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[動画] タコとハリセンボンの死闘 はてなブックマーク - [動画] タコとハリセンボンの死闘


 動物界の中で、タコは洗練された捕食者と言われる。一方、フグについては、そうした評価をきかない。ところが、最近撮影されたタコとフグの動画を見ると、タコとフグは互角に渡り合う相手のように思えてくる。
 2018年11月初旬、セイシェル、フレガット島沖のサンゴ礁でダイビングをしていたクリス・テイラー氏とキャリー・ミラー氏は、ワモンダコとフグの仲間であるハリセンボンを見つけた。両者は必死に戦いながらも、膠着状態に陥っているようだった。その様子をとらえたのが、上の動画だ。
 タコはフグをがっしりとつかみ、サンゴ礁の割れ目に引きずり込もうとしている。二人が見ている前で、タコは数分間、相手を自分がいる穴に引き込もうとがんばっていたが、フグは膨らんで抵抗し、まったく動く様子を見せない。
 タコは、フグが岩の隙間よりもずっと大きいことに気付いたのか、やり方を変えた。サンゴの下からフグのもとに出てくると、今度は力強い腕を広げて膨らんだ魚をトゲごと包み込む。2匹はその状態で15分近く格闘したが、どちらも降参する様子は見せなかった。
 この戦いの結果を、テイラー氏とミラー氏は知らない。というのも、勝者が決まる前に、浮上しなければならなかったからだ。そこで、ナショジオは、科学者にタコとフグの戦いの結果を予想してもらうことにした。

■タコは熟練の捕食者
 まずは、昼行性であることから「昼のタコ」とも呼ばれるワモンダコについて、米マサチューセッツ州ウッズホール海洋生物学研究所の研究主幹、ロジャー・ハンロン氏に聞いた。(参考記事:「2016年11月号 きっと驚く タコの不思議」)
「ワモンダコは自分自身と同じ大きさの相手を捕食することができます。腕とその間の膜を伸ばすことで、口を非常に大きく開くことができるのです」とハンロン氏はタコの戦略を説明する。
 ワモンダコは、カニ、イガイ、無脊椎動物などを食べるが、ときおりサンゴ礁に棲む魚や頭足類も獲物にすることがあるという。
 タコが動きの早い獲物を狙う場合、独特の戦略を用いる。まずは腕の下側に並んだ高性能の吸盤を使って獲物を捕まえ、逃げられなくする。次にタコは、獲物を口へと引き寄せ、オウムのようなくちばしで一口大に切り刻むのだ。相手が暴れるようなら、後唾腺に隠された麻痺を引き起こす「毒」を相手に注入することもある。
「こうした食べ方をする動物は、あまりいないのです」とハンロン氏。「タコは、この能力があるからこそ、小さな生き物から大きなものまで食べることができます」
 ハンロン氏は、動画のタコはおそらくハリセンボンを食べることができただろうと考えているが、ハリセンボンがなぜ狙われたのか、その理由に関してはわからないという。「タコが進んで、毒のありそうな魚を選ぶなんて、その理由については私も興味がありますね」
 フグの仲間の多くは内臓にテトロドトキシンという神経毒を持つことで知られている。テトロドトキシンはシアン化物の1200倍以上の毒性がある。1匹のフグには、成人30人を殺害できるほどのテトロドトキシンが含まれ、解毒剤はない。非常に危険な毒なのだ。ちなみにハリセンボンも、種類や地域によって卵巣に毒をもつものがいるという。
 テトロドトキシンは人間には有害だが、タコにどう影響するかはわかっていない。ハンロン氏は、このタコは毒に免疫があるか、そもそもフグの仲間が毒を持つ危険性を知らないのではないかと語る。

■トゲで身を守れるのか?
 タコにフグの毒に対する免疫があったとしても、タコは鋭いトゲに覆われた相手を食べられるのだろうか?
 ハンロン氏によると、ハリセンボンのトゲはタコに対してほとんど防御の役割を果たさないと話す。骨のない筋肉質のタコの腕は、非常に柔らかくてよく伸びる。だから、もっと鋭いものを包んでも皮膚が破れることは、まずないのだそうだ。(参考記事:「生きるために膨らむ動物たち」)
 いずれにしても、このタコが手ごわい相手を、なぜ狙ったのかの謎は残る。獲物が少なかったのだろうか?
どちらが勝ったのかわかりませんと、動画を撮影したミラー氏も話す。
 この映像と似たフグとタコが対決する動画がネットに投稿されているが、どれも結末が分からないまま映像は終わっている。
 本格的な研究がなされるまで、この珍しい戦いの結末は想像を巡らせるほかなさそうだ。
via https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/18/112800517/
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[競馬] [ジャパンカップ] アーモンドアイ、レコード更新でGI4連勝=2頭目の3歳牝馬V はてなブックマーク - [競馬] [ジャパンカップ] アーモンドアイ、レコード更新でGI4連勝=2頭目の3歳牝馬V


 中央競馬の第38回ジャパンカップ(G1)は25日、東京競馬場の芝2400メートルに外国馬2頭を含む14頭が出走して行われ、今年の牝馬3冠で単勝1番人気のアーモンドアイが中央競馬のレコードタイムを1秒5更新する2分20秒6で優勝し、賞金3億円を獲得した。国枝栄調教師はジャパンカップ初勝利。クリストフ・ルメール騎手はウオッカに騎乗した2009年以来、2勝目。これで今年のG18勝目で自身の持つ年間記録を更新した。
 昨年の菊花賞馬キセキがよどみのないペースで逃げる中、道中2、3番手につけたアーモンドアイは直線の半ばでキセキを捉え、1馬身4分の3差を付けて快勝した。
 アーモンドアイは桜花賞、オークス、秋華賞の3冠に続きG14勝目。3歳牝馬のジャパンカップ優勝は12年の牝馬3冠のジェンティルドンナ以来、6年ぶり2頭目で、中央競馬史上初のG14連戦・4連勝を飾った。
 売り上げは204億7549万1300円で前年比7.7%減だった。【藤倉聡子】

■アーモンドアイ
 父ロードカナロア、母フサイチパンドラの3歳牝馬。馬主はシルクレーシング。北海道安平町、ノーザンファーム生産。通算7戦6勝、重賞5勝目、G1は4勝目。牝馬の中央競馬G1年間4勝は、2012年のジェンティルドンナ以来2頭目。獲得賞金は7億2022万3000円になり、3歳牝馬では初めて7億円を超えた。
via https://mainichi.jp/articles/20181125/k00/00e/050/190000c





・アーモンドアイ、「2分20秒6の衝撃」に海外メディア驚愕「世界最強馬の地位確立」
■衝撃レコードの圧勝に称賛の嵐「なんて素晴らしい牝馬だ!」
 競馬のG1ジャパンC(東京・芝2400メートル)は25日、C.ルメール騎乗の1番人気アーモンドアイ(牝3、美浦・国枝栄)が断然支持に応えて快勝。2分20分6の衝撃レコードをマークし、12年ジェンティルドンナ以来、史上2頭目の3歳牝馬Vを達成した。2頭の外国馬を蹴散らした圧勝となり、海外メディアに「なんて素晴らしい牝馬だ!」「世界最強馬の地位を確立した」と衝撃が走っている。
 もう日本に敵はいない。そう言わんばかりの圧勝だった。最内枠から好位に取りつき、道中は2、3番手を追走したアーモンドアイ。そして、抜群の手応えで最後の直線に入ると、逃げ粘るキセキをあっさりと交わして先頭に。C.ルメールの手綱に導かれ、後続を寄せ付けることのない、完勝だった。
 しかし、レース内容以上に衝撃的だったのは電光掲示板に表示された勝ちタイムだ。2分20秒6。05年アルカセットがマークした従来の記録を1秒5も更新する驚異のレコードタイムだった。これには海外メディアも驚いた。
 英国の競馬専門チャンネル「at the races」公式ツイッターは「彼女はスペシャル、アーモンドアイが圧巻のスタイルで年上の競走馬を破り、ジャパンカップでレコード更新」、英国の主要レースを統括する「チャンピオンシリーズ」公式ツイッターは「スター牝馬、アーモンドアイが輝かしいスタイルでジャパンカップ勝利。(今年)5戦5勝とする」と速報した。

賛辞続々「世界最強の競走馬としての地位を確立した」
 さらに、海外競馬専門サイト「ワールドホースレーシング」公式ツイッターは「アーモンドアイが記録更新、ジャパンカップで優勝。なんて素晴らしい牝馬なんだ!」と絶賛。豪州競馬専門チャンネル「racing.com」は「若きチャンピオン牝馬であるアーモンドアイは世界最強の競走馬としての地位を確立した。日曜日に東京で開催されたジャパンカップで圧巻の勝利」と伝えた。
 海外では今秋に史上7頭目となるG1凱旋門賞連覇を果たし、史上初の凱旋門賞&BCターフ連勝を達成したエネイブル(牝4)が来年も現役続行を発表したばかり。史上初の凱旋門賞3連覇を目指す歴史的女傑と相まみえることはあるのか。日本の最強牝馬の今後に期待は膨らむばかりだ。
 via https://the-ans.jp/news/44690/


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世界のQueenフレディ・マーキュリーが教えてくれた「多様性」~27年前の今日、世界が泣いた(by猪熊 弘子) はてなブックマーク - 世界のQueenフレディ・マーキュリーが教えてくれた「多様性」~27年前の今日、世界が泣いた(by猪熊 弘子)




イギリスのロックバンド「Queen」のボーカリスト、フレディ・マーキュリーを主人公に描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』を、これまで3度観た。
一度目は学生時代からのコアなクイーンファンの友人が応募して当選した公開直前のプレミア試写会で、二度目はやはり学生時代からさんざん一緒にコンサートに行った別のロックファンの友人がチケットを取っていた「爆音」上映会。そして三度目は中学2年生の双子の息子たちを連れてIMAXの大画面で……という具合だ。
50年以上生きているけれど、映画館で立て続けに3度も同じ映画を観たのは人生で初めてのことだ。しかも毎回泣いてしまった。驚いたのはフレディが亡くなってからずっと後に生まれた中2の息子たちも感動のあまり泣いていたことだ。
ブライアンとロジャーは8年もの歳月をかけて、よくぞここまでしっかりとクイーンの歩みとフレディの人生を映画という美しい芸術に仕立ててくれたと思う。70年代にテープがすり切れるほど重ね録りをしてアルバムを作ったのと同じ熱意をもって映画作りにのぞんだのではないか。
思えば中学1年のときに初めてクイーンの曲に出会い、高校時代から本格的にクイーンを聴き始め、1985年には念願の武道館ライブに行き、今も毎日のようにクイーンの曲を聴きながら生きている。そして、いつの間にか自分がフレディの年を追い越してしまったことに気づき、愕然とするのだ。

「子どもたちが『この人のライブに行きたい』というので、この人はもう死んでしまったんだよと言ったら、子どもが泣いてしまった」――Twitterでそんな内容のつぶやきが流れるほどに、映画『ボヘミアン・ラプソディ』を通して「新しいクイーンファン」が増えている。ボーカルのフレディ・マーキュリーは今から27年前の11月24日に天国へ旅立った。自他ともに認めるコアファンのジャーナリスト、猪熊弘子さんがフレディの魅力を改めて伝える。

■1991年11月24日の悲報
1991年11月24日、あれから27年もの月日が経ったとは思えないほど、今もあの日のことは鮮烈に覚えている。フレディ・マーキュリーが亡くなったというニュースが飛び込んで来たのだ。まさにその前日にフレディ自身がAIDS(後天性免疫不全症候群)であることを告白したことが報じられたばかりだった。
当時、AIDSはまだ不治の病だった。その年の2月に発売された「イニュエンドゥ」のPVで、痩せて形相が変わってしまったフレディの様子を見て、これはただ事ではないとは思っていたけれど……
当時は今のようにインターネットなどはなく、ニュースが世界中にネットで瞬間的に広まるような時代ではなかった。私は自宅で定時のテレビニュースでその知らせを聞いた。そのあとも、、私がクイーンファンであることを知っている記者の友人たちも通信社の配信でフレディ死去の報を得て「フレディが…」と電話をくれた。
「フレディが死んでしまった」
涙がボロボロ流れ落ちた。





たまたま小学生の頃からかわいがっていた愛猫が死んだのが翌日25日で、2つの悲しい別れが続いたことも忘れられない記憶だ。
それから2週間ほど後、私は海外での取材でオーストリアに行った。帰りはロンドン経由だったので、私はオックスフォードストリートのレコード店HMVまで駆けつけて、フレディの追悼本を買いまくった。店内にはフレディの追悼コーナーができていた。
その後、長い長い子育ての時間を経て(実は現在大学生の長女には密かにクイーンの曲に関わりのある名前を付けている)、私が再びロンドンの地に立つことができたのは、2016年9月のことだった。そのとき私は迷わずケンジントンにあるフレディの家を見に行った。フレディが最後を迎えた家だ。
「Love of my life」を捧げたという元恋人のメアリー・オースティンが今でも管理しているというスタジオ付きの家は、地下鉄の駅から10分ほど歩いた住宅街の中にあり、もちろん「豪邸」ではあるが想像していたよりもずっとシックなたたずまいだった。グリーンがかった高く長い壁には、世界中から訪れたのだろうと思われるファンのさまざまな言語での書き込みがたくさんあった。





■ベルばらや原辰徳が人気だったころ
初めてクイーンの曲を聴いたのは、今からちょうど40年前の1978年、中学1年生の時だった。
ちょうどその当時、私の周囲の女子の間では洋楽といえばベイ・シティ・ローラーズが超絶人気で、みんなタータンチェックのグッズや缶バッジを付けていた時代。ほかに『ベルばら』と、現・巨人軍監督の原辰徳氏が巨人入団前から大人気で、私の記憶の中では、ローラーズとオスカルと原選手がごちゃ混ぜになっているくらいだが、その中で鮮やかかつ不思議な印象を残していったのがクイーンだった。
放送委員として給食の時間に当番で校内放送の担当をしていたので、好きな曲をかけることができた。学校にあったLPレコードはクラシックがメインで、洋楽はビートルズのレット・イット・ビーやイエスタデイ、サイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」といった教科書に載っているような曲がほとんどだったが、時には先輩たちが勝手に自分の好きなレコードを持ってきて曲をかけることもあった。そこで聴いたのがクイーンの「キラー・クイーン」だった。
指を鳴らす音からはじまり、メロディアスなピアノと印象的なボーカル、美しいコーラス、そこに重厚なギターの音が絡んでいく楽曲は、それまで一度も聴いたことがないとにかく不思議な印象で、いきなり心を引き付けられた。田舎の小さな中学校の木造平屋建ての古い校舎の真ん中あたりにあったちっぽけな放送室で、私は初めてクイーンに出会ったのだ。

■多様性をフレディから教わった
本格的に聴くようになったのは高校時代だ。田舎の女子高だったが、出会った友人たちがみんなローラーズ以来の強烈な洋楽ファンで、クイーンも彼女たちに教えてもらって聴くようになった。
当時は高校生のお小遣いではそう頻繁にレコードを買えなかったので、誰かがLPを買えばカセットテープにダビングしてもらったり、FM番組を「エアチェック」(録音)したりして聴いていた。『Music Life』を愛読するようになり、東郷かおる子さんのクイーンへのインタビュー記事を読みまくった。
今のようにすぐに動画が見られる時代ではなかったので、東郷さんの書かれる文章を熟読することからクイーン一人ひとりのキャラクターを理解することしかできなかった。たとえばインタビューの主語を「俺」と訳すか「僕」や「私」と訳すかで、読者の受け取り方は随分違って来るはずで、メンバーの個性にあわせて主語からかえていたのだ。
そういう意味では、東郷さんらがクイーンの音楽はもちろん、メンバーの人となりを的確に伝えてくださったことが、私を含む日本中のファンのクイーン愛を育くんでくれたのだろう。
LGBTへの理解についてもそうだ。ゲイの人は音楽界や芸術の世界で珍しいことではないし、むしろその方がカッコイイ、当たり前だよね、みたいな感覚があった。女子高生にも全く抵抗がなかった。フレディの派手なパーティや「愛人」の話はいつもMusic Lifeで読んでいたが、いやだと感じたことが一度もない。
後に84年に発売されたアルバム「The works」に入っている「Break Free」は女装のPVで波紋を呼び、アメリカに御出入り禁止になったのは有名な話だが、私は当時からあのPVが大好きで、友人たちとも何度繰り返し観たかわからない。フレディがザンジバルからの移民であることも同じくMusic Lifeで読んだ。
どこで生まれようと、どんな人であろうと関係ない。素晴らしい音楽を私たちに与えてくれる人が好き、ただそれだけのことだ。多様性を認めることの大切さ。そのスタンスをクイーンから学んだ。
そういえば、フレディはよくMusic Lifeのワースト・ドレッサー賞に輝いていたけれど、あのパッツンパッツンの市松模様タイツや、短パン1丁+首にタオルでステージに出られるのはこの世で(今はあの世でも出ているかもしれないが)フレディしかいない、ということをギャグにしつつも褒め称えていたのだろう。
個人的には70年代の白いヒラヒラのジュディ・オング風の袖が付いた服をフレディとブライアンが着ている姿がいちばん好きだ。70年代の長髪&ヒラヒラの王子様風のクイーンが今もいちばん美しいと思っている。





■いつ解散してもおかしくない時
高校2年の1981年11月には、「グレイテストヒッツ」が発売された。その当時のクイーンには常に解散説がつきまとい、4人もバラバラに活動していて、いつクイーンが解散してもおかしくない状態だった。
来日公演があれば絶対に行きたいと思っていたが、1982年の来日公演はちょうど高校3年で大学受験を控えていたし、東京公演もなく、大学生になったら行こうと諦めた。しかし、無事に大学生になったというのにしばらくクイーンは活動を停止していて、なかなか来日公演はなかった。
ついに手に入れることができたのが、1985年5月の武道館公演のチケットだ。武道館2階のやや東側のスタンドの一列目という最高の席で、高校時代の友人4人で駆けつけた。フレディの声は高音があまりよく出ず、やや辛いものがあったように記憶しているが、それでも生のクイーンの演奏は絶叫ものの感動で、フレディの「レーロ!」に呼応して「レーロ!」と歌ったことは今も忘れられない。
「次も来日したら必ず行こうね!」とみんなで約束したが、その約束は実現しなかった。結局、その時のライブが最後の来日公演になってしまったからだ。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』のラストに出てくるLIVE AIDはあの武道館のライブからわずか2ヵ月後だから、私が熱狂したあの武道館での4人の姿そのものなのだと改めて思うと、また思い出し泣きしてしまいそうだ。
ちなみにLIVE AIDは1985年7月13日に開催された、アフリカ難民救済を目的とした20世紀最大のチャリティーコンサートだ。日本でも中継されたはずだが、なぜか私には当時の思い出がない。午後9時から翌日正午までの放送という長丁場で、いつ誰が出てくるかわからなかったから、見ることができなかったのかもしれない。
先日、ついに完全版のDVDを手に入れて観てみたが、クイーン以外に大好きでよく聴いていたバンドがたくさん出ていて、最後まで楽しめた。しかし、やはりいちばん素晴らしいのはクイーンの20分間だ。超シンプルすぎるステージをあれほど完璧に盛り上げ、スタジアムを興奮の渦に巻き込んだ20分間は、クイーンの最後の大きくていちばん美しい打ち上げ花火だったのだと思う。





■クイーンのメンバーが幸せでいることが幸せ
フレディの死後、ベースのジョン・ディーコンはほぼ音楽活動から引退し、今はロジャーとブライアンだけが「クイーン」の看板を掲げて活動している。2006年には元フリー、バッド・カンパニーのポール・ロジャースをボーカルに迎えて再出発したが、私自身は、ポール・ロジャースのボーカルは受け入れられず、ライブには行かなかった。その後、ボーカルにアダム・ランバートを迎えて「Queen with Adam Lambert」としてライブを開始した。私も2016年10月の武道館ライブには足を運んだ。
個人的には特に大好きだったジョン・ディーコンがいないことが本当に寂しいが、もともとクイーンというバンドはブライアンとロジャーが始めたバンドだったことを思えば、今の2人の活動は、ただ70年代始めに彼らがバンドを始めた時に戻っただけなのかもしれないと思えるようになった。

■「私たちは家族だ」



ブライアンは、2012年10月から毎日のように、インスタグラムやツィッターで投稿を行っている。最近ではそれに刺激を受けたのか、ロジャーもインスタを始めた。つい先日は、ロジャーが自宅の庭に引き取ったフレディの像を見上げて「庭を歩き、旧友に挨拶する(A walk in the garden...saying hello to n old friend)」という投稿をしていて、ジンとしてしまった。大スターのリアルなつぶやきをじかに受け取れる時代が来るとは、フレディが亡くなった27年前には全く想像もしなかった。
ブライアンのつぶやきはロックスターとしてのこともあれば、天文学者としての時、一人の良き夫や父親としての時もある。時には英国政府を批判する政治的な発言や、動物愛護主義者としての呼びかけもある。世界的なロックスターが、大好きな星の話しを夢中でしている様子などを垣間見ることができると、「あぁ、ブライアンが嬉しそうで嬉しい」と優しい気持ちになる。なんとなく、クイーンのファンはみんな、フレディやロジャーをまるで親戚のちょっとイケてるおじさんのように感じているのではないかとこのごろよく思う。
私は今、大学院の博士課程後期に席を置いて博士号を取るために学んでいるが、研究が辛くてくじけそうになったときにはいつもブライアンが2007年にインペリアルカレッジで天文学の博士号を取ったことを思い出すようにしている。ロックスターの道を歩みながらも天文学者の道もあきらめなかったブライアンの生き方に、リアルタイムで励まされている。
もうフレディはこの世にいないけれど、ジョンも表舞台には出てこないけれど、ブライアンとロジャーの生き生きとした姿を見るだけで、毎日、幸せな気持ちになってしまう。この時代に生きていて本当に良かったと心の底から思える。この数年、ますますクイーンが好きになっている。
映画『ボヘミアン・ラプソディ』の中では何度も“We are family.”という言葉が出てくるが、実際、クイーンは一度もメンバーチェンジをせず、お互いを家族として大切にいたわりながらここまで続いてきた。ファンもそんな「家族」として扱って貰っているように感じる。
それぞれ世界の違う場所で違う人生を生きているが、みんなクイーンが好き。それだけで十分に「家族」なのだ。フレディには今もこんなにもたくさんのあなたを愛する「家族」が世界中にいるんだよ、と伝えてあげたいくらいだ。
この原稿を書きながら、ふとクイーンの曲がかかっていることに気づいた。息子たちがクイーンの曲を聴いていた。「胎教」はもちろん、子守唄のようにしょっちゅうクイーンを聴かせていた息子たちは、映画を観て、全ての曲を知っていたので驚いたと言っていた。「家族」には確かにしっかりと次の世代が育っている。
via https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58624


◇賛否両論の『ボヘミアン・ラプソディ』5回見てわかった「ラスト21分」4つのウソ ~映画は嘘をつくから素晴らしいのだ~ (by伊藤 弘了)

 映画は嘘をつく。なぜか。観客に嘘を真実だと思い込ませるためである。映画『ボヘミアン・ラプソディ』(ブライアン・シンガー監督、2018年)はきわめて巧妙にこの逆説を生き抜いている。
 筆者は特別熱心なクイーンのファンというわけではない。正直に言えば、『ボヘミアン・ラプソディ』を鑑賞している間、「聴いたことはあるけれど、これもクイーンの曲だったのか」という体験を何度もした。そして、気がついたときにはすっかりこの映画に夢中になっていた。
 それでは、この映画の何にそれほどの魅力を感じたのか。クイーンの音楽そのものに人を惹きつける魅力があることは言うまでもないだろう。この映画に批判的な見解を示す人の多くも、クイーンの音楽を否定しているわけではない。むしろ、コアなファンほど、史実の改変や脚色を施された映画の物語を問題にしているように思われる。
 一方で、映画は世界中で驚異的な大ヒットを記録している。筆者のほかにもこの映画自体に魅力を感じた観客が膨大にいるのである。
 その魅力の源泉とは何なのか。筆者は映画研究者=批評家である。音楽的な知識には自信がないが、映画のことなら分析できる。というわけで、分析のためにこの映画を劇場で5回見てきた。その結果、ラストに置かれたライヴ・エイドのシーンが実に巧みな「嘘」に基づいて作り上げられていることがわかった。この記事では、クライマックスをなすライヴ・エイドの再現シーンに注目し、観客を取り込むために映画がどのような嘘をついているか、大きく4つにわけて解き明かしていこうと思う。

■宣伝文句「魂に響くラスト21分」がすでにウソ
 ライヴ・エイドのシーンがいかに忠実に再現されているかは、すでに各種宣伝やレヴューでさかんに取り沙汰されている。使われている楽器や衣装はもちろん、会場となったウェンブリー・スタジアムのセットは、ピアノの上に置いてある灰皿や飲み物のカップ類に至るまで緻密に再現されているという。また、フレディ・マーキュリーを演じたラミ・マレックは、優秀なムーヴメント・コーチの助けを借りて、ライヴ当日のフレディの動きを忠実に再演してみせている。SNS上には、じっさいのライヴ・エイドを撮影した映像と映画の該当シーンを比較する動画もアップロードされており、人々はその再現率の高さに文字通り目を奪われている(この動画は現在までに860万回以上再生されている)。
 確かに一見したところ、2つの映像でフレディが見せる動きはよく似ているし、映画がスタジアムやステージまわりの各種小物にまで気を配っていることも窺える。だが、この2つの映像は、いくつかの点で決定的に異なっている。この違いに着目することで、映画の周到な戦略が浮かび上がってくる。
 ライヴ・エイドの「完璧な再現」を売りにするこの映画は、クイーンがステージ上でパフォーマンスを披露した時間がおおよそ21分であったことにちなんで、「魂に響くラスト21分」という惹句を宣伝に用いている。しかし、ここにはすでに大きな「嘘」がある。

■「ラスト21分」実際の時間は...
 映画で描かれるライヴ・エイドのシーンは、じっさいには13分30秒しかない。確かに、ライヴ・エイドの演奏開始からエンディングで流れる2曲までを含めれば20分弱にはなるが、現実にクイーンの行ったステージ上のパフォーマンスが20分弱である以上、それを「完璧に再現」したと言うからには、劇中の対応するシーンの長さを揃えるのが筋だろう。



 ただし、筆者はこの嘘を批判したいわけではない。むしろ肯定的に評価したいのだ。7分以上も鯖を読んでいながら、そのことを指摘するレヴューがほとんど見当たらないのは、映画が成功している何よりの証である(もっとも、劇場にストップウォッチを持ち込んで時間を計りだすのはへそ曲がりな批評家くらいのものだろうが)。ほとんどの観客は、13分30秒の映像を21分のライヴ・パフォーマンスの再現として違和感なく受け入れている。つまり、21分というのは、物理的時間としては嘘でも、観客の生理的時間としては正しいのである。
 それでは、なぜこのような錯覚を与えることが可能になるのだろうか。その鍵を握るのが、再現シーンがついている2つ目の「嘘」である。

■再現シーンに費やされているショットは実際の3倍
『ボヘミアン・ラプソディ』の再現シーンと、じっさいに行われたライヴ・エイドの記録映像の二つ目の違いは、そこで費やされているショットの数である。記録映像(YouTubeでも視聴できる)が21分を175のショットで構成しているのに対して、再現シーンは13分30秒を約360のショットに割っている。使われているショット数に倍以上の違いがあるのだ。しかも、時間としては映画のライヴ・シーンの方が短い。そこで、両者を同じ条件で比較するために、ショットの平均持続時間(ASL=Average Shot Length)を求めてみることにしよう。
 すると、記録映像のASLが7.2秒であるのに対して、再現シーンのASLは2.3秒であることがわかる。ひとつひとつのショットにかけられている時間には平均して3倍以上の開きがあることになる。映画の再現シーンは、“スーパーソニック”な編集をクイーンの音楽と結びつけることで映画のグルーヴを増幅させ、観客に時間的な短さを感じさせないようにしていたのである。
 もちろん、単に短いショットを畳み掛ければ即座に観客に高揚感をもたらすことができるわけではない。それほど単純な話なら、あらゆる映画のASLはもっと短くなっているはずだ。ライヴ・エイドの再現シーンがすぐれているのは、そこに組み入れるショットの選択が絶妙だからである。このシーンには、じっさいのライヴでは撮影できないようなショットが大量に紛れ込んでいる。

■記録映像にはなかったスタジアムの「外」の様子
 それはどのような種類のショットだろうか。もっとも象徴的なのは、会場となったウェンブリー・スタジアムの「外」にいる人々を写したショットである。ショット数で言うと、これが25ほどにのぼる。ライヴの「完璧な再現」を謳うからには、スタジアムの内部(ステージおよび観客席)の映像のみで完結させるのが本来だろう(じっさい、記録映像はすべてスタジアム内のショットで構成されている)。だが、映画はライヴと直接には関係しないはずの映像を取り入れることによって、ライヴの「完璧な再現」を目指しているのだ。



 スタジアムの外の映像としてどのようなものが映し出されているか、その内容を具体的に見ていこう。まず、バーのテレビでライヴを見ている人々を写した一群のショットがある。バーの人々のショットは、スタジアムの観客のショットに織り交ぜられて編集されている。たとえば、「レディオ・ガガ」の演奏場面では、フレディのパフォーマンスに対してスタジアムの観客たちが両手を挙げて応えるが、同様の反応を示すバーの人々のショットがここに挿入されているのである。

■劇中のバーの人々は我々観客を"教育"している
 スタジアムの観客とバーの人々の反応が同じなのであれば、ことさらバーの人々を写す必要はなかったのではないか、と思うかもしれない。しかし、筆者の考えでは、バーの人々を写したショットはこのシーンに絶対に必要なものである。なぜなら、テレビの画面越しにクイーンのパフォーマンスを見ている劇中のバーの人々は、映画のスクリーン越しに同じパフォーマンスに見入っている我々観客の立場そのものだからである。スタジアムで生の演奏を見ている観客と、その様子を見ている映画観客との間にはスクリーンという絶対的な境界線が引かれている。劇中でライヴをテレビ視聴する人々には、スタジアムと映画館を媒介し、映画観客にこの境界を乗り越えさせるための蝶番としての役割が託されているのである。
 あるいは、こう言ってよければ、映画の観客は、スクリーンに映し出される自らの似姿を通して、ライヴのパフォーマンスにどのような反応を示せばいいのかを教育されているのだ。我々は、劇中の観客と同様に、熱狂をもって応えればいいのである。各地で好評を博している本作の「応援上映」は、映画による教育が見事に奏功している証左である。

■「ウィ・ウィル・ロック・ユー」削除 3つ目の「ウソ」の意味
「観客」の問題をもう少し見ていこう。クイーンが「観客との交流」を重視していたことは映画内でも繰り返し強調されている。ライヴ・エイドの再現シーンでは、その「観客」の範囲を映画の観客にまで拡張しようと試みているのである。じっさいのライヴ・エイドで演奏された「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を再現シーンから削除するという劇中の「嘘」は、実はこの読みを裏付けてくれる。
 2度の足踏みと手拍子によって観客のライヴへの参加を可能にした「ウィ・ウィル・ロック・ユー」のパフォーマンスは、劇中でも作曲過程からライヴの成功までを詳しく描き出している。だからこそ、ライヴ・エイドのシーンからはこの曲が削除されたのである(もう一度繰り返すのは蛇足になってしまう)。もちろん、映画の尺の問題はあるだろうが、そこで真っ先に切られたのが「ウィ・ウィル・ロック・ユー」であったことは必然と言っていい。

■「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を埋めたオリジナルシーン
 なぜなら、映画は「ウィ・ウィル・ロック・ユー」を消去する代わりに、フレディの発声による「エーオー」のコール&レスポンスによって「観客との交流」というテーマを十分に展開しているからである。もちろん、このパフォーマンス自体はじっさいのライヴ・エイドでも行われているが、映画はこのパフォーマンスを劇中のほかのシーンと連関させているのである。劇中で「ウィ・ウィル・ロック・ユー」をライヴ演奏した際、フレディは最後にこのコール&レスポンスのパフォーマンスを短く2度だけ行なっている。
 この「エーオー」は、フレディがエイズの診断を下された際、廊下ですれ違った別の患者(おそらくはフレディのファン)の呼びかけに応えるという形で変奏されてあらわれる(これは映画オリジナルのシーンである)。最後のライヴ・エイドのシーンでフレディが見せる圧巻の「エーオー」は、直前に置かれたこのささやかなコール&レスポンスを大掛かりに反復したものなのである。エイズの告知シーンでファンからの呼びかけに小さく応えたフレディが、今度はファンに向けて全身全霊のパフォーマンスで呼びかける側にまわっているのだ。

■"民主主義的な"ショット配分 4つ目の「ウソ」の意味
 映画が「観客との交流」と並んで重要視しているのが「家族の物語」である。全篇の集大成とも言うべきライヴ・エイドのシーンでこのテーマを打ち出すために、映画は4つ目の「嘘」をついている。それはまず「バンドは家族」であることを映像的に示すところから始められる。このシーンは、ウェンブリー・スタジアム全体を見下ろすカメラが、超満員の観客の上を舐めるように滑っていき、ステージ上でピアノを奏でるフレディの顔のクロースアップを捉えるまでをひと続きに収めた華麗なショットによって幕を開ける。
 フレディのクロースアップに続いて映し出されるのは、クイーンのメンバーであるジョン・ディーコン(ジョー・マッゼロ)、ロジャー・テイラー(ベン・ハーディ)、ブライアン・メイ(グウィリム・リー)をそれぞれ単独で捉えたショットである。このあと、再びフレディのショットに戻って、今度はブライアン、ロジャー、(間にもう1度フレディを挟んで)ジョンの順に再びメンバーのショットが続く。このきわめて「民主主義的」なショット配分は映画独自のものであり(記録映像のカメラはもっぱらフレディを追い続けている)、バンド=家族の対等な関係性を示唆している。
 映画のカメラはバンドのメンバー以外にも向けられる。ライヴ・エイドのシーンには、ステージ脇からパフォーマンスを見守るフレディの元恋人メアリー・オースティン(ルーシー・ボイントン)と“友人”のジム・ハットン(アーロン・マカスカー)、マネージャーの“マイアミ”・ビーチ(トム・ホランダー)を捉えたショットが複数回にわたって挿入されている。彼らも広い意味でフレディの家族と言うべき存在であり、このシーンは彼/彼女たちをきちんと物語化して提示している。

■なぜクイーン演奏中に寄付が集まったように見せたのか?
 もちろん、映画はフレディと実の家族とのつながりを強調することも忘れない。このシーンには、自宅のテレビでライヴの様子を見ているフレディの家族のショットも挿入されている。とりわけ母親の存在は重要である。ライヴの直前にジム・ハットンとともに実家を訪れたフレディは、その帰り際に「ステージからママに投げキスを送る」と約束しており、映画ではじっさいにそれが果たされている。ライヴの最後の曲である「伝説のチャンピオン」を歌い終えたフレディは、観客席=カメラに向かって投げキスを飛ばす。すると、画面はそれを受けとめる母親のショットに切り返されるのである。母親はその場にはいないので、これは映像のうえでだけ成り立つ偽の切り返しである。このショット編集の妙によって、映画の観客にはフレディと母親の「交流」が成就したことが理解されることになる。
 また、ライヴ・エイドが目標としていた100万ポンドの寄付が集まったのがクイーンの「ハマー・トゥ・フォール」演奏中であったかのように描かれている点も、ひそかに家族のテーマと通じている。このチャリティ・コンサートが掲げる「アフリカ救済」という大義は、やはり直前のシーンでフレディと父親の会話を通して強調されていた。フレディは、父親が息子に望んでいた「善き思い、善き言葉、善き行い」を見事に実践することで、その期待に応えてみせたのである。(※)

■『ボヘミアン・ラプソディ』は再現ではなく、映画的勝利
 ここまで見てきたように、ライヴ・エイドのシーンは、「完璧な再現」などではまったくない。このシーンには映画的な潤色がふんだんに施されており、劇中で展開されたテーマや伏線を回収する場として効果的に機能している。これによって、観客は物語世界への没入を強力に促され、満足感を得ることができる(同時にクイーンのコアなファンや批評家たちはこの物語に乗り切れなかったと考えられる)。だからこそ、このラスト・シーンは多くの観客に「完璧な再現」という虚構を信じ込ませることができたのである。これを見事な映画的“勝利”と言わずして何と言おうか。
「交流」や「家族」というテーマに即してシーンの細部を検討してきたが、これら以外にも、映画にしか見られないショットがいくつか存在する。たとえば、「ボヘミアン・ラプソディ」のシングル・カットに強硬に反対した音楽会社の社長(マイク・マイヤーズ)のショットが差し挟まれている。社長の読みとは裏腹に、「ボヘミアン・ラプソディ」は大成功を収め、クイーンは世界的なロックバンドへと成長していった。しかし、鳴り響く電話のベルを無視して憮然とした表情を浮かべているかに見える社長は、実はひそかにそのような事態を喜んでいるのかもしれない(周知の通り、社長役のマイヤーズ自身はクイーンの大ファンである)。
via http://bunshun.jp/articles/-/9782


◆映画『ボヘミアン・ラプソディ』予告




◆Queen Perform Live at LIVE AID on 13 July 1985 [ORIGINAL]


・クイーン (バンド) -:Wikipedia

・クイーン、フレディ・マーキュリーの知られざる10の真実
 https://rollingstonejapan.com/articles/detail/29438

・映画『ボヘミアン・ラプソディ』、そして1991年のブライアン・メイのインタビュー記事を題材にたどる史実との相違 
http://d.hatena.ne.jp/yomoyomo/20181125/bohemianrhapsody
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2025年 大阪万博が決定、55年ぶり2回目 はてなブックマーク - 2025年 大阪万博が決定、55年ぶり2回目


2025年国際博覧会(万博)の開催国を決める博覧会国際事務局(BIE)総会が23日、パリで開かれ、日本時間24日未明に行われた加盟各国の投票で日本(大阪)が選ばれた。大規模な万博としては05年の愛知以来で、大阪では1970年以来55年ぶりの開催となる。過去の万博の開催実績や運営能力の高さなどが評価され、3カ国による争いを制した。
立候補したのは日本のほか、ロシア(エカテリンブルク)、アゼルバイジャン(バクー)。BIEに加盟する170カ国のうち、分担金を支払った156カ国が無記名で投票。日本は1回目の投票で85票を集めて1位通過し、ロシアとの決選投票で過半数の92票を獲得した。
政府は25年万博の経済効果を全国で約2兆円と試算し、20年東京五輪・パラリンピック後の日本の景気浮揚策に位置付ける。大阪府・市は万博に合わせて会場となる大阪湾の人工島・夢洲(ゆめしま)でカジノを含む統合型リゾート(IR)の開業も目指しており、今後、地下鉄延伸や湾岸エリアの再開発などインフラ整備が加速しそうだ。
25年万博のテーマは「いのち輝く未来社会のデザイン」。人工知能(AI)や仮想現実(VR)などを体験できる「最先端技術の実験場」にするコンセプトを掲げる。150カ国の参加を見込み、5月3日~11月3日の185日間で国内外から約2800万人の来場を想定。会場建設費の約1250億円は国、府・市、経済界が3分の1ずつ負担するとしている。今後の課題は、民間資金の確保だ。
日本は25年万博の誘致に当たり、経団連の榊原定征名誉会長が誘致委員会会長に就任。17年4月にBIEに立候補を届け出て以降、政府、府・市、関西経済界を含めたオールジャパン体制で誘致活動に取り組み、100カ国以上の政府関係者に直接支援を求めた。地理的に近いアジアや日系人コミュニティーがある中南米などの票を手堅くまとめたほか、大票田のアフリカや欧州各国からも一定の支持を得た。
ライバルの2カ国はいずれも「初開催」を売り込んだ。20年万博の誘致に敗れたロシアはプーチン大統領が先頭に立ち、14年冬季五輪や18年サッカーワールドカップ(W杯)など国際イベントの実績を強調。イスラム教国のアゼルバイジャンは宗教、文化面で関係の深い中東諸国などを中心に支持を広げたが、ともに敗れた。[2018.11.24]
via https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38137170U8A121C1SHA000/


2025年の万博が大阪で開催されることが決まりました。大阪で大型の万博が開催されるのは、55年ぶり2回目です。
2025年の万博の開催地には、大阪とアゼルバイジャンのバクー、ロシアのエカテリンブルクが立候補し、日本時間の23日夜、パリで開かれたBIE=博覧会国際事務局の総会で、最後のプレゼンテーションが行われました。
大阪のプレゼンテーションでは、大阪や関西の食や歴史などの魅力をアピールしたほか、安倍総理大臣がビデオで、「大阪、関西、日本中の人たちが皆さんをお迎えし、一緒に活動することを楽しみにしている。成功は約束されている」と英語のメッセージを寄せました。
このあと、156の加盟国の代表による投票が行われ、大阪がトップになりましたが、当選に必要な投票総数の3分の2に達しなかったため、2位のエカテリンブルクとの間で決選投票が行われました。
その結果、大阪が92票、エカテリンブルクが61票で、大阪が2025年の万博の開催地に決まりました。
会場の控え室で投票を見守っていた大阪府の松井知事や大阪市の吉村市長らは、開催地に決まったことが伝えられると喜び合っていました。
大阪で大型の万博が開催されるのは、1970年以来、55年ぶり2回目です。また、日本での万博の開催は、2005年に愛知県で開かれた「愛・地球博」以来、20年ぶりです。
松井知事は、「2度目の万博は、これまでの常識を打ち破る、世界の課題の解決を実現する万博にしたい。オールジャパン体制ならできると信じている」と述べました。
万博会場の建設費は約1250億円と見込まれ、国と地元自治体、経済界が3分の1ずつ負担することになっています。大阪府と大阪市は今後、経済界などと新たな組織を立ち上げ、開催に向けた準備を進めることにしています。

■大阪なぜ勝った?
万博の開催地に決まった大阪は、政府や自治体、経済界の働きかけに加え、途上国などへの参加費用の支援も整えたことで、支持を集めたものとみられます。
2025年の万博誘致をめぐっては、当初有力とされていたフランスのパリ郊外のサクレーが、ことし2月に立候補を取り下げ、大阪に加えて、ロシアのエカテリンブルク、アゼルバイジャンのバクーの三つどもえの争いになりました。
大阪は「いのち輝く未来社会のデザイン」をテーマに、医療や人工知能など日本の先進技術をとりあげ、世界の課題の解決につなげるとアピールしました。
日本は閣僚をはじめ、大阪府や大阪市、それに経済界の幹部も、BIE=博覧会国際事務局の加盟国170か国に対し、支持を働きかけてきました。
また、BIE加盟国の半分近くをアフリカや中南米の国々が占めていることから、これら途上国の支持の獲得もカギとなりました。
日本政府はことし6月、途上国を中心におよそ100か国に対して万博への参加費用として総額2億1800万ドル(約240億円)の支援を表明します。
こうした取り組みによって、イギリスなどが大阪への支持を表明したほか、アジア各国をはじめ、アフリカなどの途上国にも支持を広げたものとみられます。
また、万博に携わる各国の担当者は、半年程度、滞在することになりますが、周辺に京都などの観光地や食事の環境などが整っていることが評価されたという見方もあります。
終盤まで各国に働きかけ
2025年の万博の大阪への招致に向けて、政府は、さまざまな形で、BIE=博覧会国際事務局の加盟国に支持を呼びかけてきました。
外務省は去年、大阪の立候補を届け出たあと、加盟国政府に万博のコンセプトなどを説明し、働きかけを強化するよう、各国の大使館に指示。さらに、安倍総理大臣や河野外務大臣らが、加盟国の要人と会談する際には、繰り返し支持を要請してきました。
外務省によりますと、共同声明などで大阪の支持を表明した国は17か国にのぼり、公表しないまでも支持する方針を伝えてきた国は相当数に上っていたということです。
さらに、いずれの都市も3分の2以上の票を獲得できず、決選投票になることも想定し、2回目の投票でも、大阪を支持するよう最終盤まで働きかけを続けていたということです。

■首相「オールジャパンの体制で取り組む」
大阪での開催が決まったことを受け、安倍総理大臣はコメントを発表しました。
この中で、安倍総理大臣は「日本が開催地として選ばれたことを大変うれしく思います。きょうに至るまで、地元自治体、経済界、国会議員など関係者の皆様が、まさにオールジャパンで、献身的に誘致に取り組んでこられた結果であり、心から敬意を表します。また、日本を支持してくれた国々の友情と連帯にも心より感謝します」としています。
そのうえで、「大阪・関西の地で世界中の人々に『夢』や『驚き』を与えるようなすばらしい万博を実現するため、引き続き、大阪・関西の皆様をはじめ、オールジャパンの体制で全力で取り組んでいきます。国際博覧会の開催は、日本の魅力を世界に発信する絶好の機会でもあります。開催地のみならず、わが国を訪れる観光客が増大し、地域経済が活性化する『起爆剤』になると確信しています」としています。

■松井知事「これまでの常識打ち破る万博に」
大阪府の松井知事は、記者会見で「誘致活動を支えてくれたすべての皆さんに感謝申し上げる。1970年の万博のころ、大阪・関西は非常に輝いていたが、その後、東京への一極集中で注目を浴びない、どちらかというと悪いイメージが続いた。そうした状況を何としても変えなければならない、変えることが日本への貢献になると考えていた」と述べました。
そのうえで、「2度目の万博は、これまでの常識を打ち破る、世界の課題の解決を実現する万博にしたい。オールジャパン体制ならできると信じている」と述べました。

■大阪市長「会場予定地をエンタメの拠点に」
大阪市の吉村市長は記者会見で、「会場予定地の夢洲は、大阪にオリンピックを誘致して選手村にしようとしたが、失敗した。今回の万博の誘致も、また同じようになるのではないかというプレッシャーの中で戦ってきた。夢洲は、エンターテインメントの拠点にしたい」と述べました。

■世耕経産相「一体となって活動した成果」
世耕経済産業大臣は、記者団に対し「応援に感謝したい。政府、地元の大阪、関西、経済界一体となって活動した成果だ。みんなのためのエキスポを開催できるよう、重責を果たしていきたい」と述べました。
経団連 榊原名誉会長「これからが本番だ」
2025年の万博の開催地が大阪に決まったことについて、経団連の榊原名誉会長は、記者会見で、「われわれが進める新しい未来社会の姿や持続可能な開発目標のフロントランナーとして世界の人に知ってもらえる万博になるよう、2025年に向けてこれからが本番だ」と述べました。また、万博の会場建設費の負担について榊原名誉会長は「経済界、国、府・市とよく相談しながら、具体的な方策を考える」と述べました。

■ダウンタウン「素晴らしい!」
万博誘致のアンバサダーを務めるダウンタウンの松本人志さんは「素晴らしい!皆様の地道な努力の結果だと思います。ダウンタウンは何もしておりません 特に浜田(笑)」とコメントし、浜田雅功さんは「素晴らしい!皆様の地道な努力の結果だと思います。ダウンタウンは何もしておりません 特に松本(笑)」とコメントしています。

■道頓堀でも歓喜の声



大阪・ミナミの道頓堀では、集まった人たちが歓声をあげて喜び、くす玉を割って、万博の開催地に決まったことを祝いました。
イベントを主催した実行委員会の上山勝也委員長は「よりよいミナミのまちづくりに励み、大阪万博を大成功させたいと思います」と話していました。
イベントに参加した40代男性は「前回の万博は0歳の時だったので、改めて大阪で開催されることが本当にうれしいです。ぜひ見に行って目に焼きつけ、生涯の思い出にしたいです」と話していました。
また、職場の仲間3人で訪れた30代男性は「前回の大阪万博のように、未来を見せてほしいです。楽しみです」と話していました。
via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181124/k10011721711000.html






※1970年の大阪万博

・2025年大阪万博が開催決定!「大阪無双」が止まらない
 https://matome.naver.jp/odai/2154299938454059001
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[図書] 平成の年間ベストセラーを振り返る はてなブックマーク - [図書] 平成の年間ベストセラーを振り返る

■1989(平成元)年
フィクション
・第1位『TUGUMI』(吉本ばなな/中央公論新社)
・第2位『キッチン』(吉本ばなな/ベネッセコーポレーション)
・第3位『栗良平作品集(2)一杯のかけそば・ケン坊とサンタクロース』(栗良平/日本ビジネスネット)

ノンフィクション
・第1位『すぐわかる図解版 消費税 こうやればいい』(山本雄二郎/青春出版社)
・第2位『消費税 実務と対策はこうする』(山本守之/日本実業出版社)
・第3位『人麻呂の暗号』(藤村由加/新潮社)

■1990(平成2)年
フィクション
・第1位『真夜中は別の顔(上・下)』(シドニィ・シェルダン/アカデミー出版)
・第2位『うたかた(上・下)』(渡辺淳一/講談社)
・第3位『TVピープル』(村上春樹/文藝春秋)

ノンフィクション
・第1位『愛される理由』(二谷友里恵/朝日新聞出版)
・第2位『「NO」と言える日本』(盛田昭夫、石原慎太郎/光文社)
・第3位『「1998年日本崩壊」エドガー・ケーシーの大予告』(五島勉/青春出版社)

■1991(平成3)年
フィクション
・第1位『血族(上・下)』(シドニィ・シェルダン/アカデミー出版)
・第2位『時間の砂(上・下)』(シドニィ・シェルダン/アカデミー出版)
・第3位『大地の子(上・中・下)』(山崎豊子/文藝春秋)

ノンフィクション
・第1位『Santa Fe 宮沢りえ』(篠山紀信/朝日出版社)
・第2位『もものかんづめ』(さくらももこ/集英社)
・第3位『ノストラダムス戦慄の啓示』(大川隆法/幸福の科学出版)

■1992(平成4)年
フィクション
・第1位『明け方の夢(上・下)』(シドニィ・シェルダン/アカデミー出版)
・第2位『国境の南、太陽の西』(村上春樹/講談社)
・第3位『真夜中は別の顔(上・下)』(シドニィ・シェルダン/アカデミー出版)

ノンフィクション
・第1位『それいけ×ココロジー(レベル1・2・3)』(それいけ!!ココロジー編/青春出版社)
・第2位『さるのこしかけ』(さくらももこ/集英社)
・第3位『わが友 本田宗一郎』(井深大/ごま書房新社)

■1993(平成5)年(※1992年まで「フィクション」「ノンフィクション」の2部門で発表。1993年に「総合」が新設)
・第1位『人間革命(12)』(池田大作/聖教新聞社)
・第2位『磯野家の謎』(東京サザエさん学会/飛鳥新社)
・第3位『マディソン郡の橋』(ロバート・ジェームズ・ウォラー/文藝春秋)

■1994(平成6)年
・第1位『日本をダメにした九人の政治家』(浜田幸一/講談社)
・第2位『大往生』(永六輔/岩波書店)
・第3位『マディソン郡の橋』(ロバート・ジェームズ・ウォラー/文藝春秋)

■1995(平成7)年
・第1位『松本』(松本人志/朝日新聞出版)
・第2位『ソフィーの世界』(ヨースタイン・ゴルデル/NHK出版)
・第3位『フォレスト・ガンプ』(ウィンストン・グルーム/講談社)

■1996(平成8)年
・第1位『脳内革命(1・2)』(春山茂雄/サンマーク出版)
・第2位『神々の指紋(上・下)』(グラハム・ハンコック/翔泳社)
・第3位『「超」勉強法』(野口悠紀雄/講談社)

■1997(平成9)年
・第1位『失楽園(上・下)』(渡辺淳一/講談社)
・第2位『ビストロスマップ 完全レシピ』(扶桑社)
・第3位『母の詩(うた)』(池田大作/聖教新聞社)

■1998(平成10)年
・第1位『新・人間革命(1・2・3)』(池田大作/聖教新聞社)
・第2位『ビストロスマップ KANTANレシピ』(扶桑社)
・第3位『ダディ』(郷ひろみ/幻冬舎)

■「ばなな現象」で幕を開けた平成
日本で初めて消費税3%が導入された1989(平成元)年。出版業界の平成は、吉本ばななブームで幕を開けました。
今回の記事ではトップ3のみ紹介していますが、同年の年間ベストセラーではフィクション第1位の『TUGUMI』、第2位の『キッチン』を含め、フィクション・ノンフィクションあわせて吉本ばなな作品計6作がトップ10にランクイン。1人の著者の作品がこれほど上位に名を連ねることは、これ以降、現在発表されている平成29年の年間ベストセラーまでありません。当時マスコミの間では、「ばなな現象」という言葉が飛び交いました。
なお当時の吉本ばななファンは、多くが若い女性たち。やはり「ブームは女性から」のようです。

■続いて起きた「シドニィ・シェルダン現象」
「ばなな現象」が落ち着きを見せた頃、「シドニィ・シェルダン現象」という言葉が生まれます。
シドニィ・シェルダン氏は、『顔』でデビューしたアメリカの小説家。第2作『真夜中は別の顔』の邦訳版が1990年に刊行され、同氏はその年から3年連続でフィクション部門第1位を獲得しました。
1992(平成4)年に発売された『明け方の夢』も、村上春樹氏の『国境の南、太陽の西』を抑え、同年の年間ベストセラーフィクション部門第1位に。海外文学がこれほど多くの日本人に愛されることは、めったにありません。
映画化・ドラマ化された作品も多く、日本では浅野ゆう子さん主演の「血族」、中谷美紀さん主演の「ゲームの達人」「女医」などがよく知られています。

■今もなお“衝撃の写真集”として語り継がれる『Santa Fe』
1991(平成3)年のノンフィクション部門第1位は『Santa Fe』。当時人気絶頂だった宮沢りえ氏のヌード写真集です。
累計発行部数は165万部。近年でもっとも売れた写真集は、乃木坂46 白石麻衣氏の写真集『パスポート』(32万部)であり、『Santa Fe』の165万部はまさに驚異的。歴代第1位の記録として、今なお君臨しています。
今年8月に亡くなったさくらももこ氏の初エッセイ、『もものかんづめ』が発売されたのもこの年。同作は、『Santa Fe』に次いでノンフィクション部門第2位となりました。
ちなみに前年の1990(平成2)年には、「ちびまる子ちゃん(現象)」が新語・流行語大賞の流行語部門金賞に選ばれています。

■ノンフィクション作品の首位獲得が続く
1993(平成5)年、Jリーグの開幕と同年に、年間ベストセラーでは発表ジャンルが追加され、それにともない「総合ランキング」が新設されました。以降の3年間は、ノンフィクション作品が総合第1位を続けて獲得しています。
そして1995(平成7)年に起こったのが、阪神・淡路大震災、そして地下鉄サリン事件。
この年の総合第1位は、当時人気絶頂のお笑い芸人・ダウンタウン松本人志氏の著書『松本』。200万部突破のベストセラー『遺書』の続編にあたる作品で、この2冊は1997(平成9)年に『「松本」の「遺書」』のタイトルで文庫本にまとめられています。
また同年には、Windows 95の発売が世間を賑わせました。
それ以降パソコンの大衆化が進み、総合ランキングには入っていないものの『パソコン「超」仕事法』や『手にとるようにインターネットがわかる本』といったパソコン関連本がよく売れました。

■『失楽園』が空前の大ヒット
総合ランキング開設後、ノンフィクション作品の首位獲得が続いていた年間ベストセラー。初めて第1位を獲得したフィクション作品は、1997(平成9)年に刊行された『失楽園』でした。
『失楽園』は、渡辺淳一氏による“大人の不倫”を描いた恋愛小説。同作は発行部数300万部を突破、役所広司氏・黒木瞳氏主演による映画も大ヒットし、不倫することを「失楽園する」と言うまでになりました。
1998(平成10)年には『新・人間革命』の刊行が始まり、同作が総合第1位を獲得します。
ちなみに著者・池田大作氏は、1993(平成5)年の『人間革命』第12巻以来の首位獲得。平成の年間ベストセラーにおいて、総合第1位を複数回獲った著者は、氏を含めて3名います。あと2名については次回以降で発表しますのでお楽しみに。

■国民的アイドル「SMAP」の勢い
1997(平成9)年、1998(平成10)年において見逃せないのが、SMAPの存在。首位獲得とはなりませんでしたが、『ビストロスマップ 完全レシピ』『ビストロスマップ KANTANレシピ』がそれぞれの年で総合第2位にランクインしています。
CD売上がピークを迎え、「CDバブル絶頂期」といわれたのが1998年。この年、SMAPは「夜空ノムコウ」でオリコン年間シングルCDランキング第2位を獲得しています(第1位はGLAYの「誘惑」)。
via http://hon-hikidashi.jp/more/66413/


■1999年
・第1位『五体不満足』(乙武洋匡/講談社)
・第2位『ファイナルファンタジーVIII アルティマニア』(スタジオベントスタッフ編/デジキュー)
・第3位『日本語練習帳』(大野晋/岩波書店)

■2000年
・第1位『だから、あなたも生きぬいて』(大平光代/講談社)
・第2位『ハリー・ポッターと賢者の石』『〃 秘密の部屋』(J.K.ローリング/静山社)
・第3位『太陽の法 エル・カンターレへの道』(大川隆法/幸福の科学出版)

■2001年
・第1位『チーズはどこへ消えた?』(スペンサー・ジョンソン/扶桑社)
・第2位『ハリー・ポッターと賢者の石』『〃 秘密の部屋』『〃 アズカバンの囚人』(J.K.ローリング/静山社)
・第3位『奇跡の法』(大川隆法/幸福の科学出版)

■2002年
・第1位『ハリー・ポッターと賢者の石』『〃 秘密の部屋』『〃 アズカバンの囚人』『〃 炎のゴブレット』(J.K.ローリング/静山社)
・第2位『ビッグ・ファット・キャットの世界一簡単な英語の本』(向山淳子、向山貴彦/幻冬舎)
・第3位『生きかた上手』(日野原重明/ユーリーグ)

■2003年
・第1位『バカの壁』(養老孟司/新潮社)
・第2位『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一/小学館)
・第3位『トリビアの泉』(フジテレビ トリビア普及委員会/講談社)

■2004年
・第1位『ハリー・ポッターと不死鳥の騎士団』(J.K.ローリング/静山社)
・第2位『世界の中心で、愛をさけぶ』(片山恭一/小学館)
・第3位『バカの壁』(養老孟司/新潮社)

■2005年
・第1位『頭がいい人、悪い人の話し方』(樋口裕一/PHP研究所)
・第2位『香峯子抄』(主婦の友社/主婦の友社)
・第3位『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』(山田真哉/光文社)

■2006年
・第1位『国家の品格』(藤原正彦/新潮社)
・第2位『ハリー・ポッターと謎のプリンス』(J.K.ローリング/静山社)
・第3位『東京タワー』(リリー・フランキー/扶桑社)

■2007年
・第1位『女性の品格』(坂東眞理子/PHP研究所)
・第2位『ホームレス中学生』(田村裕/ワニブックス)
・第3位『鈍感力』(渡辺淳一/集英社)

■2008年
・第1位『ハリー・ポッターと死の秘宝』(J.K.ローリング/静山社)
・第2位『夢をかなえるゾウ』(水野敬也/飛鳥新社)
・第3位『B型自分の説明書』(Jamais Jamais/文芸社)

■最年少で総合1位を獲得した『五体不満足』 当時は大学生
世界に先駆け、携帯電話のインターネット接続サービスが開始された1999(平成11)年。この年の総合第1位は、乙武洋匡さんの『五体不満足』が獲得しました。
『五体不満足』は、「先天性四肢切断」という障害をもって生まれた自身の半生を綴った一冊。「障害は不便です。しかし、不幸ではありません」という言葉にもあらわれていますが、乙武さんの前向きな姿勢は、多くの読者の心を打ちました。
刊行当時、乙武さんは早稲田大学在学中。平成の年間ベストセラー史上、最年少での総合第1位獲得です。

■激動のドキュメンタリーが大ヒット、そしてハリポタブーム到来
2000(平成12)年に大ヒットを記録したのが、『だから、あなたも生きぬいて』。暴力団組長の妻から一念発起し弁護士となった大平光代さんの自叙伝で、その壮絶な半生が世間を驚かすとともに、力強いメッセージで多くの人に勇気をもたらしました。
「ハリー・ポッター」シリーズがランクインし始めたのもこの頃。2001年には映画が公開され、国内に“ハリポタブーム”が到来します。
当時「ハリー・ポッター」に出合ったことで、読書が好きになったという人も少なくないはず。「物語を読む楽しさ」を知る入り口になった、偉大な作品です。
なお同シリーズは、日本がベッカムフィーバーに沸いた2002(平成14)年、ついに第1位に輝きます。平成の年間ベストセラー史上、児童書シリーズが総合第1位を獲得するのはこれのみです。

■21世紀に突入 『チーズはどこへ消えた?』がブームに
21世紀に入って最初の第1位は、『チーズはどこへ消えた?』。
普遍的で、子どもから大人まで読めるやさしい内容ではありますが、IBMやアップル・コンピュータ(現アップル)といった名だたる大企業が社員教育のテキストに採用したことで、“ビジネスマン必携の書”としても注目を集めました。
ちなみに、それから15年後の2016年、『チーズはどこへ消えた?』に再ブームが訪れます。
きっかけは、プロ野球の大谷翔平選手がインタビューで『チーズはどこへ消えた?』を愛読書に挙げたこと。大谷選手の人気もさることながら、これはやはり、時代が変わっても色あせない作品自体の力があればこそ。名著とは、“求められる時代”が繰り返し訪れるものなのかもしれません。

■『バカの壁』から始まった第四次新書ブーム
2003(平成15)年には、東京大学名誉教授をつとめる解剖学者・養老孟司さんの『バカの壁』が首位を獲得し、“第四次新書ブーム”が幕を開けます。
2005年からは3年連続で新書が総合第1位を獲得。特に2005(平成17)年は、第1位に『頭がいい人、悪い人の話し方』、第3位に『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』と、トップ3に新書が2作ランクインしました。
そのなかでも、前述した『バカの壁』の売れ行きは群を抜いており、刊行された2003年4月から53週連続で週間ベストセラー(新書ノンフィクション部門)第1位を獲得。それにストップをかけたのは、2004年4月に発売された同じく養老孟司さんの新書『死の壁』でした。
このときのブームを受け、2008年に「新書大賞」が創設されています(主催:中央公論新社)。

■「ハリー・ポッター」シリーズ堂々完結
2008(平成20)年7月には、「ハリー・ポッター」シリーズの第7作にして完結巻『ハリー・ポッターと死の秘宝』が発売されました。
シリーズ第1作『ハリー・ポッターと賢者の石』の発売から9年。ハリポタブーム当時小学校高学年だった子どもがちょうど成人を迎える頃でしたが、この年の年間ベストセラーで堂々の第1位を獲得し、いかに多くのファンに愛されてきたかを見せつけました。
「ハリー・ポッター」シリーズの首位獲得は、2002(平成14)年、2004(平成16)年に続き3度目。前回の記事で「総合第1位を複数獲得した著者が3名いる」と紹介しましたが、J.K.ローリングさんがそのうちの1人です。
 via http://hon-hikidashi.jp/more/66844/


■2009(平成21)年
・第1位『1Q84(1・2)』(村上春樹/新潮社)
・第2位『読めそうで読めない間違いやすい漢字』(出口宗和/二見書房)
・第3位『ドラゴンクエストⅨ 星空の守り人 大冒険プレイヤーズガイド』(Vジャンプ編集部/集英社)

■2010(平成22)年
・第1位『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(岩崎夏海/ダイヤモンド社)
・第2位『巻くだけダイエット』(山本千尋/幻冬舎)
・第3位『1Q84(3)』(村上春樹/新潮社)

■2011(平成23)年
・第1位『謎解きはディナーのあとで(1・2)』(東川篤哉/小学館)
・第2位『体脂肪計タニタの社員食堂』(タニタ/大和書房)
・第3位『心を整える。』(長谷部誠/幻冬舎)

■2012(平成24)年
・第1位『聞く力』(阿川佐和子/文藝春秋)
・第2位『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子/幻冬舎)
・第3位『新・人間革命(24)』(池田大作/聖教新聞社)

■2013(平成25)年
・第1位『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(村上春樹/文藝春秋)
・第2位『医者に殺されない47の心得』(近藤誠/アスコム)
・第3位『聞く力』(阿川佐和子/文藝春秋)

■2014(平成26)年
・第1位『長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい』(槙孝子/アスコム)
・第2位『人生はニャンとかなる!』(水野敬也/文響社)
・第3位『銀翼のイカロス』(池井戸潤/ダイヤモンド社)

■2015(平成27)年
・第1位『火花』(又吉直樹/文藝春秋)
・第2位『フランス人は10着しか服を持たない』(ジェニファー・L・スコット、神崎朗子訳/大和書房)
・第3位『家族という病』(下重暁子/)

■2016(平成28)年
・第1位『天才』(石原慎太郎/幻冬舎)
・第2位『おやすみ、ロジャー』(カール=ヨハン・エリーン/飛鳥新社)
・第3位『ハリー・ポッターと呪いの子 第一部・第二部 特別リハーサル版』(J.K.ローリング、ジョン・ティファニーほか/静山社)

■2017(平成29)年
・第1位『九十歳。何がめでたい』(佐藤愛子/小学館)
・第2位『ざんねんないきもの事典』(下間文恵ほか/高橋書店)
・第3位『蜜蜂と遠雷』(恩田陸/幻冬舎)

■12年ぶりに国内小説が第1位
民主党が圧勝し、「政権交代」が新語・流行語大賞を獲得した2009(平成21)年、この年の第1位を獲ったのは、村上春樹さんの『1Q84』でした(※第1巻・第2巻)。

■国内小説の首位獲得は、1997(平成9)年の『失楽園』以来12年ぶり。
発売まで内容が明かされておらず、タイトルも内容を想像しがたい一風変わったもの。それによって読者の期待がいっそう膨らみ、発売日当日に爆発、発売直後から品薄状態が続いたことで、さらに話題は大きくなりました。
約1年後の第3巻発売時には、営業時間を変更して深夜・早朝から販売する書店が現れるなどし、この傾向は近年まで続くこととなります。

■「もしドラ」ブーム
「もしドラ」という言葉に聞き覚えのある方は多いはず。
これは2010(平成22)年に第1位を獲得した『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』の略で、経営学者の名著をわかりやすい設定で、小説として描いた一冊です。
その内容は、「急きょ野球部のマネージャーをつとめることになった女子高生が、ドラッカーの『マネジメント』をもとに部員を甲子園へ導く」というもの。同作のヒットをきっかけに、日本では“ドラッカーブーム”が巻き起こりました。
出版元のダイヤモンド社では、同書が創業以来初のミリオンセラー。漫画・TVアニメ・映画とさまざまに展開された「もしドラ」は現在も発行部数歴代第1位の座に君臨しており、また、同作に主人公の愛読書として登場する『マネジメント【エッセンシャル版】』も非常によく売れました。

■本格ミステリーが初めて首位に
2011(平成23)年の第1位は、『謎解きはディナーのあとで』。2010(平成22)年に1作目が刊行、書店員の熱烈なプッシュを受け、店頭で大々的に展開されたことで発売から3日で重版が決定し、その後2011年4月に本屋大賞を受賞、10月に嵐の櫻井翔さん主演で連続ドラマ化、そして11月には2作目が刊行……と、大ヒットシリーズへの階段を駆けのぼりました。
『謎解きはディナーのあとで』は、本格ミステリー小説でありながら、魅力的なキャラクターたちの軽妙なやりとりで読ませる内容であること、人気イラストレーターの中村佑介さんが表紙を手がけていることなど、読者の裾野を広げる要素を多数もっている作品でした。
なお、本屋大賞受賞作で、かつ年間ベストセラー総合第1位を獲得した作品は、『謎解きはディナーのあとで』が史上唯一となっています。

■発売7日でミリオン達成
「村上春樹、『1Q84』以来の長編小説」ということでまたも話題になった、2013(平成25)年4月発売の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。発売からわずか7日でミリオンセラーを達成した同作は、やはりというべきか、この年の年間ベストセラー第1位を勝ち取りました。
ということで、この連載で紹介してきた「年間ベストセラー総合1位複数回獲得者」の最後の一人は村上春樹さんでした! 皆さん、正解しましたか?
ちなみにこの頃のベストセラーとしてもう一つ押さえておきたいのが、2012(平成24)年に第1位を獲得、13年にも第3位に輝いた、阿川佐和子さんの『聞く力』。新書の総合第1位獲得は、2007(平成19)年以来です。

■平成史上初、実用書が第1位に
国民的長寿番組「笑っていいとも!」が最終回を迎えた2014(平成26)年、平成の年間ベストセラー史上初めて、実用書が第1位を獲得します。
それは『長生きしたけりゃふくらはぎをもみなさい』。
「中居正広の金曜日のスマたちへ」(現在は「中居正広の金曜日のスマイルたちへ」に改題)をはじめ、多数の情報番組に取り上げられてブームに火がついた本書。「ふくらはぎをもむだけ」という手軽さとわかりやすさがお茶の間に受け、2013年7月の刊行から約1年で累計発行部数100万部を突破しました。

■お笑い芸人「又吉直樹」の快挙
その翌年、2015(平成27)年に第1位となったのが、お笑い芸人・又吉直樹さんの小説家デビュー作『火花』。「現役のお笑い芸人が純文学デビューした」ということで大変な話題になり、同作が発表された「文學界」2015年2月号は、1933(昭和8)年の創刊以来初めて増刷が行なわれました。
『火花』は単行本発売後、芥川賞受賞でさらに売上を伸ばし、芥川賞作品では歴代トップとなる累計250万部突破の大ヒットを記録。また“現役お笑い芸人の年間ベストセラー首位獲得”という点では、1995(平成7)年の『松本』(松本人志著)からちょうど20年ぶりのこととなりました。

■田中角栄ブーム、そして史上最高齢での首位
元内閣総理大臣・田中角栄の死去から23年が経った2016(平成28)年、角栄ブームが起きました。
書店店頭に『田中角栄100の言葉』をはじめ多くの“角栄本”が並ぶなか、第1位に輝いたのは、石原慎太郎さんによる『天才』でした。
かつて痛烈に批判していた“政敵 田中角栄”の生涯を描き、しかもタイトルが『天才』だということで注目を集めた本作。“ダーティーな政治家”というイメージを持っていた人も多いなか、庶民派な人柄やリーダーシップにスポットを当てたテレビ番組も多く放送されました。
そして翌年の2017(平成29)年に第1位を獲得したのが、『九十歳。何がめでたい』。著者の佐藤愛子さんは当時94歳で、史上最高齢での首位獲得となりました。
またこの年に目立ったのが、『弘兼流 60歳からの手ぶら人生』『100歳の精神科医が見つけたこころの匙加減』といった、高齢の著者による書籍。史上最年長で文藝賞を受賞しデビューした若竹千佐子さんの芥川賞受賞作、『おらおらでひとりいぐも』も話題になりましたね。
via http://hon-hikidashi.jp/more/67373/


■2018(平成30)年
・第1位:『漫画 君たちはどう生きるか』(吉野源三郎 羽賀翔一/マガジンハウス)
・第2位:『大家さんと僕』(矢部太郎/新潮社)
・第3位:『ざんねんないきもの事典』(下間文恵 徳永明子 かわむらふゆみ 今泉忠明/高橋書店)
・第4位:『モデルが秘密にしたがる体幹リセットダイエット』 (佐久間健一/サンマーク出版)
・第5位:『医者が教える食事術 最強の教科書』(牧田善二/ダイヤモンド社)
・第6位:『続 ざんねんないきもの事典』(下間文恵 徳永明子 かわむらふゆみ 今泉忠明/高橋書店)
・第7位:『頭に来てもアホとは戦うな!』 (田村耕太郎/朝日新聞出版)
・第8位:『ゼロトレ』 (石村友見/サンマーク出版)
・第9位:『君たちはどう生きるか(新装版)』 (吉野源三郎/マガジンハウス)
・第10位:『信仰の法』(大川隆法/幸福の科学出版)
・第11位:『新・人間革命(30・上)』(池田大作/聖教新聞社)
・第12位:『続々 ざんねんないきもの事典』(下間文恵 徳永明子 かわむらふゆみ 今泉忠明/高橋書店)
・第13位:『かがみの孤城』(辻村深月/ポプラ社)
・第14位:『極上の孤独』(下重暁子/幻冬舎)
・第15位:『おらおらでひとりいぐも』(若竹千佐子/河出書房新社)
・第16位:『おしりたんてい みはらしそうのかいじけん』(トロル/ポプラ社)
・第17位:『日本史の内幕』 (磯田道史/中央公論新社)
・第18位:『九十歳。何がめでたい』 (佐藤愛子/小学館)
・第19位:『おしりたんてい あやうしたんていじむしょ』(トロル/ポプラ社)
・第20位:『大人の語彙力ノート』(齋藤孝/SBクリエイティブ)

via http://hon-hikidashi.jp/more/68808/
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[MLB] 大谷翔平が大リーグ新人王受賞 日本人で4人目 はてなブックマーク - [MLB] 大谷翔平が大リーグ新人王受賞 日本人で4人目

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大リーグ1年目のシーズンに投打の二刀流で活躍したエンジェルスの大谷翔平選手が12日、アメリカンリーグの新人王に選ばれました。日本選手が大リーグの新人王を受賞したのは2001年のイチロー選手以来、4人目です。
大リーグのアメリカンリーグとナショナルリーグの新人王は、全米野球記者協会の会員となっている記者30人ずつの投票で決まります。
このうちアメリカンリーグでは、投打の二刀流でプレーして、ピッチャーで4勝、バッターでホームラン22本をマークした24歳の大谷選手のほか、▽ヤンキースのサードを守り、ホームラン27本、打率2割9分7厘を残した23歳のミゲル・アンドゥハー選手、▽同じくヤンキースのセカンドで、ホームラン24本を打った21歳のグレイバー・トーレス選手が最終候補の3人になっていました。
そして、12日に今シーズンの受賞者が発表され、大谷選手がアメリカンリーグの新人王に選ばれました。
日本選手が大リーグの新人王を受賞したのは1995年の野茂英雄投手、2000年の佐々木主浩投手、2001年のイチロー選手に続いて大谷選手が4人目です。
大リーグの新人王は1947年に全米規模での表彰が始まりましたが、ピッチャーとバッターの両方で本格的にプレーする選手が受賞するのは大谷選手が初めてです。
大谷選手は、100年前に投打で活躍したベーブ・ルース以来となる「二刀流」の選手として、鮮烈なデビューを果たすとともに今回の受賞によって大リーグに新たな歴史を刻みました。
一方、ナショナルリーグの新人王には、ブレーブスのレフトを守り打率2割9分3厘、ホームラン26本をマークした20歳のロナルド・アクーニャ選手が選ばれました。

■大谷「すごくうれしい」
新人王を受賞した大谷選手は、大リーグ専門チャンネルの番組のインタビューで、「すごくうれしいです。応援してくれた方にとってもうれしいことだと思うので、よかったと思います」と感想を話しました。
そのうえで、投打の二刀流でプレーした今シーズンを振り返り、「数字だけ見れば、バッターでチームに貢献できたのかなと思っています。大事な時期にピッチャーとして抜けてしまったので、そこだけは心残りだと思っています」と述べました。
また、日本選手の新人王受賞はイチロー選手以来であることを質問されると、「子どもの頃からずっと見てきましたし、憧れのような選手です」と答えていました。

■圧倒的な支持を受けた大谷
新人王は、全米野球記者協会の会員の記者のうち、30人ずつが投票を行って選出されます。投票を行う記者は、レギュラーシーズンの成績や活躍ぶりをもとに1番目から3番目まで、新人選手3人を選んで投票します。1番目に選ばれた選手には5ポイント、2番目は3ポイント、3番目は1ポイントが加算されます。
今回、アメリカンリーグの新人王の投票では、大谷選手に対して、30人の記者のうち25人が1番目で投票するなどして大谷選手が137ポイントを獲得しました。
2位は、ヤンキースのサードでホームラン27本を打ったミゲル・アンドゥハー選手で89ポイント。
3位は同じくヤンキースのセカンドでホームラン24本を打ったグレイバー・トーレス選手で25ポイントでした。
昨シーズン、アメリカンリーグの新人王は、ヤンキースで52本のホームランを打って、ホームラン王にもなったアーロン・ジャッジ選手が受賞し、投票者した30人全員から1番目に選ばれて150ポイントを獲得しました。
今シーズンは大谷選手をはじめ、新人離れした活躍を見せた選手が複数いて、接戦になると予想されていましたが、大谷選手が圧倒的な支持を受けてほかの選手を大きく引き離す結果となりました。

■地元からも喜びの声
大谷選手の出身地、岩手県奥州市では、地元の人たちから新人王に選ばれたことを祝う声が聞かれました。
このうち63歳の女性は「おめでとうございます。息子が野球をしていたので、大谷選手をわが子のように応援してきました。手術した右ひじが早くよくなってほしいです」と話していました。
また、66歳の男性は「大谷選手は地元の宝です。手術後の経過が気になりますが、またテレビで応援したいです」と話していました。
このほか、65歳の理容店の男性店長は「奥州市は景気が低迷しているので、大谷選手には今後も頑張ってもらいたいです。来シーズンはバッティングでの活躍を期待しています」と話していました。
via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181113/k10011708461000.html


・ライバルも認める二刀流=ルース以来の衝撃評価
 投手として4勝(以上)、打者として2桁本塁打。歴史的な名選手ベーブ・ルースが1919年に9勝、29本塁打をマークして以来の快挙を21世紀の大リーグに再現した。右肘の故障に悩まされた中、エンゼルスの大谷が二刀流で新人王を手に。「けがしたのは悔しいが、その中でこういう賞をもらえたのは光栄」と喜びを口にした。
 現代野球の常識を覆した活躍は、メジャーの一流選手をうならせた。シーズンが終盤に入った9月。アストロズのエース、ジャスティン・バーランダー投手は、新人王が大谷とアンドゥーハルの争いになると予想していた。「大谷がやってきたことはとても印象的だ。ルーキーなのにルースと並び称されるようなことを成し遂げるのは、とても特別なこと」。同じ地区でしのぎを削り、大谷が印象に残る対戦相手として名を挙げたメジャー屈指の好投手が、受賞にお墨付きを与えていた。
 ヤンキースのアンドゥーハルは、故障での離脱はなく149試合に出場。本塁打、打点、打率で大谷を上回り、チームは100勝を挙げてプレーオフ進出を果たした。それでも新人王の記者投票で大谷が支持を得たのはバーランダー同様、二刀流の登場に衝撃を受けたからこそだろう。
 投手としては、肘の故障もありわずか10試合の登板に終わった。それでも初登板で初勝利を挙げ、2戦目となった4月8日のアスレチックス戦では七回1死まで走者を一人も許さない快投。打者としては、メジャーの強打者にも劣らぬパワーを印象付けた。9月には24試合で27安打を放ち、7本塁打を含む13本が長打と圧巻の打棒。「大リーグで、投手としても打者としても、あれほど才能がある選手を見たことはない」とバーランダー。投打の両面で示した存在感は強烈だった。
 via https://www.jiji.com/jc/article?k=2018111300279&g=bsb

・大谷翔平のメジャー新人王に思う、イチロー以来の日本人受賞の意義。
 https://number.bunshun.jp/articles/-/832492

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[訃報] マーベル・コミックの生みの親、スタン・リー氏が死去 95歳 はてなブックマーク - [訃報] マーベル・コミックの生みの親、スタン・リー氏が死去 95歳

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スパイダーマンやキャプテン・アメリカなど、米国のスーパーヒーロー漫画の新時代を築いたコミック原作者、スタン・リー氏が12日に死去した。95歳だった。
リー氏の娘の弁護士によると同日の朝、ロサンゼルスの自宅から搬送された先の病院で息を引き取った。同弁護士はリー氏の死因を明らかにしていない。
1939年に漫画界でのキャリアをスタートさせたリー氏は、漫画の原作や編集、イラストレーターなどとして活動。60年代初めには、スーパーマンやバットマンといった従来のキャラクターと一線を画す新たなスーパーヒーローの創作を手掛けるようになる。
こうして生まれたのがスパイダーマンやハルク、アイアンマン、ソーなどのキャラクターたちだ。決して完全無欠ではなく、人間的な弱さや日常生活での困難を抱えているという設定は、それまでのヒーロー像にはみられないものだった。作品の舞台も架空の世界や都市ではなく、ニューヨーク市など実在の土地がそのまま描かれた。
61年から64年にかけて世に出たこれらのスーパーヒーローは多くがアニメ化、実写化され、テレビや映画で世界的なヒットを飛ばした。
72年からマーベル・コミックの発行人を務めるようになったリー氏は、同社の顔として知られる存在になる。マーベルのヒーロー映画の大半ではゲスト出演もこなした。
2006年のインタビューでは「スパイダーマンが現在のように世界的なヒーローになるとは全く思っていなかった。当時はとにかく漫画が売れて、仕事を続けられることだけを望んでいた」と振り返っている。
via https://www.cnn.co.jp/showbiz/35128549.html

https://gigazine.net/news/20181113-stan-lee-passed-away/

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◆スタン・リーさん死去 かつて語ったスパイダーマン誕生


・スタン・リーが死去。『アベンジャーズ』を生み出したマーベルの伝説的クリエイターが歩んだ歴史
https://www.gizmodo.jp/2018/11/the-history-of-stan-lee.html

・興収記録も次々塗り替え、マーベルのスーパーヒーローがハリウッドにもたらした変革
 https://www.cnn.co.jp/showbiz/35128571.html



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なぜNHK「まんぷく」は、安藤百福の“台湾ルーツ”を隠したのか はてなブックマーク - なぜNHK「まんぷく」は、安藤百福の“台湾ルーツ”を隠したのか

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日清食品創業者の安藤百福(1910-2007)と、その妻・仁子をモデルにしたNHK連続テレビ小説「まんぷく」が好調だ。視聴率は放送開始1ヶ月以上を経ても、20%超をキープする。インスタントラーメンという国民食への視聴者の関心の高さを感じさせるが、物語には、一切触れられていないことがある。
それは安藤百福が台湾出身者であるという来歴である。なぜ台湾というルーツが消されたのか。安藤とはいかなる人物だったのか。『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』著者の野嶋剛氏が台湾の故郷への現地取材を行うと意外な事実が次々と明らかになった。

■国籍と即席麺
放送が始まったのが今年10月。私もほとんど欠かさず見ており、戦前戦後の厳しい社会環境でたくましく支え合う2人の夫婦愛に時には心を揺さぶられ、時にはハラハラしながら引き込まれている。現在までの視聴率もなかなか好調なようである。
このドラマでは、安藤は日本人として描かれている。しかし、実際のところ、安藤は台湾人の両親のもとに生まれ、台湾で教育を受け、台湾でビジネスをスタートさせ、成人してから日本に拠点を移している。日本国籍を正式に取得したのも、即席麺ビジネスが軌道に乗った後だった。
事実関係からいえば、安藤は、台湾出身の華僑(または華人)である。ところが、その台湾要素がドラマからは綺麗さっぱり抜け落ちているのだ。
筆者は、台湾出身者の日本での活躍を描いたノンフィクション『タイワニーズ 故郷喪失者の物語』(小学館)を今年6月に刊行し、その中で、安藤についても一定のページを割いて取り上げている。そのこともあって、「まんぷく」で安藤の台湾ルーツが触れられていないことには、いささか違和感を感じないではいられなかった。

■曖昧にするしかなかった理由
安藤のバックグラウンドについて、10月に放送された「まんぷく」第8回のなかで、安藤役の主人公の萬平(長谷川博己)が、妻の仁子役である福子(安藤サクラ)に語りかけるシーンがある。このドラマではしばしばラーメンを食べるシーンがでてくるが、2人の初デートでもラーメンを食べながら、萬平は自分の過去をこう語った。
「父親はものごごろつく前に、母親はそのすぐ後に亡くなりました。ぼくは兄弟がいなかったから、一人で親戚の家を転々としたんです。ぼくは自分が迷惑をかけるのが嫌だったから18歳で働き始めたんです。修理屋でね。そのうちカメラでも時計でも大概のものは直せるようになって、25歳で大阪に来ました」(福子の相槌などは省略)
ここに台湾はなく、萬平は台湾人ではなく、日本人として描かれていくことが決定した瞬間であった。安藤が早くに両親を亡くし、若くして働き始め、大阪に来て仕事をするようになったのは事実だ。
しかし、萬平が日本のどこで育ったのか、両親や祖父はどこにいたのか、ということは触れられていない。フィクションとはいえ、史実に近づけながら描く宿命のなかで、萬平のルーツについては曖昧にするしかなかったのだろうと私は推察した。
一方、それゆえに不自然さも否めない箇所もあった。結婚式を挙げた2人が近親者と一緒に記念写真をとる場面があった。並んだのは、萬平以外はほとんどが福子の親族や関係者たちで、萬平の家族や親族は一人もいなかったようだった。ここでは萬平の過去はほとんど消えているように見える。
では、なぜ萬平は台湾人ではなく、日本人でなければならないのか。それを考えるため、私は、安藤の出身地である台湾中部の嘉義へ行くことにした。台湾新幹線で台北から一時間半。嘉義は台湾の米どころであり、日本人観光客にも人気のある阿里山があるところだ。

■故郷も取材していたが……
安藤百福が生まれた場所は、当時「台南州東石郡朴子街」と呼ばれた。現在は地名変更で「嘉義県朴子市」になっている。日本の区にあたる朴子市の市役所を訪れると、市役所の盧春霖行政室主任が対応してくれた。
「『まんぷく』のことは知っています。その件で、つい先日、NHKの方がリサーチに来ました」と盧主任。朴子市のトップである王如経市長からは「私が育った家は呉百福さんの家の真向かいなんですよ」という話も聞かされた。
王市長と話し込んでいると、思わぬ来客が市長室に現れた。
「こんにちは、呉仁健といいます。呉百福(安藤百福)は私のおじです」
呉さんは長く教育界で働き、校長まで務めた。市長からも「呉校長」と呼ばれる地元の知名人だ。呉さんはたまたま講座を聞くために市役所に来ているところ、「日本からメディアの取材が来ている」と言われ、私を訪ねてきてくれたのだ。血の繋がりのせいか、顔立ちがどこか安藤に重なる。
呉さんによれば、呉さんと安藤は遠い親戚にあたり、安藤より呉さんはひとつ下の世代で、いとこ甥にあたる。呉家の先祖は、1793年、台湾へ中国大陸・福建省の漳州から日本に渡った。後日私のお願いで呉さんから送られてきた族譜(家系図)によれば、安藤の父親・呉阿獅には三人の息子がいて、安藤はその末っ子だった。
呉阿獅は早くに亡くなり、安藤は祖父・呉武に育てられた。

■台湾にいたもう一人の夫人
「呉家はみんな『六脚郷更寮村』と呼ばれる場所に暮らしていて、呉百福の一家は私たちの家の隣に暮らしていました。といっても、彼とは一度も会っていません。彼の奥さんが暮らしていて、息子さんを育てていました。私などは奥さんにいつも可愛がってもらっていました。彼の家の前には楊桃(スターフルーツ)の樹があって、実をとって私たち近所の人間に配ってくれた優しい人でした」(呉)
安藤には、日本で仁子と結婚する以前に、台湾のふるさとで結婚している女性がいたのだった。彼女の名前は黄綉梅といい、すでに亡くなっている。
ここでいう「息子さん」は安藤宏寿のことで、のちに台湾から日本に呼び寄せられ、一時期、日清の社長に就任している。安藤は日本と台湾で家庭を持っていたことになるが、当時こういう形は珍しいわけではなかった。もちろん「まんぷく」では萬平にほかに家庭があった、という設定はなされていない。
呉家の間では、安藤百福は神秘的な存在で、複雑な思いを抱く存在だという。呉氏が共同所有する「六脚郷更寮村」にはいまも安藤名義分の土地もあるという。呉仁健さんは安藤と故郷との関係を、こんな風に語った。
「日本で大成功を収めていることは知っています。故郷の誇りという気持ちもあります。ただ、彼は私の知る限り一度も故郷に戻らず、呉家との縁も切っています。彼は若い頃、嘉義で衣類を売る事業を失敗していたそうです。それで台北に行ったと聞いています。もしかすると嘉義にいい思い出がなかったのかもしれません。そのことも故郷と距離を置いた理由のように思います」
華僑の間には「故郷に錦を飾る」ということが一つの成功者のモラルとなっている。それは自分を育て支えてくれた故郷に恩返しをする、という考えに基づくのだが、故郷愛がなかったかどうかはわからないが、事実だけをみれば、安藤がこうした行動をとった形跡は嘉義には残されていなかった。
日清食品のホームページで安藤の経歴を解説する「安藤百福クロニクル」でも台湾出身であることは完全に伏せられている。
日清食品の関係者に、安藤の国籍に関して質問したことがあるが、「安藤氏はほとんど日本人だったと聞いています」という答えだった。しかし、少なくとも成人する前のほとんどの時間を台湾で過ごし、その後も台湾で家族を持っていた安藤は、台湾人のアイデンティティを強く持っていたはずで、本人の意思で意識的に台湾との縁を切ろうとしていた可能性が高いように思える。

■チキンラーメンが理由…?
では、どうして安藤側は台湾との関係を強調しなくなったのか。
安藤については、日本の台湾華僑社会で評判が芳しくないことは確かだ。それは、安藤がチキンラーメンの販売で成功する前に、華僑との間で金銭的なトラブルがあったと指摘する華僑もいる。彼が経営者を務めて倒産した信用組合の問題が絡んでいるとも言われるが、古い時代のことなので検証は難しい。
ただ、安藤はチキンラーメンの発売後、台湾との関わりをほとんど語らなくなり、華僑社会との人間関係も失われていったと言われる。
もう一つ考えられるのは、チキンラーメンの「発明」と台湾との関わりに議論が及ぶことを避けようとしていた可能性がある。
安藤が「発明」としている麺を油で揚げて調味料をまぶし、お湯をかけて食べる調理法については、安藤の出身である台湾南部において、戦前から「雞絲麵」(ジースーミエン)「意麺」(イーミエン)などと呼ばれる油揚げの即席麺が広く存在していたからだ。
安藤がその故郷の即席麺にヒントを得て、油で麺を揚げたチキンラーメンの商品化に成功したのではないかという推理を、私は前掲著「タイワニーズ」のなかでも展開した。また、日本の台湾華僑の間でも、同様の指摘はあちこちで耳にする。
そうしたことも、安藤サイドが台湾との関わりを語りたくなかった理由かもしれない。だが、即席麺を大量生産化し、日本と世界に広げた安藤の経営業績は、たとえそれが完全な発明でなくてもまったく曇ることはないのだが。
NHKは作品公式サイトに、「実在の人物をモデルとしますが、激動の時代を共に戦い抜いた夫婦の愛の物語として大胆に再構成し、登場人物や団体名は改称した上、フィクションとしてお届けします」と前置きしている。台湾というルーツは、「夫婦の愛の物語」には必要なかったということだろうか。
しかし、今後のドラマの主要な中身となる「チキンラーメン」の「発明」については、前述のように安藤が台湾出身でなければ思いつかないことであった可能性が高い。
また、成功を目指して必死に事業を起こしては失敗し、それでも最後に日清食品の創業に結びつけた彼のたゆまぬ努力は、日本社会でマイノリティであった台湾出身者のハングリー精神抜きに語ることは難しい。
さらに重要なことは、日本と台湾との歴史的関係のなかで、安藤が戦前、日本語教育を受けたゆえに戦後の日本でも活躍の道が広がったことについて一切触れないことで、日本が日清戦争で清朝から獲得した台湾を、50年間にわたって統治した史実すら隠してしまう歴史認識の問題も孕んでいるように思える。
ドラマではすでに萬平は台湾人ではないという設定になっているので変更は難しいだろうが、安藤が台湾出身者であるという事実については、今後も日本社会で広く知られていくべきであると私は考えている。
via https://gendai.ismedia.jp/articles/-/58365


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[Jリーグ] G大阪MF遠藤保仁、フィールドプレーヤー初のJ1通算600試合出場 足かけ21年で快挙達成 はてなブックマーク - [Jリーグ] G大阪MF遠藤保仁、フィールドプレーヤー初のJ1通算600試合出場 足かけ21年で快挙達成

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 ガンバ大阪の元日本代表MF遠藤保仁が10日、J1リーグ第32節の湘南ベルマーレ戦でJ1通算600試合出場を達成した。同記録は史上2人目、フィールドプレーヤーでは初の快挙となる。
 遠藤は1998年、鹿児島実業高から横浜フリューゲルスに加入。翌99年から2シーズンは、京都パープルサンガ(現・京都サンガF.C.)でプレーした。2001年にG大阪に加入すると、主軸としてJ1リーグ優勝やAFCチャンピオンズリーグ制覇などに貢献。リーグ、ナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)、天皇杯を制して三冠を達成した14年には、自身初のリーグMVPに輝いた。
 プロ21年目を迎えた今季も、ここまで日本代表DF三浦弦太とともに全試合に出場。湘南戦のスタメンに名を連ね、ピッチに立ったことでJ1通算600試合出場を達成した。
 これまでJ1で通算600試合以上出場しているのはGK楢﨑正剛(名古屋グランパス)のみ。38歳の遠藤が史上2人目、フィールドプレーヤーとしては初の快挙となった。[2018.11.10]
via https://www.football-zone.net/archives/146944

■遠藤保仁の年度別J1通算出場数
1998年:横浜フリューゲルス/16試合
1999年:京都パープルサンガ/24試合
2000年:京都パープルサンガ/29試合
2001年:ガンバ大阪/29試合
2002年:ガンバ大阪/30試合
2003年:ガンバ大阪/30試合
2004年:ガンバ大阪/29試合
2005年:ガンバ大阪/33試合
2006年:ガンバ大阪/25試合
2007年:ガンバ大阪/34試合
2008年:ガンバ大阪/27試合
2009年:ガンバ大阪/32試合
2010年:ガンバ大阪/30試合
2011年:ガンバ大阪/33試合
2012年:ガンバ大阪/34試合
2013年:ガンバ大阪/--試合
2014年:ガンバ大阪/34試合
2015年:ガンバ大阪/34試合
2016年:ガンバ大阪/34試合
2017年:ガンバ大阪/31試合
2018年:ガンバ大阪/32試合


■J1出場試合数ランキングトップ20(カッコ内は現所属/最終所属)
1位 楢﨑正剛(名古屋) 631試合
2位 遠藤保仁(G大阪) 600試合
3位 中澤佑二(横浜FM) 592試合
4位 阿部勇樹(浦和) 561試合
5位 曽ヶ端準(鹿島) 528試合
6位 小笠原満男(鹿島) 524試合
7位 伊東輝悦(沼津) 517試合
8位 山田暢久(浦和) 501試合
9位 明神智和(長野) 497試合
10位 山口 智(京都) 448試合
11位 中村憲剛(川崎) 436試合
12位 前田遼一(FC東京) 428試合
12位 森﨑和幸(広島) 428試合
14位 大久保嘉人(磐田) 426試合
14位 今野泰幸(G大阪) 426試合
16位 新井場徹(C大阪) 423試合
17位 川口能活(相模原) 421試合
17位 西川周作(浦和) 421試合
19位 藤田俊哉(千葉) 419試合
20位 佐藤寿人(名古屋) 404試合
※2018.11.10時点


◆遠藤保仁、J1通算600試合達成へ。親友たちだけが知るヤットの凄さ。
 https://number.bunshun.jp/articles/-/832451

・フィールドプレーヤー史上初のJ1通算600試合出場達成! 遠藤保仁のキャリアを振り返る

page-9
 https://www.soccer-king.jp/news/japan/jl/20181110/860375.html


◇欧州で600試合出場を果たした選手
○セリエA
■パオロ・マルディーニ(DF/元イタリア代表)
生年月日:1968年6月26日(50歳)
出場数:647
経歴:ミラン(1985~2009)
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プロ生活25年間で通算26のタイトルを獲得したミランのバンディエラ(旗頭)。弱冠16歳でセリエAデビューを果たし、2007年に史上初の600試合出場を達成。647試合という歴代最多出場記録は今も破られていない。

■ジャンルイジ・ブッフォン(GK/元イタリア代表)
生年月日:1978年1月28日(40歳)
出場数:640
経歴:パルマ(1995~2001)→ユヴェントス(2001~2018)→パリ・サンジェルマン(2018~)
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2016年11月に史上4人目、GKとしては初のセリエA通算600試合出場を達成。マルディーニ氏の出場記録にはあと一歩及ばなかったが、優勝回数は歴代最多の9回を誇る。

■フランチェスコ・トッティ(FW/元イタリア代表)
生年月日:1976年9月27日(42歳)
出場数:619
経歴:ローマ(1993~2017)
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1993年3月のブレシア戦でセリエAデビュー。以来、25シーズンにわたりローマ一筋でプレーし続け、セリエA歴代2位となる250ゴールを記録した。

■ハビエル・サネッティ(DF/元アルゼンチン代表)
生年月日:1973年8月10日(45歳)
出場数:615
経歴:タジェレス(1992~93)→バンフィエルド(1993~95)→インテル(1995~2014)
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“外国人選手”として唯一のセリエA通算600試合出場を達成。1999年からはインテルのキャプテンを務め、2014年に現役を引退した後には、背番号4が永久欠番となった。

○プレミアリーグ
■ギャレス・バリー(MF/元イングランド代表)
生年月日:1981年2月23日(37歳)
出場数:653
経歴:アストン・ヴィラ(1998~2009)→マンチェスター・C(2009~2013)→エヴァートン(2013~2017)→ウェスト・ブロムウィッチ(2017~)
West Bromwich Albion v West Ham United - Premier League
2016年9月にプレミアリーグ通算600試合出場を果たすと、昨年9月のアーセナル戦で633試合目の出場を果たし、歴代最多記録を更新した。今季は2部でプレーするが、1部昇格が実現すればさらに記録を伸ばす可能性がある。

■ライアン・ギグス(MF/元ウェールズ代表)
生年月日:1973年11月29日(44歳)
出場数:632
経歴:マンチェスター・U(1990~2014)
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プレミアリーグの通算出場数はバリーに次ぐ2位だが、優勝回数は歴代単独トップの13回を誇る。マンチェスター・Uでは公式戦通算963試合に出場し、168ゴールを記録した。

■フランク・ランパード(MF/元イングランド代表)
生年月日:1978年6月20日(40歳)
出場数:609
経歴:ウェストハム(1995~2001)→スウォンジー(レンタル:1995~96)→チェルシー(2001~2014)→マンチェスター・C(2014~2015)→ニューヨーク・シティ(2015~16)
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マンチェスター・Cの選手だった2015年3月に、プレミアリーグ通算600試合出場を達成。同リーグ通算150ゴール超えを達成した唯一のMFとしても知られる。

○リーガ・エスパニョーラ
■アンドニ・スビサレッタ(GK/元スペイン代表)
生年月日:1961年10月23日(57歳)
出場数:622
経歴:アラベス(1980~81)→アスレティック・ビルバオ(1981~86)→バルセロナ(1986~94)→バレンシア(1994~98)
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リーガ・エスパニョーラで唯一600試合出場を果たし、通算で6度のリーグ優勝、1度のチャンピオンズリーグ優勝を経験した。スペイン代表としても4大会連続でワールドカップに出場。同国史上初めて代表100試合出場を達成した選手でもある。

○ブンデスリーガ
■カール・ハインツ・コーベル(DF/元西ドイツ代表)
生年月日:1954年12月1日(63歳)
出場数:602
経歴:フランクフルト(1972~1991)
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ブンデスリーガで唯一600試合出場を達成した選手。約20年に及ぶプロ生活をすべてフランフルトで過ごし、DFながら45ゴールを挙げた。

○リーグ・アン
■ミカエル・ランドロー(GK/元フランス代表)
生年月日:1979年5月14日(39歳)
出場数:618
経歴:ナント(1996~2006)→パリ・サンジェルマン(2006~2009)→リール(2009~2012)→バスティア(2012~2014)
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リーグ・アン最多の618試合に出場。フランス国内の4つのクラブを渡り歩き、バスティア時代の2013年12月にリーグ歴代最多出場記録を更新した。

■ジャン・リュック・エトリ(GK/元フランス代表)
生年月日:1955年7月29日(63歳)
出場数:602
経歴:モナコ(1975~94)
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現役時代は、モナコ一筋のキャリアを送った。フランス代表としては1982年のスペイン・ワールドカップに出場。準決勝の西ドイツ戦では、W杯史上初のPK戦を経験した。

via https://www.soccer-king.jp/news/world/ita/20181115/863624.html
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