしていたのが、樹木希林(75才)の“動向”だった。この映画は、黒木演じる主人公が茶道を通して成長していく物語で、樹木は茶道教室の先生という重要な役を演じている。
「当初、希林さんは試写会に出席する予定はなく、事前にマスコミに配られていたリリースにも名前はありませんでした。しかし、“極秘で試写会に来る”という情報が流れ、そのために集まったメディア関係者も少なくなかったようです。が、結局は前日に急遽キャンセル。“この度高円宮久子妃殿下(中略)の御臨席を賜りましてひたすら有難く頭を低れるばかりです 台風接近もともない申し訳なく涙涙でございます 心ふるえるような時をいただいてをります”という直筆メッセージが配られ、黒木さんが代読しました」(スポーツ紙記者)
 樹木は8月13日に左大腿骨を骨折し、15日に手術。現在も入院生活を送る。
「希林さんは久子さまが試写会においでになることを病室で聞き、“ありがたい”と、拝むように胸の前で手を合わせました。そして“なんとしても私も出席したい”と話したそうです。久子さまは2015年に希林さんが主演した映画『あん』の試写会にもご臨席されていて、以前から交流がありました。久子さまがお出ましになられたのも、“樹木さんが出られるから”という理由もあったそうです。希林さんは無理を押して試写会に出席しようと考えていましたが、試写会の前々日、体調が急変。本人は“最後の外出”というくらいの覚悟はあったようですが…」(樹木の知人)
 8月30日、樹木の娘・内田也哉子(42才)の夫で義理の息子にあたる本木雅弘(52才)が、「全国統一防災模試」のPRイベントに出席し、樹木がけがをした経緯と容体について語った。樹木は8月13日、知人宅の階段を無理して上った際に骨折し、一緒にいた也哉子が樹木を抱えて病院に連れていったという。

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 15日に骨折した箇所にチタンを入れる手術をしたが、本木によれば「一時は“危篤状態”みたいな場面もあった」という。気管支が弱いことに加え、「がんの影響もあって肺に弱っている部分があった」ことが原因だという。
 本木はさらに、樹木が描いたというイラストも公開。そこには《細い糸1本でやっとつながってる 声一言もでないの しぶとい 困った 婆婆です》という樹木の言葉も書き込まれていた。

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「本木さんは、手術前に希林さんが夫の裕也さんに“もしものことがあったら…今までいろいろ悪かったわね”と電話をし、裕也さんが“おーそうか、こっちこそ悪かったな”と応じたことも話しました。ただ、あえてそういったエピソードや危篤だったことを明かしたり、希林さんの自虐的なイラストを見せるなど、“元気だ”ということをアピールしているようにも思いました」(テレビ局関係者)
 樹木は声が出ない中、筆談で生活を送り、リハビリに励んでいるという。本木は「全治6週間」と説明しているが、実際にはそう楽観視できる状態ではないようだ。
「肺に取り込める酸素の量が少ないため、息苦しい状態が続き酸素マスクをつけています。食べ物を誤嚥してしまった際に吐き出す力がないので、流動食しか口にすることができないそう。寝たきりの状態で、全身の筋肉も落ちている。体は至るところがチューブでつながれており、見た目は痛々しいです。動ける状態ではないため、試写会への登壇は断念せざるをえず、外出は叶いませんでした」(前出・知人)

■寝たきりになり体に負担がかかる
 樹木は長きにわたる闘病を続けてきた。乳がんが見つかったのは2004年夏。翌年には右乳房の全摘出手術を受けたが、2008年頃にはがんが副腎、脊髄にまで転移していることが判明。以降、受けてきたがん治療は実に30回にもわたる。
 2013年3月には日本アカデミー賞授賞式で「全身がん」宣言をし、世間を驚かせた。それでも公の場では決して笑顔を絶やさず、「死ぬ死ぬ詐欺です」と自嘲してきたが、体調が思わしくなく、苦しそうなことも多かったという。
 そんな樹木に、一時も離れることなく寄り添っているのが、娘の也哉子である。
「今年5月にカンヌ国際映画祭で『万引き家族』が最高賞のパルムドールに輝き、出演していた希林さんが授賞式のためにカンヌに赴いたときもそうでした。希林さんが車から降りる時は也哉子さんが必ず介助し、歩く時は傍らでサポート。常に希林さんの近くで様子を見守っていました」(カンヌを取材したメディア関係者)
 現在も常に樹木に付き添い、必死の介護をしているという。果たして、樹木の病状とは―清水整形外科クリニックの清水伸一院長が説明する。
「樹木さんが“チタンを入れた”ということは手術を受けてプレートで固定したり、人工関節を入れた可能性が高い。一時的に危篤状態になったということは、術後に出血して貧血を起こし、心肺機能が低下したことが想定されます。また、術後、寝たきりの状態が続けば、静脈がうっ血し、血液粘度が上昇して血栓が飛ぶことがある。その症状を『深部静脈血栓症』といい、血栓が肺に流れたら『肺塞栓』、脳に流れれば『脳塞栓』が起き『脳梗塞』にいたる可能性もあります。いずれにせよ、体は大きなダメージを受けているはずです」
 大女優の、一日も早い復活が望まれる。[2018.09.06]
via https://www.news-postseven.com/archives/20180906_755569.html


・郷ひろみ&樹木希林/林檎殺人事件


◆フジカラーCM
・1980


・2000


・2008


・2015


・2018


◆1978-1995 樹木希林CM集


・樹木希林さん死去 AERAに明かした「ヌードより恥ずかしい姿」で見せた女優魂
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 https://dot.asahi.com/aera/2018091600019.html

・樹木希林さんに著名人が追悼の声続々 「カッコいい日本人としてのお手本」
 https://www.j-cast.com/2018/09/17338794.html?p=all
・樹木希林さん、現場で色々な言葉をかけていた。
 https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/16/kikikirin-rip_a_23529302/

・浅田美代子、亡くなる直前まで樹木希林さんに付き添っていた「身をもって死と向き合っていた」
 https://www.hochi.co.jp/entertainment/20180917-OHT1T50147.html

◆樹木希林さん、名物CMで「全国区」になった小さな町と40年続いた縁
9月15日に亡くなった俳優・樹木希林さんが出演したCMで、一気に知名度が上がった貼り薬「ピップエレキバン」。CMの舞台となったのは、北海道比布(ぴっぷ)町(人口約3800人)のJR宗谷本線比布駅だ。

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注目を浴びたあのCMから40年近くがたった。樹木さんの死去を機に調べてみると、樹木さんと駅は、40年近くたった後も意外な交流が続いていた。
比布駅は、大正時代に木材輸送の拠点として発展したものの、その後石北線の開通で産業が衰退、長く閑散としていた。
一躍脚光を浴びるようになったのは、1980年8月。「ピップエレキバン」のテレビCMが全国放送されたのがきっかけだった。

■どんなCMだった?
プラットフォームの駅看板を背に立つのは、樹木さんとピップエレキバンの製造会社の横矢勲会長(故人)。
「とうとうここまでやってきましたね」と会長と握手した樹木さんが「何か来ないうちにおっしゃったらどう?」と促し、会長が「ピップ...」と何か言い始めた途端、列車が大きな音をたてて通過。声がかき消されてしまう。
過ぎ去った後、「聞こえた?」と聞く会長に「ううん、なんにも」と樹木さんがとぼける。



■午前中1本しかない急行列車を狙った
町広報誌「広報ぴっぷ」の2016年8月号の特集によると、以前から個性的なCMを流していたピップエレキバンと同じ冠名の比布駅を、旅行中の大学生が見つけ、ぜひここでCMを、と79年に署名活動を展開したのがきっかけとされる。
CMは80年6月に撮影。午前中唯一の急行列車が駅を通り過ぎるのを狙って撮影したという。もしうまく撮影できなかった場合、次は夕方まで待たないといけない、緊張感あふれるものだったという。
このCMが大当たりし、全国から観光客が押し寄せた。入場券が1日1000枚も売れる日もあったという。
84年、駅が無人化になった後も駅の事務所が喫茶店となり、CMの舞台を見に、多くの観光客が訪れたという。

2015年には駅舎の老朽化による建て替えで、旧駅舎を取り壊すことに。その際、樹木さんは報道機関へのコメントとして撮影当時を振り返り、「列車通過のシーンで私の顔が真剣だったのが今も笑えます」「古い比布駅さまお疲れ様でした」と述べていたという。
新しい駅舎は、2016年9月4日に再オープンした。

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その際も、樹木さんは次のような自筆のお祝いメッセージとイラストをしたため、駅関係者に送っていた。

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比布グランドオープンめでたいわぁ~
あの頃 ぴっぷなんて地名があるのにビックリ!駅もあり神社もあり、おかげで面白いCMになったかなあ。
(おばあさんのイラストとともに)わたしは、こんなになったけど駅はこ~んなになったようで 嬉しいような淋しーーいような
マ、いいか
平成28年9月4日
当時ピップエレキバンCMガール
樹木希林


■樹木さんとの縁、いまも
ピップエレキバンCMで比布町の知名度を全国区にした、樹木さんとの縁はこれまでも続いてきた。町は旧駅舎取り壊しで改めて駅舎が注目された2015年、あのCMを再現したシーンを含む町紹介の動画を作った。



北海道新聞によると、村中一徳町長が2018年春、町の応援大使に就任してもらえないか樹木さんに頼んだ際、樹木さんは電話で体調不良を理由に固辞したものの「比布の発展を祈っています」と答えたという。
同年8月、町の応援大使に就任したのは、ピップエレキバンの製造元「ピップ」の松浦由治社長。町広報のブログによると、CMがきっかけで、町と同社は「比布deエレキバン杯」というパークゴルフ大会や車椅子の寄贈などで交流を深めてきたという。
樹木さんの訃報に際し、村中町長はTwitterでメッセージを発信した。


・内田裕也が妻・樹木希林さんへ追悼コメント発表「啓子 今までありがとう。見事な女性でした」     
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 15日に死去した女優の樹木希林(きき・きりん、本名・内田啓子)さん(享年75)の夫でミュージシャンの内田裕也(78)が20日、所属事務所を通じてコメントを発表した。
 「最期は穏やかで綺麗な顔でした。啓子 今までありがとう。人を助け 人のために祈り 人に尽くしてきたので 天国に召されると思う。おつかれ様。安らかに眠ってください。見事な女性でした」
 樹木さんとは1973年10月に結婚したが、同居したのは最初の約1年半だけ。その後は別居状態を続けながら、つかず離れずの独特な夫婦関係を築いてきた。
 関係者によると、樹木さんの容体が急変した14日深夜、親族が別居中の裕也に電話で連絡し、声が聞こえるようにスピーカーをオンの状態に。裕也は、次第に意識が薄れていく樹木さんに名前を呼ぶなど言葉を掛けた。樹木さんはそれから程なくして、息を引き取ったという。最期をみとることはできず、16日に樹木さんの自宅を訪れ、無言の対面を果たした。
 17日に都内の斎場で営まれた密葬に参列。黒スーツに黒いハット、メガネ姿で斎場を訪れた。関係者によると、長女で女優の内田也哉子(42)ら親族と会話する場面もあったが、終始うなだれた様子だったという。荼毘(だび)に付された際は遺骨を拾い、妻を見送った。その後、車いす乗り、無言で帰宅。同行した女性スタッフは「(裕也は)ショックを受けていて、気持ちを整理して後ほどコメントします」と話していた。
via http://www.hochi.co.jp/entertainment/20180920-OHT1T50110.html
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安室奈美恵、ラストステージは笑顔で締めくくった はてなブックマーク - 安室奈美恵、ラストステージは笑顔で締めくくった

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安室奈美恵(40)が今日16日をもって、芸能界を引退する。引退前日の15日には、沖縄・宜野湾市の沖縄コンベンションセンターで行われた「WE■NAMIE HANABI SHOW前夜祭~I■OKINAWA/I■MUSIC~」(■はハートマーク)に出演し、平井堅(46)らゆかりのあるゲストらと共演した。倍率が数百倍ともいわれるプラチナチケットをゲットした3500人の前で8曲を披露し、ラストステージを飾った。会場周辺をはじめ、故郷が最後の“安室フィーバー”に沸いた。
イベント開始から1時間50分後の午後7時50分。暗転したステージ上に姿を現した。「安室ちゃんだ!」。この日一番の大歓声が上がる。ポニーテール姿で、右腕部分にレースをあしらうなどアレンジした黒のイベントTシャツに、パンツルック姿。トレードマークの赤のニーハイブーツの安室スタイルで、歌い踊った。「さわげ沖縄~!」とあおりながら、この日出演した平井堅らとのコラボも交えながら8曲を披露した。
ラストステージは、故郷で音楽を楽しめるフェス形式を選んだ。タイトルにも「I■MUSIC」と入れた。6月3日のラストドームツアー最終日には「皆さんの素晴らしい毎日の中に、音楽が常にあふれているよう、心から願っています。これからもすてきな音楽に、たくさんぜひ出合ってください」と呼び掛けた。複数歌手が出演する音楽イベントも、08年8月の「a-nation」以来10年ぶり。「今日はどうもありがとうございます。参加してくださったアーティストの皆さんに大きな拍手をお願いします」と笑顔で握手した。
最後のあいさつは「この会場に来てくださった皆さん、本当に本当にありがとうございましたー!」。登場から約40分。笑顔で手を振りながらステージを後にした。会場のファンは涙ながらに、大きな「ナミエコール」で送り出した。安室と同じ那覇市の首里地区出身という山城花織さん(33)金城絵里奈さん(35)は「最後まで安室ちゃんらしく、予想外のこともあって印象に残った。いろいろな人や音楽に愛されていたんだと思いました」と話した。
沖縄には多くのファンが集まり、県内は安室フィーバー状態だ。那覇市内の安室に関する展示会では行列ができた。沖縄市のプラザハウスショッピングセンターで開催中の展覧会「Final Space」は、午前6時ごろから当日券を求める列ができ、オープンの午前11時と同時に完売。各地の観光名所や飲食店は、安室のツアーTシャツを着たファンであふれた。
今日16日には、安室の楽曲と花火がコラボした「WE■NAMIE HANABI SHOW」(ぎのわんトロピカルビーチ)が行われる。安室の出演予定はないが、チケットは即完売。引退当日までフィーバーは続きそうだ。[2018.09.15]

◆安室奈美恵(あむろ・なみえ)1977年(昭52)9月20日、沖縄県生まれ。スーパーモンキーズを経て、95年4月に「太陽のSEASON」でソロデビュー。10代歌手の記録を次々と塗り替え、96年7月発売のアルバム「SWEET 19 BLUES」の初回出荷305万枚は当時の最高記録。97年に結婚し、翌98年に長男を出産も02年に離婚。NHK紅白歌合戦には10回出場。今年5月に沖縄県民栄誉賞。
via https://www.nikkansports.com/entertainment/news/201809160000109.html

・「騒げ、沖縄!」安室奈美恵、ラストライブで歌手人生最後の8曲
  https://www.sanspo.com/geino/news/20180916/geo18091605050013-n1.html

・沖縄で安室奈美恵さんラストライブ!アムロちゃんへの愛が街を包む。
 https://matome.naver.jp/odai/2153696212978111901

・安室奈美恵「沖縄ラストライブ」 サプライズゲストは不仲説の「山下智久」
 https://www.dailyshincho.jp/article/2018/09152255/?all=1

・“奈美恵コール”止まず‥安室さんラストライブが大きな感動に包まれた
 https://matome.naver.jp/odai/2153697862184169301

・山Pサプライズ登場!安室奈美恵ラストライブが異例づくしだった!
 https://matome.naver.jp/odai/2153705179608497601

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◆安室奈美恵さん、懐かしの名曲を、CDジャケットで振り返ってみた
■Can you celebrate?
シングル売り上げ第1位。ウェディングソングやカラオケの定番として今でも多くの人に歌われ続けている。人生の転機を挟んだ1997年、98年にも紅白で歌った思い出の曲。
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■Don't wanna cry
シングル売り上げ第2位。史上最年少(当時19歳)でレコード大賞を受賞した曲。
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■Chase the Chance
シングル売り上げ第3位。1995年の紅白初出場で歌った思い出の曲。
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■You're my sunshine
シングル売り上げ第4位。「シー・ブリーズ」のCMソングに...!
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■a walk in the park
シングル売り上げ第4位。カセットテープの日立マクセル「UD」のタイアップ曲。この曲がリリースされた1996年は「アムラー」が流行語になった。
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■Body Feels EXIT
小室哲哉氏プロデュース第1弾シングル
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■NEVER END
九州・沖縄サミットのテーマ曲となった
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■say the word
小室氏プロデュースを離れた後のシングル
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via https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/15/namie-amuro-lastlive_a_23527813/

◆「みんなは“強い安室”を求めてた」 安室奈美恵は26年間、何を語ってきたのか? ~1992年のデビューから引退までのコトバ (by近藤 正高)
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■“歌ではなく、演技を選んだ”少女
 安室が芸能の道へ進むきっかけは、よく知られるとおり、小学生のときに沖縄アクターズスクールに入学したことだ。友達の付き添いで見学に訪れた彼女に、校長のマキノ正幸がずば抜けた才能を見抜き、特待生として入学させたという話は語り草である。
 もともと音楽にそれほど興味があったわけではない。入学当初は、歌とダンスではなく、演技のクラスを選んだほどだ。それが友達のやっている歌やダンスの授業のほうが楽しそうに思えてきて、クラスを変更してもらうと、しだいに興味が高まっていく。歌うことを仕事にできればいいなと初めて思ったのは、中学に入り、スクールのイベントに初めて出演したときだという。

■「私、絶対に成功してみせる」母に見せた涙
 1992年、アクターズスクールの生徒たちにより結成されたスーパー・モンキーズの一員としてシングル「恋のキュート・ビート/ミスターU.S.A.」でメジャーデビュー。中学在学中は、沖縄と東京を往復しながら芸能活動をしていたが、卒業を機に上京する。このとき最後まで反対した母親は、出発当日の朝、安室からボストンバッグを力ずくで奪い取って止めようとした。だが、彼女は涙を流しながら「私、絶対に成功してみせる」と言ってバッグを取り返す。根負けした母は、ちょうど財布にあった2万円を渡すと、後ろ姿だけを見送ったという(『週刊文春』1998年5月28日号)。

 デビューしたあともけっして順風満帆ではなかった。ヒットに恵まれず、「沖縄に帰ろう」と何度も思ったという。ようやく1995年、安室奈美恵 with スーパー・モンキーズ名義による「TRY ME~私を信じて~」がヒット。同年4月には「太陽のSEASON」でソロデビュー、10月リリースの「Body Feels EXIT」より小室哲哉がプロデュースを手がけ、12月の「Chase the Chance」で初めてチャート1位を獲得する。以来、安室と小室のコンビは次々と大ヒット曲を生み出していった。

■「仕事も“安室奈美恵でいること”もやめたい」
 しかし、華々しい活躍の裏で、どん底もたびたび味わった。結婚と出産にともなう1年間の休業から復帰した直後には最愛の母を失くす。悲しみを乗り越えたころには離婚。これと前後して、2001年には小室哲哉のプロデュースから離れ、音楽の方向性にも悩むことになる。後年、彼女は次のように当時を振り返っている。
《結婚も、出産で仕事を休むことも、何も怖くなかった。でも、母のことがあってからはずっと辛かった。なんでこんなに濃い人生なんだろう。もう仕事も“安室奈美恵でいること”もやめたいと思っていました。だけど、今がどん底だとすれば、これ以上悪くなることはないはず。そう思うと、少しずつ楽になれました》(『AERA』2008年5月12日号)


■「つまり、みんなは“強い安室奈美恵”を求めてた」
 2003年、安室はヒップホップやR&BのアーティストたちとコラボレーションしてSUITE CHIC名義でアルバム『WHEN POP HITS THE FAN』を制作。一緒に仕事をしたかった人たちと、やりたいことをやらせてもらった経験は、自己プロデュースに乗り出す大きな転機となった。ただ、そのなかでファンへの姿勢について考えさせられることもあった。
《当時、結婚と出産を経て、少し性格が丸くなっていた私は、やわらかいテイストの楽曲でいきたいと思っていたんですね。ところが、いざ楽曲を発表してみると、ファンの方が“あれ? なんか、ちょっと違う”って違和感を感じていて。つまり、みんなは“強い安室奈美恵”を求めてたんです。その反応を見た時、私は『私がやりたい音楽を貫くんじゃなくて、ファンの方が求めていることに応えたい』と思った。我を貫くこともできたのかもしれないけど、みんなの期待に応えることが、その時の私の中でベストだと思ったんです。あの選択があったからこそ、今の安室奈美恵がある。確実に、私のターニングポイントのひとつだと言えますね》(『MORE』2012年8月号)


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■「すべては“ライブ”を目がけてやっているんです」
 ファンの期待に応えることを何より大切にする彼女の姿勢は、ライブを重視することへとつながっていく。やがては活動のすべてがライブへと集約されていった。
《トレーニングはもちろん、曲を作ってレコーディングすること、CDをできるだけ多くの人に聴いてもらうこと……とにかく私がしていることすべては“ライブ”を目がけてやっているんです。ただ、それに気がついたのは20代後半、『PLAY tour 2007-2008』の時。すごく時間はかかりました》(『MORE』2010年5月号)

「PLAY tour 2007-2008」は、アルバム『PLAY』を引っ提げて2007年8月から半年間、日本を縦断したツアーだ。さらに翌08年7月、30歳にしてリリースしたベストアルバム『BEST FICTION』は売上が170万枚を超え、10代、20代、そして30代と“3年代連続”のアルバムのミリオン突破となる。国内のアーティストでは初の快挙だった。同アルバムにともなうツアーは、追加公演を重ね、女性ソロ歌手では最多の50万人を動員した。
 ことあるごとに「歌と踊りが一緒になったとき初めて自分が完成する」と語ってきた安室にとって、ライブこそ表現のすべてだった。今年2月から6月にかけて5大ドームをまわった最後のツアー「namie amuro Final Tour 2018~Finally~」は約75万人を動員し、ソロアーティストにおける新記録を樹立。同ツアー終了後、彼女は《同じ楽曲を同じ空間で同じように楽しめるのは、コンサートでしか味わえないこと。私にとってはそれが一番楽しい時間でしたし、元気ももらえました》と語っている(『with』2018年10月号)。

■「30代が、もう本当に素晴らしく楽しい10年間だった」
 昨年の9月20日、40歳になった安室は、《私が長年心に思い、この25周年という節目の年に決意した事》として1年後の引退を発表するも、その理由については明言しなかった。ただ、かつて彼女は、ブレイクしてからも何度となく「沖縄に帰りたい」と思ったと明かしたうえで、こんなことを話していたことがある。
《ある時冷静に『私はいつやめるんだろう?』って考えたことがあるんです。そこで出した結論は、周囲と私の“やめよう”っていう気持ちが一緒になった時にやめようってこと。もし、お互いに『もう、いいよね』、『そうだね』って一致する時がきたら、そこがやめ時なのかなって思ったんです》(『MORE』2012年8月号)

 引退を決意したのは、ひょっとすると、「すべてをやりきったからやめてもいい」という思いを本人とスタッフなど周囲の人たちが共有したからなのかもしれない。それを証明するかのように、引退直前のインタビューでは、《30代が、もう本当に素晴らしい楽しい10年間だったんです。いろんなことが自由にできて。だから、ここから先はこの最高の10年をもとに歩いていけると感じているんです》と口にしている(『ViVi』2018年8月号)。

■「毎日ゲラゲラ笑っているおばあちゃんになりたい」
 同じインタビューではまた、将来についてこんなことも語った。
《毎日ゲラゲラ笑っているおばあちゃんになりたいですね。もう何がそんなに楽しいのかわからないってくらいちょっとしたことで笑っている、みたいな。
 ちょっとしたことが、本当は楽しいことなのに、それじゃあもう満足しない感じになってしまっていて、ちょっとしたことでは笑えない世の中は、もうみんな疲れすぎ!(笑)って思います》

 どん底と頂点、いずれも味わった者だからこその発言だろう。安室奈美恵は歌手時代のすばらしい日々を糧に、新たな一歩を踏み出そうとしている。
via http://bunshun.jp/articles/-/9024


・アイドルからアーティストへ=歌とダンス「悔いなく」
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 安室奈美恵さんがアイドルグループ「スーパー・モンキーズ」でデビューしたのは1992年。14歳の中学3年生だった。那覇市に生まれ、厳しいレッスンで知られた沖縄アクターズスクールで鍛えた本格的な歌とキレのあるダンスは当時のアイドルの枠を大きく超えており、またたく間にスターとなった。
 ソロとなった安室さんがさらに羽ばたく契機となったのは小室哲哉さんとの出会い。当時一世を風靡(ふうび)した「小室サウンド」との相性は抜群で、小室さんプロデュースの「Chase the Chance」「a walk in the park」などが次々にミリオンヒットした。
 ファッションリーダーとしても絶大な支持を集め、茶髪のロングヘアーに細い眉、ミニスカート、厚底ブーツという彼女のスタイルをまねる女性が続出し、「アムラー」と呼ばれる社会現象になった。
 代表曲「CAN YOU CELEBRATE?」を出した97年、歌の歌詞と重なるようにダンサーのSAMさんと結婚(2002年離婚)。98年は出産のため休業し、宣言通りきっちり1年で復帰。そんな生き方への共感も広がった。
 その後はR&B志向を強め、アーティストとしてステージパフォーマンスを磨き上げた。そこには子どもの頃憧れた米国R&B界のスーパースター、ジャネット・ジャクソンさんへの思いがあったのだろう。
 全国ツアー100公演をこなし、デビュー25周年を迎えた昨年9月、残り1年での引退を電撃発表。「長年心に思い、この25周年という節目の年に決意した」と、こだわり続けたステージを絶頂期に去る固い意志を表明した。
 今月10日、NHK番組で安室さんは「歌って、踊って、かっこいい歌手になりたいと思ってデビューした。それに向けて一生懸命毎日過ごしてきたので、やりきったというのはあります。ちゃんと悔いなく」と、駆け抜けた四半世紀をかみしめるように語った。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018091500456&g=soc

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・ベスト盤は230万枚=最後まで記録ずくめ
 16日に引退する安室奈美恵さんは多くの記録を残した。18歳の初ソロアルバムに始まり、昨年11月のベスト盤「Finally」まで10~40歳代の全年代で売り上げ100万枚以上のアルバムを出したソロアーティストは彼女だけ(音楽調査会社オリコン調べ)で、息の長い人気ぶりを裏付けた。
 10代は3枚のアルバムがミリオンセラーになり、「SWEET 19 BLUES」は300万枚を突破。10代最後の1997年に出したシングル「CAN YOU CELEBRATE?」が作った邦楽女性ソロアーティスト歴代売り上げ1位記録の229万枚は今も破られていない。
 98年をピークに国内のCD販売は下降線をたどる。20代に入った安室さんもその影響を受けるが、それでもシングル曲は95年のソロデビューから昨年まで23年連続でオリコンチャートの10位以内に入り続けた。この記録もソロアーティストの歴代1位だ。
 引退表明からの1年間はブームが再燃。ベスト盤「Finally」の売り上げは今月までに230万枚を超え、今年2~6月のファイナルツアーを収めた映像作品も、音楽ジャンルでは過去最高の150万枚突破を達成した。社会現象を引き起こした「平成の歌姫」は、強烈な記憶とともに「記録」を残してステージを去る。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018091500460&g=soc

・「思い出に残る作品に」=ライブDVDがミリオン突破-安室奈美恵さん
16日で引退する歌手の安室奈美恵さんのラストツアーを収録した「namie amuro Final Tour 2018~Finally~」がDVDとブルーレイ合わせて発売初週で129万2000枚を売り上げ、音楽映像作品として初めてミリオンを突破したと5日、音楽調査会社オリコンが発表した。
 安室さんは「私にとって生涯忘れられない作品となりました。たくさんの思い出が詰まったこの作品、ファンの皆さんにとっても思い出に残る作品になっていたらうれしく思います」などとコメントを出した。[2018.09.06]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018090600158&g=soc


・安室奈美恵さん 写真特集
 https://www.jiji.com/jc/d4?p=amr920&d=d4_ccc

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・「安室奈美恵さま これからも、あなたは私たちのHeroです」異例の広告にあふれる”愛”

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https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/15/amuronamie_a_23528470/

・[CM] #ALLFOR916「はじまり」篇、「ファンの歌声」篇


・[CM] #ALLFOR916「私たちのヒーロー」篇


・安室さん、笑顔でパフォーマンス=ラストライブ写真公表
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 15日に沖縄県宜野湾市で開催された安室奈美恵さん(40)のラストライブの写真が引退日となった16日、公表された。また、同日夜、同市のビーチで行われた花火ショーを安室さん本人が会場で鑑賞。浴衣姿で楽しんでいる写真も公表された。
 「I ※(※はハートマーク) music!」と書かれた黒いTシャツなどシックな衣装で登場した安室さん。共演者とダンスしながら笑顔を見せるなど、地元での最後のステージを楽しんでいる様子だった。ラスト曲「How do you feel now?」をこれまでをたどる映像をバックに歌うと、涙をぬぐう観客の姿があちこちで見られたという。

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 共演した平井堅さんは「最後までかっこよく潔い安室さんだったので、この先も楽しい人生を謳歌(おうか)してほしい」とコメント。同じ沖縄出身のバンドBEGINは「沖縄中が安室さんに包まれていて、改めてそのすごさを感じました。最後のステージに一緒に立てたのがうれしいです」とコメントを出した。[2018.09.17]

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via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018091700116&g=soc


・[CM] 7 ELEVEN x namie amuro セブン・イレブンx安室奈美恵 「沖縄に来る」


・[CM] Hulu-We♡Namie|安室奈美恵一夜限定CM


◆1993年~2018年 安室奈美恵CM集




◆25th Anniversary History Movie (Japanese ver.) / NAMIE AMURO ~glorious days~


◆安室奈美惠 Music Video Collection Special 2018 ~Finally~


◆安室奈美恵 メドレー&ファッションの変遷 1995~2012


・花火観賞に最後のメッセージ‥安室奈美恵引退に芸能界からも労いの声
 https://matome.naver.jp/odai/2153711280135556701

・安室奈美恵、ファンとの25年を振り返る「一瞬でも心に寄り添える歌手でいられたなら嬉しい」
歌手の安室奈美恵さんが9月16日、引退した。自身の公式サイトを通じて、「ファンの皆さまへ」と題したメッセージを公開した。
2017年9月16日、デビュー25周年を迎えたその日に、1年後に引退すると宣言し日本中を驚かせた。「私らしく2018年9月16日を迎えたいと思います」と発表した通り、ファンを大事にして駆け抜けた1年だった。
安室さんは今回公開したコメントの中で、「昨年引退を発表させていただいてからこの1年、1日1日を大切に過ごさせていただきました」と振り返る。ファンへの感謝の気持ちを繰り返しつづった安室さんは、「25年間ほんの一瞬でも ファンの皆さんの心に寄り添える歌手でいられたなら嬉しく思います」と記した。
ラストイヤーを宣言し、ファンに「寄り添う」ための努力を惜しまなかったこの1年。
近年ではほとんどテレビ出演をすることのなかった安室さんだが、別れを惜しむファンの期待に応えるように、NHKの特番「安室奈美恵 告白」、「紅白歌合戦」などに出演。安室さんの大ファンを公言するタレントのイモトアヤコにサプライズする形で「世界の果てまでイッテQ!」(日テレ系)にも出演し、イモトとの対談を果たした。

■故郷の沖縄と、安室さん
沖縄にまつわるニュースもたくさんあった。
5月には、沖縄県から県民栄誉賞を授与され、当時知事だった故・翁長雄志氏に「日本のみならず世界の多くの人々を魅了し続け、若者のファッションリーダーとしても、一時代を築かれました。沖縄出身の歌手やタレントの草分け的存在となっています」とたたえられた。
8月半ばから引退までの1ヵ月間にわたり、故郷・沖縄の観光ブランド「Be.Okinawa」のPRに無償協力した。

■ミリオン連発、記録ずくめの1年に
もっとも大切にしてきた音楽活動も、記録ずくめだった。
最後のドームツアーを収録したライブDVD「namie amuro Final Tour 2018〜Finally〜」は予約販売段階でミリオンを突破。音楽映像作品のミリオンセラーは、史上初の記録だ。
11月に発売したベストアルバム「Finally」も同じくミリオンを記録。10代に発売した「DANCE TRACKS VOL.1」「SWEET 19 BLUES」「Concentration20」、20代に発売した「181920」、30代に発売した「BEST FICTION」に続いて、40代でもミリオンセールスを記録した安室さんは、日本国内アーティスト史上初の、4つの年代で続けてのミリオン突破を記録した。 
引退前日の9月15日には、故郷沖縄でラストライブに臨んだ。
安室さんは平井堅さん、山下智久さん、ジョリン・ツァイさん、DOUBLEとそれぞれコラボした楽曲を披露。全8曲を歌い、最後は、「How do you feel now?」で締めくくった。
文字通り、「1日1日を大切に」最後の日を迎えた安室奈美恵さん。ファンへの思いを「25年間ありがとうございました」の言葉に託した。
ファンに宛てたメッセージを以下に紹介する。
【コメント全文】
ファンの皆様へ
ファンの皆様、
いつも応援してくださりありがとうございます。
わたくし安室奈美恵は、
本日16日をもって引退致します。
昨年引退を発表させていただいてからこの1年、
1日1日を大切に過ごさせていただきました。
引退という選択をした私に対し、
ファンの皆さんにも色々な感情があったかと思います...
それでも、
最後は笑顔で送り出そうと思ってくださる
ファンの皆さんの優しさに心から感謝しています。
実りある25年間をファンの皆さんと過ごせた事、
応援してくださり、支えてくださった事、
改めて感謝の気持ちでいっぱいです。
「ありがとうございました。」
25年間ほんの一瞬でも
ファンの皆さんの心に寄り添える歌手でいられたなら嬉しく思います。
応援してくださったファンの皆様、
「25年間ありがとうございました。」

 安室奈美恵

■マスコミへの「お願い」は続く...。
有終の美を飾り芸能界を引退した安室さんだが、引退翌日の9月17日、公式サイトには「お願い...」と題されたメッセージが掲載された。
沖縄の家族や関係スタッフへの過度な取材を慎んで欲しいとお願いする内容だ。
安室さんは9月11日、公式Facebookページに全く同じ内容の「お願い」をつづっていた。
全身全霊で25年を駆け抜けた安室さんに、一刻も早く休息が訪れて欲しい。
 via https://www.huffingtonpost.jp/2018/09/16/namie-comment_a_23529275/

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[訃報] 『ちびまる子ちゃん」作者さくらももこさん、乳がんで死去 享年53 はてなブックマーク - [訃報] 『ちびまる子ちゃん」作者さくらももこさん、乳がんで死去 享年53

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WS001
 『ちびまる子ちゃん』で知られる漫画家のさくらももこさんが、乳がんのため15日に死去したことが27日、わかった。享年53。メディア向けの書面や公式ブログで発表された。
 書面では「さくらももこは、平成30年8月15日午後8時29分、乳がんのため永眠いたしました。(享年53)これまで温かい応援をして下さったファンの皆様、お世話になりました関係者の皆様に深く感謝致しますとともに、ここに謹んでご報告申し上げます」と報告。
 さくらさんは1984年に漫画家としてデビュー。ブログでは30周年を迎えた際の言葉として「30年間、良い事も大変な事もいっぱいありましたが、私は作家としてとても幸せな月日を送らせていただいています。感謝にたえません。」と紹介した。
 さらに「作品を描けること、それを楽しんで頂けることをいつも感謝していました。これからも皆様に楽しんで頂けることが、さくらももこと私達の願いであり喜びです」と呼びかけている。
 アニメ版でまるこの声優を務めるTARAKOも書面でコメントを発表。「早すぎます。まだまだやりたいこといっぱい、いっぱいあったと思います。ずっとお会いしてなかったので、私の中のももこ先生は、ずっと小さくて可愛くてまあるい笑顔のままです」と追悼した。
 なお、フジテレビは放送中のアニメについて「今後も変わらず放送を続けてまいります」としている。
 『ちびまる子ちゃん』が掲載された『りぼん』(集英社)の相田聡一編集長は「1986年8月号より連載開始した『ちびまる子ちゃん』は、たぐいまれなギャグセンスと、親近感あふれる登場人物、そして彼らへ注がれるまなざしの温かさが魅力で、瞬く間に一雑誌の枠を超える大人気作品となりました。その誕生の舞台となったことは編集部の大きな喜びです」とさくらさんに感謝。「早すぎるご逝去を惜しむ気持ちに終わりはありませんが、まるちゃんとその仲間たちの明るい笑顔は、子どもから大人まで、読者の皆さまの心の中で、いつまでも変わることなく輝き続けます。さくらももこ先生、ありがとうございました」と追悼した。
 さくらさんは1965年5月8日生まれ。静岡県清水市出身。大学在学中に漫画家デビュー。代表作は漫画『ちびまる子ちゃん』『コジコジ』『神のちからっ子新聞』、エッセイ『もものかんづめ』『さるのこしかけ』など。アニメ『ちびまる子ちゃん』の主題歌「おどるポンポコリン」の作詞も手がけた。
via https://www.oricon.co.jp/news/2118361/full/

◆さくらプロダクションからお知らせです。
さくらももこは、平成30年8月15日午後8時29分、乳がんのため永眠いたしました。(享年53)
これまで温かい応援をして下さったファンの皆様、お世話になりました関係者の皆様に深く感謝致しますとともに、ここに謹んでご報告申し上げます。
さくらは1984年に漫画家としてデビュー。30周年を迎えた際、次のような言葉があります。

「30年間、良い事も大変な事もいっぱいありましたが、私は作家としてとても幸せな月日を送らせていただいています。感謝にたえません。」(『さくらももこの世界展』「デビュー30周年を迎えて」より抜粋)

作品を描けること、それを楽しんで頂けることをいつも感謝していました。
これからも皆様に楽しんで頂けることが、さくらももこと私達の願いであり喜びです。
なお、通夜・告別式は、ご遺族の意向により親族・近親者のみにより執り行われました。

さくらプロダクションスタッフ一同
平成30年8月27日
via https://lineblog.me/sakuramomoko/archives/67300025.html

0hAaOpJedYHk5yCTOqsXFhGThUGCELagRGGHEJdAdfFGAHZQlOGnMTeA1NAy4DZwVGFDFNTyBCRCxdfR58EgsJUjZdKXwFRyBzTRpZYCtPExUPeFAETmtTLFUORXlbPVkQHDhRK1QLBX9Wag5PSm8G
国民的人気漫画「ちびまる子ちゃん」などで知られる漫画家のさくらももこさんが今月15日、乳がんのため亡くなりました。53歳でした。
さくらももこさんは、静岡県の旧清水市、現在の静岡市清水区出身で、昭和59年に漫画家としてデビューしました。
昭和61年には自身の子どものころをモデルとした人気漫画「ちびまる子ちゃん」の連載がスタートし、平成2年には民放でテレビアニメ化され、30年近くたった今も続く国民的な人気番組となりました。
アニメのエンディングテーマ曲の「おどるポンポコリン」はさくらさんも作詞を担当し、耳に残る印象的な歌詞などが話題となって大ヒット曲となりました。
その後、自身の体験をつづった「もものかんづめ」や「さるのこしかけ」などのエッセーもベストセラーとなったほか、独特のキャラクターが登場するギャグ漫画「コジコジ」もテレビアニメ化されました。
さくらさんの事務所によりますと、さくらさんは今月15日、乳がんのため亡くなったということです。
さくらさんの事務所は、平成26年にデビュー30周年を迎えた際のさくらさんのコメントを改めて発表し、「30年間、良いことも大変なこともいっぱいありましたが、私は作家としてとても幸せな月日を送らせていただいています。感謝にたえません」とファンや関係者に対して感謝の気持ちを伝えています。

■事務所のブログが伝える
さくらももこさんのオフィシャルブログには、「さくらプロダクションからのお知らせです。」というタイトルで、次のような書き込みがありました。
さくらももこは、平成30年8月15日午後8時29分、乳がんのため永眠いたしました。(享年53)これまで温かい応援をして下さったファンの皆様、お世話になりました関係者の皆様に深く感謝致しますとともに、ここに謹んでご報告申し上げます。
さくらは1984年に漫画家としてデビュー。30周年を迎えた際、次のような言葉があります。「30年間、良い事も大変な事もいっぱいありましたが、私は作家としてとても幸せな月日を送らせていただいています。感謝にたえません。」(『さくらももこの世界展』「デビュー30周年を迎えて」より抜粋)作品を描けること、それを楽しんで頂けることをいつも感謝していました。これからも皆様に楽しんで頂けることが、さくらももこと私達の願いであり喜びです。

■昭和59年に漫画家デビュー
さくらももこさんは静岡県の旧清水市、現在の静岡市清水区出身で、昭和59年に漫画家としてデビューし、昭和61年に代表作「ちびまる子ちゃん」の連載がスタートしました。
「ちびまる子ちゃん」は、さくらさん自身の子どものころがモデルとなっていて、平成2年には民放でテレビアニメ化され、国民的な人気番組となりました。
出版社によりますと、さくらさんは漫画のほかにもエッセーの「もものかんづめ」がミリオンセラーとなったほか、作詞家などとしても幅広く活動していました。
さくらさんの事務所によりますと、平成26年にデビュー30周年を迎えた際、さくらさんは「30年間、良いことも大変なこともいっぱいありましたが、私は作家としてとても幸せな月日を送らせていただいています。感謝にたえません」というコメントを出していました。

■「ちびまる子ちゃん」は今も、不定期で連載
出版社の集英社によりますと、さくらももこさんの代表作である「ちびまる子ちゃん」は、昭和61年に漫画雑誌「りぼん」で連載が始まりました。
30年余りたった今も、不定期で連載が続いていて、物語として完結はしていなかったということです。
また、さくらももこさんの漫画家としてのデビューは、「ちびまる子ちゃん」の連載が始まる2年前の昭和59年で、「教えてやるんだありがたく思え!」というタイトルの漫画だったといことです。

■テレビアニメは30年近く続く
フジテレビによりますと、テレビアニメの「ちびまる子ちゃん」は平成2年1月に放送が始まり、現在まで30年近く続いているということです。
フジテレビは、次回放送予定の来月2日も以降も、放送を続けていくとしています。

■「りぼん」編集長「ご冥福をお祈りいたします」
漫画家のさくらももこさんが亡くなったことを受けて、人気漫画「ちびまる子ちゃん」を連載していた集英社の「りぼん」の相田聡一編集長は、「心よりお悔やみを申し上げると共に、ご冥福をお祈りいたします。このたびの早すぎるご逝去を惜しむ気持ちに終わりはありませんが、まるちゃんとその仲間たちの明るい笑顔は、子供から大人まで、読者の皆様の心の中で、いつまでも変わることなく輝き続けます。さくらももこ先生、ありがとうございました」というコメントを出しました。

■TARAKOさん「早すぎます」
漫画家のさくらももこさんが亡くなったことを受けて、アニメの「ちびまる子ちゃん」の声優、TARAKOさんは「『ご冥福を』とか言えないです。頭の中がぐちゃぐちゃです。早すぎます。今はただ先生の分身でもある小学三年生の子に、嘘(うそ)のない命を吹き込み続けることしかできないです。ももこ先生は『ありがとう』しかない恩人です」というコメントを出しました。

■出身地 静岡市ではまる子ちゃんをPR
さくらももこさんの出身地、静岡市は「ちびまる子ちゃん」の舞台が静岡市だということをアピールしようと、まる子ちゃん一家の「特別住民票」や、さくらももこさんが作詞した踊り、「まるちゃんの静岡音頭」を作ったりして、「ちびまる子ちゃん」と静岡市をPRしてきました。
また、静岡市によりますと今月中には、さくらももこさんがデザインしたマンホールのふたが市内に設置される予定だということです。
静岡市の田辺信宏市長は「突然のことで大変驚いています。静岡市のプロモーションには多大なるご協力をいただき、先日もマンホールを寄贈いただき市民も設置を楽しみにしていたやさきでした。さくらさんは地元のお祭りや動物園が大好きで大変地元愛にあふれた方でした。ご冥福をお祈りいたします」というコメントを発表しました。

■JR静岡駅前では悲しみの声
さくらももこさんは、静岡県の旧清水市、現在の静岡市清水区出身です。JR静岡駅前では悲しみの声が聞かれました。
親戚がさくらももこさんと同級生だという男性は、「親しみをもって見ていました。清水を代表する人なので、突然の知らせに驚いています」と話していました。
また、さくらももこさんと同じ短期大学を卒業したという女性は、「亡くなったということはインターネットのニュースで知り、驚いています。出身の短期大学が一緒で、漫画もよく読んでいました。年齢もまだ若く、海外でも人気があったので、まだまだ活躍してほしかったです」と話していました。

■ネット上では突然の死を悼む声
漫画家のさくらももこさんが亡くなったことを受けて、ネット上では、突然の死を悼む声が相次いでいます。
このうちツイッターでは、「今年いろんな方が亡くなられたけど、一番衝撃的。ご冥福をお祈りいたします」といった声や、「早すぎます。ビックリです。大好きでした」といった声など、突然の死に衝撃を受けたという投稿が相次いでいます。
また、「自分はコジコジも好きなのよ。もちろんちびまる子ちゃんはうちの娘も大好きだし本当に悲しい。さくらももこさん天国でもずっと書き続けて下さいね」などと「ちびまる子ちゃん」以外の作品やエッセーに触れ、惜しむ声も相次いでいます。

■「ケンタくん」も冥福祈る
さくらももこさんの代表作「ちびまる子ちゃん」では、サッカーJ1、FC東京の長谷川健太監督の幼少時代をモデルとした「ケンタくん」が登場します。
長谷川監督はさくらももこさんと同じ静岡県の旧清水市出身で、FC東京を通して「突然の訃報に驚いています。心よりご冥福をお祈り申し上げます」とコメントを出しました。

■中国でも死を悼む声相次ぐ
漫画「ちびまる子ちゃん」は中国でも人気が高く、さくらももこさんが亡くなったことについて中国メディアは速報で伝えました。
インターネット上ではさくらさんの死を悼む書き込みが相次いでいて、このうち中国版ツイッターのウェイボーでは「私の最愛のちびまる子ちゃん。本当に大好きだった」とか「みんなに喜びや愛をもたらしてくれてありがとう」などといったコメントが寄せられています。
また「子どものときの思い出で、とても悲しい」や「泣きたい」といったコメントに加えて、ロウソクなどの絵文字を添えた書き込みも数多く見られます。

■香港でも速報
「ちびまる子ちゃん」は香港でも人気が高く、作者で漫画家のさくらももこさんが亡くなったことについて、メディアは速報で伝えました。
香港各紙はさくらももこさんの略歴や物語の紹介とともに「『ちびまる子ちゃん』はアジアのファンに広く受け入れられた」などと伝えました。
ネット上ではファンから「ちびまる子ちゃんは私たちをたくさん楽しませてくれた。ありがとう」といった書き込みが次々に寄せられています。
香港では1990年代に香港の声優たちによるアニメの吹き替え版の放送が始まって以来、人気が高まり、イベントが開催されたり、文房具などの関連グッズが販売されたりしています。

■台湾では実写ドラマも
「ちびまる子ちゃん」は台湾で代表的な日本アニメの1つとして広く愛され、台湾版の実写ドラマが制作されたことがあるほど人気を集めてきました。
作者で漫画家のさくらももこさんが亡くなったことについて、台湾メディアは速報で伝え「台湾の読者の愛は日本に負けない」などと見出しを打ったり「大ファンだった西城秀樹さんを天国でも追いかけているのだろう」と伝えたりして、突然の死を悼んでいました。
「ちびまる子ちゃん」では、主人公などがショックを受けた際に顔に縦線を描いて落胆ぶりを示す表現がありますが、台湾でも若者を中心に日常生活でショックを受けた時に「顔に3本線」ということばが使われるほど、「ちびまる子ちゃん」が広く浸透しています。

■「おどるポンポコリン」はミリオンセラー
音楽ソフトの売り上げを調べているオリコンによりますと、平成2年に民放でテレビアニメ化された「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマ曲の「おどるポンポコリン」は、この年だけでおよそ130万8000枚を売り上げるミリオンセラーとなり、シングル曲の売り上げランキングの1位を記録しました。
さくらさんも作詞を担当したこの曲を演奏した「B.B.クィーンズ」は、この「おどるポンポコリン」で紅白歌合戦に出場しました。
オリコンによりますと、27日時点の累計売り上げ枚数はおよそ164万4000枚にのぼっています。

■「あなたの作詞作品を歌えてとても光栄です」
さくらももこさんが亡くなったことを受けて、アニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディング曲「おどるポンポコリン」を歌った「B.B.クィーンズ」のメンバーがコメントを発表しました。
このうち、ボーカルを担当した坪倉唯子さんは「あまりに突然の訃報に言葉を失ってしまいました。楽屋に遊びに来てくれたさくらももこさんは、『ちびまる子ちゃん』から飛び出した『まさにまるちゃん!』な第一印象で、『おどるポンポコリン』の歌詞のお話しなどを聞かせて頂いて、とてもシャイな方なんだなあ、、、と思ったのを強くおぼえています。ももこさん、『ピーヒャラピーヒャラパッパパラパー』これからもみんなに楽しんでもらえるように大切に歌っていきます。あなたの作詞作品を歌えてとても光栄です。心よりご冥福をお祈りいたします」とコメントしています。
また、ボーカルとギターを担当した近藤房之助さんは「まさにB.B.クィーンズを生み出していただいたと言っても過言ではないさくらももこ先生には本当に感謝してもしきれるものではありません。いまだに音楽活動をさせていただいているのも『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマだった「おどるポンポコリン」にB.B.クィーンズの一員として参加させていただいたからで、それまでアンダーグラウンドの場で活動していた僕を、ほんのひとときでもメインストリームの場に押し上げていただいたことで、僕の事を知ってくれた数多くの方がいてくれたからだと思っております。謹んでご冥福をお祈り申し上げます」とコメントしています。
via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180827/k10011596071000.html

・さくらももこ:Wikipedia

・さくらももこさん死去 まる子声優TARAKO沈痛「早すぎます」
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 『ちびまる子ちゃん』の作者として知られる漫画家・さくらももこさんが、乳がんのため、15日に死去した。53歳だった。訃報を受け、主人公まる子の声優・TARAKOが故人を偲び、コメントを寄せた。報道各社に送られたFAXには「TARAKOさんは、この訃報に大変気を落とされているため、上記のコメントを持ちまして、直接の取材はご遠慮いただきますようご協力をお願い申し上げます」とつづられている。以下、コメント全文。
■声優・TARAKOコメント
『ご冥福を』とか言えないです。
ただただ、頭の中がぐちゃぐちゃです、はい。
病気だったこととか、本当になにも知らなくて
ごめんなさいしかないですごめんなさい。
早すぎます。
まだまだやりたいこといっぱい、いっぱいあったと思います。
ずっとお会いしてなかったので、私の中のももこ先生は、ずっと小さくて可愛くてまあるい笑顔のままです。
今はただ先生の分身でもある小学三年生の子に、嘘のない命を吹き込み続けることしかできないです。
ももこ先生へ
私がそっちにいったら似たような声でいっぱいいっぱいお喋りしてくださいね。
そちらで楽しいこといっぱいいっぱいして下さいね。
優子ちゃんに会ったらよろしくです。
ももこ先生は「ありがとう」しかない恩人です。

via https://www.oricon.co.jp/news/2118362/full/

・昭和の日常描く「ちびまる子ちゃん」 平成を駆け抜けた
 国民的な人気アニメ「ちびまる子ちゃん」を生んだ漫画家のさくらももこさんが乳がんで亡くなった。日曜夜の放送開始から28年。原作のシリーズ累計発行部数は約3200万部に達する。昭和の時代の個人的な経験が色濃くにじんだ作品は、多くの人に愛されて平成という時代を駆け抜けた。
 「ちびまる子ちゃん」は、1970年代の静岡県清水市(現静岡市清水区)に暮らす山口百恵好きのおっちょこちょいな小学3年生・まる子が主人公。いつも味方になってくれる祖父の友蔵(ともぞう)や酒好きの父ヒロシ、叱り役のお母さん、ドライな性格のお姉ちゃんらの3世代6人家族に、親友のたまちゃん、お金持ちでキザな花輪クン、学級委員になることに全てをかける丸尾君ら個性的なクラスメートが加わって繰り広げる昭和のほのぼのとした日常を描く。連載は86年に始まり、90年のアニメ化で爆発的な人気に。同年10月に最高視聴率39・9%(関東地区、ビデオリサーチ調べ)を記録するなど、平成のお茶の間で絶大な支持を集めた。
 漫画などのサブカルチャーに詳しい評論家、中森明夫さんは「平成の初期はバブル崩壊や阪神大震災、オウム事件と暗い話題が多かったが、人々は昭和のように上昇しなくても、身の回りの楽しみ、小さな喜びを見つけていったのではないか。ちびまる子ちゃんはそんな時代を象徴する番組だった。SMAP解散、安室奈美恵引退と続き、平成の終わりを感じる」。
 アニメが放送25周年を迎えた2015年、さくらさんは朝日新聞の書面インタビューに答え「こんなに長いこと、(作品を)可愛がっていただけて感謝しかありません」と記していた。「(主人公の)まる子をコツコツと描いてゆきたいし、漫画やエッセーのほか今、歌の作詞の仕事も力を入れてやっています。作詞での音楽活動が広がりつつあり、忙しいけれど楽しい毎日です」ともつづり、「ますます楽しい作品をお届けできるように、私もアニメチームもがんばって創作致します」とさらなる活動にも意欲を見せていた。今年5月には「ちびまる子ちゃん」に度々登場する歌手、西城秀樹さんの死去翌日にブログを更新。「私達の世代にとって秀樹さんは本当にスターでした」などとつづっていた。病気については公表していなかった。
 53歳の早すぎる死に、悲しみの声が広がる。アニメでまる子の声を演じる声優のTARAKOさんは「ただただ、頭の中がぐちゃぐちゃです。病気だったこととか、本当になにも知らなくてごめんなさいしかないです。早すぎます。まだまだやりたいこといっぱい、いっぱいあったと思います。ずっとお会いしてなかったので、私の中のももこ先生は、ずっと小さくて可愛くてまあるい笑顔のままです」などの追悼コメントを出した。

■さくらさんの出身地でも悼む声
 さくらさんの出身地、静岡市清水区にある「ちびまる子ちゃんランド」は、27日も多くのファンらが訪れた。名古屋市から来たちびまる子ちゃんの大ファンという主婦、菊川恵子さん(41)は亡くなったと聞いて「ショックです。本当ですか?」と肩を落とした。
 小学生の頃から毎月「りぼん」で読み、アニメも録画して欠かさず見てきたという。「現実味のある世界がモチーフで、親近感があった。寝ながらお菓子を食べたり宿題をさぼってお母さんに怒られたり、自分と照らし合わせられるところが多かった」と語った。
 さくらさんの実家は同区で八百屋を営んでいたという。その近くで商店を経営する60代の女性はテレビの速報で訃報(ふほう)を知り、「ももこちゃん、まだ若いのに」と驚いた。
 アニメ放映当初、「まる子」が立ち寄る神社や菓子店を見て、「これはあそこだ」と喜んだ。アニメの人気が定着すると「まるちゃんの家はどこですか」と訪ねてくる観光客が増え、さくらさんの実家近くに大型バスが乗り付けることもあったという。「両親やおじいちゃん、おばあちゃんも、よく似ていた。一番身近で、日常の物語だった」と惜しんだ。
via https://www.asahi.com/articles/ASL8W77QDL8WUCLV00W.html

・「コジコジは、コジコジだよ」。名言の数々に、さくらももこさんの哲学が詰まっていた。
 https://www.huffingtonpost.jp/2018/08/27/kojikojiwa-kojikojidayo_a_23510107/

・さくらももこさん死去・りぼん編集長が追悼 一雑誌の枠を越えた
 漫画家・さくらももこさんの訃報を受け、代表作「ちびまる子ちゃん」などを連載した少女漫画雑誌「りぼん」(集英社)編集長の相田聡一氏が、故人をしのぶコメントを書面で発表した。
 「ちびまる子ちゃん」は「りぼん」1986年8月号より連載開始。相田氏は「たぐいまれなギャグセンスと、親近感あふれる登場人物、そして彼らへ注がれる眼差しの温かさが魅力的で、瞬く間に一雑誌の枠を越える大人気作品となりました。その誕生の舞台となったことは、編集部の大きな喜びです」と功績を振り返る。
 享年53歳という早すぎるさくらさんの死に、相田氏は「このたびの早すぎるご逝去を惜しむ気持ちに終わりはありません」とコメント。「まるちゃんとその仲間たちの明るい笑顔は、子供から大人まで、読者の皆様の心の中で、いつまでも変わることなく輝き続けます。さくらももこ先生、ありがとうございました」と感謝をつづった。
 また、フジテレビ系で放送されているテレビアニメ版のスタッフも追悼のコメントを発表。「大好きな、大好きな、さくらももこ先生が天国に旅立ってしまいました。もっとさくらももこ先生と一緒に新しい物語や面白い展開を考えていきたいと思っておりましたが、あまりにも早い旅立ちでスタッフ一同、心から悲しく思っております」とつづった。
 番組開始から29年が経過。キャストだけでなくスタッフにも、番組当初からかかわる者がいるといい、「日々の制作の中で笑ったり、泣いたり、とても楽しく取り組んで来られたのは、さくら先生が見守って下さっていたからだと思います。これからも私達スタッフ・キャスト一同で、さくら先生が天国で見守って下さることを感じながら、面白い『ちびまる子ちゃん』を制作していきたいと思います。さくらももこ先生、本当にありがとうございました」と感謝を述べている。
 株式会社さくらプロダクションによると、さくらさんは、8月15日の午後8時29分に乳がんのため死去。享年53歳だった。
 via https://www.cinematoday.jp/news/N0103178

・さくらももこさん死去…記憶に残る偉大な作品の数々
  https://matome.naver.jp/odai/2153539256022983301

・【訃報】さくらももこさんへの追悼メッセージまとめ / 各界から悲しみの声が続々
 https://rocketnews24.com/2018/08/28/1108359/

・テレビアニメ『ちびまる子ちゃん』だけじゃない!「さくらももこ」の映像作品
 https://matome.naver.jp/odai/2153541289026660601

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・亡くなったさくらももこさん 地元・静岡へ「最後の贈り物」
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 「ちびまる子ちゃん」の作者で漫画家のさくらももこさんが亡くなった。自身が生まれ育ち、「ちびまる子ちゃん」の舞台になっている静岡をこよなく愛したさくらさん。近年は静岡市のプロモーション活動にも積極的に取り組み、8月には、ちびまる子ちゃんを描いた2つのマンホールの蓋を静岡市に寄贈したばかりだった。
 富士山をバックにちびまる子ちゃんを描いたマンホールの蓋。赤い帽子バージョンと黄色い帽子バージョンの蓋がそれぞれ一つずつ計2つが静岡市に寄贈された。市によると、寄贈はさくらさん側から申し入れがあったという。デザイン化が流行りにもなっているマンホールの蓋。人気作品をデザインしたマンホールの蓋はほかでも見られるが、作家側が発案し、デザイン化して自治体に寄贈するケースはあまり聞かない。市によるとさくらさんは寄贈にあたりこんなコメントを寄せたという。
 「マンホールの蓋に色んなデザインがある事を知り、静岡にまる子のマンホールがあれば可愛いなと思い、静岡市さんにご相談させて頂きました。今回、『お茶、富士山、駿河湾』をコンセプトに、2つのマンホールが出来ました。静岡市で長く使用して頂けると嬉しいです。そして、静岡市民の皆さんには、いつもあたたかいご声援をいただき、本当にありがとうございます! まる子デザインのマンホールの蓋も、みなさんに喜んで頂けると嬉しいです」
 静岡市によると、市とさくらさんとは、2007年に静岡市が都市問題をテーマにした会議を開催した際、静岡市をPRするイラストをさくらさんに相談したことから交流が始まったという。以降、静岡市のシティプロモーションにさくらさんのイラストが使われるようになり、さくらさんも熱心に静岡市のシティプロモーションに取り組んだ。
 イラストは、来客者などへの贈答品として市がつくったメモ帳やボールペン、クリアファイルから職員用の名刺まで様々なシーンで使われ、種類も増えて現在は20種類もある。シティプロモーション用のイラストに描かれている少女は、ちびまる子ちゃんに似ているが実はさくらさん本人の自画像とのこと。アジアをはじめ海外でも人気のちびまる子ちゃんだけに、ちびまる子ちゃんを思わせるイラストは多くの人たちの興味をひき、静岡のイメージアップに大いに貢献してきた。
 さくらももこさん逝去の報道を受けて、静岡市庁舎や清水港のエスパルスドリームプラザ内にある、ファンの聖地とされる「ちびまる子ちゃんランド」には献花台や記帳台が設けられ、訪れた多くの人たちがさくらさんの冥福を祈った。
 25歳の女性は「母親がもっていたマンガの中にちびまる子ちゃんがあって、それがきっかけでファンになりました。さくらさんを尊敬していたので、亡くなったのはとてもショックです」と話していた。
 静岡市では、さくらさんから寄贈されたちびまる子ちゃんを描いたマンホールの蓋を、近くJR静岡駅近くの繁華街とJR清水駅西口のマンホールに設置して、さくらさんの思いを市民やファンに届ける予定だ。
via https://thepage.jp/detail/20180829-00000001-wordleaf


・爆笑問題、さくらももことの出会いと感謝を語る 「爆チューはさくらさんのおかげで知られた」
  https://sirabee.com/2018/08/29/20161769885/
 http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-22063.html
 http://numbers2007.blog123.fc2.com/blog-entry-22064.html

・Twitterで話題!「ちびまる子ちゃんの神回」5選
 https://matome.naver.jp/odai/2153570491033543901

・予定を変更『ちびまる子ちゃん』さくらももこさん追悼回に感動の声
 https://matome.naver.jp/odai/2153588344499679801

◆さくらももこが遺してくれた数々の名言をもう一度!「オレ達 ただモーレツに生きてるだけさ」あの独特の人生観を振り返る
『ちびまる子ちゃん』『コジコジ』などの人気作品を生んだ漫画家のさくらももこさんが8月15日に乳がんで亡くなった。享年53。
 さくらさんの作品は、可愛らしくてほのぼのしているだけでなく、時にはシニカル、時にはシュール、時にはブラックであり、さらにはバカバカしいものを愛でる楽しさ、好きなことをやり続ける大切さ、独特の人生観などについて伝え続けていた。ここではさくらさんの作品の数々の印象的なセリフを振り返ってみたい。

■ぎょっとする子どもの本音 「ちびまる子ちゃん」の名言・珍言
なんの収穫もない行為のむなしさにも気づかずに
生きていけるって すばらしい
~『ちびまる子ちゃん』1巻

大みそかに大掃除をするさくら家の人々。案の定、まる子、父・ヒロシ、祖父・友蔵は片付けの途中で大いに遊んでしまう。母・すみれに思いっきり叱られた3人は、自分たちが散らかしたゴミを片付けて「オレたちもやればできる」と大喜び。そのコマに添えられたナレーションがこれ。さりげなさすぎてスルーしてしまいそうになるが、なんとも味わい深い。1巻からこの調子である

よし ブスは無視して美人の方にたよろう
~『ちびまる子ちゃん』3巻

静岡のおばあちゃんの家を一人で訪ねようとして迷子になってしまうまる子。涙を流して不安がっていたはずなのに、いきなりむき出しの子どもの本音を読者にぶつけてくるので、思わずこっちがうろたえてしまう。こんなセリフ、少女漫画で誰も見たことがなかったはず。

宿題なんていつでもできるよ
それより今を大切にしなきゃ
~『ちびまる子ちゃん』4巻

楽天的で怠け者のまる子の生き方が凝縮された言葉。こんなことを言って、いつもお母さんに叱られているが、まる子の生き方は本当に楽しそうだ。

■名言・珍言に光る脇役たちの魅力
おれはぜんぜんこわくないね
死ぬときゃ死ぬんだ
先のことを悲嘆するより
今 この酒がうまけりゃいいんだ
~『ちびまる子ちゃん』8巻

まる子の言動は、おっちょこちょいで軽口ばかりたたいている父・ヒロシそっくり。この言葉には「これがヒロシの人格の全てである」というナレーションが添えられている。全てって……。頼りがいはまったくないけど、立派なことばかり言っている父親よりいいかもね。

未来や過去に束縛される生き方は自然じゃないさ
肝心なのは今なのさ
~『ちびまる子ちゃん』8巻

1999年に世界が滅亡するというノストラダムスの大予言にうろたえるまる子たちに、お金持ちの花輪くんがさらりと一言。「明日は自分でつくるものなのさ」というセリフもカッコいい。さくらさんは花輪くんが大のお気に入りだった。

■ひとりの漫画家としての苦悩も名言に
やりたい事がやれない時期は
本当の夢が見つけられる絶好のチャンスです
~『ちびまる子ちゃん』4巻「夏の色もみえない」

『ちびまる子ちゃん』の巻末に収録されていた自伝的要素の強い「ももこのほのぼの劇場」のファンという読者も多い。「夏の色もみえない」は高校受験を控えた中3の夏休みの様子を描いた作品。
勉強をしなければと焦りながらも、結局は怠けてしまうわけなのだが、そんなもどかして辛い時期をさくらさんは「夢の育成期間」と呼ぶ。やりたいことがやれる時期は手頃な娯楽でごまかされがちだが、やりたいことがやれない時期はどうしても自分と向き合うことになる。これは子どもも大人も一緒なのかもしれない。

私は漫画家になりたい。
他の職業じゃなくて、漫画家になりたい。
……うん、きっとなれる。
これは気のせいなんかじゃない……‼
~『ひとりずもう』下

自伝エッセイをコミック化した『ひとりずもう』は、思春期のさくらさんが恋に悩んだり、親友のたまちゃんと将来について語り合ったり、夢だった漫画家に向けてひたむきに走りはじめる様子をリリカルに描いた作品。心配するお母さんに向かって言った「水の泡になってもいいっていう覚悟でやってるんだよっ」というセリフも印象深い。

■「なにがしあわせってそりゃあ」
冗談じゃないよ
わたしの人生はわたしのものだよ
この子の人生とは別モノだからね
でも仲よくしていきたいね
~『ちびまる子ちゃん』12巻

まる子がコジコジと一緒に未来の漫画家になった自分に会いに行くエピソード「まる子 じぶんの未来を見にゆく の巻」より。アトリエで生まれたばかりの子どもの世話をしている未来のまる子――漫画家になったさくらさん自身が、コジコジに「子供のために人生ささげるってかんじ?」と聞かれて、きっぱりとこう答える。さくらさんの親子観がよく表れた言葉だ。

りっぱな家もいいけど
なにがしあわせってそりゃあ
みんな元気で楽しく暮らせるってこと
ねーえ
~『ちびまる子ちゃん』1巻「うちはびんぼう」

実は祖父が意地悪だったことを明かしていたさくらさんだったが、数々のエッセイなどを読めば、家族の仲は非常に良かったことがうかがい知れる。デビュー直後に発表された「うちはびんぼう」でも、「びんぼう」で「まぬけ」な家族の姿を描きつつ、てらいなく家族への愛情を表している。

■メルヘンチックでブラックな「コジコジ」の名言
コジコジだよ
コジコジは生まれた時から
ずーっと
将来もコジコジはコジコジだよ
~『コジコジ』1巻

さくらさんの『ちびまる子ちゃん』に次ぐ代表作が『コジコジ』だった。メルヘンチックなのに、ブラックでシュールなナンセンスギャグが飛び交う独特の世界に、熱狂的なファンも多い。
第1話でテストの点が悪いコジコジが、メルヘン学校の担任教師に「将来一体何になりたいんだ」と問われたときの答えがこれ。コジコジの言葉のあまりの「真理」ぶりに教師は負けを認めてしまう。どんな生き方をしようが、お金があろうがなかろうが、どんな仕事をしようが、自分は自分。何も変わらない。人生を難しく考えすぎる人たちにとっては、すーっと気持ちが楽になる言葉だ(ただし、コジコジの友達の次郎は同じことを母親に言ってぶん殴られた)。

飛べない時はゆっくり休めばいいじゃん
仕方ないよ
飛べないんだからさ
~『コジコジ』2巻

コジコジが突然飛べなくなってしまったお正月の精・正月くん(お正月が楽しいのは彼のおかげらしい)におくったコジコジの言葉。絶対に休めない日だとわかっているんだけど、無理したってできないものはできない、という正しいアドバイスだ。「休もう」と決意した正月くんは、気持ちが楽になって飛ぶことができるようになった。

は? 役に立つかどうか?
どうでもいいじゃん そんな事
オレ達 ただモーレツに生きてるだけさ
~『コジコジ』3巻

カエルのトミーに誘われて田んぼに遊びに来たコジコジたち。しかし、人間のジョニーは田んぼの中で跳ね回るだけのカエルたちの遊びにどうしても意義が見出だせなかった。そんなジョニーにカエルたちが放ったのが上のセリフだ。
意味や意義なんてどうでもいい。他人からどう思われようとも、好きなこと、バカバカしいことを愛してやまなかったさくらさんの生き方がよく表れている。カエルたちの次の言葉もカッコいい。「役に立つかどうかなんてさ あとから誰かが言う事だろ オレたちゃ 誰かの言う事より 自分の事は自分で決めるさ」。

■さくらももこさんにとっての「クール」とは
ムダなことをせず
更に他人に迷惑をかけず
自由に自分の人生をのびのび生きるのが
クールといえるかもな
~『コジコジ』4巻

さくらさんの親友だった作家の吉本ばななさんは、さくらさんのことを「だれよりもクールで楽しいことが大好きだった人」と振り返っている(note 9月2日)。さくらさんは『コジコジ』で「クール」をこのように定義していた。きっと、自ら「クール」であることを意識していたのだろう。そして、天真爛漫でマイペースでムダなことばかりしているように見えるコジコジは、実は誰よりも「ムダがない」、つまり「クール」な存在なのだ。

わたしは一生バカだよ
バカは死ぬまで治らないんだから
そうと決まればバカとして
明るく元気に生きてゆくしかないよ
~『ちびまる子ちゃん』12巻

開き直りのようだが、とても清々しく聞こえる言葉だ。まる子は無理やり賢くなろうなんて思わず、バカを貫いて漫画家になり、日本全国を明るくほのぼのとした、時折ダークでひねくれた笑いで包んでくれた。さくらさん、本当にありがとうございました。

via http://bunshun.jp/articles/-/8933


◇「さくらももこさん ありがとうの会」 TARAKO、まる子の声でメッセージ
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 『ちびまる子ちゃん』の作者で、8月15日に乳がんのため53歳で亡くなったさくらももこさんを偲ぶ「さくらももこさん ありがとうの会」が16日、都内で開催。アニメでまる子の声を務めた声優のTARAKOらが出席し、桑田佳祐が同アニメのエンディングテーマだった「100万年の幸せ!!」を献歌として熱唱した。
 会はさくらさんの名前にちなんで桜色をテーマカラーとし、多くの人がネクタイやアクセサリーなどにピンク色を取り入れて列席した。TARAKOは「私の人生の半分はまる子でした」と涙声で挨拶。途中で“まる子”の声にスイッチし「3年4組、さくらももこ。通称“まる子”。大人になった私へ。よくぞ夢をかなえてくれました。あんた、ホントえらいよ!」と語り、さらに「天国へ行く私へ。そっちでもたまには『まる子』を描いてよね。ずっとずっと、どこにいても描き続けてください」とメッセージを送った。
 TARAKOのほかに、長年にわたり公私で付き合いのあった女優の賀来千香子、デビュー当初に対談して以来、親友として家族ぐるみの付き合いをしてきたという作家の吉本ばななが祭壇の前で、さくらさんとの思い出や感謝の思いを語った。
 桑田佳祐は、さくらさんが作詞し、2012年4月から2017年10月までアニメ『ちびまる子ちゃん』のエンディングテーマに起用されていた『100万年の幸せ!!』を生で歌唱。以前から桑田の大ファンだったというさくらさんが、直々に手紙でエンディングテーマを依頼して誕生した同曲だが、桑田は最初の手紙にすでに歌詞とタイトルが記されていたことを明かし「(歌詞)指定かよ! すげーなぁ…と思った(笑)」と笑いながら明かし「先生、ありがとうございました」と祭壇に向かって深々と頭を下げた。
 この日は、声優やアニメ、出版関係者などおよそ1000人が献花に来場。さくらさん作詞のヒット曲『おどるポンポコリン』を歌唱したB.B.クィーンズや爆笑問題の太田光、和田アキ子、ゴールデンボンバー、パパイヤ鈴木、市村正親、GLAYのTERU、THE YELLOW MONKEYの吉井和哉らも姿を見せた。[2018.11.16]
via https://www.crank-in.net/news/60475

◆TARAKOさんの弔事の詳細


TARAKOさんは「今日は泣かないって決めてきたのに」と話し出すと声を詰まらせた。
「私の人生の半分はまるちゃん。ももこ先生がいなかったら私の人生変わっていた。
まる子が売れるまでずっとバイトをしていて貧乏は得意だったけど
本当にももこちゃんの声と似ていて幸せでした」と話した。
さくらさんと歌手のイルカと、声の似た3人で
オールナイトニッポンにラジオ出演した当時を振り返り
「しゃべったら誰の声だか分からない」と笑い
「似てるってこんなに幸せでありがたくてグッとくるものなんだなと
ももこちゃんが教えてくれました」と語った。
途中で「私はプライベートのももこさんを知らないので
この人が一番知っているんじゃないか」と切り出すと
まる子になりきって語りかけた。
「3年4組、まる子。大人になった私へ。よくぞ夢をかなえてくれました。
あんた本当にエライよ、おめでとう。
プライベートはなんかいろいろあったみたいだね。でもあんたの作品も
あんたもたくさんの人に愛されたんだから、人生バランスなのかもしれないね」。
「大人になって天使になった私へ。
そっちはどうだい?今日は絶対こっちをウロウロしているよね。
桑田(佳祐)さんがいるけど、しがみついちゃダメだよ」。
「大人になって天使になって天国へ行く私へ。
そっちでもたまにまる子書いてよね。どこにいてもずっと書き続けて
生まれ変わってもずっとちっちゃくてまあるくておっちょこちょいで
プリンが好きで百恵ちゃんが好きでマンガが大好きな、さくらももこです」。
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