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気になった記事や事柄を 自分のノート代わりとする場に していけたらと思ってます。

2019年04月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年06月

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[CM] au 「新しい物語」篇~(2019) はてなブックマーク - [CM] au 「新しい物語」篇~(2019)

◆「新しい鬼」篇


◆「親指姫登場」篇
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全身真っ白なパンダ、中国で見つかる。世界で初のアルビノ個体か はてなブックマーク - 全身真っ白なパンダ、中国で見つかる。世界で初のアルビノ個体か


中国・四川の自然保護区で、全身が真っ白なパンダが見つかった。中国の国営放送、中国中央テレビ(CCTV)などが報じた。
CCTVによると、この個体が見つかったのは2019年の4月中旬。四川臥龍国家級自然保護区の海抜2000メートル付近の森林に設置された赤外線カメラがこの姿を捉えたという。
写真に映った身体的な特徴などから、3歳に満たないほどのパンダとみられるという。また、全身の体毛が白く、赤い目をしていて、アルビノ(先天性色素欠乏症)の個体とみられる。
CCTVによると、白いパンダが撮影されるのは世界で初めて。
写真から健康状態は良好みられ、アルビノであることが、パンダの生存に大きく影響しない可能性があることがわかったという。
via https://www.huffingtonpost.jp/entry/baisedaxiongmao_jp_5ceb40c8e4b0512156f44457
http://www.xinhuanet.com/english/2019-05/25/c_138089274.htm



・「真っ白なパンダ」だと!?世界初の撮影成功に興奮の声が多数
 https://matome.naver.jp/odai/2155894696058149301
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新天皇陛下即位、象徴責務へ決意=「国民に寄り添う」-戦後生まれ初、令和始動 はてなブックマーク - 新天皇陛下即位、象徴責務へ決意=「国民に寄り添う」-戦後生まれ初、令和始動




 新天皇陛下が1日、皇位に就かれ、平成に続く令和の時代が始まった。新陛下は同日午前、皇居で国民の代表と会う儀式「即位後朝見の儀」に臨み、「常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国および日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓います」と最初のお言葉を述べた。
 新陛下は、退位した上皇さまに触れて「上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます」と語った。新陛下は1960年2月23日生まれの59歳で、お名前は徳仁(なるひと)。戦後生まれの初めての天皇となった。
 今回の皇位継承は、2017年6月に成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」に基づく。宮内庁の記録によると126代目の天皇となり、現行憲法が規定する象徴天皇としては3代目、現憲法下での即位は2人目。退位した陛下は上皇、皇后さまが上皇后となり、皇太子妃の雅子さまが新皇后となった。
 政府は即位儀式として、1日午前10時半から皇居・宮殿「松の間」で皇位の証しとされる剣と勾玉(まがたま)、国の印である国璽、天皇の印である御璽を受け継ぐ「剣璽等承継の儀」を実施した。剣や勾玉は鏡とともに、いわゆる「三種の神器」と呼ばれ、皇室経済法で「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」と位置付けられる。
 儀式には安倍晋三首相ら三権の長や閣僚らが参列。同席する皇族は前例を踏襲し、成年男性に限定された。
 続いて午前11時10分から即位後朝見の儀が行われ、政府、国会、裁判所の要人や地方代表ら292人が参列。新陛下のお言葉に続き、首相が国民代表の辞を述べて祝意を表明し、「令和の御代(みよ)の平安と皇室の弥栄(いやさか)をお祈り申し上げる」と語った。
 皇位継承順位は、皇嗣になった秋篠宮さま(53)が1位、秋篠宮さまの長男悠仁さま(12)が2位、上皇さまの弟の常陸宮さま(83)が3位。皇位継承資格者の減少により、安定的な皇位継承に向けた検討が急務となる。
 儀式に先立ち、政府は1日午前の臨時閣議で、二つの即位儀式を国事行為と位置付けることを決定した。[2019.05.01]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100178&g=pol

https://jp.reuters.com/article/reiwa-idJPKCN1S62RO?feedType=RSS&feedName=worldNews

・新陛下、晴れやかに即位宣言=勲章姿、国民の前に-皇居・宮殿で二つの儀式



 1989年1月以来、30年ぶりに皇居・宮殿で執り行われた「剣璽等承継の儀」と「即位後朝見の儀」。元号が改まった1日、新天皇陛下は晴れやかな表情で両儀式に臨み、即位を宣言された。
 新陛下は午前9時50分すぎ、赤坂御所の正門から車で皇居へ出発。にこやかな表情で沿道に集まった人々に後部座席から手を振り、歓声に応えた。
 前日に「退位礼正殿の儀」が行われたのと同じ宮殿・松の間に入ったのは同10時半。新陛下はえんび服に白のちょうネクタイ、「大勲位菊花章頸飾(けいしょく)」などの勲章を着け、中央の壇上に立った。皇位継承権を持つ成年皇族である秋篠宮さま、常陸宮さまも勲章姿で左右に並んだ。
 剣璽と国璽、御璽を恭しくささげ持った侍従らが別の扉から入室。目前にしつらえられた台の上に置かれると、新陛下は真剣な表情でわずかにうなずいた。同35分、新陛下は剣璽などを持った侍従らと共に退出した。
 続いて、同11時12分から即位後朝見の儀が行われた。新陛下は新皇后の雅子さまと共に松の間に入り、安倍晋三首相ら292人の国民代表の前へ。加地正人・新侍従次長が紫のふくさから差し出した原稿を開き、皇位を継承したことを宣言した。
 新陛下ははっきりと響く声で即位後初のお言葉をよどみなく読み上げた。傍らの雅子さまは、きらきらと輝くティアラを着けたローブデコルテ姿で、新陛下を見守った。
 安倍首相が国民代表の辞を述べ、新両陛下と皇族方が退出した後、同20分に扉が閉じられた。新陛下はその後、継承した剣璽と共に車で赤坂御所へ。二つの重要儀式が無事終わり、新天皇としての歩みが始まった。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100374&g=soc

・天皇陛下 即位後初めてのおことば 全文
日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより、ここに皇位を継承しました。
この身に負った重責を思うと粛然たる思いがします。
顧みれば、上皇陛下には御即位より、三十年以上の長きにわたり、世界の平和と国民の幸せを願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その強い御心を御自身のお姿でお示しになりつつ、一つ一つのお務めに真摯に取り組んでこられました。上皇陛下がお示しになった象徴としてのお姿に心からの敬意と感謝を申し上げます。
ここに、皇位を継承するに当たり、上皇陛下のこれまでの歩みに深く思いを致し、また、歴代の天皇のなさりようを心にとどめ、自己の研鑽に励むとともに、常に国民を思い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としての責務を果たすことを誓い、国民の幸せと国の一層の発展、そして世界の平和を切に希望します。
 via https://www3.nhk.or.jp/news/html/20190501/k10011902991000.html






・天皇陛下「即位後朝見の儀」おことばに感動の声広がる
  https://matome.naver.jp/odai/2155667922869478001

・新陛下、2番目の高齢即位=8世紀以降-皇位継承

 新天皇陛下は59歳。間違いが少ないとされる「続日本紀」(797年完成)に記載がある文武天皇以降では、60歳で即位した奈良時代の光仁天皇に次いで2番目の高齢即位となった。
 55歳で皇位に就いた天皇陛下は3番目となり、平安時代の光孝天皇の54歳が続く。飛鳥・奈良時代の元明天皇と、奈良時代の称徳天皇(重祚)が即位したのは、共に46歳の時だった。
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100038&g=soc


・86年ぶり皇太子不在に=秋篠宮さまは新天皇陛下の弟-皇位継承

 新天皇陛下即位に伴い、天皇の直系男子が就く「皇太子」の地位は86年ぶりに空位となった。皇室典範は「皇嗣たる皇子(天皇の男の子)を皇太子という。皇太子のないときは、皇嗣たる皇孫(天皇の男の孫)を皇太孫という」(第8条)と規定。秋篠宮さまは皇位継承順位1位の皇嗣だが、新天皇陛下の弟であるため皇太子にはならない。
 昭和天皇が即位してから、退位された天皇陛下が1933(昭和8)年12月に生まれるまでの約7年間が皇太子不在の時代だった。秋篠宮さまは皇太子待遇となり、対外的には「クラウンプリンス」として活動する。
 via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019050100039&g=soc


・令和元年の初日、新天皇陛下の即位...主要5紙はどう報じた? 比較すると、各紙の個性が際立っていた   
 https://www.huffingtonpost.jp/entry/reiwa-newspaper5_jp_5cc8ea14e4b0913d078a518b

・天皇陛下の即位と退位、海外メディアはどう伝えたか?
 https://www.huffingtonpost.jp/entry/japan-emperor_jp_5cc8f476e4b0d123954c0add

◆アングル:新天皇と皇后で変わる日本、「令和」時代の皇室とは
 https://jp.reuters.com/article/japan-emperor-new-idJPKCN1S20FU?feedType=RSS&feedName=worldNews

・新しい天皇陛下が即位 「令和」始まる
  https://www.bbc.com/japanese/48101947


・令和時代の天皇陛下はどんな方?趣味は山登りで、“皇居ラン”をこなす健脚 
■1960年2月23日に誕生。小学生時代は野球の大ファン。“ごひいき”は末次利光選手
新たに即位された天皇陛下(徳仁さま)は1960年2月23日、皇居・宮内庁病院で当時の皇太子明仁親王と皇太子妃美智子さまの間に誕生した。



幼少時の名前として与えられた「称号」は浩宮さまだった。称号は、古典から学者が選出し、天皇陛下が字を選出される。
1960年2月29日の朝日新聞夕刊によると、称号「浩宮」とお名前である「徳仁」は四書五経の「中庸」の第三十二章から、祖父・昭和天皇が命名された。
大空のように広くて偏りのない様子を示す「浩々たる天」から浩の字を、「聡明聖知にして天徳に達する者」から徳の字を取ったという。
浩宮さまは、天皇家では初めて父親の皇太子明仁親王(現在の上皇陛下)、母親の美智子さま(上皇后)が子育てにあたられた。
明仁親王は天皇家の伝統的風習に従って、3歳で両親のもとを離れ、東宮仮御所で、「傅育官」らに育てられた経緯があった。
そのことについて明仁親王は「私は世情にうとく、人に対する思いやりの足りない心配がある。どうかよく人情に通じた、思いやりの深い人に助けてもらいたい」と語っていたという。
明仁親王と美智子さまはそうした背景もあり、世間や周囲の反感を買うこともあったが、3人の子どもたちの子育ては乳母を付けずに家族で同居を通した。
学習院初等科時代には、野球に熱中された浩宮さま。
1971年10月17日朝日新聞東京本社版の朝刊によると、10月16日の日本シリーズ第4戦の読売ジャイアンツー阪急ブレーブス戦を学友と共に観戦。
読売ジャイアンツの外野手として活躍した末次利光(当時は民夫)選手の満塁ホームランに飛び上がって拍手を送ったという。
浩宮さまは末次選手の大ファンで、学校の野球チームでも末次選手の背番号38を付ける熱狂ぶりだった。

■趣味は山登り。健脚ぶりを“皇居ラン”でも発揮
趣味人としても知られる天皇陛下(徳仁さま)の一押しのレジャーは山登りだ。
日本山岳会員であり、日本山岳写真協会の特別会員でもある。父親である上皇陛下と、ともに登山に向かうこともあった。
初めての登山は、5歳で訪れた長野・軽井沢の離山だった。登山雑誌「山と渓谷」(1995年1月号)には、父親である上皇陛下に連れられて登頂した思い出をエッセーでつづられている。
国内の様々な山を踏破した天皇陛下は、山の楽しみ方をこのエッセーで次のように語っている。

「自分をゆっくりと大自然のなかにおき、動植物や地質を観察し、自然の恩恵に浴すこと、そして、個々の山の歴史に思いを致し、登山の行程全体を楽しむことである」

また、文章の中では当時の天皇陛下と美智子さまを「両親」、そして皇太子妃(当時)である雅子さまを「妻」として、自身との関わりを記したことも、大きな話題を呼んだ。
登山を支える健脚ぶりは、40代後半に差し掛かった2007年の“皇居ラン”でも発揮された。
2007年2月26日に配信された新聞各紙のニュースによると、皇居外周の2周約10㎞を51分ほどで走った。また、55歳の誕生日の2日後である2015年2月にも皇居外周1周を約27分で走り終えている。
登山のほかに、ヴィオラ奏者としての顔も国民には広く知られている。
上皇陛下がチェロを弾かれ、美智子さまがピアノを演奏。天皇陛下はもともと学んでいたヴァイオリンのほかに、大学時代からはヴィオラの演奏も始められた。
大学時代は音楽部管弦楽団に所属。チャリティーコンサートでビオラの独奏を披露されることもある。
天皇陛下は海外での経験も豊富だった。
初めての海外滞在は1974年、14歳のとき。オーストラリア・メルボルン郊外にあるポイントロンズデールで15日間を過ごした。
学習院大学を卒業後に大学院に進み、その後オックスフォード大学マートンカレッジに2年間留学。
学習院大学の卒論は「中世瀬戸内海水運の一考察」。大学時代から一貫して史学に興味を持たれ、幼いころから「道」に一層の関心があった影響でとくに交通史を選んで学ばれていた。
オックスフォード大学でも18世紀のテムズ川の交通について研究された。
徳仁さまは、大学卒業後に海外で研究を続けられた初めての天皇陛下となった。
留学を終え、日本に戻ってからは海外の賓客の対応にも留学で培った英語力を発揮。
英国のチャールズ皇太子、故ダイアナ妃(当時)と歓談することもあった。

■「皇太子」となり、結婚そして父親へ
徳仁さまは1989年、昭和天皇の崩御に伴い今上天皇が即位されたことにより、皇位継承順位1位の皇太子となった。



1991年2月23日、31歳となった日に立太子宣明の儀が執り行われた。
立太子宣明の儀は、皇位継承者としての徳仁親王の地位を天皇陛下(当時)が内外の代表の前で披露される立太子の礼のなかでも中心となる儀式。
1993年には、外務省キャリア官僚だった小和田雅子さん(当時)と結婚。



二人の最初の出会いは1986年10月、東京・元赤坂の東宮御所(当時)で開かれたスペインのエレナ王女歓迎レセプションの茶会の席という。
天皇陛下の「初恋」だったといい、その後の1年間で、東宮御所や高円宮邸などで計4回顔を合わせた。
1992年8月16日に再会。陛下はその後、雅子さまにひんぱんに電話を入れ、思いを伝えたという。
2001年12月1日には、長女・愛子さまが誕生。
祖父である天皇陛下(当時)が決められた愛子さまの称号は「敬宮(としのみや)」となった。
名前と称号の出典は「孟子」の「離婁章句下(りろうしょうくのげ)」。広く人間社会で修養すべき基本的道徳を述べ、敬と愛の重要さを説いた部分からとったという。
愛子さまの誕生後、初の会見となった2月23日の徳仁さまの誕生日会見では「子どもとは、こんなにかわいいものだったかと、改めて知ることになりました」と笑顔を見せた。
子育てや教育方針については「父親として、できるだけ子育てに積極的にかかわっていきたい」と話されていた。
そして2019年4月30日、徳仁さまは皇太子としての役目を終え、5月1日に天皇陛下に即位された。
 via https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5cc7a94ce4b07c9a4ce80b7e


◇【特設】皇室特集~新陛下、「令和」と共に~:https://www.jiji.com/jc/tokushu?g=ryl



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天皇陛下退位へ=平成最後の日-「象徴」に全身全霊の30年余 :「令和の平和祈る」=在位中最後のお言葉-皇居で退位礼正殿の儀 はてなブックマーク - 天皇陛下退位へ=平成最後の日-「象徴」に全身全霊の30年余 :「令和の平和祈る」=在位中最後のお言葉-皇居で退位礼正殿の儀






 天皇陛下の退位に伴う「退位礼正殿の儀」が30日夕、皇居・宮殿「松の間」で行われた。30年3カ月余り象徴として歩んだ陛下は「新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」と、在位中最後のお言葉を述べられた。
 江戸時代後期の光格天皇以来、202年ぶりの退位に伴う憲政史上初の儀式で、国民に広く退位を知らせるため憲法が定める天皇の国事行為として実施。皇后さまや皇太子ご夫妻ら成年皇族15人全員に加え、閣僚や衆参正副議長、最高裁長官、国会議員、都道府県知事や市町村長の代表ら294人が参列した。
 午後5時、モーニング姿の天皇陛下が皇后さまと共に松の間に入室した後、侍従が皇位の証しとされる剣と璽(じ)=勾玉(まがたま)=、天皇の印の御璽、国の印の国璽を「案」と呼ばれる台の上に置いた。
 安倍晋三首相が退位特例法に基づき、30日限りでの陛下の退位を宣言。即位以来、国民と苦楽を共にした陛下への謝意を表した。陛下は「天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした」と述べ、国民への感謝を示した。
 両陛下は剣と璽をささげ持った侍従と共に退出し、儀式は10分余りで終わった。
 両陛下は引き続き、皇族や側近、宮内庁や皇宮警察の職員らからあいさつを受けた後、お住まいの御所で平成最後の一日を終えた。
 これに先立ち、陛下は30日午前、皇居・宮中三殿で、「退位礼当日賢所大前(かしこどころおおまえ)の儀」などの儀式に装束姿で臨んだ。
 剣と璽は退位礼正殿の儀の後、皇居・御所「剣璽の間」に再び戻され、1日午前0時の即位とともに新天皇が継承した。
 1日午前、新天皇が剣と璽などを受け継いだことを明らかにする「剣璽等承継の儀」と、即位後初めて国民代表に会う「即位後朝見の儀」が、いずれも国事行為として行われる。[2019.04.30]
via https://www.jiji.com/jc/article?k=2019043000392&g=pol

◆天皇陛下 最後のおことば 全文
今日(こんにち)をもち、天皇としての務めを終えることになりました。
ただ今、国民を代表して、安倍内閣総理大臣の述べられた言葉に、深く謝意を表します。
即位から三十年、これまでの天皇としての務めを、国民への深い信頼と敬愛をもって行い得たことは、幸せなことでした。象徴としての私を受け入れ、支えてくれた国民に、心から感謝します。
明日(あす)から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここに我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。



・これが平成の終わりか…世界で中継された『退位礼正殿の儀』
  https://matome.naver.jp/odai/2155663081255461101

◆天皇陛下、その人間らしさ
■「最高慰問者」
1989年1月、昭和天皇の死去にともない、天皇陛下が即位した。



楽観的な時代だった。日本は金回りがよく、戦後の経済発展のピークを迎えていた。ソニーがコロンビア・ピクチャーズを買収する直前で、三菱地所はニューヨークのロックフェラーセンターの買収を目前にしていた。世界中で、新たな「超大国」としての日本が話題になっていた。
しかし、天皇陛下が即位した翌年、災難が起こった。バブル経済がはじけ、東京の株式市場で株価が35%も暴落した。バブル崩壊から30年近くたつが、日本の株価と地価は1990年代の水準を下回ったままだ。
ほとんどの日本人にとって、平成(「平和の達成」を意味する)時代は経済停滞を意味してきた。加えて、悲劇に見舞われた時代でもあった。
1995年1月、マグニチュード6.9の大地震が神戸の街を襲った。ビルや道路の陸橋が倒壊し、火災が何日も続いて空が暗くなった。死者は6000人を超えた。
2011年には、さらに甚大な被害をもたらす地震が東北地方の沖合で発生した。マグニチュード9は、記録が残る中で、日本における4番目に大きな地震だった。この地震は巨大津波を引き起こし、東北沿岸の町々に壊滅的な被害を及ぼして、約1万6000人の命を奪った。
この2番目の災害の後、天皇陛下は過去の天皇がしなかったことをした。テレビカメラの前に座り、国民に向けて直接語りかけたのだ。
その2週間後、天皇・皇后両陛下は、東京から離れたスタジアムに設置された避難所を訪れた。
被災者たちは、床の上にわずかな所持品を積み重ねて生活していた。多くの人々は、福島第1原発の損壊によって出た放射線から避難していた。ほとんど全てを家の中に残したまま、いつ、果たして戻れるのかどうかさえわからずに、避難生活を送っていた。
天皇・皇后両陛下は床に膝をつけて家族を一組ずつ訪ね、静かに話しかけ、質問をし、いたわった。



保守層にとってはショッキングな、天皇陛下の姿だった。天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫にあるべき振る舞いではなかった。しかし、それを上回る数の日本人が、天皇陛下の人間味あふれる感情表現に深く感動した。
「陛下には道徳的な権威がある」とテンプル大学東京校のジェフ・キングストン教授は話す。「陛下はその権威を自ら獲得した。最高慰問者(consoler in chief)だ。陛下は父親(昭和天皇)には決してできなかった方法で民衆と関係を築いている」。
「陛下の避難所訪問は、政治家が写真撮影のために訪問して手を振って立ち去るのとは違う。人々の隣に座り、一緒にお茶を飲み、戦前には考えられなかった風に会話をする」

■父親の罪
天皇陛下は革命家には見えない。背は低く、控えめで語り口は柔和だ。発言と行動は戦後の憲法によって厳しく制限されている。イギリスのエリザベス女王と違い、陛下は日本の国家元首ではない。
その代わり、陛下の役割は「国民統合の象徴」とあいまいに定義されている。政治的な発言は認められていない。
こうした儀礼的で窮屈な役割の中でも、陛下は見事な成果を上げてきた。
まず思い出すべきは、陛下は日本がアジアで暴挙を繰り広げた1930-40年代の約15年間に日本を治めた、神格化された昭和天皇の息子だということだ。広島と長崎に原爆が投下され終戦を迎えた時、陛下は12歳だった。



教育を受けていた時期のどこかで、陛下は強固な平和主義者となり、それは現在も続いている。このことについては、アメリカ人家庭教師のエリザベス・グレイ・ヴァイニング氏の影響を指摘する人もいる。天皇陛下は昨年12月には「平成が戦争のない時代として終わろうとしていることに、心から安堵しています」と述べた。平成の間に1人の自衛隊員も、戦争や武力紛争で犠牲にならなかったことに、何より満足しているという。
陛下は日本のかつての敵や被害者とも心を通わせる努力をしてきた。北京、ジャカルタ、マニラからスペインまで、昭和天皇の下で生じた傷を癒すために尽力した。
「陛下は、日本の和解のための最高の特使という、天皇の新たな役割をつくり出し、地域内を何度も訪問し、償いと悔恨の意を示してきた。基本的に、過去の戦争の傷を癒そうとしてきた」とキングストン教授は指摘する。
1990年代には、それはあまり議論にはならなかった。国内の政治家は陛下を支え、1992年には歴史的な中国訪問を実現させた。だが、陛下が年齢を重ねるにつれ、日本の政治は急激に右傾化した。



かつての「謝罪外交」は、平和主義とともに支持されなくなった。安倍晋三首相は、日本の平和憲法を改めると宣言している。安倍氏や右派の人々は愛国的な教育を復活させ、彼らの言う戦後の「自虐史観」を消し去りたいと考えている。
目立たないように、しかし強い意志をもって、陛下は繰り返し歴史修正主義者たちに対する軽蔑心を表してきた。2015年、戦後70年の節目で、安倍氏は談話を発表した。
「安倍氏は基本的に、日本がいま享受している平和と繁栄は、300万人の戦死者のおかげだと述べた」とキングストン教授は言う。
「翌日、陛下はそれを否定した。陛下は日本がいま享受している繁栄は、国民のたゆみない努力と、平和の存続を切望する国民の意識によるものだと、お言葉で述べた」
テレビ中継を見ていた何百万人もの日本人にとって、それは疑いようのない批判だった。
東京で開かれた園遊会では、右派の東京都の教育委員会委員が、国歌を斉唱するときには全教員を起立させると陛下に誇らしげに伝えた。
陛下は静かに、だがきっぱりとこう言って、その委員を諭した。
「強制になるということではないことが望ましい」

■長い別れ
在位期間を通し、陛下は最も大切な伴侶で助言者の美智子皇后と一心同体だった。一般家庭の出身の皇后陛下にとって、時に宮中での暮らしは極めて大変だった。1993年には、皇后陛下は精神的疲労から倒れ、2カ月間、言葉が出なくなった。
皇后陛下は最近、天皇陛下の決意に対する畏敬の念を文章で表している。
「振り返りますとあの御成婚の日以来今日まで、どのような時にもお立場としての義務は最優先であり、私事はそれに次ぐもの、というその時に伺ったお言葉のままに、陛下はこの60年に近い年月を過ごしていらっしゃいました」
しかし、ここしばらく、天皇陛下の健康状態は衰えつつある。がんを患い、心臓のバイパス手術も受けた。陛下に近い人は、陛下が健康悪化によって動けなくなり、公務を果たせなくなることを一段と心配していたと述べる。
2009年ごろから、陛下は皇太子さまへの皇位継承が認められるよう静かに世論に訴え始めた。これは決して簡単なことではない。
戦後制定された憲法では、天皇は「終身」その地位にあると明確にしている。そのため、政治家たちは陛下の願いを無視してきたと、原武史放送大学教授は説明する。
「9年間にわたって、政府は陛下のお気持ちにまったく同調しなかった。退位したいという陛下の希望を受け入れたら、天皇が重要な決定権限をもつことになってしまい、それは憲法違反だと考えたからだ」
これは、まさに日本独特の難問だ。原教授によると、焦燥感を募らせた陛下と宮内庁は、ある計画を編み出した。
「陛下と宮内庁はどんどん我慢できなくなっていった。そこで、宮内庁の職員がNHKに情報を流し、NHKが陛下の希望を報じた」
NHKにとってそれは大スクープとなり、こう着していた局面が打開された。1カ月後、陛下は再びテレビ放送されたビデオメッセージを通して国民に直接語りかけ、退位して皇位を皇太子さまに引き継ぎたい意向を示唆した。
世論調査の結果は、大多数の日本国民が陛下の意向を支持していることを示した。安倍首相と保守層は従うしかなかった。それから2年の年月を要したが、陛下はついに退位の日を迎えた。
5月1日、皇太子さまが新天皇に即位し、時代は「令和」に変わる。
via https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48101955


・美智子さまに憧れて――陛下を支え続けた60年を秘蔵写真とともに振り返る

 いよいよ今上天皇の退位の日が近づいてきた。新元号発表に続き、多数のタレントや文化人が出席した「天皇陛下御即位三十年奉祝感謝の集い」が開催され大きく報道されるなど、国全体の関心事となっているが、一つの時代が終わることの感慨をしみじみ味わっているかたもいることだろう。
 現在、書籍の世界でも皇室関連本は人気だが、よく見かけるのはいわゆる天皇制や皇室の謎に迫る本。そんな中に、静かに今上天皇の時代を振り返ることができる本があるのはうれしいもの。『皇室の歴史とともに、60年――あの日の美智子さま』(渡邉みどり:監修/主婦の友社)は、長らく陛下を支え続けた皇后・美智子さまを主人公に、90年の歴史を誇った婦人誌「主婦の友」が取材活動を通じて集めた秘蔵写真の数々を紹介しながら美しく振り返る贅沢な一冊だ。当時の記事もそのまま紹介され、人々が美智子さまに向けた「憧れ」を、平成の終わりにあらためて実感する
 昭和32年夏、軽井沢のテニスコートで時の皇太子さまに見初められた正田美智子さんという一人の女性は、昭和34年「世紀のご成婚」を経て皇太子妃・美智子さまに。ご成婚報道で白黒テレビが爆発的に普及したり、パレードには沿道に53万人がつめかけたり、民間から誕生したプリンセスは「ミッチーブーム」を巻き起こす。なにより人々が夢中になったのは、美智子さまの清楚な美しさと、聡明さだった。



 振り返ってみればお二人がご成婚された昭和34年は、終戦からまだ14年弱とはいえ将来を希望的に考えられるようになってきた高度経済成長の時代だ。その頃の女性たちにとって美智子さまは、豊かな新時代の象徴であり、まぶしいほどの「憧れ」だったのだろう。当時の「主婦の友」では、美智子さまが皇室に新しく導入したライフスタイルをしばしば記事にしている。これまでの慣例(しかも皇室という日本の最古の旧家の)を上手に自分らしいスタイルに変えられていく美智子さまの姿は、多くの女性たちに未来への夢を与えたに違いない。



 実は過去3回、「ベストドレッサー賞」を受賞されている美智子さまは、女性たちの羨望の的・ファッションアイコンでもあった。当時の庶民には縁遠かったオートクチュールも見事に着こなしてしまう美貌とセンスは、いま見ても惚れ惚れしてしまう。皇太子ご夫妻時代からあらゆる国をご訪問されてきたが、訪問先への配慮を忘れない堂々たる日本のプリンセスは、世界の要人を魅了した。
 皇室に入った民間人として、ご苦労は並大抵のものではなかったことだろう。だが常に笑顔で、国民と皇室を繋ぐという重責を担われてきた美智子さま。日本の国民がなぜ皇室を大事に思い、さらに次世代にもその思いをつないでいけるのか。その理由の一つに「美智子さまの存在」があったことは間違いない。本の中の凛とした美智子さまのお姿にときめきつつ、その存在の大きさを実感し、あらためて感謝の気持ちを覚えるのだ。
via https://ddnavi.com/review/534825/a/


・【解説】 「三種の神器」、皇室が持つ謎の宝物
 https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-48089944

・【図解】天皇陛下の日常
 https://www.afpbb.com/articles/-/3219341

・平成最後の記念!「元号」にまつわる場所に人が殺到している件
  https://matome.naver.jp/odai/2155654528230022801

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