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気になりィーモ!!

気になった記事や事柄を 自分のノート代わりとする場に していけたらと思ってます。

2015年12月 | ARCHIVE-SELECT | 2016年02月

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[画像] 菓子売り場のポップにでベッキーの流出ラインが引用!! はてなブックマーク - [画像] 菓子売り場のポップにでベッキーの流出ラインが引用!!

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[CM]マルコメみそ 料亭の味 はてなブックマーク - [CM]マルコメみそ 料亭の味

◆カップみそ汁 夜食篇


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[CM]多部未華子-ソフトバンク 「変えてやる」篇 はてなブックマーク - [CM]多部未華子-ソフトバンク 「変えてやる」篇

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SMAP、活動継続へ意気込み [2016.01.18 『SMAP×SMAP』でのメンバーコメント全文] はてなブックマーク - SMAP、活動継続へ意気込み [2016.01.18 『SMAP×SMAP』でのメンバーコメント全文]

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・木村拓哉
今日は2016年1月18日です。
先週から我々SMAPのことで世間をお騒がせしました。
そしてたくさんの方々に、たくさんのご心配とご迷惑をお掛けしました。
このままの状態だと、SMAPが空中分解になりかねない状態だと思いましたので、今日は自分たち5人が顔をしっかりそろえて、皆さんに報告することが何よりも大切だと思いましたので、本当に勝手だったんですが、このような時間をもらいました。

・稲垣吾郎
この度は僕たちのことでお騒がせしてしまったこと、申し訳なく思っております。
これからの自分たちの姿を見ていただき、そして、応援していただけるように精一杯頑張っていきますので、これからもよろしくお願いいたします。

・香取慎吾
本当にたくさんの方々に心配をかけてしまい、そして不安にさせてしまい、申し訳ありませんでした。
(少し間を置き)
皆さまと一緒にまたきょうからいっぱい笑顔を作っていきたいと思います。
よろしくお願いします。

・中居正広
今回の件で、SMAPがどれだけみなさんに支えていただいているのかということを、改めて強く感じました。
本当に申し訳ありませんでした
(ため息をつき)これからもよろしくお願いいたします。

・草彅剛
皆さんの言葉で気づいたこともたくさんありました。
本当に感謝しています。
今回、ジャニーさんに謝る機会を木村くんが作ってくれて、今僕らはここに立てています。
5人で集まれたことを安心しています。

・木村拓哉
最後に、これから自分たちは何があっても前を見て、ただ前を見て進みたいと思いますので、皆さん、よろしくお願いいたします。

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・SMAP解散! 飯島vsジュリー派閥争いでキムタク以外独立、なぜキムタクだけジャニーズ残留? 20年前の裏取引
 http://lite-ra.com/2016/01/post-1885.html

・草彅生出演でも触れられない解散問題…でもSMAPメンバーは1年半前、解散への思いを語っていた! その時もキムタクだけは…
 http://lite-ra.com/2016/01/post-1890.html

・SMAP「解散」 毎日新聞が神紙面 編集者は同世代のファン
 http://withnews.jp/article/f0160114001qq000000000000000W02j0601qq000012914A
 http://grapee.jp/131182

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・飯島マネ今月退職決定!でも恩知らずはメリー副社長のほうだ!SMAPだけでなくジャニーズが今あるのも飯島のおかげ
 http://lite-ra.com/2016/01/post-1896.html

・存続するSMAP、民主化しないジャニーズ――SMAP解散騒動の煮え切らない結末 (by 松谷創一郎)
http://bylines.news.yahoo.co.jp/soichiromatsutani/20160118-00053560/

・「SMAP」解散騒動に芸能界の大物たちも心配してた
 http://matome.naver.jp/odai/2145298042303175201

・SMAPは死んだ! そして裏切り者はやっぱりキムタクだった! メリー氏が自ら“木村家にお呼ばれ”を告白
 http://lite-ra.com/2016/01/post-1902.html

・ジャニーズ・メリー副社長、公然と中居正広批判を開始…SMAP解散の動き再燃か
 http://biz-journal.jp/2016/01/post_13409.html

・「木村拓哉タイムリープ説」を実写化した映像が登場
 http://gigazine.net/news/20160122-smap-time-leap/



・『サンジャポ』でデーブ・スペクターがジャニーズとテレビ局の癒着を批判! 太田光もテリー伊藤も真っ青に
 http://lite-ra.com/2016/01/post-1916.html

・アジアのアイドル業界、その暗い側面
 http://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-35436655
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[動画] 1910年~2010年までの100年間の自動車デザインの変化 はてなブックマーク - [動画] 1910年~2010年までの100年間の自動車デザインの変化

◆100 Years of Cars ★ Mode.com
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第154回「芥川賞」滝口悠生氏の『死んでいない者』、本谷有希子氏の『異類婚姻譚』、「直木賞」は青山文平氏『つまをめとらば』 はてなブックマーク - 第154回「芥川賞」滝口悠生氏の『死んでいない者』、本谷有希子氏の『異類婚姻譚』、「直木賞」は青山文平氏『つまをめとらば』

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 (左から青山文平、本谷有希子、滝口悠生)

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 日本文学振興会は19日、『第154回芥川賞・直木賞(平成27年度下半期)』の選考会を東京・築地「新喜楽」で開き、芥川龍之介賞に滝口悠生氏の『死んでいない者』、本谷有希子氏の『異類婚姻譚』の2作品を選出。直木三十五賞は青山文平氏の『つまをめとらば』に決まった。
 芥川賞を受賞した滝口氏は、1982年東京都生まれ。埼玉育ち。2011年に「楽器」で『第43回新潮新人賞』を受賞し、デビュー。お笑いコンビ・ピース又吉直樹と羽田圭介氏が受賞した前回の第153回では「ジミ・ヘンドリクス・エクスペリエンス」で候補作となっていた。2度目のノミネートで受賞。
 本谷氏は1979年石川県生まれ。00年より「劇団、本谷有希子」を主宰。芥川賞には第135回に「生きているだけで、愛。」、第141回に「あの子の考えることは変」、第145回に「ぬるい毒」で候補作となり、4度目のノミネートで念願の受賞となった。石川県出身者の受賞は今回が初めて。
 青山氏は1948年横浜市生まれ。早稲田大学第一政治経済学部卒業。経済関係の出版社に18年勤務した後、92年よりフリーライター。同年『俺たちの水晶宮』で第18回中央公論新人賞を受賞。ほぼ10年で創作活動を終了、2011年に創作再開。初の時代小説『白樫の樹の下で』で第18回松本清張賞を受賞。同年、本作を収録した『白樫の樹の下で』でデビュー。直木賞は第152回で『鬼はもとより』以来、2度目のノミネートで受賞を決めた。
 芥川賞・直木賞は1935(昭和10)年に制定。芥川賞は新聞・雑誌(同人雑誌を含む)に発表された純文学短編作品、直木賞は新聞・雑誌(同)・単行本として発表された短編および長編の大衆文芸作品の中から優れた作品に贈られる。前者は主に無名・新進作家、後者は無名・新進・中堅作家が対象となる。
 前回(第153回)は、お笑いコンビ・ピース又吉直樹の『火花』と羽田圭介氏の『スクラップ・アンド・ビルド』の2作、直木賞は東山彰良氏の『流』が受賞した。
via http://www.oricon.co.jp/news/2065557/full/

jiji.com
nhk news web
■第154回芥川龍之介賞 候補作(掲載誌)/ノミネート回数
・石田千『家へ』(群像7月号)/3回目
・上田岳弘『異郷の友人』(新潮12月号)/2回目
・加藤秀行『シェア』(文學界10月号)/初
・滝口悠生『死んでいない者』(文學界12月号)/2回目
・松波太郎『ホモサピエンスの瞬間』(文學界10月号)/3回目
・本谷有希子『異類婚姻譚』(群像11月号)/4回目

■第154回直木三十五賞 候補作(出版社)/ノミネート回数
・青山文平『つまをめとらば』(文藝春秋)/2回目
・梶よう子『ヨイ豊』(講談社)/初
・深緑野分『戦場のコックたち』(東京創元社)/初
・宮下奈都『羊と鋼の森』(文藝春秋)/初
・柚月裕子『孤狼の血』(KADOKAWA)/初

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台湾総統に蔡英文氏=8年ぶり政権交代-初の女性、対中「現状維持」 はてなブックマーク - 台湾総統に蔡英文氏=8年ぶり政権交代-初の女性、対中「現状維持」

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 台湾総統選挙は16日、投開票され、台湾独立志向の最大野党・民進党の蔡英文主席(59)が、与党・国民党の朱立倫主席(54)、野党・親民党の宋楚瑜主席(73)の2人を破り、初当選した。女性総統は台湾史上初となる。民進党の政権奪還は8年ぶりで、馬英九政権下で緊張緩和が進んだ中台関係に変化が生じるとみられる。蔡氏は5月20日に新総統に就任する。
 中央選挙委員会によると、各候補の得票率は、蔡氏が56.12%、朱氏が31.04%、宋氏が12.84%。副総統には蔡氏とペアを組んだ中央研究院前副院長の陳建仁氏(64)が選出された。投票率は過去最低の66.27%だった。
 蔡氏は「3度目の政権交代を果たした」と勝利を宣言。朱氏は「失望させて申し訳ない」と敗北を認め、党主席を辞任する考えを表明した。毛治国行政院長(首相)も辞任の意向を明らかにし、内閣は総辞職する見通しだ。
 同時実施の立法院(国会、定数113)選も民進党が現有の40議席から68議席に躍進し、初めて過半数(57議席)を確保した。蔡氏は安定的な政権基盤を築くことができる。国民党は64議席から35議席に激減。新政党「時代力量」は5議席を獲得した。
 蔡氏は2008年に発足した馬政権での経済情勢悪化や親中路線を批判し、有権者の不満を取り込んで選挙戦を終始リードした。最大争点の対中政策では「現状維持」を掲げ、民進党政権発足で中台関係が悪化するとの懸念の解消に努めた。
 一方、朱氏は馬政権に対する逆風に加え、国民党の混乱で出馬表明が昨年10月と出遅れ、厳しい戦いを強いられた。馬政権の対中融和路線を引き継ぎ、蔡氏が当選すれば「中台関係が不安定になる」と危機感をあおったが、及ばなかった。
 馬総統は昨年11月に中国の習近平国家主席と分断後初の首脳会談を行い、「一つの中国」原則に基づく「92年合意」を改めて確認した。民進党は合意を認めておらず、蔡氏は当選後の記者会見で、対中関係について「挑発せず、予想外のことをせず、対等な交流の道を探る」とする基本的な立場を示した。
(2016.01.17)
via http://www.jiji.com/jc/c?g=int&k=2016011600307&m=rss

 台湾総統選が16日、投開票され、野党・民進党の蔡英文氏(59)が当選した。8年ぶりの政権交代で、台湾初の女性総統が誕生する。
中国からの独立志向の強い民進党を率いる蔡氏はこれまで、中国について態度を明示してこなかったが、「一つの中国原則」を認めない蔡氏の総統就任は台中関係の悪化につながるという批判の声もある。
与党・国民党の朱立倫主席(54)は敗北を認め、蔡氏の勝利を祝うと共に、国民党主席を辞任すると表明した。
台中関係においては、中国の習近平国家主席と台湾の馬英九総統が昨年11月、1949年の中台分断後初の歴史的な首脳会談を行ったばかりだ。
しかし取材する特派員たちは、有権者の選択に影響したのは中国との関係だけでなく、経済停滞への懸念だと指摘する。
台湾では過去70年の間、国民党がほとんど常に与党として中国との関係改善に注力してきた。民進党が政権を握るのは、陳水扁政権(2000年~2008年)以来8年ぶり2度目。独立志向の陳総統時代、中国との関係は悪化した。
大学教授出身の蔡氏はこれまで、中国とは「現状維持を希望する」と発言してきた。
現職の馬総統は、陳政権下での中台関係悪化などを批判し、08年に当選。しかし馬政権の経済政策によって経済格差が広がったという不満から、今回の総統選では民進党が支持を伸ばした。
 via http://www.bbc.com/japanese/35333169

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| 政治 | 06:29 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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ミランの背番号「10番」が意味するもの。歴代選手が示すエースの存在意義 はてなブックマーク - ミランの背番号「10番」が意味するもの。歴代選手が示すエースの存在意義

■ミランの背番号10番を背負う本田圭佑

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 本田圭佑は2014年1月にミランに加入。背番号10番を選択した。
 ミランのアドリアーノ・ガッリアーニCEOによれば、本田は当初は日本代表での「4番」もしくはCSKAモスクワでの「7番」を希望していたとのこと。しかし、両番号は既にサリー・ムンタリ(4番)とロビーニョ(7番)がつけていたため断念した。
 そこで、ガッリアーニCEOがケビン=プリンス・ボアテングがシャルケに移籍し空席となった「10番」を提案すると、喜んで受け入れたとされている。
 後に本田は「目の前に10番をつけるチャンスがあったら、違う番号を選びますか?という話ですよ」と語った。「選ぶ時にプレッシャーのことは考えなかった」とし、「後悔することはない」と決断している。

■ミランの歴代「10番」1960年代~1990年代前半 
 背番号が現在の固定制ではなくポジション準拠となっていた時代に、ミランの10番として象徴的に語られるのがジャンニ・リベラとルート・フリットだ。
 リベラは1960年から1979年にミランで活躍したイタリア人MF。チームをセリエAで3度、コッパ・イタリアで4度、チャンピオンズ・カップ(現チャンピオンズリーグ)で2度の優勝に導いた偉大なカピターノ(キャプテン)である。

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 セリエAデビューは15歳281日で、同リーグの歴代最年少記録2位を保持している。2004年にペレが選んだ「偉大なサッカー選手100人」に選出され、国際サッカー歴史統計連盟(IFFH)による「20世紀世界最優秀選手」の19位に選ばれた。
 ルート・フリットはミランを世界的に有名たらしめた「オランダ・トリオ」の一員として活躍したレジェンドだ。1987年から1993年、1994年にミランに在籍し、アリゴ・サッキ監督とファビオ・カペッロ監督のもと「グランデ・ミラン」を形成した。

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 セリエAで3度、コッパ・イタリアで1度、チャンピオンズ・カップで2度の優勝を経験。IFFHによる「20世紀世界最優秀選手」の18位に輝いている。
 リベラ、フリットはともにバロンドールを獲得している“伝説”だ。

■ミランの歴代「10番」1990年代後半~2000年代前半 
 フリットから背番号10番を継承したのがデヤン・サビチェビッチだ。1992年から1998年までミランに所属し、1995/1996シーズンから固定背番号制が開始されたことで、「10番」の象徴となった。

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 ファンタジー溢れるプレースタイルは「トップ下」のイメージそのもので、ミランでは3度のセリエA優勝に貢献した。
 1998年から背番号10番を背負ったのはズボニミール・ボバン。サビチェビッチと同じくユーゴスラビア圏の系譜を継ぐ選手で、ユーゴスラビア代表で8試合、クロアチア代表で51試合に出場した。1998年フランス・ワールドカップではクロアチア代表を3位に導いている。ミランでは4度のセリエA優勝と1度のチャンピオンズリーグ優勝に貢献した。

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 ユーゴスラビア紛争の際には「私は政治家100人にできないことができる」と発言するなど、雄弁さが特徴的な人物でもある。「サッカーを戦争だと言う者は、本当の戦争を知らない」という名言はあまりにも有名だ。その能力を活かし、現在はイタリアで辛口サッカー解説者として愛されている。

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 2000年代に入り、ミランの背番号10番はマヌエル・ルイ・コスタに継承された。同選手はミランだけではなくポルトガルの伝説として知られている。ポルトガルのベンフィカで活躍した後、セリエAのフィオレンティーナに移籍。同クラブでガブリエル・バティストゥータとともに黄金時代を築き、2001年にミランに加入した。
 ポルトガル代表ではEURO1996でベスト8、EURO2000では母国をベスト4に導いている。ルイ・コスタもまた、ペレが選んだ「偉大なサッカー選手100人」に選出された。

■ミランの歴代「10番」2006年以降

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 ルイ・コスタから背番号10番を譲り受けたのは、オランダが誇る“最高傑作”と評されたクラレンス・セードルフだ。アヤックスのアカデミー出身で、わずか16歳242日でプロデビューを果たした。
 その後、アヤックス、レアル・マドリー、ミランでチャンピオンズリーグ(CL)優勝を達成。サッカー史上唯一の「異なる3クラブでCLに優勝した選手」である。また、CL決勝における勝利記録も保持しており、バルセロナのアンドレス・イニエスタとともに史上2人しかいない「CL決勝で4度勝利した選手」である。
 セードルフはミランで2度のセリエA優勝、2度のチャンピオンズリーグ優勝、1度のコッパ・イタリア優勝に貢献した。
 またセードルフは、ルイ・コスタがミランからの退団を決意した際、クラブは当初ブラジル代表MFカカに背番号10番を与えようとしていたが、セードルフの強い希望によって10番を勝ち獲ったというエピソードを持っている。
 そのセードルフから背番号10番を継承したのがケビン=プリンス・ボアテングであり、本田の前代にあたる10番だ。ミランの10番を背負った選手において、初めてかつ唯一のアフリカ圏の代表選手である。

AC Milans Kevin-Prince Boateng celebrates AC Milans victory over Barcelona .jpg

 ミランでは2010/2011シーズンのセリエA優勝に貢献した。歴代10番に比べれば成績は物足りないものとなっているが、2012年のバルセロナ戦でのスーパーゴールは今もなおミラニスタの心に残っている。

■ミランの10番は「外国人選手」のもの
 ミランの背番号10番は「イタリア人のためのもの」ではない。ジャンニ・リベラを除いて背番号10番を背負ったのは全て外国人選手であり、西ヨーロッパ、東ヨーロッパ、アフリカ、アジアと様々な地域の選手が担っていることが分かる。
 また、ミランにおいて意外にも南米の選手が背番号10番の象徴となったことはない。とりわけ多くのブラジル人選手が活躍してきたクラブではあるが、カカが10番を受け取らなかったことで同番号は「その他の国の選手」のものとなったようだ。
 一方で、ミランにおいて背番号10番以上に重要な番号が2つ存在する。背番号3番と背番号6番だ。
 この2つの番号は偉大な2人のカピターノが背負った番号であり、永久欠番となっている。6番を背負ったフランコ・バレージと、3番を背負ったパオロ・マルディーニである。

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 両選手はともにDFとしてプレーし、ともにキャリアの全てをミランに捧げた。ミランは伝統的に「イタリア人が後ろを固め、外国人選手が攻撃を担う」といったメンバー構成で戦ってきた。母国のファンにとって、10番は「助っ人」へのリスペクトの象徴として機能しているのかもしれない。

■本田は歴代唯一タイトルをもたらしていない10番
 本田はミランにおける歴代の背番号10番の中で、唯一クラブにタイトルをもたらしていない選手となってしまっている。
 とりわけシルビオ・ベルルスコーニ現名誉会長がクラブのオーナーに就任して以降、ミランの歴史は栄冠の歴史である。前任者のケビン=プリンス・ボアテングも、背番号10番時代にはタイトルを獲得できなかったものの、ミランの最後のセリエA優勝である2010/2011シーズンのスクデット(リーグ優勝)の立役者である。
 今のミランにかつての「グランデ・ミラン」の面影はない。しかしながら、ミラニスタがタイトルへの渇望を捨てることはないだろう。本田はミランにタイトルをもたらせるのか。ミランの背番号10番とは、そのような存在なのだ。
via http://www.footballchannel.jp/2016/01/16/post132675/

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ユダヤ人6000人の命を救った日本のシンドラー「杉原千畝」を改めて知る はてなブックマーク - ユダヤ人6000人の命を救った日本のシンドラー「杉原千畝」を改めて知る

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 シリア難民の問題が深刻化している。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2015年の難民の数が6000万人で過去最多となった。移民の受け入れを表明しているドイツの他にEU諸国も徐々に支援を広げている。遠い国のことだからと日本も他人事ではいられない。私たちにもなにかできることはないのだろうか。
 そんな難民問題を考えるきっかけにして欲しいのが、『杉原千畝』(大石直紀/小学館)だ。現在公開中の唐沢寿明主演の映画『杉原千畝』の公式ノベライズである。第二次世界大戦中、ナチス・ドイツの迫害からユダヤ人約6000人の命を救った外交官・杉原千畝の物語だ。今回の映画化で初めて杉原千畝という人物を知った人も少なくないだろう。しかし、ユダヤの人々からはいまも深い感謝と尊敬を集めている。杉原千畝は、どうして難民を救おうとしたのだろうか。

■苦学生から外交官へ
 まずは杉原千畝について知ってもらいたい。千畝は、1900年1月1日に岐阜で生まれる。幼くして秀才ぶりを発揮し、尋常小学校卒業時の成績は全甲(オール5)だったという。父親からは医者になるように命じられたが、英語教師を志していた千畝は家出して早稲田大学の英語科に入学する。外務省の留学生制度を利用して、満州にあるハルビン学院でロシア語を学ぶ。ここでも優秀な成績を残した千畝は、外務省書記官として働き始める。

■世界を変えた「命のビザ」
 日本に帰国した千畝は、友人の紹介で妻・幸子と結婚する。子供も生まれ、平穏な日々が続いたが、やがて外務省から新たな辞令が下る。そして1939年8月28日、運命の地となるリトアニアの首都カナウスの領事館へ赴任する。その頃、ポーランドがドイツとソ連に分割占領され、ユダヤ人たちはナチスの迫害から逃れるため、入国ビザの不要になったポーランドを経由して、隣国リトアニアへと大移動を開始していた。
 難民たちはビザを求めて各国の大使館、領事館を巡り歩いた。しかしほとんどの国は取り合わなかった。千畝は、領事館の柵の向こうで悄然と立ち尽くす難民の姿に胸を痛めていた。ドイツ軍に捕まったユダヤ人が虐殺を受けるのを知っていたからだ。千畝は、満州で中国人や朝鮮人が関東軍に差別や虐待されていた光景を思い出す。日増しに難民たちを助けたいという思いがこみ上がる。しかし外務省の許可がなければビザの発給はできない。千畝は現実と理想の狭間で苦悩する。
 その時、難民たちを助けるように千畝の背中を押したのは妻・幸子だった。家族の理解を得て千畝は決断した。1940年7月29日、千畝は日本政府に無断で難民たちにビザを発給し始める。噂を聞いて日本領事館の前にはビザを求める難民たちの列が100人、200人と続いた。千畝は昼夜を問わず、寝る間も惜しんでビザを書き続けた。やがて手が痺れ、腕に激痛が走るようになった。日本政府からはビザを発給しないようにとの命令も下った。それでも押し寄せる難民たちを見捨てられなかった。千畝のビザは彼らの命そのものだったからだ。
 そんな日々が1ヶ月間も続き、ついにソ連軍から強制退去命令が下る。9月5日、リトアニアから去る日が来ても、千畝は駅のプラットホームでビザを書き続けた。列車が発車する時刻になると、集まった難民たちが千畝に手を振って別れを惜しんだ。千畝の胸にあったのは、自分がもっと早くに決断していれば、さらに多くの人を救えていたという後悔だった。

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■そして世界が杉原千畝を認めた
 帰国後、外務省から呼び出された千畝は自主退職を促される。事実上の懲戒免職だった。その後、不名誉なバッシングにも晒された千畝は貿易業や学校教師、放送局員などの職を転々とする。そんな千畝の名誉回復に動き出したのは、イスラエルの参事官ジェホシュア・ニシュリだった。ニシェリも千畝からビザを受給され、命を救われた一人だった。国際世論の働きかけもあり、1985年1月18日、千畝はユダヤ人への功績があった者に贈られる最も名誉ある称号「諸国民の中の正義の人」(ヤド・バシェム賞)を受賞する。そして翌年の1986年7月31日、86歳で生涯を閉じた。
 『杉原千畝』は、決して戦争小説や反戦映画ではない。この作品に描かれているのは、隣人への思いやり、家族を愛する心、差別や暴力に立ち向かう正義感、そして世界をより良く変えたいという願い。杉原千畝の生き方であり、人としてのあり方だ。それらは私たちにも当たり前にある善意でもある。
 私たちひとりひとりの小さな善意から世界は変わる。杉原千畝を思うと、そんな優しい気持ちがわいてくる。
 via http://ddnavi.com/news/280828/a/

・杉原千畝:Wikipedia

・杉原千畝記念館:八百津町HP
 
・杉原千畝と「命のビザ」 ~東洋のシンドラーと呼ばれた外交官~:アジア歴史資料センター
 http://www.jacar.go.jp/modernjapan/p14.html

・杉原千畝が救ったユダヤ人女性 「私を思い出して」日本に写真を残す
 http://www.huffingtonpost.jp/2014/04/20/chiune-sugihara_n_5180745.html
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メッシ、2015FIFAバロンドール(年間最優秀選手賞)受賞-史上最多5度目  はてなブックマーク - メッシ、2015FIFAバロンドール(年間最優秀選手賞)受賞-史上最多5度目 

WS001
 FIFA(国際サッカー連盟)は11日、スイスのチューリッヒで年間表彰式を行い、年間最優秀選手賞である2015年度のFIFAバロンドールに、バルセロナ所属のアルゼンチン代表FWリオネル・メッシを選出した。メッシは3年ぶり5度目(前身のバロンドール含む)の受賞となった。
 2015年、メッシはクラブと代表戦を含め、公式戦60試合で通算50ゴールを記録した。昨シーズンのチャンピオンズリーグでは10ゴールをマークし、同僚のブラジル代表FWネイマール、レアル・マドリードのポルトガル代表FWクリスティアーノ・ロナウドと並んで得点王を獲得。リーガ・エスパニョーラでも43得点を挙げた。また、チャンピオンズリーグ、リーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ(スペイン国王杯)の3冠に加え、UEFAスーパーカップ、FIFAクラブワールドカップと、獲得できる6つのタイトルの内、5つを手にしている。
 FIFAバロンドールは、各国の代表監督と主将、サッカー記者の投票で選出される。なお、最終候補にはメッシの他、2013年、2014年と2年連続で同賞を受賞したC・ロナウドとネイマールが選ばれていた。
 via http://www.soccer-king.jp/news/world/esp/20160112/390465.html
FIFA.com
uefa.com

・メッシのコメント
「自分にとって、とても特別な瞬間だ。5度目なんて信じられないよ。小さい頃に想像していた以上だ」
「僕に投票してくれたすべての人たち、そして良いこと悪いこと含め、人生における成長の糧となったサッカーに感謝をしたい。本当にありがとう」


■2015年FIFA/FIFProワールドベストイレブン(カッコ内は国籍/所属クラブ)※は受賞回数
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 世界のプロサッカー選手の投票によって決まるベストイレブンには、バイエルンのドイツ代表GKマヌエル・ノイアー、レアル・マドリードのポルトガル代表FWクリスティアーノ・ロナウド、バルセロナのアルゼンチン代表FWリオネル・メッシら6名が2014年に続き選出。レアル・マドリードのクロアチア代表MFルカ・モドリッチ、ユヴェントスのフランス代表MFポール・ポグバ、バルセロナのブラジル代表FWネイマールが初選出を受けた。なお、メッシとC・ロナウドは2007年から9年連続9回目の選出となった。
 なお、クラブ別では4名が選出されたバルセロナとレアル・マドリードが最多で、その他はバイエルン、パリ・サンジェルマン、ユヴェントスが1名ずつとなった。また、国籍別では4名のブラジルが最多で、スペインが2名で続いている。
 via http://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20160112/390488.html

▼GK
・マヌエル・ノイアー(ドイツ/バイエルン)※3年連続3回目

▼DF
・チアゴ・シウヴァ(ブラジル/パリ・サンジェルマン)※3年連続3回目
・セルヒオ・ラモス(スペイン/レアル・マドリード)※5年連続6回目
・マルセロ(ブラジル/レアル・マドリード)※3年ぶり2度目
・ダニエウ・アウヴェス(ブラジル/バルセロナ)※2年ぶり5回目

▼MF
・アンドレス・イニエスタ(スペイン/バルセロナ)※7年連続7度目
・ルカ・モドリッチ(クロアチア/レアル・マドリード)※初選出
・ポール・ポグバ(フランス/ユヴェントス)※初選出

▼FW
・ネイマール(ブラジル/バルセロナ)※初選出
・クリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル/レアル・マドリード)※9年連続9回目
・リオネル・メッシ(アルゼンチン/バルセロナ)※9年連続9回目


■最優秀監督賞
・ルイス・エンリケ(スペイン/バルセロナ)
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 現在45歳のL・エンリケ監督は、2014年8月にバルセロナの監督に就任。初年度にリーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ(スペイン国王杯)、チャンピオンズリーグの3冠を達成し、今季はセビージャとのUEFAスーパーカップで5-4の乱打戦を制して幕を開けると、12月に日本で開催されたFIFAクラブ・ワールドカップでも堂々の優勝。全公式戦での年間合計得点数は「180」で、前年にライバルのレアル・マドリードが打ち立てたスペイン記録を更新する驚異の攻撃力を見せつけた。
 なお、最終候補者には同監督の他、自国開催のコパ・アメリカ2015でチリ代表を初優勝に導いたホルヘ・サンパオリ監督、今季限りでバイエルンからの退任が決定しているジョゼップ・グアルディオラ監督が選ばれていた。
 via http://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20160112/390486.html

・2015FIFA最優秀監督L・エンリケ、指導者講習で叩き込まれていた戦術コンセプトの定義
 http://www.footballchannel.jp/2016/01/12/post132058/

■女子最優秀選手
・カーリー・ロイド(アメリカ/ヒューストン・ダッシュ)

■年間最優秀女子監督
・ジル・エリス(アメリカ/アメリカ女子代表)

■プスカシュ賞(最優秀ゴール)
・ウェンデウ・リラ (ブラジル/ゴイアネシア)
※2015.03.11日ブラジルゴイアノ州選手権


 リラは3月11日に行われたゴイアネージア戦で、味方の流れるようなパス交換からエリア内へ抜け出すと、反転しながら豪快オーバーヘッドを叩きつける。ボールは前進していたGKの脇を抜けてネットを揺らした。
 なお、最終候補には他にバルセロナのアルゼンチン代表FWリオネル・メッシとローマのイタリア代表MFアレッサンドロ・フロレンツィが選ばれていた。2014年の同賞はレアル・マドリードに所属するコロンビア代表MFハメス・ロドリゲスが受賞している。
via http://www.soccer-king.jp/news/world/world_other/20160112/390492.html
FIFA.com

・2015年ノミネートゴール


◆バロンドール歴代受賞者一覧(1956-2015)
2015年 リオネル・メッシ(アルゼンチン/バルセロナ)
2014年 クリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル/レアル・マドリード)
2013年 クリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル/レアル・マドリード)
2012年 リオネル・メッシ(アルゼンチン/バルセロナ)
2011年 リオネル・メッシ(アルゼンチン/バルセロナ)
2010年 リオネル・メッシ(アルゼンチン/バルセロナ)※FIFAバロンドール
2009年 リオネル・メッシ(アルゼンチン/バルセロナ)
2008年 クリスティアーノ・ロナウド(ポルトガル/マンチェスター・U)
2007年 カカー(ブラジル/ミラン)
2006年 ファビオ・カンナヴァーロ(イタリア/ユヴェントス)
2005年 ロナウジーニョ(ブラジル/バルセロナ)
2004年 アンドリー・シェフチェンコ(ウクライナ/ミラン)
2003年 パヴェル・ネドヴェド(チェコ/ユヴェントス)
2002年 ロナウド(ブラジル/レアル・マドリード)
2001年 マイケル・オーウェン(イングランド/リヴァプール)
2000年 ルイス・フィーゴ(ポルトガル/レアル・マドリード)
1999年 リヴァウド(ブラジル/バルセロナ)
1998年 ジネディーヌ・ジダン(フランス/ユヴェントス)
1997年 ロナウド(ブラジル/インテル)
1996年 マティアス・ザマー(ドイツ/ドルトムント)
1995年 ジョージ・ウェア(リベリア/ミラン)
1994年 フリスト・ストイチコフ(ブルガリア/バルセロナ)
1993年 ロベルト・バッジョ(イタリア/ユヴェントス)
1992年 マルコ・ファン・バステン(オランダ/ミラン)
1991年 ジャン・ピエール・パパン(フランス/マルセイユ)
1990年 ローター・マテウス(ドイツ/インテル)
1989年 マルコ・ファン・バステン(オランダ/ミラン)
1988年 マルコ・ファン・バステン(オランダ/ミラン)
1987年 ルート・フリット(オランダ/ミラン)
1986年 イゴーリ・ベラノフ(ソ連/ディナモ・キエフ)
1985年 ミシェル・プラティニ(フランス/ユヴェントス)
1984年 ミシェル・プラティニ(フランス/ユヴェントス)
1983年 ミシェル・プラティニ(フランス/ユヴェントス)
1982年 パオロ・ロッシ(イタリア/ユヴェントス)
1981年 カール・ハインツ・ルンメニゲ(西ドイツ/バイエルン)
1980年 カール・ハインツ・ルンメニゲ(西ドイツ/バイエルン)
1979年 ケヴィン・キーガン(イングランド/ハンブルガーSV)
1978年 ケヴィン・キーガン(イングランド/ハンブルガーSV)
1977年 アラン・シモンセン(デンマーク/ボルシアMG)
1976年 フランツ・ベッケンバウアー(西ドイツ/バイエルン)
1975年 オレグ・ブロヒン(ソ連/ディナモ・モスクワ)
1974年 ヨハン・クライフ(オランダ/アヤックス)
1973年 ヨハン・クライフ(オランダ/アヤックス)
1972年 フランツ・ベッケンバウアー(西ドイツ/バイエルン)
1971年 ヨハン・クライフ(オランダ/アヤックス)
1970年 ゲルト・ミュラー(西ドイツ/バイエルン)
1969年 ジャンニ・リヴェラ(イタリア/ミラン)
1968年 ジョージ・ベスト(北アイルランド/マンチェスター・U-)
1967年 アルベルト・フローリアン(ハンガリー/フェレンツ・ヴァーロシュ)
1966年 ボビー・チャールトン(イングランド/マンチェスター・U)
1965年 エウゼビオ(ポルトガル/ベンフィカ)
1964年 デニス・ロー(スコットランド/マンチェスター・U)
1963年 レフ・ヤシン(ソ連/ディナモ・モスクワ)
1962年 ヨゼフ・マソプスト(チェコスロバキア/ドゥクラ・プラハ)
1961年 オマール・シヴォリ(イタリア/ユヴェントス)
1960年 ルイス・スアレス(スペイン/バルセロナ)
1959年 アルフレッド・ディ・ステファノ(スペイン/レアル・マドリード)
1958年 レイモン・コパ(フランス/レアル・マドリード)
1957年 アルフレッド・ディ・ステファノ(スペイン/レアル・マドリード)
1956年 スタンリー・マシューズ(イングランド/ブラックプール)

※2010年度からFIFA年間最優秀選手とバロンドールが統合されてFIFAバロンドールに。バロンドールは94年度まではヨーロッパ国籍対象。95年度から欧州クラブ所属選手が、2007年から全世界の選手が対象に。


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