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2016年08月 | ARCHIVE-SELECT | 2016年10月

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[プロ野球] 球史に残る偉業が生まれつつある……。 “二刀流”大谷翔平の圧倒的な数字。 はてなブックマーク - [プロ野球] 球史に残る偉業が生まれつつある……。 “二刀流”大谷翔平の圧倒的な数字。

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 優勝までマジック1と迫った9月28日の西武戦、日本ハムのマウンドに立ったのは大谷翔平だった。
 日本ハムの勝敗にかかわらず、2位ソフトバンクがロッテに敗れれば優勝が決まるという流れだが、大谷のピッチングからはそういう他人任せの気分が微塵も感じられなかった。
 打たれたヒットは5回の森友哉による単打1本だけ。5回から8回までの12アウトのうち10アウトが三振によるもの。ストレートはすべて150キロを超え、155キロ未満は1球しかなかったと思う。9回を投げ1安打完封、奪三振15の迫力に、西武プリンスドームで観戦していた私は、途中まで「勝てば優勝」という局面をすっかり忘れていた。
 打者としては規定打席にこそ到達していないが打率.322、本塁打22、打点67。
 投手としては規定投球回に達していないが防御率1.86、10勝を記録。もし仮に、30日にある今季最終戦のロッテ戦で3イニングだけでも投げたとしたら防御率1位も確定する成績である(この原稿を書いている9月29日現在、パ・リーグの防御率1位はロッテ・石川歩の2.16)。

■まるで少年漫画の世界のような出来事。
 大谷がプロ入りした直後、私も含めたマスコミは投打二刀流に懐疑的な視線を向けたが、大谷はそれを力で封じ込め、少年漫画の世界でしかあり得ないような打者としての打率3割、100安打、20本塁打超え、投手としての10勝超え、防御率1点台を記録した。この大谷の活躍がなければ日本ハムの逆転優勝はなかったはずだ。
 6月24日時点で首位のソフトバンクと3位日本ハムの間には11.5ゲームという大きな差がついていた(ソフトバンクと2位ロッテは7.5ゲーム差)。それが8月25日には首位が逆転し、さらにそこから約1カ月間熾烈な優勝争いが続くとは思わなかった。ちなみに、6月25日の毎日新聞朝刊運動面の見出しには「首位タカ単独飛行」とあった。
 日本ハムがこの強いソフトバンクに迫ることができたのは6、7月の好調に負うところが大きい。6月19日から7月11日にかけて破竹の15連勝を遂げ、17日前に11.5あったゲーム差はこの時点で5に縮まっていた。ソフトバンクが低迷していたわけではない。6月の成績は16勝6敗と好調を維持し、日本ハムに5ゲーム差に迫られた7月11日時点での勝率は、まだ6割8分4厘と圧倒的だった。

■金田正一を抜いて、投手の通算本塁打数記録を更新中。
 このソフトバンク追撃に大きく貢献したのが打者・大谷だ。
 15連勝したときの成績は打率.389という高率で、先発投手を務めた6月26日のオリックス戦は指名打者制のパ・リーグでありながら「5番・投手」、7月3日のソフトバンク戦は「1番・投手」に入り、3打数1安打、2打数1安打の成績を残し、投手としてはオリックス戦が7回無失点、ソフトバンク戦が8回無失点という快投を演じている。こういう選手はちょっと記憶にない。
 今季20号ホームランを打った時に、通算本塁打数は38本になり、これは投手の通算本塁打数としてはプロ野球記録と並ぶこととなった(9月29日現在は22本。通算40本)。それまでの記録保持者・金田正一氏は「ピッチャーで登板して打ったホームランと、DHで打ったホームランと区別して発表しなさいよ。中身が違う」と自分のホームラン記録のほうが価値が高いと異議を申し立てたが、ピッチャーの余技として打席に立つ選手と、指名代打として確実な成果を期待されて打席に立つ選手とでは、それに対する投手の心構え、本気度が違う。
 もちろん、大谷の記録のほうが価値が高いと思う。

■打者に専念した2カ月間は、圧倒的な打撃成績に!
 7月10日のロッテ戦で右手中指の皮がむけて途中降板してから約2カ月間はほぼ打者に専念した(投手としてはこの間、2試合3イニングの登板にとどまる)。
 それまでの打撃成績は打率.341(安打42)、本塁打10、打点27。
 こういう立派な成績を残した選手に対する攻めが厳しくなるのは当然で、一刀流になった当初の3試合(7/12~18)は11打数2安打1打点と苦戦する。
 しかし、一刀流の助走期間を終えた7月20日から9月11日までの40試合、大谷のバットは154打数50安打33打点、打率.325と好調で、ホームランは12本を数えた。
 二刀流に戻った9月13日以降も打撃は好調を維持し、1ゲーム差で首位だった9月25日の楽天戦では8回裏に同点打を放ち、延長11回には先頭打者として二塁打を放ち、三塁に進塁したのち相手投手の暴投でサヨナラのホームを踏んでいる。

■勝ち試合では必ず大谷の打撃が寄与している。
 大谷の各種記録を調べて驚かされるのは重要な試合での勝負強さである。9月29日現在、勝ち試合と負け試合の打撃成績をくらべてみよう。

◇勝ち試合……200打数75安打54打点16本塁打、打率.375
◇負け試合……110打数26安打10打点5本塁打、打率.236
◇引き分け……8打数1安打2打点1本塁打、打率.125

 勝ち試合での好成績をみればチーム内での打者・大谷がいかに大きな存在になっているかわかる。昨年まではボールゾーンに落ちる変化球を追いかけて凡打、空振りに倒れる場面が多かったが、今年はキャッチャー寄りでしっかりボールを捉えられるようになり、ミスショットが少なくなった。差し込まれても逆方向に持っていける自信がついたことが、そういう懐の深いバッティングを可能にしたのだろう。
 首位を争うソフトバンク戦での好成績も見逃せない。
 19試合に出場してヒットが出なかったのは7月30日の1試合だけで、あとの18試合はすべてヒットを放っている。

■ソフトバンク戦では、投打に突出した成績を誇る。
 ソフトバンク戦では複数(マルチ)安打が9試合もあり、このうち3安打以上の猛打賞が3回もある。
 対戦成績は次の通りである。

◇ソフトバンク戦の打撃成績……打率.411(安打30)、本塁打9、打点16

 首位ソフトバンクまで6ゲーム差に迫った8月6日の試合では千賀滉大、嘉弥真新也からそれぞれホームランを放っている。1本目は千賀の外角高めの148キロストレートをヤフオクドームのレフトホームランテラスへ、2本目は左腕嘉弥真の138キロストレートを捉えてセンター方向へ推定130メートルの大アーチとなった。
 大谷はピッチングでもソフトバンクを圧倒している。
 4試合に先発して2勝0敗、防御率1.26という迫力で、奪三振率10.05、与四球率3.5と投球内容も安定している。そこそこのコントロールでありながら死球が4と多いのは、いかに大谷がソフトバンク各打者の内角を攻めているかを表していると見る。
 ストレートがプロ野球最速の164キロを計測したためストレートにばかりスポットライトが当たるが、今季は最初からエンジンを全開にせず、ここぞというときのために160キロ超えの豪速球を温存する投球術にも光るものがあるのだ。
 交流戦の巨人戦ではフォークボールから入ってスライダー、ストレート、あるいは158キロのストレートで入り、2、3球目にカーブを続けるということがあった。この試合では1、2回にストレートが150キロを超えたのは1球しかなく、フォークボールをスライダーのような感覚で使う配球が目を引いた。それが3回からストレート主体のピッチングに変わり、結果的に150キロ超えが40球、160キロ超えが5球という力のピッチングを展開、2失点完投で巨人を封じ込めた。

■もはや「二刀流の是非」は意味が無くなった。
 この技巧色が加わったピッチングがバッティングに好影響を与えているのか、奥行きを増したバッティングがピッチングに好影響を与えているのかわからないが、以前のような「二刀流の是非」で大谷の未来を占うような批評は意味をなさなくなった。
 9月29日現在の投打の成績は次の通り。

◇投手成績……21試合、10勝4敗、防御率1.86 ※規定投球回まであと3イニング。
◇打者成績……104試合、打率.322、安打104、本塁打22、打点67、OPS 1.004

 空想の世界では1シーズン投手で10勝、打者で100安打というのがあった。
 しかし、それはあくまでバーチャルな妄想世界の話で、まさかそれを現実にしてしまう選手が現れるとは思わなかった。ある部分で大谷はイチローに匹敵するスーパースターと言っていい。
via http://number.bunshun.jp/articles/-/826568


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フィンランドの先進的図書館事情~図書館で本を借りると、作家に1冊15円の印税  はてなブックマーク - フィンランドの先進的図書館事情~図書館で本を借りると、作家に1冊15円の印税 

高いレベルの教育で知られ、優れた文学を生み出してきたフィンランドでは、人々が日常的に読書し、本に触れているという。図書館では「読書介助犬」が子どもたちの読書を助けたり、従来のお堅いイメージから脱却して『市民のリビングルーム』になろうとしたり。図書館で本が借りられれば、作家に1冊15円の印税が入り、作家活動にも平均で一人あたり年間7000ユーロの補助金が出される。
なぜ、フィンランドではこうした先進的な取り組みが行われているのか。駐日フィンランド大使館(東京都港区)で9月23日、東京ビッグサイト(東京都江東区)で開催中の東京国際ブックフェアに合わせ、フィンランドの司書や作家らが会見を開いた。

■図書館は「市民のリビングルーム」、ピアノの練習やカラオケも
駐日フィンランド大使館には、フィンランドと日本の学術や教育、文化などの橋渡しを行う機関である「フィンランドセンター」が設置されている。その司書であるタパニ・ハッキネンさんは、フィンランドの読書環境について説明した。
「家庭内で親が子どもに本を読み聞かせたり、学校での読書も盛んです。大人も趣味として本を読むことがよく行われています。年齢を問わず、親しまれている活動で、ブックフェアに行くのも大好きです。どのような本が読まれているかというと、ミステリーや手芸、料理といった実用書が好まれています。児童文学も人気です。本を誰かにプレゼントすることは、良い習慣として考えられています」
フィンランドでは図書館はすべて公立で、大学図書館も一般に公開されており、国民1人あたり年間貸出冊数は20冊近い。これは世界的にもトップレベルで、日本では国民1人あたり年間貸出冊数が約5冊であることと比べても、図書館はとてもよく利用されているといえる。
しかし、日本でも指摘されている若者の読書離れは、そんなフィンランドでもみられるという。そこで、図書館ではさまざまな工夫を始めている。
「その一つが、図書館が『市民のリビングルーム』になろうというものです。従来の図書館は本を借りることはできるけれど、少し堅苦しい場所というイメージがありました。しかし、現在は市民にとって、『もっと行ってみたい』という存在になりたいと試みています。本を借りるだけでなく、座ってコーヒーを一杯、飲むだけでもいいと考えています。図書館によっては防音室があり、ピアノの練習ができたり、雨の日に傘の貸出をしたりしています。本を持ち帰るためのバッグや、スノーシューズの貸出もあります」
他にも、最近ではカラオケルームを備えた図書館も登場したと報じられた。また、図書館はさまざまなイベントも実施している。
「フィンランドの図書館は、さまざまな年齢の人に来てほしいと考えています。特別な取り組みに、読書介助犬があります。子どもたちが図書館にきて、本を犬に読み聞かせるというものです。犬が相手だったら、恥ずかしがらずに読むことができます」

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この読書介助犬はもともとアメリカからフィンランドに導入されたもので、主に12歳未満の子どもを対象に、1回15分〜20分間、実施される。特に読書に対して問題を抱えている子どもに効果があるといい、読書介助犬は子どもが本を読んでいる間は静かに「聞く」訓練を受けている。読書介助犬の「ごほうび」は、読書を終えてから子どもたちと遊ぶことで、現在、50頭を超える犬がフィンランド国内で活躍しているという。

また、フィンランドの図書館は、多様な国民に対してサービスを展開している。
「フィンランドでは、人口の少ない地域に移動図書館で行って本の貸出も積極的に行っています。中には、ボートも一隻、移動図書館として利用されています。また、フィンランドでは障害を持っているなど、図書館に来られない人に対して、図書館から訪ねていく訪問ライブラリーサービスもあります」
こうした図書館サービスを実現しているのが、高度な専門教育を受けた司書たちだ。司書になるには大学院の修士課程を修了しなければならない。司書のアシスタントも大学を卒業している必要がある。

■作家にも手厚い政策 活動に年間7000ユーロの補助
日本では、ベストセラーを図書館が大量に購入して貸出するために、本が売れないと、作家や出版社は指摘してきた。ともすれば、図書館は敵視されることすらある。しかし、フィンランドでは1人あたりの貸出冊数が日本よりも多いにもかかわらず、両者の関係は友好という。その背景には、作家に対する手厚い政策があるようだ。
「図書館で本を借りた場合、その作家には1冊につき15円の印税が国から支払われます。今年の予算は820万ユーロ(約9億3000万円)で、来年はさらに予算が増やされる予定です。また、作家には毎年、その活動に対して年間平均7000ユーロ(約80万円)の補助金が出る制度もあります。その予算はトータルで今年は260万ユーロ(約3億円)でした」
東京国際ブックフェアのために来日した作家の1人で、児童書や絵本を中心に作家活動をしている元小学校教師のティモ・パルヴェラさんは、こう語る。
「確かに作家が政府から補助金を受ける制度はありますが、何か創作活動を縛られたり、コントロールされたりすることはまったくありません。フィンランドは狭い国なので、一生懸命、一丸となって後押しするというのが方針なのです。
読書は家庭、学校、図書館のネットワークが機能することが大事ですが、残念ながら家庭でおろそかになりつつあります。しかし、本を読む、読解力をつけるということはとても大事です。木を切るために、チェーンソーのマニュアルを読むのにも、必要なことなのですから」
なぜ、そうまでしてフィンランドは、人々の読書や文学を支えているのだろうか。歴史的にフィンランドは長らくロシアやスウェーデンの統治下にあったが、フィンランド語の文学を発展させることで、自らのアイデンティティとして保ってきた背景がある。現在では、高い教育水準を維持、向上させるため、読み書きする力が重視されている。国やコミュニティが発展する基礎と考えられているのだ。フィンランドの図書館と作家、そして市民と読書の関係は、私たちも参考にできるところは多いだろう。
via http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/24/finland-library_n_12165616.html






・フィンランドの図書館では本を借りると作家に印税が入るし作家活動には補助金も出る!
 http://togetter.com/li/1028070



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| 図書 | 10:34 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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まるでおとぎの国、チェコの世界遺産5選 はてなブックマーク - まるでおとぎの国、チェコの世界遺産5選

■プラハ「黄金の都」

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14世紀に神聖ローマ帝国の首都がおかれ、「黄金の都」と称されるほどに繁栄した当時の様子を今に伝える中世の街です。「百塔の街」「ヨーロッパの魔法の都」・・・プラハの美しさを称賛する言葉は数知れず。
とりわけ、約2.5キロに及ぶ歴史的な道「王の道」はプラハを代表する見どころが集中するルート。旧市街の入口、火薬塔から、カレル橋を渡ってヴルダヴァ川の対岸にあるプラハ城まで続く壮麗な街並みには、ただただ感嘆するばかり。

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■チェスキークルムロフ「世界でもっとも美しい街」

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「世界でもっとも美しい街」と称えられる、小さな街、チェスキークルムロフ。ボヘミアの森に守られ、街が全盛を誇ったルネッサンス期の美しい街並みをそのまま保っていることから「眠れる森の美女」の異名をとっています。
オレンジ屋根の可愛らしい建物が立ち並ぶ旧市街と、大きくアーチを描いて流れるヴルダヴァ川、ボヘミアの緑が織りなす風景はまるで絵画のような美しさ。

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■クトナー・ホラ 「ボヘミア王国の財宝庫」

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「ボヘミア王国の財宝庫」の異名をもつ、中部ボヘミアに位置する小都市、クトナー・ホラ。かつてはプラハに次ぐほどの繁栄を謳歌した、輝かしい歴史をもつ街です。13世紀に銀鉱山が発見され急速に発展、一時はヨーロッパにおける銀の産出量の3分の1を占めるほどでした。
14世紀にはボヘミア王により王立造幣局が創設され、王国の通貨の製造を担いましたが、16世紀以降、銀の枯渇とともに街は衰退してゆくのです。
現在は静かな田舎町といった風情ですが、街に点在する不釣り合いなほどに壮麗な建造物の数々が、当時の繁栄ぶりを物語ります。

クトナー・ホラの街を代表する建築物が、聖バルバラ教会。

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「テント式屋根」と呼ばれる独特の美しい外観と、圧倒的な大きさには息を呑むほど。壁画や色とりどりのステンドグラス、重厚な彫刻の数々で飾られた内部も見ごたえ十分です。

■テルチ「モラヴィアの真珠」

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「モラヴィアの真珠」とたたえられるテルチは、ボヘミア・モラヴィア高地にひっそりとたたずむ古都。この街を有名にしているのが、世界でもっとも美しい広場のひとつと言われるザハリアーシュ広場です。
1530年の火事で街が全焼するという憂き目に遭いましたが、領主の呼びかけで、すべての建物がルネッサンス様式と初期バロック様式に建て替えられました。それぞれに個性が光るカラフルなかわいらしい建物が並ぶ光景はまるで絵本の世界。
周囲を3つの池に囲まれ、水辺要塞都市として発展してきた街でもあり、美しい水辺の風景に心が洗われます。

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■レドニツェ城・ヴェルチツェ城「ヨーロッパの庭園」
その美しさから「ヨーロッパの庭園」とも称されるレドニツェ=ヴァルチツェ地区。この地にたたずむ2つの城が、レドニツェ城とヴァルチツェ城です。
1292年、ボヘミア王プジェミスル・オタカル2世が、南モラヴィア地方の一帯をリヒテンシュタイン家に与えて以来、約7世紀にわたってこの地はリヒテンシュタイン家の領地となりました。
16世紀にルネッサンス様式で建てられたレドニツェ城は、リヒテンシュタイン家が夏の離宮として使用していた城館。

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17世紀に豪華絢爛な装飾が施され、19世紀に現在のネオゴシック様式に改築されました。壮麗な外観のみならず、精巧な彫刻や豪華な調度品の数々で彩られた城内や、季節の花が咲き乱れる美しいフランス式庭園も必見。

レドニツェ城から10km離れたところにあるヴァルチツェ城は、17世紀はじめからリヒテンシュタイン家の居城として使用されました。18世紀にはウィーンの宮廷と肩を並べるほど知られる存在だったのだとか。

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via http://tabizine.jp/2016/09/23/95740/

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近鉄:ダイヤ乱れ客と口論の車掌 地上に落ち骨折=東大阪 はてなブックマーク - 近鉄:ダイヤ乱れ客と口論の車掌 地上に落ち骨折=東大阪

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 21日午前10時35分ごろ、東大阪市小阪1の近鉄奈良線河内小阪駅で、女性が線路内に立ち入り、駅を通過する神戸三宮行き快速急行にはねられ、死亡した。この事故の影響でダイヤが乱れたが、河内小阪駅より奈良側の東花園駅(東大阪市)で対応に当たっていた男性車掌(26)が客と口論となり、制服上着と制帽を投げ捨てて線路内に侵入するトラブルがあった。車掌はその際に腰椎(ようつい)を骨折した。
 近鉄によると、河内小阪駅での事故後、奈良線を走る電車が一時運転を見合わせるなどした。車掌が乗務する電車は東花園駅で運転中止になり、車掌もホームで乗客への状況説明などに当たったが、その際に乗客と言い争いになり、線路に降りていったという。
 東花園駅は高架にあり、車掌は線路上を歩いた後、高架から数メートル下の地上に飛び降り、救急車で病院に運ばれた。近鉄は「不適切な行動を引き起こし、心よりおわびします」としている。[2016.09.21]
via http://mainichi.jp/articles/20160921/k00/00e/040/242000c

http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/20/kintetsu_n_12111748.html
http://togetter.com/li/1027118

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[CM] Audi- 「T-Rex Comback」篇 はてなブックマーク - [CM] Audi- 「T-Rex Comback」篇

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[CM] 有村架純-伊藤園 おーいお茶 「ごはんの甘みを引きたてる」篇 はてなブックマーク - [CM] 有村架純-伊藤園 おーいお茶 「ごはんの甘みを引きたてる」篇

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[プロ野球] 広島カープが25年ぶり7回目のリーグ優勝 はてなブックマーク - [プロ野球] 広島カープが25年ぶり7回目のリーグ優勝

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プロ野球、セ・リーグは、優勝へのマジックナンバーを「1」としていた広島が、2位の巨人に6対4で勝って、25年ぶり7回目のリーグ優勝を果たしました。
優勝へのマジックナンバーを「1」としていた広島は、10日夜、東京ドームで2位の巨人と対戦しました。この試合に勝つか、引き分ければ優勝が決まる広島は、ことし7月に日米通算で200勝を達成し、今シーズン8勝を挙げている黒田投手が先発しました。
黒田投手は、1回に5試合ぶりに先発に復帰した巨人の坂本選手にツーランホームランを打たれて2点を先制されました。
追う広島は3回、相手のエラーで1点を返し、4回に、5番・鈴木選手がチーム初ヒットとなる、25号ホームランを打って、同点に追いつきました。さらに続く6番・松山選手にも10号ホームランが出て、3対2と勝ち越しました。5回には鈴木選手が2打席連続ホームランとなるツーランを打って、突き放しました。
広島は、黒田投手が6回3失点と先発の役割を果たし、リードを保ったまま、9回は抑えの中崎投手が締めて6対4で勝って、25年ぶり7回目のリーグ優勝を果たしました。広島の前回の優勝は平成3年で、12球団では、最も優勝から遠ざかっていました。[2016.09.10]

■緒方監督「長い間お待たせしました」
広島の緒方孝市監督は、胴上げで7回宙を舞いました。そして、優勝インタビューで、「胴上げは最高に気持ちよかった」と笑顔で話しました。
また、今シーズン42回目の逆転勝ちで優勝を決めたことについて、「今シーズンやってきた戦いがきょうもできた。本当に選手たちは1試合、1試合、力をつけて頼もしいかぎりだ。厳しい練習を乗り越えてよく頑張ってくれたと思う、ありがとう」と選手たちをたたえました。
そして、「広島や全国のカープファンのみなさん、本当に長い間お待たせしました。おめでとうございます」とファンに感謝を示したあと、「クライマックスシリーズを勝ち上がって日本一をつかみ取りましょう」と力強く話しました。

■広島市内ではファンが歓喜
広島市中心部の繁華街では、カープ優勝の瞬間を分かち合おうと、飲食店が外から見えるように設置したテレビ画面の前に大勢のファンが集まりました。
店の前には、数百人が集まり、幅6メートルほどの道路が、通れなくなるほどの人で埋め尽くされました。9回裏には、ストライクやアウトを取るたびに大声や拍手が沸き起こり、優勝が決まった瞬間には、集まった人全員で何度も「バンザイ」と手を上げながら叫んだり、カープの応援歌を合唱したりして喜びを分かち合っていました。

■コミッショナー「試練乗り越え心からお祝い」
広島が25年ぶりにセ・リーグで優勝を果たしたことについて、熊崎勝彦コミッショナーは、「優勝から遠ざかっていた間には、球界ではFAの制度ができ、たびたびチームの中心選手が他球団に移籍しました。また、15年連続で4位以下など幾多の試練の時がありました。しかし、そのすべてを乗り越え、歓喜の瞬間を迎えた緒方監督をはじめ、コーチ、選手、スタッフ、球団職員の皆様に心からお祝いを申し上げます。今や本拠地のみならず、セ・リーグの各球場を熱心なカープファンが真っ赤に埋め尽くす、その様子はまさに球団の野球に対する真摯な姿勢、地道な努力が実を結んだ成果だと思います。この優勝を礎として、さらにカープ野球がセ・リーグをけん引するするように心から期待しています」とコメントしています。

■25年ぶりの優勝への軌跡
去年4位の広島は、エースの前田健太投手が大リーグに移籍し、ことしは苦しい戦いが予想されました。
しかし、広島は、序盤から打線が力を発揮して白星を重ねました。来日5年目のエルドレッド選手が、長打力に加えて状況に応じたバッティングで序盤は打率3割台をマーク、ベテランの新井貴浩選手も、4月は22試合で19打点を挙げるなど勝負強さを見せ、通算2000本安打も達成しました。
広島は6月5日以降、首位を守り、苦手としてきた交流戦でも4年目の鈴木誠也選手が6月のオリックス3連戦で、初戦と2試合目にサヨナラホームラン。3試合目も終盤の決勝ホームランで劇的な勝利を収めるなど、交流戦3位の成績を残し、首位をキープしました。
投手陣では、去年5勝の野村祐輔投手がインコースを突くピッチングを武器に前半戦だけで両リーグトップの11勝を挙げるなど、前田投手の抜けた穴を埋める活躍を見せました。
投打がかみ合った広島は、交流戦の後半から32年ぶりとなる11連勝をマーク、2位に10ゲームの差をつけ、20年ぶりに首位で前半戦を折り返しました。
後半戦に入ると、ベテランの黒田投手が史上2人目となる日米通算200勝の偉業を達成。リリーフ陣も新加入のヘーゲンズ投手とジャクソン投手が中継ぎの役割を果たし、9回は中崎翔太投手が防御率1点台と、去年を上回る成績できっちりと抑えました。
広島は、8月に入って今シーズン初の4連敗を喫し、2位巨人とのゲーム差は4.5まで縮まりましたが、8月7日の巨人戦で1点を追う9回、ツーアウト、ランナーなしから菊池涼介選手のホームランと新井選手のツーベースでサヨナラ勝ちして連敗を食い止めると、再び勢いを取り戻しました。
広島は、リードされても逆転する脅威の粘りで勝利を重ね、8月24日には優勝へのマジックナンバー20が点灯しました。その後、さらに勢いを加速させた広島は、80勝に到達。2位巨人を大きく引き離す圧倒的な強さで、25年ぶりのリーグ優勝を果たしました。

■球団の歩み 地元に支えられて
カープは、原爆が投下されて焼け野原となった広島の復興の象徴として、終戦から5年後の昭和25年に創設されました。地元でのプロ野球の球団の誕生に市民は沸き立ちましたが、親会社をもたず、自治体の支援も限られる中、カープは選手の給料の支払いもままならないなど、創設直後から資金不足に苦しみ、球団の存続が危ぶまれる事態に陥りました。
これに対し、市民からは「カープを救おう」と戦後の苦しい生活の中、多くの寄付が寄せられました。中でも球場の入り口に置かれた酒だるに寄付する「たる募金」は地域に支えられた球団を象徴するエピソードとして語り継がれています。
そして、昭和32年には「ナイター設備のある球場を」という市民の声を受けて、地元経済界の寄付で原爆ドームの近くに旧広島市民球場も誕生しました。
今から41年前の昭和50年、球団創設から26年目のシーズンにカープは後楽園球場での巨人戦に勝って悲願の初優勝を果たしましたが、地元のファンと喜びを分かち合おうと、5日後には広島市内の平和大通りで優勝パレードが行われました。当時の古葉竹識監督と選手たちが参加した、このパレードでは30万人もの人たちが沿道を埋め尽くし、中には優勝を願い続けて亡くなった家族の遺影を掲げる人も多くみられました。
球場の老朽化に伴い、7年前に完成したマツダスタジアムの建設に当たっては、かつての出来事にちなんで、たるを使った募金も呼びかけられました。カープも地域を盛り上げようと、地元の商店街や公的な機関などが公共の目的で球団名やロゴなどの商標の使用を無償で許可していて、広島では街のあちこちにカープが溶け込んでいます

■赤ヘル旋風から 過去の優勝
広島の初優勝は、今から41年前の昭和50年。球団創設から26年目のシーズンでした。この年からチームカラーを赤にした広島は序盤、ルーツ監督の退任に伴ってコーチから昇格した古葉竹識監督のもと、「赤ヘル旋風」を巻き起こし、悲願のリーグ制覇を果たしました。
その後もホームラン王や打点王など数々のタイトルを獲得したミスター赤ヘル、山本浩二選手や、2215試合連続出場の世界記録を持つ鉄人・衣笠祥雄選手を中心に、生え抜きの選手たちが球界一とも言われた猛練習で力をつけました。そして、昭和54年と55年、それに59年の合わせて3回、日本一に輝くなど、「黄金時代」を築きました。
今から25年前、平成3年の前回の優勝では、「炎のストッパー」と呼ばれた津田恒実さんがシーズン序盤に病に倒れて戦列を離れる中、山本監督のもと、「津田のためにも優勝を」と、ベテランと若手が結束、全員野球で栄冠をつかみました。
その5年後、今から20年前の平成8年は、ファンの記憶に刻まれる悔しい年でした。広島はシーズン序盤から強力打線がチームを引っ張って6月から7月にかけて9連勝し、首位を独走しましたが、7月9日の巨人戦で1イニング9連続ヒットを浴びるなどして敗れて以降、一気に失速しました。広島は最大で11.5ゲーム差をつけていた長嶋監督率いる巨人に「メークドラマ」と呼ばれる大逆転優勝を許して3位に沈みました。
それ以降、広島はFA=フリーエージェントの権利を行使して、江藤智選手や金本知憲選手といった主力選手が相次いでチームを離れる一方で、抜けた穴を補うだけの戦力はそろえられず、平成10年から15年間にわたり、4位以下という低迷期が続きました。
しかし、平成25年に菊池涼介選手と丸佳浩選手の「キクマル」コンビをはじめとした生え抜きの若手が成長して16年ぶりに3位となり、初めてクライマックスシリーズ進出を果たしました。
去年からは大リーグでプレーした黒田博樹投手や阪神でプレーした新井貴浩選手がチームに復帰、そして、ついにことし、25年ぶり7回目のリーグ制覇を成し遂げました。
via http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160910/k10010680221000.html

・広島カープが25年ぶりリーグ優勝!32年ぶりの日本一へ
http://sirabee.com/2016/09/10/160320/

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・変貌遂げた「逆転の広島」=攻守充実で独走
 昨年は勝てば3位が決まるシーズン最終戦を落とし、クライマックスシリーズ進出を逃した。苦い経験を経て、足りなかった「勝負強さ」を身に付けた広島が、見事に頂点まで駆け上がった。
 「カープはこいのぼりの季節まで」とやゆされてきたが、今年は違った。4連敗が唯一で最長の足踏みで、同一カード3連戦3連敗が一度もない安定ぶり。大きかったのは8月7日の巨人戦。九回2死から菊池の同点弾、新井のサヨナラ打で5連敗を免れた。
 6月5日から首位に定着すると、セの球団が毎年苦戦する交流戦は11勝6敗1分けで7年ぶりに勝ち越し、3位に食い込んだ。交流戦明けも勢いを持続し、32年ぶりの11連勝をマークした。
 打線はつなぐ意識が徹底され、2死からでも得点を重ねる粘り強さが武器。得点は昨年の506をすでに130点も上回っている。ここまでの勝利のうち、半数以上が逆転勝ちで、黒田は「ベンチにいても何とかなるという雰囲気がある」と言う。交流戦最終カードのオリックス戦では4年目の鈴木がサヨナラ本塁打2発を含む3戦連続決勝アーチの離れ業も演じた。
 不動の上位、田中、菊池、丸が塁をにぎわせ、外国人野手1枠の中で起用された新加入のルナは確実性、エルドレッドは長打力を発揮して貢献。通算2000安打まで残り29本で開幕を迎えた39歳の新井は、4月26日に節目の記録をクリア。チャンスに強い打撃でチームに勢いをもたらした。
 エース前田の穴が懸念された投手陣は、昨季5勝だった野村が4月27日のヤクルト戦でプロ初完封を果たし、5月下旬からは8連勝。ジョンソンとともに勝ち星を重ねた。米大リーグから復帰2年目の黒田は、首や右肩に古傷を抱えながらも、7月に日米通算200勝を刻む7勝目を挙げた。
 開幕当初は不安定だった救援陣もヘーゲンズ、ジャクソン、中崎がゲームを締める形を確立。ヘーゲンズは夏場には、先発も担った。
 1975年の初優勝は球団創立から「苦節26年」を経てつかみ取った。それとほぼ同じ年月を要して成し遂げた7度目のリーグ制覇。四半世紀の時を超え、真っ赤なコイがたくましく強く躍った。
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016091000345&g=spo&m=rss

・熱さ封印、冷静に采配=カープ30年目の緒方監督
 試合前練習が進むマツダスタジアム。緒方監督が選手を呼び止め、話し込む姿をよく見かける。
 相手は登板翌日の投手だったり、前日に打てなかった若手野手だったり。監督の狙いはこうだ。「自分が見た目線の中で気付いたこと、反省してほしいことなどを伝えている。選手が結果に対してどう反省して取り組んでいるか、頭の中を知りたいからやっている」。ここぞのタイミングを見計らって、コミュニケーションを取る。
 若手の頃からともに汗を流してきた高ヘッドコーチは、1年後輩の監督を「気が短くて熱い。でも、今年はすごく我慢強く、冷静に指揮を執っている」とみている。
 就任1年目の昨季は、練習前に選手の輪に加わって檄(げき)を飛ばすなど、熱さが前面に出る場面もしばしば。ベンチでは自らもサインを出していたが、今季は高コーチに作戦を伝えるまでにとどめ、次の一手や代打、継投の判断に集中。チームの代名詞となった逆転劇への道筋を描いた。
 プロ5年目で初めて出場100試合を超えた1991年に前回の優勝を経験した。高いレベルで走攻守がそろう外野手として地位を築き、けがで盗塁が激減した現役後半は勝負強い打撃を武器に40歳まで戦ったが、チームは低迷を抜け出せなかった。カープ一筋30年目。夢を託した後輩たちと歓喜の日を迎えた。 
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016091000346&g=spo&m=rss

・カープ魂、結実…この瞬間のため帰ってきた 「黒田と新井のストーリー」

 四半世紀ぶりのリーグ制覇に選手、ファンも酔いしれた。プロ野球のセ・リーグで10日、1991年以来の優勝を決めた広島東洋カープ。2位・巨人との直接対決を制し、緒方孝市監督(47)の胴上げが始まると、敵地にもかかわらず、カープカラーの「赤」に染まったスタンドが沸き返った。地元・広島などでも、この日を待ちわびたファンが歓喜に浸った。
 この日のため、この瞬間のために帰ってきた。「黒田と新井のストーリー」。今、ここに完結した。
 黒田博樹、41歳。新井貴浩、39歳。ともに一度はカープに別れを告げ、導かれるように、ともに昨季、古巣へ戻った。
 2007年オフのフリーエージェント(FA)宣言。黒田は海を渡り、新井は故郷でもある広島から関西の地へ移った。新井が言う。「一緒にプレーすることは二度とないと思っていた。いまだに夢じゃないかと……」。「不思議な感じ」と語るのは、黒田だ。
 年齢を考えると、残された時間は決して長くない。広島復帰について、黒田は「どんな野球人生を送るか。それを考えた結果」と答えている。4月に新井が通算2000安打、7月には黒田が日米通算200勝。しかし、2人が求めるものは個人成績ではない。
 黒田に全盛期の力はない。だが、粘り強く投げ、最低限の責任を果たしてきた。新井は勝負強い打撃だけでなく、決して速くない足でも全力疾走を怠らない。2人の背中を、若手が見てきた。
 黒田は「先発投手は毎日グラウンドに立てない。毎日立つ彼の姿は大きい。広島に帰り、何とかはい上がろうという気持ちでやっている。彼の姿勢を見て気づかされる。いい見本」と、新井を評価する。新井も「黒田さんの存在なくして自分はない。それだけ大きく、大好きな存在」と言う。
 2人の復帰を何よりも喜んだのが、松田元(はじめ)オーナー(65)だ。「影響力が大きい。一緒に出てって、一緒の時に帰ってきた。何か(縁)があるんじゃないかな」と感じる。ドラフトでの逆指名制度、FA……。松田オーナーも、その影響による低迷を否定しない。ただ、情熱だけは失わなかった。「それを覆す何らかの手段を見つけて優勝できると信じていた。絶対にいいチームを作り、お金を持っている球団が勝つ風潮に一矢報いたかった」
 オーナーの悲願に応えた2人。黒田はプロ20年目、新井はプロ18年目で初めて味わうリーグ優勝。それが、舞い戻った「カープ」であったことに、大きな意味がある。2人はマウンドでの胴上げ前に泣きながら抱き合った。
via http://mainichi.jp/articles/20160911/k00/00m/050/069000c

・黒田と新井が涙の抱擁、夢にまで見たカープでの優勝-低迷期支えた主砲とエース
https://www.buzzfeed.com/tatsunoritokushige/kurodatoarai?utm_term=.ggK9188GD#.oybDKooqg

・黒田博樹は怒りさえチームのために。「カープという“原点”に帰って」
 http://number.bunshun.jp/articles/-/826501

・広島から去り、戻ってきた2人の男。黒田博樹と新井貴浩、涙の秘密。
 http://number.bunshun.jp/articles/-/826531

・交錯した野球人生がまた1つに……。新井貴浩と赤松真人、広島での邂逅。
 http://number.bunshun.jp/articles/-/826537

・カープを優勝に導いた「我慢の男」。菊池涼介は……弱みを見せなかった。
 http://number.bunshun.jp/articles/-/826549

・逆風に耐えた球団の努力=発掘、育成の方針崩さず
 広島が25年ぶりの優勝を果たすまでには、長い低迷期があった。1993年オフに導入されたフリーエージェント(FA)制度、ドラフトで有望な大学・社会人選手が入団したい球団を選ぶ逆指名制度(2001~04年は自由獲得枠、05、06年は希望入団枠)が大きな影響を及ぼしていた。
 一定の出場選手登録期間を満たした選手が各球団と自由に交渉する権利を得るFA制度で川口和久、江藤智、金本知憲、黒田博樹、新井貴浩ら主力が相次いでチームを去った。一方で広島のFA選手獲得はゼロ。10年オフには横浜からFA宣言した内川聖一の獲得争いでソフトバンクに敗れた。
 契約金や年俸以外に多額の金銭が動いたとされる逆指名ドラフトでは、その年の目玉と言われる選手獲得が難しくなった。広島は12球団で唯一、親会社を持たない独立採算であるため赤字経営は許されない。潤沢な資金や人気球団が有利な制度は強烈な逆風となった。
 松田元オーナーは「そのシステムの中でも自分たちのやり方で対抗できると思っていた」と語る。ドラフトでは磨けば光る素材の発掘を基本に戦略を立てる。2006年の高校生ドラフトでは田中将大が注目された中、「田中と同じレベルの評価」(鈴木清明球団本部長)の前田健太を一本釣りで1位指名した。
 入団後は豊富な練習量で鍛え上げる。今年のメンバーには、4年目の11年から1軍に定着した丸や今季の打撃各部門で上位につける22歳の鈴木、6位指名から抑えの座をつかんだ中崎ら高卒選手が名を連ねる。全国的には無名の中京学院大から入団した菊池は攻守で不可欠な存在となった。外国人選手のスカウト力も看板の一つと言える。
 発掘、育成を柱とした地道なチームづくりを経て、13年に野村監督の下で16年ぶりのAクラスとなる3位に入った。その後も上位争いで辛酸をなめながら地力をつけ、ようやく開花の時を迎えた。 
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016091000347&g=spo&m=rss

・広島、耐えて25年ぶりV 主力が次々と流出も自前の選手を育てて勝った
 広島が25年ぶり7度目のリーグ優勝を果たした。現在の12球団ではもっともリーグ優勝から遠ざかっていたが、今季は黒田博樹、新井貴浩らのベテランに、丸佳浩、菊池涼介、鈴木誠也といった若い選手、ジョンソン、ヘーゲンズらの外国人選手がかみ合って、圧倒的な強さを発揮した。しかしここまでの道のりは、険しいものだった。FA制度導入以降、主力選手の流出が相次ぎ、15年連続Bクラスも経験。それでも地道に選手を育て、歓喜の瞬間を迎えた。
 プロ野球にFA制度が導入されたのは93年シーズン後。98年にはポスティングシステムが導入され、選手がFA権の取得を待たずにメジャーへ移籍する道も開けた。選手にとっては大きな権利だが、資金力が乏しい広島にとっては大いなる逆風となった。
 94年オフの川口和久を皮切りに、主力選手が次々と流出。99年オフの江藤智(巨人に移籍)、02年オフの金本知憲、07年オフの新井貴浩(ともに阪神に移籍)は4番打者で、07年オフの黒田博樹、15年オフの前田健太(ともにドジャースに移籍)はチームの勝ち頭。これだけ次々と投打の柱が抜けた球団は、まず見当たらない。
 一方で、これまで国内のFA選手を獲得したことがない。これは12球団では広島だけだ。10年オフに横浜(現DeNA)からFA宣言した内川聖一の獲得に乗り出したが、ソフトバンクとの争奪戦に敗れている。
 親会社を持たず、補強に費やせる資金は限られている。その中で主力が次々と流出し、徐々に優勝争いから遠ざかっていった。96年、「メークドラマ」で巨人に最大11・5ゲーム差を逆転されて優勝を逃すと、98年から15年連続でBクラスに沈んだ。
 しかし野村謙二郎監督就任4年目の13年に3位に入り、球団史上初めてCSに進出した。ドラフトで獲得した生え抜き選手を我慢強く使って育て、チーム力は徐々に上がっていった。緒方孝市監督が指揮を執った15年シーズンから黒田、新井がチームに復帰。ベテラン、若手がかみ合う理想的なチームとなった。
 FA制度が導入されて以降、多くの球団で目まぐるしく選手が入れ替わった。スタメンの大半が移籍選手というチームもあった。しかし広島は、まったく別の道を歩んできた。「耐えて勝つ」は、1975年に広島を初優勝に導いた古葉竹識監督の言葉。球団もまさに耐えて勝った。
 広島は今、プロ野球でも屈指の人気球団となった。その理由は、生え抜き選手が躍動にもあるのかもしれない。
via http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2016/09/10/0009476161.shtml

・〔写真特集〕広島カープ優勝の歴史~75年初Vから、緒方監督胴上げまで~
 http://www.jiji.com/jc/d4?p=hcv526&d=d4_aaa

・[写真特集] 25年ぶりVに沸く広島市
http://live.sportsnavi.yahoo.co.jp/special/baseball/npb/carpvictory/hiroshima
・カープ優勝で広島市内が大変なことになってる
http://togetter.com/li/1022871
http://spotlight-media.jp/article/323928735641163309

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・25年ぶり7度目!広島カープのリーグ優勝に日本中が感動に包まれている
 http://matome.naver.jp/odai/2147351481479139701

・広島東洋カープ25年ぶりのリーグ優勝!真っ赤に染まったカープ国カープ県カープ市に、地域密着の完成形を見た件。
http://blog.livedoor.jp/vitaminw/archives/53200224.html

・祝優勝!広島カープ好きの有名人の大はしゃぎっぷりが微笑ましい
 http://matome.naver.jp/odai/2147312667087132401

・カープV歓喜の瞬間心待ちの2人 作詞家有馬さんと元選手守岡さん
http://www.sanyonews.jp/article/411494/1/?rct=okayama_sports






・誕生から41年…生みの親が明かす「カープ坊や」が愛されるわけ

社会個別   フォトニュース   スポーツ報知
 長い低迷の時代を経て、25年ぶりにセ・リーグ優勝を果たしたプロ野球・広島東洋カープ。黄金期も暗黒期も変わらず、カープを最も近いところで見守ってきたのが、マスコットキャラクター「カープ坊や」だ。ファンから愛されてやまない「坊や」の知られざる誕生秘話を“生みの親”に聞いた。(田中 俊光)
 県花・木のもみじとマンホールのふたに描かれ、お好み焼き店ではバット代わりに「へら」を持ち、駅長さんにも…。広島の街を歩くと至る所で目にできる、さまざまな「坊や」。いかに県民に愛される存在か分かる。
 誕生は1975年6月。カープが創設26年目にして悲願の初優勝を果たす4か月前のことだった。「よう考えたら、あの時と匹敵するんですよね。スゴイですね。不思議な気持ちがします」。「坊や」生みの親で広島在住のイラストレーター・岡崎福雄さん(69)は、25年ぶりの優勝を感慨深く受け止めていた。
 広告代理店のカープ担当としてポスター製作などに関わっていた岡崎さんが、チーム遠征時に使う用具運搬車につけるペットマークの公募に参加したのが28歳の時。「バットを振る鯉」も合わせて応募したが「坊や」の方が採用された。「自分としては『坊や』を推していたので良かった。子供には夢があり、希望がある。どんな人にも愛されるだろう、と」

WS001(初期のカープ坊や)
 躍動感を出すために、細部までこだわった。「1本の(同じ)線で描くと絵が止まって見える。(顔の輪郭や帽子、鼻、耳などの)線の太さにアクセントをつけ、横を向く顔の右目は大きく、左目は小さくと配慮しました。まゆ毛も角度をつけてね」。現在、球団が管理する「坊や」はオリジナルとは微妙に異なるタッチで“成長”し「一般の人には分からないかもしれませんが、線(の強弱)が少し違うんです」と苦笑する。
 モデルになった少年がいる、ともうわさされたが、実際にはおらず、かつてのオーナーが出入り業者の息子さんに対して言っていた話が広まったのが真相。岡崎さんも「いいネーミングだと思います」と支持する「カープ坊や」というカワイイ名前は「人知れず、いつの間にかついた」のだという。
 現役マスコットで12球団最古参になった。「41年も愛されて、うれしいですね」と喜ぶ岡崎さんは「坊や」が長く親しまれる理由を生みの親として、こう考えている。「“顔”というベーシックなデザインが良かったんでしょう。いつの時代でも、長続きするのは基本的なデザインなんです」
via http://www.hochi.co.jp/topics/20160915-OHT1T50056.html

・40回以上の逆転はなぜ生まれたか?石井琢朗がカープに施した打撃改革。
http://number.bunshun.jp/articles/-/826471

・広島優勝を陰から支えた元助っ人外国人 カープへの恩返し果たす 有力選手獲得の敏腕スカウト
https://www.buzzfeed.com/tatsunoritokushige/schullstrom?utm_term=.ov5mNDDJA#.btWwbxxOo


◇広島の黒田が引退=日米で20年、通算203勝
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 プロ野球広島の黒田博樹投手(41)が18日、今季限りでの現役引退を表明した。広島市内のホテルで記者会見し、「ここ2、3年、毎年そういう気持ちでシーズンを迎えていたが、リーグ優勝して、日本シリーズに進出できたことが大きな要因」と決断した理由を語った。
 22日に開幕する日本ハムとの日本シリーズが現役最後の舞台となる予定。日本一を懸けた決戦を控えるため、野球人生を振り返ることは控え、「あと何試合登板できるか分からないが、けがを恐れず目いっぱい投げたい」と最後の登板へ意欲を示した。
 黒田は大阪・上宮高から専大を経てドラフト2位で1997年に広島に入団し、11年間で103勝を挙げた。2008年から14年まで7年間は、米大リーグのドジャースとヤンキースで79勝をマーク。米国に残れば20億円とも言われた高額年俸を蹴る形で15年に広島に復帰し、「男気」と称賛された。
 日本での成績は321試合登板で124勝105敗1セーブ、防御率3.55。日米通算では203勝184敗の成績を残した。 
■黒田博樹の略歴
 黒田 博樹(くろだ・ひろき)大阪・上宮高から専大を経てドラフト2位で97年に広島入団。05年に最多勝、06年に最優秀防御率のタイトルを獲得。07年オフにフリーエージェント権を行使して米大リーグのドジャースに入団し、12年にヤンキースへ。15年に広島復帰。今年7月に日米通算200勝を達成した。日本のプロ野球通算124勝105敗1セーブ、防御率3.55。米通算79勝79敗、防御率3.45。右投げ。大阪府出身、41歳。[2016.10.18]
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016101800631&g=spo&m=rss

 さらば黒田-。広島黒田博樹投手(41)が今季限りで現役を引退することが18日、分かった。同日中に記者会見を行う。
 この日はスーツでマツダスタジアム入り。黒田の意向もあり、練習前にナインに自らの口で伝えた。「個人的なことで申し訳ないが、日本シリーズ限りでユニホームを脱ぐことを決めました」などと話した。25年ぶりの優勝をつかみとった男気(おとこぎ)右腕らしく、格好良くユニホームを脱ぐ。
 黒田はここ何年も、自分の去就と向き合ってきた。広島に復帰した14年12月も、引退は広島復帰と同等の割合で頭にあった。最終的には「あと何年野球ができるかわからない。カープで野球をするほうが、より1球の重みを感じられると思った」と復帰を決断。20億円とも言われたメジャーからの巨額のオファーを断った。「男気」は黒田を象徴する言葉となった。
 昨季は11勝を挙げたが、昨オフも去就に悩んだ末に現役続行を決めた。「ぜいたくでわがままかもしれないですけど、この年齢になって、この体でもう1年野球をするというのはしんどい」とこぼしていたが最後は「(若い選手に)必要とされている部分を見せられると、振り切ってまで(やめる)というのは難しい。特にまだまだ伸びしろのある投手がたくさんいるので、少しでもプラスになるなら」と現役続行を決めていた。
 退路を断って臨んだ今季は開幕2戦目のDeNA戦で初勝利続く4月2日の巨人戦(東京ドーム)では日本球界復帰後初完封。4月30日までに6戦で4勝をマークするなど好スタートを切った。勝ち星に恵まれない時期もあったが7月23日阪神戦(マツダスタジアム)では7回無失点で7勝目。これが日米通算200勝目の節目となった。その後も優勝を決めた9月10日の巨人戦(東京ドーム)で先発。6回3失点で9勝目をマークしていた。シーズン最終戦となった10月1日のヤクルト戦(マツダスタジアム)でも7回1失点で勝ち、7年連続2桁勝利をマークした。
 輝かしい成績の一方で、体はボロボロだった。メジャー時代に打球を頭部に受けた09年からは後遺症とも闘った。試合前に「背中の骨がスレてる感じ」で首をひねることができなくても、「日本人がナメられてたまるか」とマウンドに上がったという。昨季は右腓骨(ひこつ)筋腱(けん)周囲炎(右足首の炎症)で抹消を経験。今季も慢性的な肩痛、首痛に悩まされていた。CSでの登板を控えた今月10日にはキャッチボールを中断して、トレーナーからマッサージを受けた。「いつものこと」と話したが、体は限界だった。
 チームへの還元は大きく、今季も後輩へのアドバイスを惜しまなかった。CS前には球団にモチベーションビデオを提案し、作成に立ち会った。「広島のために」を思い続けていた。
 黒田は96年に逆指名によるドラフト2位で入団。07年まで広島でプレーした後、FA宣言でメジャーに移籍した。06年から挑戦の意思はあったものの、ファンの熱意に押される形で残留。07年に涙の末に移籍した。メジャー通算7年間で79勝79敗。14年には8年ぶりに広島に復帰していた。
 日米通算203勝184敗、防御率は3・51。05年に最多勝、06年に最優秀防御率を受賞。ベストナイン、ゴールデングラブ賞を1回受賞。通算3340回2/3を投げた。
via http://www.nikkansports.com/baseball/news/1726009.html

・引退会見 一問一答 「新井だけには話していた」
 広島黒田博樹投手(41)が18日、広島市内で会見を開き、今季限りで現役を引退することを表明した。
 黒田はまず「本日はお忙しい中、そしてこのような時間帯に、こういう場を設けていただきありがとうございます。昨日、球団の方に引退の意向を伝え、そして了承していただき、本日の練習前にまずは監督、コーチ、選手、裏方さんの前で引退することを伝えました。そして、その後にこう言う場を設けていただき、今までたくさんのファンの人に応援していただいたので、そういう人たちに、最後の登板の前になんとか報告できればいいかなと思い、こういう場を設けてもらいました」と話した。

 一問一答は以下の通り。
 ―引退を決意した理由
 理由はたくさんあるんですが、まだ、みなさんご存じのように日本シリーズの登板も残っていますし、なかなか、すべてをお伝えするというのはなかなか難しいですが、まず1つは今年リーグ優勝して日本シリーズに進出できたということが、1つの大きな要因だったのかなと思います。

 ―いつ頃から考え始めた
 それは2、3年前からずっと、毎年毎年そういう気持ちでシーズンを迎えていたので。ただ、本当に自分の中で考え始めたのは9月過ぎですね。優勝が決まってから本格的に自分で考え出しました。

 ―誰かに相談は
 相談というか、引退に関しては自分自身で決めましたし、後は横におられる鈴木さん(球団本部長)にも何度かお話させてもらって。選手の中では新井だけには話していたんで、それ以外には話していなかった。

 ―新井にはいつごろ話した
 はっきりとは覚えていないですが、優勝が決まった後だったと思います。

 ―新井からは何か言われたか
 もう1年やらないんですかと言われましたけど、自分の意志が結構固かったので。本人もある程度、納得してくれたと思います。

 ―このタイミングでの発表
 いろいろ難しいところがあったんですけど、僕自身は日本シリーズがすべて終わってからみんなに伝えようと思っていたんですが、次が最後の登板になるかもしれないので。まずはチームメートに伝えなくてはいけないという気持ちと、今までたくさんの人に応援していただいたので、自分の口から伝えないといけないんじゃないかなということで、このタイミングになりました。

 ―決断に悔いは
 本当に、今年みんなの力で優勝を経験させてもらって、最高の経験をさせてもらったので、まったく悔いはないですね。

 ―日本シリーズへ
 あと何試合登板できるかわからないですけど、今までも常に最後のつもりでマウンドに上がってきたので、それは変わらないと思いますけど、めいっぱい、最後はケガを恐れずに投げていきたいと思います。

 ―ファンへ
 今まで、本当にたくさんの声援をいただいたので、日本一という形で恩返しできるように選手一丸となって日本シリーズを戦っていけたらと思います。
via http://www.nikkansports.com/baseball/news/1726030.html



◇スペシャル対談特別公開!黒田博樹×新井貴浩「俺たちの広島カープ」

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――東京ドームが真っ赤に染まった9月10日。優勝を決めた後、穏やかな表情だった黒田さんが、新井さんと抱き合った瞬間に号泣されました。胴上げされている時も涙を見せないように顔を覆うシーンが印象的でした。やはり、新井さんとの間には特別な感情があったんですか。

黒田 新井とは昔からずっと一緒にやってきて、「このチームを強くしたい」と言ってきた。だから、(泣いている)新井を見たら、こみあげてくるものがありましたね。こういう機会は長い野球人生でも、ない。最高のチームで、この仲間と優勝できてよかったです。

新井 黒田さんを見たら、グッときました。何て言っていいか、わからなかった。(胴上げは)僕はいいって言ったんですけどね。本当、夢を見ているみたいでした。

――苦しい時代を支えたエースと4番が一度、広島を離れ、また戻ってきて四半世紀ぶりの優勝に導く。奇跡のようなストーリーに思えます。

黒田 一度、広島を出た人間が偉そうに言ってはいけないと思うけど、やっぱり、外に出て、いろいろなことを経験して、外からカープを見れたっていうのは、すごく今、生きているんじゃないかな。それでまた、強くなれたんじゃないかな、と。もし、僕も新井もFA宣言せずに、僕が20年間、新井が18年間、ずっとカープにいたら、多分、この年齢で、この勢いで野球をできていない可能性が高いと思います。外を見させてもらって、またカープに対する気持ちが強くなって、今があるんじゃないかな。

新井 そうですね。僕も批判されるのを覚悟で戻ってきて、初めて打席に立ったのが去年のマツダスタジアムでの開幕戦。代打で打席に立ったと思うんですけど、そこで、絶対にブーイングされると思っていた。そうしたら、大歓声をもらった。あの打席は頭が真っ白になって、本当に膝が震えた。あの感動をもらったから、僕はもう、自分の野球人生はいつ終わってもいいと思えました。あとは、この人たちに喜んでもらうために野球をやろうと思ったんです。

――広島から出て、外の野球を見てきた2人が、若いチームの中で、どのような役割を果たしていたのですか。

新井 僕から見ると、黒田さんの背中を見ているだけでチームが締まるという感じでしたね。黒田さんが練習していたり、マウンドで投げている姿を見て、何も言わなくても、みんな気持ちが締まっていた。

 それに黒田さんが、1年間通してローテーションを守って、しんどい練習をして、とことんまで準備している。それを見れば、他の選手は自分もしんどいとは言い難いでしょうね。

黒田 なんか、変なプレッシャーを与えているみたいやな(笑)。ただ、僕は41歳で、新井は39歳。年齢を理由にして、甘えてしまうと、どうしても普段の練習や生活から緩んでしまう部分がある。年をとっても勝負するためには厳しくやるしかない。

――昨年5勝だった野村祐輔投手は今年、最多勝争いをするなど大きく飛躍しました。本人はその要因を「黒田さんがいたことがすべて」と語っています。

黒田 野村に限らずなんですけど、投手というのは、どうしても完璧を求めてしまう。先発なら0点に抑えないといけない、リリーフだったら3人で抑えないといけない、というように。特に野村は去年、結果が出なかったので、今年は0点に抑えて、自分の実力を知ってもらわないといけないという気持ちになりがちですよね。実際に、変に自分にプレッシャーをかけすぎていた部分があったので。ローテーションを1年間、守っていくためには完璧なピッチングができないこともある。そこをどうコンスタントに結果を残していくか。俗に言うクオリティースタートというか、そういうことを繰り返していけば、チームからも信頼されるよ、ということは言いましたね。

新井 僕から見ても、黒田さんは精神的な支えという部分が大きいですよね。

黒田 技術的なことは、年齢が上だからって、簡単には言えない。人それぞれ持っている技術が違うから。ただ、メンタル的なことは自分も色々な経験をしてきたんで、手助けはできるんじゃないかなと思ってやってきましたね。

 逆に僕から見ると、野手の方では新井が今年、果たした役割はめちゃくちゃ大きかった。まあ、一番大事なのはピッチャーの最年長である僕と、野手で最年長の新井が同じ方向を向くこと。僕は日本でも、アメリカでも、いろいろなチームを見てきましたが、やはり、一番のベテラン同士が同じ方向を向いて、同じ気持ちで野球をやっていないと、なかなかうまくいかないんだなとわかった。だから、とにかく、2人が同じ方向を向く。僕たちの役割としては、そこが、一番大きかったんじゃないかな。

新井 そうですね。ただ、僕たちが今年、何か特別変わったことをやったわけではなくて、カープに入って、試合に出られるようになった頃からやってきたことを、そのままやっていた感じですよね。

黒田 今年に限らず、新井とは日々、時間のある時にそういう話をしていたよな。FAでカープを出る前から、ずっとそうだったから、お互いに考えていることはわかっていた。これは、今だから言えるんだけど、自分たち2人は一度、カープを離れて、帰ってきてからも、野球観というか、野球に関する考え方がカープで育った時と変わっていない。それで、この年齢になっても第一線で野球をできているわけだから、これまで自分たちがやってきたことや考え方というのは間違っていなかったのではないかなと思えるよね。それでいて、チームに対する気持ちというのは、外に出て、戻ってきてからの方が強くなった。それが普段のプレースタイルに出ていただけじゃないかな。

新井 僕も同じ気持ちですよ。若い時に、黒田さんから教えてもらったこと、というのは、アメリカから戻ってきた後の黒田さんと話しても変わっていなかった。ただ、年齢的なもの、立場や立ち位置は変わった。昔はまだ、自分たちの上にたくさん先輩がいたけど、今は僕たちが最年長。それに対して責任感、使命感がありましたね。

黒田 それが、さっき言った『甘えられない、甘えない』という気持ちになっていた気がする。

新井 意識しているわけじゃないけど(チームメートから)見られている感覚というのは常にありましたよね。黒田さんと自分が少しでも気を抜いた練習や、プレーをしていたら、他の選手はこれでいいんだと思ってしまう。それは困る。そういう意味の使命感というのは、昔とは全然違うものがありましたね。

黒田 そう。僕たちのやることを後輩たちが見て、それが自然と伝統になってしまう。いい加減なことをしてしまうと、悪い伝統が次の世代、その次の世代へと続いてしまう。やはり、いい伝統をつくりたい。

――2人に共通する野球観とはどういうものですか。

黒田 僕も新井も、この年齢なんで、自分のためだけにプレーするのであれば、妥協してしまうところもあると思う。体はしんどいですから。でも、ファンの人に対する「恩返ししたい」という気持ちがあると、もう、ひと踏ん張り、ふた踏ん張りできる。そういうものですよね。

新井 チームのために、ファンのために、という部分では黒田さんは昔から全く変わっていないです。エースと呼ばれる存在で、エースが似合う人。これは、あくまで自分の考えなんですけど、エースってなんだろうって考えた時に、僕は自分の身を削って、犠牲にしてでもマウンドに立てる投手だと思うんです。黒田さんは周りにすごく気をつかうところが昔から変わらない。ピッチャーっぽくないんですよ。自分はたくさんの投手を見てきたけど、黒田さんは、どっちかというと野手っぽい性格だなと前から思っています。ピッチャーって、どうしても、お山の大将的な人が多い。『俺を見ろ!』というね。

黒田 そんなこと言い出したら、打者でもそういう人おるで(笑)。

新井 そうですけど(笑)。確かにプロってそういう人ばっかりなんですけど、その中でもピッチャーというのは特別。みんな野球を始めた時はほとんどがピッチャーをやりたくて、それがダメだから野手になることが多いじゃないですか。そういう環境で育ってきているんで、どうしても、ピッチャー特有の性格があるんですけど、黒田さんはそういうところがない。周りのことをすごくよく見ているし、周りに気を配ることができるんです。

――黒田さんは、新井さんにも助言をすることはあるんですか。

黒田 まあ、あんまり言うこともないですからね。ここまでのスーパースターに……。

―― ……。

新井 プッ……、ワハハハハッ!

―― (爆笑)

新井 (インタビュアーも)笑ってるじゃないですか!

黒田 それは失礼やな(笑)。

 まあ、本当に新井も昔から考え方やプレースタイルがぶれていないよな。だから、今年は野手を見ていて安心だった。若い頃から、たくさんの先輩から野球に対する考え方なんかを教えられてきたけど、その中で、「チームのために」という信念を持ってやってきたからね。

――入団は黒田さんが2年先ですが、お互いに最初の印象はどういうものでしたか。

黒田 新井が入ってきた時は、まず「でかいな」と。僕は3年目だったのかな。ローテーションに入るか、入らないか。毎年、期待されていながら、フラフラしている時期だったので、あまり自分のこと以外を見る余裕がなかったですね。

新井 僕は駒大時代、専大の黒田さんと同じ東都リーグだった。自分は当時、レギュラーではなかったので出場していなかったですけど、黒田さんは、いつも投げていた。だから、勝手に親近感はありましたね。とにかく球が速いというイメージだった。

黒田 最初に色々な話をし始めたのは新井がホームラン王を取って、僕が最多勝を取って、ある程度、周りを見ることができるようになってからじゃないかな('05年)。自分らがタイトル取っただけじゃなくて、今度はチームで勝ちたいっていうことを考え出した。球団に対しても、新井と一緒にいろいろな要望を出したりしたよな。

新井 それまでは先輩に食事に連れて行ってもらった時に、大勢の中で話す感じでしたね。

黒田 どちらかというと、その頃は投手と野手は「違う部署」という感じだった。先輩同士もそういう雰囲気があって、投手と野手で線引きされていた。

新井 初めて2人で飲みに行ったのはいつですかね。

黒田 覚えているのは新井が4番を打ち始めて、結果が出ずにボロボロになっていた時、自分もエースと言われ始めた時に全然勝てずにボロボロだった。その頃に一度、2人だけで飲みに行ったんだよ。あの時はお互い気持ちが滅入っていた。今の状態なんか、とても想像もつかなかったし、あと1、2年で野球人生が終わってしまうんじゃないかというぐらい、メンタル的な部分できつかった。特に新井は(山本)浩二さんが監督の時に初めて4番として使われて、それに応えようとするプレッシャーがあった。もう、限界を超えていたよな。痛々しかった。自分にもそういう部分でのプレッシャーがあった。ただ、お互いに、その逆境を一度、跳ね返せた、というのは野球人生の中で大きかったんじゃないかな。

新井 あの時は、本当に自分のことでいっぱいいっぱいでしたね。

黒田 自分もいっぱいいっぱいだった。だから、2人で飲みながら、ぐちぐち言っていた覚えはある。その時は、まだ、チームがどうのこうのというよりも、自分たちがどうやって、この世界で生きていくかということで必死だった。そういう話ばっかりだったような気がする。俺は店も覚えているよ。市民球場で試合が終わった後、バーみたいなところで飲んで、結構、酔っ払ったよな。

新井 そうでしたか。僕はこれまで、黒田さんには数え切れないくらい食事に連れて行ってもらっているから、どのことか思い出せないです。すいません!(笑)

――勝てない時代をともに戦った2人は同志のような関係なんですね。

黒田 それはそうですね。ただ、よく、苦しい時代を支えたという言い方をしてもらいますけど、自分たちがしっかりしていたら、そんな苦しい時代になっていなかったんじゃないかなという気持ちも強いです。だから、余計にその時、なんとか2人で周りを見返したいという気持ちだったな。

新井 そうでしたね。あの頃から、黒田さんはチームとして一体感を大事にしていましたよね。先発投手の特権で、試合前の練習だけで帰れる「上がり」の日でも、必ず試合を見ていた。そして、試合が終わるまでは食事に行かないし、外にも出なかった。

黒田 それは自分の中では普通かな。みんなが戦っているわけだから、チームの試合が気になる。仲間が1球、1球、どういう気持ちで投げているのか、どういう気持ちで打席に立っているのか、前の試合からどういう流れでプレーしているのか。そういうのを見ないと気が済まない。ビジターの球場で投げて、次の日が上がりで、新幹線で広島に帰る時も、携帯電話で試合経過を見て、チェックしていた。

新井 それがピッチャーっぽくないんですよ。僕は、それほど投手のことを知っているわけではないですけど、今は、自分が投げるため、コンディションを整えるために自分の行動を優先する人が多いと思う。でも、黒田さんは、そうじゃない。みんなが戦っている時に自分だけ飯食ったり、酒飲んだりできないっていうふうに考える人なんで。珍しいと思うんです。みんなが1つにならないと勝てないということを、昔から言っていますよね。

 それに、それを誰に言われてやっているわけでもないですからね。先輩の背中を見て、やるというのは簡単なこと。ただ、黒田さんの場合は、自分からやりだした。野球とは、チームとは、こうあるべきだというのを自分で決めた。そこらへんがすごいなと思うんです。

――黒田さんが新井さんのプレースタイルで好きなところは、どこですか。

黒田 そうですねえ。例えば、守備範囲はキク(菊池)と変わらないんですよ。

新井 これ、是非、書いておいてください(笑)。

黒田 キクは身体能力があるから守備範囲が広い。それに加えて、ここっていう時の最後のひと伸びがあるんです。ピッチャーは打たれて、打球を振り返った時に、捕れそうだなとか、無理だなとかわかるんですよ。ただ、無理そうな打球を最後のひと伸びで捕ろうとしてくれる選手がいる。キクはあれだけの守備範囲がありながら、それがあるから、賞賛される。

 新井の場合はキクほどの身体能力はないんですけど、やはり球際で伸びるんですよ。そこはすごく大事じゃないかな、と僕は思いますね。やはり(チームのためにという)ハートがないと、そこで体を投げ出して、伸びることはできないと思うんですよね。

――ずっとカープで戦ってきた2人が、'07年、ともにFA権を行使して移籍しました。お互いの決断をどう見ていたのですか。

新井 あの時、移籍先を公表したのは自分が先でしたが、じつは、もう黒田さんが(広島を)出るっていうのを知っていました。当時は今と違って、ずっと5位とか、Bクラスの中を行ったり来たりしている状態だったんで、黒田さんがいなくなると聞いた時に、自分はどうしたらいいんだ、と頭が真っ白になった。それこそ「ああ、俺ダメだ」という感覚になった。そこには、また('03年にFAで阪神に移籍した)金本さんの存在もあって、複雑にリンクしているというか。例えば、金本さんが、カープにいたら間違いなくカープを出ることはなかったと思います。でも、金本さんは、もう阪神に行っていた。自分がFA権を取った時に、もう1回、金本さんと一緒に野球をやりたいなという気持ちがありましたけど、もし、あの年、黒田さんがメジャーに行かなかったら、僕も絶対に広島を出ていない。

 自分は生まれた時から、カープファンだし、広島を出てはいけない選手だとずっと思っていました。その自分がまさか出るということになるなんて……という思いがあって、黒田さんにも相談していた。「お前、やめたほうがいいんじゃないか。残った方がいいんじゃないか」って、ずっと心配してもらっていましたよね。

黒田 まあ、心配というか、大丈夫かな、というのがあった。1人でパニックになっているように見えたから。ちょうど、新井は北京五輪予選に出場する関係もあって、決断するまでの日数が限られていた。この日までに決めないといけないと追い詰められていたよな。自分で決めているようで、自分で決めていないというような感覚だろうなと思って見ていた。

 ただ、自分も今度はアメリカに行かないといけない。最後は新井のことを考えている余裕もなくなって……。そういう部分では申し訳なかったな、と思っていた。

――カープを優勝させるために、自分が一度、外に出ないといけないという考えだったんですか。

黒田 いえ、そこまでは考えられなかったです。FA宣言した時点で帰ってくるなんて考えていないし、自分のことで必死だった。アメリカに行って(ドジャースと)3年契約して、3年で野球人生終わるだろうなという気持ちで行ったんで。ただ、3年契約が終わって、4年目、5年目になると、自分の中に(広島に)帰りたいという気持ちがあることに気づきましたね。

――同時に広島を出た2人が、'14年オフに同時に戻ってきました。新井さんの復帰が11月に決まり、その後、黒田さんが決断されましたが、その時の心境は。

黒田 まず、僕は新井が(広島復帰を)決める前から一緒に食事しながら話していたんです。(広島以外の)他球団から話があると聞いていた。広島からオファーがきていると言われるまでは一切、復帰は想像していなかったので、驚きましたね。

 ただ、新井が先に(広島復帰を)決めていたというのは、自分が戻る上でもすごく大きかった。

新井 広島から国内他球団にFA移籍して、復帰したケースはありませんでした。だから、僕自身、もう二度と広島には戻れない、戻れるわけがないと思っていました。でも、黒田さんは「大丈夫だ」と後押ししてくれたんです。

黒田 俺は、他人事だから(笑)。ただ、新井のプレースタイルや、チームに対する姿勢などを知っていたから。いい加減に野球をするタイプではないので、それさえブレなければ、大丈夫だと思った。

――新井さんは復帰した時、ブーイングされるのを覚悟されていたそうです。

黒田 僕もそう思いましたよ。新井は阪神に移籍した最初の年('08年)、タイガースのユニホームで広島市民球場に初めてきた時に大ブーイングされた。その時に(電話で)「あれは、きつかったです。ただ、これでカープへの未練というか、自分の中で断ち切れたものがあって、そこでもう1回、強くなろうと思いました」と言っていた。そういうことを経験しているから、余計に(古巣に戻った後のファンの反応が)怖かったんだと思います。

 ただ、それを乗り越えるために必要なのは、あとは結果。それはどの選手もプロとして一緒だと思う。結果を残して、見せることによって、ファンの人には伝わるものは絶対にある。そりゃあ、打てなかったら、大ブーイングでしょう。その結果、去年、クビになっていた可能性もある。実際に去年の開幕は、新井はレギュラーではなかったし、オープン戦中に二軍という可能性もゼロではなかった。球団は(ヘスス・)グスマンという新外国人選手を獲得して、それなりの契約をしているわけだから、最初は外国人選手を使いますよね。そこで、もしグスマンが結果を残していたら、今の新井はないかもしれない。ただ、やはり、チームに対しての強い気持ちがあって、それを周りも認めて、その上で結果を出し続けたから、今があると思うんです。

――新井さんは黒田さんに「一緒にやりたい」という気持ちを、どう伝えたんですか。

新井 あの時は、黒田さんは日本に帰ってきていて、その間に何回か食事に連れて行ってもらった。自分はもう広島に帰ると決まっていたんですが、黒田さんは、すごく悩んでいた。その後、これは帰ってくるだろうな、と思う時期があったんですが、最後に(サンディエゴ・)パドレスから凄まじいオファー(年俸約21億円)が来た。その話も聞いていました。黒田さんが最終決断するためにアメリカに帰る2、3日前も一緒に食事していて、メジャーのどういう球団からオファーがあるとか聞いていたので「ああ、もう、これは帰ってこないかもしれない」と思ったんです。

 もちろん、自分としては黒田さんに帰ってきてほしいと思っていました。でも、簡単に「帰ってきてくださいよ」とは言えなかった。そんな雰囲気じゃなかった。それくらい、悩んでいた。最後は答えが出ないから、結論だけ決めて、後付けで理由を探すという決断をしたんですよね。

黒田 そう。おそらく新井が阪神に行った時と一緒だと思う。考えても、考えても、結論なんて出ないし、それこそ、1分、1秒ごとに考えがガラッと変わる日がずっと続いていた。そうなると、もう、こっちだ! と決めて、後から理由を探すしかない。いろいろなことを後付けにして、そっち(広島復帰)に向かっていくしかなかった。

新井 僕が阪神に移籍した時とは、全く種類が違うんですけど、決め方は似ていますね。自分で、もう退路を断つしかないんですよね。黒田さんが帰ってくる時も、先にカープに帰るって決めて、あと(の未練は)は断ち切る。そういう感じでしたよね。

黒田 だから、鈴木さん(球団本部長)に「帰ります」と電話してからも、実は悩んでいたからね。「やっぱり、もう1回、考えさせてください」って、電話しようかと思ったもんね(笑)。

 結局、2つの道は歩けないから。この世界で、その決断が正しかったと思うためには、そこで結果を残すしかない。

 それと、じつは、僕は復帰する時に新井の気持ちに左右されたというか……。新井は「僕は1年間、二軍でもいいからカープのために退路を断って、手を抜かずに一生懸命やる」と、ずっと言っていたんです。それぐらいの腹づもりをして(広島に)戻るんだったら、自分も一緒にやってみたいな、と思った。新井の覚悟は僕の決断にすごく影響しましたね。

――その決断に、本当に納得できたのは、いつでしたか。

黒田 はっきり、いつと言うのも難しいんですけど、去年、マツダスタジアムでの初登板(開幕3戦目)で勝てた時ですかね。帰ってきて、満員のファンの前で勝てて、ほっとした。やっぱり、あの日かな……。

――チームのために、ファンのためにという姿勢をずっと大切にされてきましたが、個人主義のイメージがあるプロの世界において、何がそうさせるのでしょうか。

黒田 そうですね、う~ん……。一言で言うと、カープだから、じゃないですか。それがジャイアンツだったら、僕はそうじゃないかもしれないと思うんです。ジャイアンツに所属したことはないので適当なことは言えないですけど、カープにはそういうものがある。昔の市民球場で野球をやっていたから余計に、そういう気持ちが強くなるのかもしれません。今、たくさん球場に来てもらっている人たちにいい思いをしてほしい気持ちが強いです。

新井 自分も答えは、やはり、カープだから。僕は広島で生まれて、広島で育って、気づいた時から身近にあった。小さい頃からカープファンで(山本)浩二さんを市民球場に、走って見に行っていましたから。ただ、黒田さんは大阪で生まれ育っているのに、ここまでカープのことを愛してくれているのが、自分もうれしい。不思議なんですけど「愛してくれている」っていう表現になるんですよね。

黒田 それはファンの人と同じ感覚なんじゃないか?

新井 そうそう。ファンの方々と同じ感覚で、黒田さんが広島を好きでいてくれて、うれしいなとか、すごいなって思うんです。

黒田 新井の話を聞いていると、カープ優勝の時、自分がその中にいるっていうのは、すごく不思議な感じがするんじゃない?

新井 そうなんです。夢みたいな感じです。いろいろなことがあって、今があるわけですから。本当、去年からずっと夢みたいな感じ。ずっと、その夢が続いているような。

黒田 言っていることはわかるよ。小さい頃からカープが大好きだった少年が、25年ぶりの優勝を目指すチームの主軸になって、自分の力で優勝させられたっていうのは、夢みたいだろうな。

新井 だから(広島出身の)僕の中では黒田さんは尊敬する先輩でもあり、ヒーローでもあるんですよね。2人いるんですよ。同じチームの先輩であり、一歩引いて、プロ野球選手じゃないところから見ると、カープを強くしてくれるヒーローなんです。

――黒田さんがメジャーから戻ってくる時、「最後の一球は広島で投げたい」という言葉が、すごく印象的でした。

黒田 僕は考え方というか、いろいろな意味で決断する時に、ブレたくないというのがあったので。(カープで野球人生を終える)そのためにアメリカで頑張っていたみたいなところがあったんで。それがぶれずに、決断ができたのは、自分が(アメリカでも結果を残して)頑張ってこれたからかなと、思いますけどね。

新井 メジャーでバリバリでやっている選手が、すごい契約を目の前にして、それでも帰ってくるなんていうことは、もう二度とないと思います。今までの歴史でも初めてだし、これからも、絶対に起こらない。最初で最後ですよ。だから、これは語り継いでいかないとだめだと思っています。

 僕は黒田さんと同じタイミングで帰ってきたけど、復帰の仕方が全然違う。自分はタイガースから、あなたはもういいですよって肩を叩かれて、広島に戻ってこい、と言ってもらって、恥を忍んで帰ってきた。でも、黒田さんはヤンキースでローテーションに入っていて、すごい契約を提示されて、それを全部なしにして、こっちに帰ってきた。だから、黒田さんと自分は全然違う。

 そこらへんはちゃんと自分が伝えないといけないと思っていて、若い選手には、よく言っているんです。そういうことって、時間が経つにつれて曖昧になってくるから。去年は「うわあ、メジャーリーガーの黒田が帰ってきた」みたいな雰囲気でした。でも、時間と共に、それが当たり前になって、曖昧になってきて、ついには自分と黒田さんが一緒のような感じになってくる。それは違うよ、というのを僕が伝えていかないといけない。

黒田 今はもう新井の方が声援、大きいからね。

新井 ちょっと、何、言ってるんですか! 全然、そんなことないですよ(笑)。

 自分はたまたま、黒田さんと一緒に帰ってきて、そこそこやっているからといって、同じような扱いをしてもらうのは気が引ける。決断の仕方が全然、違います。それは、みんなに知ってほしいんです。

黒田 でも、今、声援は新井の方が大きいからね。

新井 だから、そんなことないって言っているじゃないですか(笑)。
via http://number.bunshun.jp/articles/-/826731


・沢村賞に広島ジョンソン、外国人投手はバッキー以来
 故沢村栄治氏を記念し、シーズンで最も優れた先発完投型の投手に贈られる「沢村賞」の選考会が24日、都内のホテルで行われ、広島クリス・ジョンソン投手(32)が選出された。外国人投手の獲得は64年の阪神バッキー以来となる。
 堀内恒夫選考委員長は「該当者なしという意見もあったが、最終的には全会一致でジョンソン投手を選びました。7つの基準のうち4つしかクリアしていないが、今年のNO・1投手にふさわしい」と話した。

沢村賞は以下の項目を選考の基準としている。
(1)15以上の勝利数 (2)150以上の奪三振数 
(3)10以上の完投試合数 (4)2・50以下の防御率
(5)200イニング以上の投球回数(6)25以上の登板数
(7)6割以上の勝率

 ジョンソンはこのうち、(1)勝利数15(4)防御率2・15(6)登板数26(7)勝率6割8分2厘の4項目をクリアしている。
 また、堀内委員長は「少し基準を見直す時期に来ていると思う」と話し、来年までに基準を再検討する考えを示した。山田久志委員も「投手の起用法が画一化され、長いイニングを投げさせず継投になるため完投数、投球回数のクリアが難しくなっている」と話した。今後は堀内委員長がたたき台を作り、選考委員メンバーで検討していくという。
 選考委員は堀内恒夫氏、平松政次氏、村田兆治氏、北別府学氏、山田久志氏。
via http://www.nikkansports.com/baseball/news/1728768.html


・広島カープ無念…引退する黒田博樹を作り上げた男気エピソード
 http://matome.naver.jp/odai/2147532715594333201

・黒田の「15」、永久欠番に=山本、衣笠両氏に続き
 広島が今季限りでの現役引退を表明した黒田博樹投手(41)の背番号「15」を永久欠番とする方針を固めたことが30日、分かった。
 広島では、ともに1970~80年代の黄金期を代表する強打者だった山本浩二氏の「8」、衣笠祥雄氏の「3」が永久欠番となっている。
 黒田は1997年から広島で11年間プレーした後、フリーエージェント権を行使して米大リーグのドジャースに移籍し、ヤンキースでも活躍。メジャー球団からの高額オファーを断って、広島に昨年復帰し、今季は25年ぶりのリーグ制覇に貢献した。日米通算で203勝を挙げている。
 球団幹部は「苦難の歴史と優勝を経験した黒田が、(広島に復帰して)お金以外の価値観があるという一石を投じてくれた」と話した。
 via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016103000190&g=bsb

◇広島Vパレードに31万人
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 25年ぶりにプロ野球セ・リーグを制した広島カープの優勝パレードが5日、広島市の平和大通りで行われた。カープのパレードはリーグ初優勝を遂げた1975年以来41年ぶりで、沿道には31万3000人(実行委員会発表)が詰めかけた。
 パレードは晴天の下、同市西区の西観音町電停前を出発。松田元オーナー、緒方孝市監督、今季限りで引退した黒田博樹投手、新井貴浩内野手らがオープンカー4台、オープンバス5台に分乗し、約3キロのルートを40分ほどかけて進んだ。
 開始1時間以上前から、赤や白のユニホームをまとった市民やファンで沿道が埋め尽くされた。選手を乗せた車が近づくと、「ありがとう」「おめでとう」と祝福の声が上がり、選手たちは笑顔で手を振って応えた。
 隊列がフィニッシュ地点に着くと、今季大活躍した鈴木誠也外野手は「パレード最高!」と叫び、初の体験に感激した様子だった。
 黒田は「想像以上でびっくりした。(ファンには)逆にこちらがありがとうという気持ち。新井とは『本当に優勝してよかった』と話した」とパレードを満喫した様子。
 鈴木は「予想以上に人が多く、すごい迫力だった。優勝したことへのファンのうれしさが伝わってきた」と話した。[2016.11.05]
via http://www.jiji.com/jc/article?k=2016110500128&g=bsb&m=rss

・感動をありがとう!広島カープの優勝パレードに街が真っ赤に染まる
 http://matome.naver.jp/odai/2147831706970735001

・広島・黒田、涙の胴上げ15回 「世界一のカープファン」の前で
 今季限りでの引退を発表した広島・黒田博樹投手(41)が5日、広島市内で行われた優勝パレード後のリーグ優勝報告会で現役最後のユニホーム姿を見せた。
 セレモニーの中で、ファンに向けて最後のあいさつ。盟友・新井貴浩内野手(39)から花束を手渡されると、球場中を大歓声が包んだ。マウンド付近で全選手で記念撮影。さらにサインボールがスタンドに投げ込まれた。
 最後は、ナインが黒田を胴上げ。球団の永久欠番となる背番号「15」と同じ15回、宙に舞うと、黒田は感極まった様子。マウンドにひざまずき、抑えきれない涙を何度もぬぐった。

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 あいさつ全文は以下の通り。

  本当に朝から、たくさんのファンに来ていただいた。笑顔、涙、いろんなものを見せてもらって。僕自身が感動しています。ありがとうございました。
 本当に僕の方こそ、ファンのみなさんに背中を押してもらった。暑い夏も、苦しい時もマウンドに上がる気力を与えてもらった。正直、これで野球から離れるというホッとした気持ちと、少しずつさみしさが出てくると思います。
 20年間やってきて、まさかこんな形でユニホームを脱げると思ってなかったので、みなさんに感謝したい。言葉では言い表せないくらい、感謝の気持ちでいっぱいです。(リーグ優勝時に)泣いてはないと思いますけど(笑い)。たくさんの気持ちが出てきて、なんとも言えない気持ちになりました。
 (20年間の野球人生について)
 一言で言うと苦しい20年間だった。ただ、苦しいことを乗り越えて、みなさんの前でパレードをして、ここで話ができる。苦しいことを我慢してよかったと思います。
 最初にアメリカに渡った時に、まさかこうやってマツダスタジアムのマウンドに立てると思ってなかった。不思議な気持ちです。本当にありがとうございます。
 (チームメートに対して)
 こちらこそいいチームで2年間、やらせてもらった。すごくいい雰囲気を作ってもらって、本当にありがとうと言う気持ちです。
 (最後にファンに向けて)
 20年間、野球を続けてこられました。最後に世界一のカープファンの前で、ユニホームを脱ぐことができる。本当に最高の引き際になったと思います。20年間、ありがとうございます。

 via http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2016/11/05/0009640516.shtml

・黒田と共に…グラブの匠も引退 廃業撤回、支えた20年

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 現役ラストシーズンとなった今季、プロ野球広島の黒田博樹投手(41)は、グラブに1人の名前を刻んでいた。プロ生活20年間、グラブ製作を託した西岡将行さん(66)=奈良県三宅町=だ。西岡さんは一度引退を決めながらも、黒田投手の強い希望で、現役を続けていた。
 「made by M.Nishioka」。グラブの手首にかかる内側部分に隠れるように書かれている。黒田投手が今季開幕前に申し出た。「引退を撤回してまで、自分に合ったものを一生懸命作ってくれている。それならぜひに、と思った」。西岡さんは「思いもしていなかった。誇らしい。今までやってきたことは間違いなかった」と感謝する。
 黒田投手はプロ入りから一貫して、スポーツ用品メーカー「SSK」(本社・大阪市)のグラブを愛用している。SSKは数社の工場でグラブを生産しているなかで、黒田投手のグラブ製作を西岡さんに発注した。面識がない2人の縁は、こうして生まれた。
 西岡さんは高校卒業後、家業の工場を継いだ。市販の製品だけでなく、楽天の松井稼頭央外野手(41)や阪神の今岡真訪(まこと)2軍コーチ(42)らプロ選手からの特別注文にも対応していた。
 年間1千個以上のグラブを製作していたが、5年前、従業員の高齢化もあり、一度は廃業を決めた。そこで製作のノウハウをSSKに伝えた。だが、他のどの職人が同じ型、同じ素材で作ろうと、黒田投手は「はめた瞬間に違う人が作ったと分かった」と言う。投手の繊細な感覚に影響する商売道具に妥協はしなかった。
 グラブは全て手作り。素材のどの箇所をどう使うか、目利きも大事になる。切り方、縫い方にも個性が出る。西岡さんは「黒田選手のファンでもある。できる範囲でやらせてもらいたかった」。それからは年に10個ほどの黒田グラブに限り引き受けていた。「形や革の好みが20年間変わらなかった。一本芯が通っていた」。その姿勢は野球人生と重なって映った。

WS002

 48年続けたグラブ職人を今季限りで引退する。「すーっと肩の荷が下りた。本当にやりきった。黒田選手と一緒です」。同じく最高の引き際と感じている。
via http://www.asahi.com/articles/ASJCB7QZNJCBPTQP00J.html

◇広島カープが広島市に5億寄付 市民の声援感謝込め原爆ドーム保存などに
 広島東洋カープが21日、広島市に寄付することを発表した。総額なんと5億円。市民への感謝を込めて、多額の地域還元となった。
 今季は25年ぶりのリーグ優勝を達成。球団は「市民を始めとする地域の方々から、多くの御支援、御声援を賜り、25年ぶりのリーグ優勝を果たすことができました」と説明する。これに加えて、昨年オフに前田健太選手(28)が、ポスティングシステムを使って、米・大リーグ・ドジャースに移籍。譲渡金による特別収入を得たこともあって地域還元、恩返しの気持ちから寄付を決めたという。
 寄付内容は、(1)西飛行場跡地で少年野球やソフトボールなどができるスポーツ広場の整備と、(2)被爆の惨禍を後世に伝える、原爆ドームの保存のための活用。寄付金額は総額5億円で、スポーツ広場の整備に4億円、原爆ドームの保存に1億円を寄付する。
 広島は今年2月にも、キャンプ地の宮崎県日南市と、沖縄県沖縄市に1億円ずつを寄付している。
via http://www.daily.co.jp/baseball/carp/2016/11/21/0009685141.shtml
 http://spotlight-media.jp/article/349762244965932259
 https://matome.naver.jp/odai/2147970927971278001
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インド東部のコルカタを拠点に貧者の救済活動に尽力した故マザー・テレサ(1910~97年)が9月4日、カトリック教会で最高位の崇敬対象となる「聖人」に認定された。
ローマ・カトリック教会のフランシスコ法王は4日、バチカンのサン・ピエトロ広場で列聖式を挙行。広場に集まった約10万人の信者らを前に、「カルカッタのテレサを聖人に列する」と宣言した。

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■フランシスコ法王「あまりに身近な存在で、『聖テレサ』とは呼びにくい」
フランシスコ法王は列聖式の説教の中で、「慈しみの心は、彼女の仕事を味付けする"塩"であり、貧困と苦しみのために流す涙もなくなった多く人々の闇を照らす"光"だった」とマザー・テレサの功績を讃えた。
その上でフランシスコ法王は、「(マザー・テレサは)あまりに身近な存在で、『聖テレサ』とは呼びにくい。これからも私たちは、彼女のことを『マザー・テレサ』と呼び続けるだろう」と語った。この法王の言葉に、信徒たちは拍手で応えた。

■死後19年での「列聖」、異例の早さ
殉教者でない人が「聖人」に列せられるには、死後に2度の「奇跡」を起こしたことが認定される必要がある。
カトリックの歴史では、「聖人」や「福者」は死後数十年を経てから列せられることが多いが、マザー・テレサの場合は1997年に亡くなった直後から列聖を求める声が挙がっていた。
こうした声を受けて、バチカン(ローマ法王庁)が功績の審査を開始。2002年10月、マザー・テレサへ祈ったインド人女性の腹部の腫瘍が消えたことが「奇跡」と認められ、当時のローマ法王ヨハネ・パウロ2世がマザー・テレサを「聖人」の前段階の「福者」に列した。
2016年3月には、危篤状態にあったブラジル人男性のために妻がマザー・テレサに祈った結果、回復したことを2度目の「奇跡」と認定し、フランシスコ法王が「聖人」に列すると発表した。

■教義的には保守派、2度の「奇跡」には疑問の声も
マザー・テレサは1910年アルバニア生まれ。「神の愛の宣教者会」を設立し、50年にインド・コルカタのスラム街で貧しい人たちへの救済活動を始めた。79年にはノーベル平和賞を受賞。97年に87歳で亡くなった。
ヒンドゥー教徒が人口の80%を占めるインドにおいて、キリスト教徒の数は2%ほど。生前、マザー・テレサには「ヒンドゥー教徒を改宗させようとしている」といった批判が絶えず、寄付金の出所をめぐっては国際的な武器商人が絡んでいるといった噂もあった。
カトリックの教義的には保守派で、中絶や避妊具などの使用に反対。94年に開かれたカイロ人口会議では、「平和の最大の破壊者は中絶です。母が子を殺せる社会で、人間同士の殺し合いをどうして止められますか」といったメッセージを寄せるなど、物議を醸した発言もあった。
このメッセージでマザー・テレサは、「まだ生まれ来ぬ子も含め、生命は最も美しい神からの贈り物であるのに、今日、世界中で戦争や暴力や中絶により多くの生命が奪われているのは耐えられないこと。神以外のだれも生命を奪うことはできない」とした上で、「もし、あなたが育てられないのなら、その子を私に下さい。どんな子も拒否しません。私が家を与え、愛する家族を見つけます。私たちは、何千という子供たちの養子縁組をすることによって中絶と闘ってきました」と、自らの活動について述べた。

CNNによると、マザー・テレサの奉仕活動をめぐっては、彼女の慈善団体の会計処理に不透明な点を指摘する声や、奇跡とされた病人の治癒は「現代医療によるものでは」と、疑問の声もあるという。
そうした批判もある一方で、マザー・テレサの活動は世界中に広がり、ヨーロッパやアフリカ、アメリカ大陸、オーストラリアのほか、香港やロシアにも彼女が創設した慈善団体の支部が置かれている。
via http://www.huffingtonpost.jp/2016/09/04/story_n_11862958.html


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日本の超高齢化を「見える化」したらやはりトンデモなかった(by 本川裕) はてなブックマーク - 日本の超高齢化を「見える化」したらやはりトンデモなかった(by 本川裕)

■世界のすべての国と比較 やはり日本の高齢化率は世界一
 年齢別人口は大きく年少人口(0~14歳)、生産年齢人口(15~64歳)、高齢人口(65歳以上)に3区分される。生産年齢人口は働く世代を意味している。今は先進国では高卒年齢でないと働く者は少ないが、従来からの考え方で15歳が区切りとなっている。また高齢人口も定年も平均寿命も昔より伸びた今では65歳でなく70歳を区切りにした方が適切かもしれない。
 しかし、この区分は、統計の継続性に加えて、共通に決めてあること自体が有用なので、国際的にもなお通用している。高齢化率は、特に断らない限り、総人口に占める65歳以上の高齢人口の割合を指すのが普通である。
 日本の高齢化が世界一であることはしばしば言及されているので知っている人は多いだろう。しかし、どの程度、世界一なのかについては、すべての国の高齢化率が同時に図示されたことがことがないので、ピンとこないのではなかろうか。
 そこで今回は、まず、高齢化率のデータが得られる世界の全部の国の高齢化率のグラフを示した。おそらく本邦初の試みだと思う。

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 高齢化率は日本が26.7%で世界一高く、日本に次いで高いヨーロッパのイタリア、ギリシャ、ドイツのそれぞれ22.4%、21.4%、21.2%を大きく上回っている。
 人口10万人そこそこの国まで含めて200ヵ国弱の国の中で人口1億人以上の国である日本が全体として紛れもなく世界一なのだから驚く。本格高齢社会という人類の未体験ゾーンに向かって、幸か不幸か、日本がまず真っ先に突き進んでいることがこの図から実感できるのではなかろうか。
 日本が属する東アジア・太平洋では、香港、オーストラリア、ニュージーランドが15%前後で比較的高齢化しているが、日本と比べるとずいぶん低い。さらに、韓国、シンガポール、タイ、中国、北朝鮮と中国からは10%を切ってだんだんと高齢化率が低くなっていく。後段で見るとおり、今は若い韓国や中国もいずれは大きく高齢化率が高まってくると予測されている。東南アジア諸国はシンガポール、タイを除くと高齢化率は5%前後とかなり低い水準の国が多い。
 米国の高齢化率は欧米の中では低い点など、そのほか、地域別、国別にいろいろな特徴が見て取れるがこれ以上の読み取りは読者に任せて、この図のコメントはこの辺で控えておこう。
 ちなみに世界一高い日本に対して、世界で最も高齢化率が低いのは、アラブ首長国連邦であり、値は1.1%である。何と100人に1人しか65歳以上の国民がいないのである。

■若者の国のオリンピックから老人の国のオリンピックへ
 日本の高齢化の特徴は、現時点で世界一である点に加えて、主要国の中で極めて急速な高齢化のテンポをたどっている点にある。
 この点を「見える化」するため、主要国における19世紀からの高齢化率の長期推移と今後の21世紀中の将来推計の数値をグラフにした。

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 日本が他の主要国、特に欧米諸国と比べて、非常に若い国だったのが、他国にないテンポで高齢化率を上昇させ、さらに21世紀を通して、世界一の高齢化の水準を維持する見込みだということが明確に示されていると思う。
 象徴的なのは、1964年の東京オリンピックと2020年開催予定の東京オリンピックという二つの時点の高齢化率の世界の中での位置である。1964年の時点で主要先進国と比べて最も若い国としてオリンピックを開催した日本は、2020年には、ずば抜けて高い高齢化率の国、いわば紛れもない老人の国として世界から人びとを迎えることになるのである。
 そういう意味では、いい悪いは別にして、79歳の森喜朗元首相が東京オリンピックの組織委員会会長なのは絵に描いたような人事だともいえる。
 オリンピック競技を観戦するため日本を訪れる世界の人びとは、同時に、高齢化が抱える深刻な問題の数々をどのように日本は解決しているか、解決しようとしているかを自分の目で観察しようとしてやってくる。なぜなら日本の最先端の高齢化水準は自分たちの将来の姿だからである。深刻化する社会保障の財源問題、高齢者の社会参加や健康維持、ケアの必要な高齢者を支える人的体制、シルバー民主主義の弊害への対処などに対して日本は世界の参考となる解決法を提示できるのであろうか。
 国内に日本とは年代がずれているが同じように大きな塊のベビーブーム世代を抱え、また現在は少子化している中国や韓国では、今は若い年齢構成であるが、将来、日本と同様、あるいは日本以上に急速な高齢化に見舞われることも図からうかがい知ることができる。
 なお、日本の公式推計に比べて日本の高齢化率の国連推計値が低い水準になっているが、これは、将来人口推計に当たって、いずれの国でも出生率の水準がいずれは人口置換水準(2+α)に収束してくると仮定されているためである。つまり日本の場合は現在の水準からかなり上昇すると仮定されているからである。従って国連の将来推計は日本については推計値と言うより目標値に近い結果となっているのである。

■増える百歳以上の超高齢者 2015年には6万人超え
 65歳以上の高齢者は、75歳未満の前期高齢者と75歳以上の後期高齢者に区分されることがある。健康上の問題や要介護の割合などから同じ高齢者でも両者を区分した方がよい場合も多いからである。高齢化比率が上昇する中、ケアの必要性がより高い後期高齢者の比率はそれ以上のテンポで上昇する点が指摘されている。ここでは、この点は省略し、高齢者の中でも以前なら本当に希な存在だった百歳以上のいわば「超」高齢者が最近は大きく増えている点を最後に視覚化しておこう。

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 百歳以上の高齢者数は、厚生労働省の資料によれば、1963年には153人に過ぎなかったのが、1981年には1000人を超え、1998年には1万人を超え、2012年には5万人を、2015年には6万人を越えた。男女別では女性が87.0%と圧倒的に多くなっている。
 百歳以上の超高齢者を英語ではcentenarianと呼ぶが、国際比較のデータを見ると、世界で百歳以上の人数が最も多いのは、日本でなく米国である。しかし、人口の母数が13億人の中国よりは百歳以上に限ると日本の方がかなり多い。もちろん、人口当たりの比率では2位のイタリアを上回って日本が最も高い。

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 以上、日本はいずれの面から見ても世界一の高齢者大国であることが視覚的に明らかとなったのではなかろうか。
via http://diamond.jp/articles/-/100361


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「こち亀」40年の連載に幕=秋本治氏「両さんらしく40周年のお祭りが引き際」 はてなブックマーク - 「こち亀」40年の連載に幕=秋本治氏「両さんらしく40周年のお祭りが引き際」

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 連載40周年を迎えた人気漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が、17日発売の「週刊少年ジャンプ42号」(集英社)で、最終回を迎えることが3日、分かった。作者の秋本治氏(63)が東京・神田明神で、絵巻奉納式後に会見して発表。1976年9月に連載がスタートした物語の幕を閉じることになり、秋本氏は「(主人公の)両さんはお祭りが大好き。両さんの引き際として、40周年を祝われてスッと消えるのが大団円」と決断理由を明かした。
 コミックの累計発行部数は1億5000万部以上で、17日には最終回も収録した200巻も、少年ジャンプと同時発売される。「計算上は2016年に200巻と思ってましたが、現実的になって、終わるかどうか悩みながら、結構迷ってました。この機会を逃すと、両さん的に中途半端になる。おめでたいときに終わるのが1番」と感慨深げに、言葉をつないだ。
 最終回は、コミック収録分のみのカウントで1960話となり、週刊連載ながら休載は1度もなかった。漫画界の“鉄人”は、「両さんのキャラクターが描いていて面白い。どんな素材でも自由自在に動いてくれたので」と長寿連載の秘けつを語っていた。
via http://www.daily.co.jp/gossip/2016/09/03/0009452629.shtml

・「こち亀」終了。。ネット民がその伝説を振り返る
 http://matome.naver.jp/odai/2147288793421694201

・「こち亀」作者・秋本治氏にとって大切だった2つのこと
 「こち亀」こと週刊少年ジャンプの長寿漫画「こちら葛飾区亀有公園前派出所」の連載終了には驚いた。
 発表は3日、作品世界を題材にした「こち亀絵巻」を東京都千代田区の神田明神に奉納した後の会見だった。
 原作者の秋本治氏は最後に話すと決めていたという。何も知らない記者は「300巻への意欲」「最終回の構想」などを聞いてしまった。
 長期連載漫画の最終回にまつわる逸話としては、連載48周年の「ゴルゴ13」が有名。原作者のさいとう・たかを氏が、コマ割りもラストシーンも決めているという話を引き合いに質問した。
 秋本氏は「さいとう先生のは常とう句というか…僕もそういう風に言えたらいいんだけど。こち亀はギャグ漫画。最後のギャグなんて考えられない」とその場では答えた。ICレコーダーを聞き直すと「その辺りはまた後で」と小さな声で話していた。
 いったん質問が打ち切られ、直後に連載終了が発表された。
 今にして思えば、そこに秋本氏の漫画家だからこその、2つの強い思いがあった。
 まず1つめ。読者に対してだ。秋本氏はどうしても、自身の口から連載終了を語りたかった。読者が不意打ちのように、終了を知らされる事態だけは避けたかった。近年はツイッターなどSNSの普及もあり、書籍でニュースを発表するのが難しい雑誌は流通の都合上、発売日の数日前に小売店に届くからだ。発売前の誌面を見た人からSNSで拡散してしまうケースが「NARUTO」の最終回でもあった。
 40年愛してくれた読者に、自身の思いをきちんと伝えたかったのだ。
 だが、それだけなら会見冒頭に発表すればいい。もう1つの理由。絵巻の奉納が、連載終了以上に大切だったのだ。
 絵巻は一年がかりの大仕事だった。素材の和紙には、漫画で慣れた画材も、培った技法も使えない。試行錯誤の末にガラスペンで描いた。全長8メートルの和紙に描かれた17枚の絵は、戦後から現代の東京を描いたもの。両津らこち亀キャラが山車を引きながら神田明神にやってくる。子供の遊び、流行や歴史的出来事も描かれた。
 秋本氏は絵巻の奉納を「漫画界にとって嬉しいこと」と喜んだ。「こち亀の連載終了より、奉納の方が大事なんです」とも言った。
 こち亀が描かれた40年で、漫画の評価は大きく変わった。かつては子供向けの一段低い文化とみる人も多かった。それが絵巻となり、“江戸の総鎮守”神田明神に「その時代の生活、風俗を知る貴重な資料になる」と感謝され、奉納されたのだ。神田明神には江戸時代末期に寄進された絵巻があるというが、それ以降の本格的な絵巻はないという。
 秋本氏は絵巻の奉納会見をきちんと済ませた後でなければ、こち亀の完結を語れなかったのだ。
 連載終了を明らかにしたあと、記者らの質問に触れ「いつ終わるのか、どう終わるのかと皆さんが気にしてくれている中で、心苦しい思いもあった」と漏らした。恐らく記者らの驚きや落胆といったファン心理も気遣ってくれたのだと思う。涙こそ流さなかったが、声が震えているように聞こえた。
 連載終了に向けて極秘に動いてきた集英社スタッフの一人は「会見での秋本氏を見て、泣きそうになった」と話した。悩み続けてきた秋本氏を見てきたのだだろう。
 27年前には、今や伝説となった“偽最終回”に騙された。両津が見開きで読者に別れを告げた次のページで、舞台も登場人物も同じ「新こち亀」が始まった。あの時も頭が真っ白になった。翌週には新こち亀すらなかったこととなり、いつものこち亀が載っていた。今回は本当だと思うが、何らかのサプライズがあるかもしれないと楽しみにしている。
 via http://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2016/09/06/kiji/K20160906013305080.html

・こち亀:8メートル巨大絵巻物を神田明神に永年奉納

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 http://mantan-web.jp/2016/09/03/20160903dog00m200022000c.html

・こち亀.com | 集英社 こちら葛飾区亀有公園前派出所公式サイト: http://www.j-kochikame.com/


・【こち亀】亀有駅周辺の『こち亀銅像』全15体まとめ / オススメは感涙必至の「少年両さん像」だ!

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http://rocketnews24.com/2016/09/05/796242/



・最終回を迎えた「こち亀」に、"粋なはからい"が止まらない
 http://matome.naver.jp/odai/2147409205503802001

・こち亀:40年間支持された理由 時代に合わせて柔軟に変化
 「週刊少年ジャンプ」を代表する人気マンガで「こち亀」の愛称で親しまれる「こちら葛飾区亀有公園前派出所」が17日に最終回を迎えた。3日に神田明神で「こち亀絵巻」の奉納を済ませた後、作者の秋本治さん自ら発表する異例の形で、テレビや新聞のニュースとして取り上げられるなど話題となった。週刊少年ジャンプという“激戦区”で、「こち亀」はなぜ連載を続けられたのかを分析した。
 「こち亀」の本当に驚くべき点は、「連載が1回も休載せずに40年も続いたこと」だ。総じて「ギャグマンガは短命」といわれ、国民的マンガ家の一人・赤塚不二夫さんの代表作「天才バカボン」も十数年で1度完結している。「こち亀」と同じジャンプマンガの「Dr.スランプ」も約4年。いずれも超人気作であり、「ギャグに必要な体力」の問題だったのかもしれない。
 しかしなぜ「こち亀」は40年も続いたのか。一つは「時代に合わせて変化した」ことだ。連載スタート当時、「こち亀」は主役の両さんこと両津勘吉は天丼を盗み食いした猫に銃を乱射し、道を聞く民間人を怒って追い返す荒くれ者だった。
 本作も秋本さんも、当時のジャンプの中では「新人」に過ぎなかったから、「ドーベルマン刑事」など豪快な連載誌のカラーに合わせたのだろう。それが、60巻以降はめっきりソフトになった。21世紀に入ってからは、銃を発砲しているコマを見つけるほうが難しい。
 ただ丸くなっただけなら刺激的な連載陣の中で埋没していたはずだが、「こち亀」には「過密な情報量」という武器があった。両さんの同僚である中川巡査は自動車のコレクターのため、初期は迫力あるカーチェイスも当たり前で、描写も緻密(ちみつ)だった。飛行機や戦車などメカの登場もとても多かったが、キャラの線さえ簡略化して作画にかかる労力を抑える傾向のあるギャグマンガの中では異例なことだ。
 こうした情報量の詰め込みは、やがて「ホビー」の分野に向けられた。サバイバルゲームなどアウトドアから切手やフィギュア、そしてゲームやパソコンといったインドアに移行し、果ては「艦これ」などの紹介もするにいたる。その道のりは、ジャンプ本誌の「ホビー化」とも一致している。
 情報量の多さは、投入されたアイデアの豊富さであり、創造されたサブキャラクターの豊かさでもある。シリアスながら抜けたところもある星逃田や、世界の戦場を渡り歩いたために日常でも重火器を持ち歩くボルボ西郷、超エリートだが顔の怖い凄苦残念(旧名・法条正義)。これら濃い顔ぶれが「たまに出る」に過ぎない層のぶ厚さだ。
 さらに、この中でキャラの「選抜」も行われている。初期の中川は第1話に出てきたあとしばらく出ない「単発キャラ」だったが、後にレギュラーに抜てき。逆に両津の良き相棒だった戸塚はガラが悪かったせいか、途中から消えてしまった。それにネットやPC話があるたびに出てくるハイテク一家「電極家」など、テーマごとの面々もおおむね決まっている。豊富なキャラの投入ないし整理により、時代に合わせて作風をチューニングしてきたのだ。
情報量・アイデア・キャラクターを「リソース(資産)」として管理とすれば、ギャグの続く中に織り交ぜられる人情噺(ばなし)という「ストーリー管理」もうまい。両さんが「乱暴者」から長期連載にふさわしい好感が持てる主役になれたのも、困っている人を助けたり下町の人々との交流があったからだ。しかも柔らかい話のクッションを置くことで、ギャグが過激にインフレすることへの歯止めもかけられた。両さんが子供時代の懐かしいエピソードは、「こち亀」に東京の郷土史という深みさえ与えている。
 キャラクターとストーリーの掛け合わせは、やがて「女性キャラクターの充実」というかたちでも表れた。マリアや早矢らヒロインたちは女性キャラに活躍の場を増やしたし、両さんの新たな面も引き出して奥行きを加えたのだ。
 そうした方向の到達点の一つが「擬宝珠(ぎぼし)家」の人々だ。両さんと結婚話まで持ち上がった纏(まとい)、その妹で幼稚園児の檸檬(れもん)、祖母で一家を束ねる夏春都(げぱると)。気ままな独身を続ける両さんを「(擬似)家族ドラマ」の中に置き、古参ファンの間で賛否はあったが、宇宙から天国までなんでもありの「こち亀」の幅をさらに広げていた。
 「こち亀」がただギャグだけに徹していたなら、とっくに作品の寿命は尽きていたはずだ。日常を破壊する爽快(そうかい)感や豊富な雑学ネタ、ハイテクやホビー、人情噺や家族といった要素を貪欲に取り込み、「長期連載に耐えうるシステム」を作り上げていったから、マンガ家志望者が殺到する「週刊少年ジャンプ」という苛烈な“戦場”で40年もの歳月、ゆうに親子2世代を超えた支持を勝ち得たのだ。
 「こち亀」は200巻で一応のピリオドを打つが、これら200巻は「長期連載するノウハウ」が詰まった宝庫であり、マンガの教科書だ。今後もジャンプやそれ以外のマンガに「こち亀」の遺伝子は受け継がれ、「両津勘吉」は生き続けるだろう。
via http://mantan-web.jp/2016/09/18/20160915dog00m200052000c.html

・こち亀終了で亀有駅がお祭りモードに。秋本治が24歳から63歳までこち亀を描き続けたのは凄い
 http://netgeek.biz/archives/83164

・こち亀両さんの名言集!!
■男は悔しさをエネルギーにして前進していくのだ!
「 今に見ておれ 」、この言葉を忘れてはいかんぞ!!!

■悩んだらまず「生きる」モードに切り換えてからスタートだ!
それからどう生きるかを探せばいい!

■人間つまづくのは恥ずかしいことじゃない!
立ち上がらないことが恥ずかしいんだぞ!

■子供が時間など気にするんじゃない!徹底的に遊べ!

■美人だから何人もいる女性の前で王子の目に止まったんだぞ。
ぶさいくだったら全然鼻も引っかけてくれん!

■いつの世でも開拓者は異端児あつかいされるものである

■入試 就職 結婚みんなギャンブルみたいなもんだろ!人生すべて博打だぞ!

■この世に男と生まれて何かせにゃ男の価値がねえだろう

■えらいやつってのは初めからワルにならねぇの!
正直で正しい人間がえらいにきまってるだろう!

via http://gathery.recruit-lifestyle.co.jp/article/1147306509566951301
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